零れでるその光に
私は、いま自分の部屋にいる。
学校に行きたくなくてサボっているわけではないけど、次の日、起きたら熱が出ていたのだ。
無理して登校して受験目前のみんなに迷惑かけたくなくて休んでしまった。
ちょうどいい口実もあってか、あれからタイミングを逃してしまったようにズルズルと休んでいる私。
あの日あの後、「夕飯ができたから食べなさい。母さんは和眞を塾に送ってくるからね」と母さんに起こされた。食事をしてくつろいでいると村田先生が家にまで謝罪に来て、私と父さんとで玄関で話を聞いた。母さんは弟の送り迎えでちょうどいなかったのだ。いたらすごく怒ったと思う、この時は父さんがいてくれてよかったと思った。
先生は、怪我を負わせてしまった事、イジメを防止できなかった事、また先生自身が追いつめてしまった事などなど、大事な時期に申し訳ないことをしてしまったと謝られた。
父さんは、「もう終わった事ですから。それに学校もあと少しですし」と少し突き放して言っていた感じがした。母さんがいるともっと揉めそうな気もしたから、それを思えば、あっさりしていたのかもしれない。
終始村田先生はペコペコと頭を下げて帰っていったが、その後、父さんに聞かれた。
学校はどうなのか、と。最近ピアノの音が聴こえないけど、それも関係があるのか、と。
隠したところでいつも父さんにはバレてしまうから「それもあるけど、なんだか疲れたんだ」と言った。
父さんは深くため息をつき、「疲れているなら、受験も終わった事だし少し休みなさい」と言って、弟の塾のお迎えから帰ってきた母さんに「杏梛が行きたいと言うまでレッスンや習い事はお休みするように電話をしてくれ」と言ってくれた。母さんは怪訝そうな顔をしたが、父さんの言われた通り連絡してくれて私は少し自由になれたのだった。
その日の私は、ずっと閉じ込めていた思いを打ち明ける事が出来て、久しぶりにぐっすり眠れた気がした。
そんな矢先に自業自得とはいえ、濡れ鼠になって風邪ひいて熱を出すとか、身体が弱い自分が情けない。昨日は高熱で身体が痛くて動けなかった、今日は少し熱も引いてきたけど咳こむのと身体がだるくて辛いから学校は休んだ。
それでも部屋の中は動けるくらいには回復したので、気分転換に窓の外を眺める。すると少しだけ蕾を膨らませた枝を見ることが出来た。ここから見えるのは木蓮の花、あの時の花とは違うだろうけど白い花が咲き出したなぁと思うと一気に周囲の視線を奪い取るくらい真っ白な世界に染め上げる木蓮の花。去年かなり攻めて剪定したから蕾自体は少ないし、今はまだ咲いていない。
そんな木蓮の木を見て、この間の事を思い出す。
でもあの日見たのは、もっと小さくてピンクの花だった。
土管に隠れる時は気づかなかったけど、帰り道、光照らされるアスファルトの上に足跡を残しているようにピンクの花びらが落ちていた。小さな花が強い雨に打ちつけられて散っていた。
思わず「かわいそうに…」と言って立ち止まっていたら谷くんは「まだ枝には残っている花があるよ、ほら。見て、濡れた花も綺麗だよね」と言ってまだ薄暗い空でも鮮やかに咲いている枝先を指さした。
「ほんとだ」
しばらく黙って眺めていると、横に立っていた谷くんが小さな花を咲かせている枝を見て言った。
「例え散ってしまっても、また咲くために力を養って来年花が咲くんだ。
今日散ってしまった分よりもっと枝を大きく伸ばして鮮やかに咲くんだ。
小坂さんもそうでしょ?傷ついて散った花があるかもしれない。
けどそれも養分になってまた鮮やかな素敵な演奏につながるんだって、僕は思ってる」
そう言ってくれた谷くんの言葉と、いま私の部屋から見えている木蓮とがなぜだかリンクして私は胸にストンと落ちた気がした。傷ついても、辛くても、それが糧となって次につなげられる
と思うとがなんだか温かくなって悩んでいた事、暗くのしかかっていたのが晴れた気がした。
するとなんだか触りたくなって、カーディガンを肩にかけて「ちょっとだけ…」と向き合うのが怖くて、家でも弾いていなかった黒いピアノの蓋を開ける。しばらく弾いていなかったから、恐々指をのせる。白い鍵盤はひんやり冷たくて、少し熱をもっている私には心地よかった。
ポーンッと一音鳴らして耳を研ぎ澄ますと、やがて余韻が自分の身体に染み入るのが分かった。
やっぱり、私、好きなんだ。
