子供は夢の続きを見るために
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です」
聖書・ルカの福音書5章31節より抜粋
黒髪の少年が暗闇に紛れて路地を急ぐ。踏みしめる泥濘ぬかるみの、飛沫しぶき模様がブーツに染み込む。
少年は傾いた長屋の引き戸を開け………「ただいま」と呟く。台所の流しには、汚れものの山。その臭気の元を一瞥し、障子戸を開ける。
「おばさん」
少年の声に、布団で眠っていた女がもぞもぞと動く。
掛け布団をめくり、掻きむしった痕がある腕に軟膏を付け手のひら全体で広げる。
「すまないねえ、ジャック………これでしばらくは眠れるよ」
萎びた女が、前歯の抜けた口を歪める。
「おばさん、洗い物してきます」
少年………ジャックは、立ち上がった。
「ジャック、父さんは………デーモンさんは良くしてくれるの?」
女が、心配そうな顔で尋ねた。ジャックは、遠くを見つめるような表情になり、そして答えた。
「デーモンさんは………父さんは望みを全て叶えてくれるよ。そう………愛以外は全てこの手に」
二人の間に、暫しばしの沈黙。
それを破るかのように、笑ってその場を立ち去るジャック。目を閉じる女の目尻から流れ落ちる涙。
「きっと、何か辛い事があるに違いないさ。あれは、何かを我慢している時の顔だもの」
老いた女は、胸の上で手を組み祈った。
「神よ、どうかジャックを助ける人が現れますように。私では、どうしようもないのです………」
* * * *
化粧崩れの酷い顔の女が半裸で部屋を飛び出す。
「おい!まだ終わっちゃいない、戻れ!売女ばいため!」
下半身を隠しもしないで、たるんだ腹を震わせながら男が叫ぶ。
こずえは、血に濡れた裸足のまま街を疾走した。糺ただすの名を叫び泣きながら。
帰宅すると、赤ん坊が泣いている。愛しい男は、今日も帰らない。そんな焦りが、こずえの顔を鬼気迫る表情にさせた。
「こずえちゃん、若い男は、長くは居つかないよ。いい加減、諦めなよ。らしくないねえ」
こずえの姿を認めるや、立ち上がる黒サテン・ミニスカートの女。仕事の合間に寄ったのか、キャミソールの胸が半分はだけている。体のあちこちに、体液の筋。
「ごめんね、忙しいのに」
こずえが素直に謝る。
「いいのよ。赤ちゃん、死んじゃったら可哀そうじゃん」
「………。わたし。母親失格だね。育てる自信、無い」
「弱気だね。………赤ん坊なんて、食べて寝て。奇麗にしてりゃあっという間に育つよ」
「………。捨ててこようかな」
「何言ってんのさ。うちらみたいにしたいの? 自分の子供」
「わたしらだって、どうにかなったじゃん。生きてるよね、生きてる。生きて………」
「こずえ、血、洗ってきな。3日休めるから、その間に考えれば。色々」
「考えたって、答えなんか出ない。糺だけが頼りだったのに」
「………あいつはダメ。頼っちゃダメだよ、こずえ、男に頼ったらだめ。立たなきゃ、一人で」
「疲れたよ………もう疲れた………う………うう………ううううーーーーーーーあああああん!!」
悲痛な鳴き声と、母を求める赤ん坊の………未だ名前を与えられていない………叫びが、スラムのバックミュージックのように聴く者の気持ちを憂鬱にさせた。いつものように。男からくすねた中南海に火を点け、煙を吐き出しながらその様子を眺める女………ありさは、心の中で泣いた。一緒に泣いたりしたら、自分まで立てなくなるから。
「ねえ、その子。名前付けたげる。エデン。エデンにしよう、ねえ。楽園って意味なんだよ。ジャックが言ってた。あの子、色々知ってるよね………最近見ないけどさ」
ありさはそう言って、泣く赤ん坊「エデン」を抱き、あやした。
* * * *
雨が上がり、虹が、架かった。バベルの真下、草原に佇む加藤 糺ただすは、探し物をしていた。
大事な………




