そして色鮮やかな世界へ
いつもよりも風が穏やかで温かい陽射しを受け、私は通い慣れた道を歩いている。
あれから一日、一日があっという間に過ぎていって、公立高校の合格発表からの卒業式へのカウントダウン。卒業式が近づくにつれて昼休みの練習の時は、谷くん以外にも来るようになって賑やかになっていった。そして今日は、卒業式当日。みんなの前で最後に演奏する日でもあった。
この制服で、この道を歩くのはもう最後なのか、と思うと自然と周りを見渡しながらゆっくり歩いていた。
歩き慣れた道の片隅にある桜の木にある固い鱗片葉に包まれていた。だが以前見ていた時よりも僅かに膨らんでいるようにも見える。今年は、もうここの桜は見れないんだなぁと少し残念に思いながら私は学校へと向かった。校門の脇には紅白のペーパーフラワーで縁取られた『卒業証書授与式』と書かれた看板。それを通りふけると普段とは違った景色、そこには最後の登校を惜しんでいるのか今日卒業式を迎える三年生だけが昇降口には行かず、その場で仲の良い友達と喋っている。
この行動も例年の事なのか、生徒指導や学年主任、担任が現れて教室へと向かわせていた。
普段と違う動きを見ると、もう最後なのか…と鈍い私の中にもじわじわと実感が湧いていくのだった。
今日は卒業生ばかりの人混みの中をかき分けてクラスへと向かった。
教室では准ちゃんが渡してくれてた個人あての色紙に、各々が一言ずつメッセージを書いて寄せ書きを作っている。ある程度は回っていたはずなのに、誰かが止めていたせいでみんな一斉に書いていた。その様子を見て早く書かないと時間がなくなってしまうと思い、私は慌てて自分の机に行って、たまり始めていた色紙に一生懸命メッセージを書いていった。大体書き終わった頃、気づけばクラス全員が席につき担任である村田先生が現れ、最後の教壇に立った。
「あー、卒業式を前にだな、一応言っておくぞ。これがお前たちの最後の仕事だ、卒業証書を手にして校門をでるまで馬鹿な真似はするなよ?お前らは俺の生徒なんだから、これ以上俺らに迷惑をかけるな!
でも、辛くてしんどくなったら、いつでも頼ってもいい。仮に俺がどこか転任してもだ、連絡くらいはしろ。一人で抱え込むな、俺はいつまでもお前らの先生だ。卒業おめでとう、これで晴れて他人だなんて言わせないからな!いいか、分かったか!」
一気に言い切った村田先生の顔は少し赤くなっていて瞳には小さく煌めくものが見えたように思えたが、それは一瞬だった。
「さ、次にこの教室に来るのは卒業証書を持った卒業生としてだ。そろそろ体育館に向かうぞ!散々泣いてもいいようにハンカチ持ったか?間違っても鼻はかむなよ?」
先生が箱ティッシュを小脇に抱えて廊下に出たので皆、笑いながら廊下に整列した。そして前のクラスについて校内を歩く。
体育館までは延々と廊下を歩く、各教室の前を通っては今までの思い出が甦ってくる。
男女で二列に並んで歩きながら各々に思い出話に盛り上がった。悪戯して牛乳パックを踏みつけて廊下に牛乳ワックスをするんだと盛り上がって激しく怒られた一年の時の廊下、あの時はたまたま同じ班だってことだけで放課後大掃除をさせられたっけ。この場所は情報処理の授業でちょっとカビ臭くって古臭いパソコンのある部屋に行ってボールがついてるマウスを使ったり。
うちのと違って動きが悪いなぁと裏を見ていたら、ゴミがついているのが気になって分解してみて掃除したりとかしたっけ。するとみんな一斉に真似して綺麗にしだしたら、うっかりボールを落としてしまって部屋中を大捜索したりとかしたのが懐かしい。
今までの、3年間の思い出が詰まった校舎をゆっくりと歩いていくとなんだか胸が熱くなっていく。
私以外にも歩いている状態で感極まったの子がいたのか、すすり泣く声も聞こえる。
泣く子もいれば、おちゃらけて喋る者もいる中、私たちはゆっくりと体育館へと歩んだ。
そして到着した体育館は、冬のように張り詰めた空気に満たされていた。
"卒業生入場"のアナウンスに合わせて、見慣れた体育館すらも神聖なものに見えて思わず緊張するほどに。緑色のシートが引かれた中、私は一歩一歩踏みしめながら席に向かった。