そう思ったら無我夢中で弾いた、数日間の感覚を埋めるように必死に。
夢中になって一曲弾いた後、私は心のなかにつっかえていたどす黒いものは白くなって、なにもかもが消えていった事に気づいた。
そのまま私は弾きたいだけ弾いた、ハノンなんて指を温める練習なんてどうでもいい。
ただただ弾きたくて弾きたくて、自分が弾きたいと思った曲ばかりを片っ端から弾いていった。
ここは優しく、ここは翻弄されるように、と曲によってコロコロ表情を変えながら。
どれくらいの時間を弾いていただろう。母さんが部屋をノックした音でふと現実に戻った。
変に高揚した私を見て「好きなだけ弾いてもいいけど、そのままじゃ冷えるから部屋を暖めて身体を冷やさないようにしなさい」と言って私の大好きなホットココアをくれた。
「ありがとう」そう伝えると母さんは微笑んで部屋を後にした。
そのまま私はココアを飲んで、ピアノを弾いた。鬱屈とした世界から解き放たれて久しぶりに見る楽譜に、行き詰っていた曲も何もかも好きなだけ弾いた。
私、音楽が好き、ピアノが好きだ。
上手く弾けなかったところ、気になったところも何度も練習して納得いくまで音楽に没頭していた。
夕方、父さんが帰ってきてもずっと弾いていたので、さすがに母さんに止められた。
「そろそろ夕ご飯の時間だから、キリがいい所で腕を休ませなさい。ほら、待ってるから片づけして降りてきなさい」
いつもなら怒り出すのに、今日は優しかった母さんに言われて、いま弾いている曲が終わったら、そっとピアノから指を離した。
少し弾かなかっただけで、少し埃かぶってしまったピアノに「ごめんね」と呟いて私は蓋を閉じる。
夕ご飯の匂いと一緒に私のピアノの音色は、夕焼けの空に消えていった。
-*-*-*-*-
熱も下がって咳も収まってきて、ピアノを弾き続けるくらい体力も戻ってきたのなら、と今日から登校する事になった。正直な話、家にいると際限なく弾いてしまうから学校に行きなさい、と母さんが怒っていたのもある。
渋々準備をしていたのだが、ピアノへの想いが再燃した事で忘れていたのだけれども、あの日以来登校できてなかったのだった。校門をくぐってから足に重りがついたかのように足どりは遅くなってしまった。
でも、途中で登校する谷くんと出会えて「おはよう、もう風邪よくなった?」と話しかけてくれる。「うん。もう大丈夫」と笑って答えてる時には、さっきまで感じていた足の重りなどなくなっていた。
教室にいくと、いつもとはちょっと違った雰囲気に戸惑ったけれど私は自分の席についた。
ショートホームルームの時間に村田先生から直接謝られ、クラスのみんなにも申し訳なかったと先生は頭を下げて謝罪してくれた。その後、1時間目までの間にみんなからも謝られた、そんなつもりはなかったんだって。
でも、私はもう気にしてはいなかったから「ありがとう。大丈夫だよ、気持ちは伝わったから」って言うと仲の良かった順ちゃんから抱き着かれた。すると周りの子からも抱き着かれて抱きつぶされちゃうんじゃないかなって思ったけれど、でも暖かかったし嬉しかった。
後ろで男子が1時間目の授業にきた先生に向かって「せんせー、女子がおしくらまんじゅうしてますー」って見当違いな事を言ってみんな笑った。
教室でも黒く蠢いていたものはなくなっていった。
その日の放課後、山本くんが間宮さんと一緒に来て「色々と悪かったよ…」って謝って帰っていった。間宮さんは去り際に「私、先輩に失礼な事しました。思いあがってすいませんでした」と卒業式の演奏の事も謝罪していった。
その後笹川先生からも声をかけられて、改めて卒業式で演奏を頼まれた、私に弾いて欲しいって。
間宮さんの一件で謝られたけれど先生のボヤキは聞かなかった事にした。間宮さんがどれくらい弾けるか分からないけど人の演奏を卑下する言葉は聞きたくなかったから。そして私も下手な演奏は出来ないと思って急いで家に帰った。サボった分、練習しないと不安だったから。
あれからピアノのレッスンは卒業式までお休みさせてもらうように母さんにお願いした。
それまでは卒業の演奏に集中したかったから、私は今日もおうちで好きなだけピアノを弾いた。
夕飯だから、とピアノの練習を中断されるまでずっと。
私の白と黒の日常が戻ってきた、前より私の気持ちが乗った分、艶やかになって。