静かに歩きながらも時折つまづく男子に、くすくすと笑いが漏れていた。
淡々と進む式の中、走馬灯のようにあふれ出る思い出を振り返りながら私は過ごした。
何度も演奏してきた校歌の伴奏は、音楽の笹川先生が演奏して、私は入学式ぶりくらいにみんなに交じって校歌を歌う事ができた。歌い終わった後、卒業生は一人一人名前を呼ばれて壇上にあがり卒業証書をもらう。名前を呼ばれて壇上に上がると、左手にグランドピアノが見えた。これで最後なんだなと思いながら私は証書を受け取り、壇上から降りると自分の席に帰らず、先生達の列に立ち最後の出番を待っていた。
隣に立つ笹川先生は卒業式の為にしたぶ厚い化粧が剥げて、色とりどりの花をハンカチに咲かせているようだった。その隣には村田先生がいかつい顔をしながら必死に涙を堪えている姿が見える。小脇に抱えている箱ティシュがプルプルと震えていた。
今まで私がいた場所を見ると、涙をこぼしていたり、ケロッとしていたり、必死で耐えている様子が伺えた。クラスメイトの様子を傍から見て、今だけなんだ、これでお別れなんだって思い知らされた。
今だから、分かる事がある。今までに音を立てず、深々と降り積もって冷たく固く凍った私の心は、些細な刺激で歪み、亀裂が走って崩落した。雪崩のようにあっという間に私を暗い世界へと導いて。
でもそこで手を伸ばしてくれた人と出逢えた。その穏やかな光を浴びて、暗く寒い世界から救われた事に感謝をした。でもまだちゃんと言えていない、感謝の言葉を。卒業式が終わったら、谷くんに言おう、ありがとうって。
私は喜びも悲しみも共有し、また悩みも真剣に考えて過ごしてきた友と出逢えた事に、また今まで育ててくれた家族に感謝していると、そろそろ式も終わりに近づき、ついに私の番がきたのだった。
「卒業生を代表して小坂杏梛、壇上へ」
「はいっ」 私の声は、静寂につつまれた体育館に響いた。
なんて響くんだろう。こんな中で一人、私だけの演奏を聴いてもらえるだなんて、すごい嬉しい。ここでピアノを弾いたら、どんな風に響くんだろうな。
名前を呼ばれて大きく返事をした私は、今から弾く演奏への胸の高鳴りをぐっと押さえながらも、笹川先生に証書を預かってもらい壇上へと向かう。
ゆっくりと一歩ずつ踏みしめているとキュッキュッと音が鳴った。
歩くたびに鳴る音はまるで霜柱を踏んでいるような気がした。
思わず辛い冬の終わりを感じた。でももう少しで終わる、ここを乗り切れば春が、まばゆい季節が待っているように季節は巡る。
あんな事があるまでは、そんな事すら考えられる余裕もなかった自分を恥じながらも、辛い思い出もまたいい経験だったのだと思う。
一歩進む度に今までの辛い思いも、力に変えていける気がした。
きっと、自分の殻に閉じ籠っていたら気づかなかった。
みんなに迷惑をかけたくないって1人耐えてたのは、きっとみんなに嫌われたくなかったから。
打ち明けられる友達を作れなかったから。
でも、今の私には助けてくれた人の存在がある。
私はステージへの階段を一段ずつ丁寧に踏み締めて上がった。
壇上にあがるとそこに待っていたのは、ステージ上で眩しく光り輝くグランドピアノ。
そのまま近づいてグランドピアノの前に立ち、ゆっくりと体育館の中を見渡して腰をおろした。
そして集中するために、大きく深呼吸して、目をつぶりながらゆっくりと空気を吐きだす。
これが中学校での最後の演奏。私のピアノを好きだといってくれた人へ届けられる瞬間。
新たな空気を吸い込んでから目を開けると、もう私だけの世界。
そっと白い鍵盤に指を置いて、一音一音、想いを込めてこの出逢いを惜しむように音色を奏でだす。
あの時はまだ、知らなかった、いろんな思い出をのせて。
みんなとは違う道を選んだけれど、私はゆっくりと歩いていく。
これからまた理不尽は事をされても、辛くても、きっと前を向いて歩いていけるって知ったから。
誰かに甘えることも知ったからこそ、別れることは惜しいけれど。
この先もこの曲を弾く度に思い出すのだろう、ショパンの別れの曲を。
けして悲しくない別れの曲に想いを込めて──。