罪と罰
主は彼に言われた。「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺すものは七倍の復讐を受ける」
聖書・創世記4章15節抜粋
復讐の起源がここからなのだとしたら、神は余計な事をしたものだと思う。
バベル最上階、「エターナルドーム」。ガラス天井の真ん中がぽっかりと空いているデザイン。白を基調とした館内は、エレベーターの出口付近にたった一つの改札がある他は、銀河鉄道のホームまでの道のりには何も無い。オーロラ色の床はビニール製。継ぎ目がどこにも見当たらない。
忙しそうに働く、モップ足のイカロボ。タコもいる。壁は、軽石に似た真っ白な素材。貝殻や星が彫刻されている。美しい空間の、空気を切り裂く女の声。
「幸彦さん! 何で………なんでぇぇっーーーーーーーー!!!!!」
甘ったるい匂いの男に羽交い絞めにされ叫ぶ女は、汗と涙で滲んだアイラインとマスカラのせいで、外観が損なわれていた。いや、何もかもが、損なわれてしまったのだ。
「希子、申し訳ない。愛していないんだよ、君を………。だから、転生して、永遠に一緒に生きるなんて、そんな事出来ないんだ。分かるだろう?君だって………僕を愛してはいない。正直になるんだ、お互いに」
そう言いながら、「回収人」に合図をして立ち去る幸彦。呆然とする希子の横を、一人の女の靴音が通り過ぎた。長く、美しい黒髪。引き締まった、後ろ姿。
希子は、丁寧に染めた白髪の自分を、こんなにみじめに思った日は無い、と思った。
「奥様、いや。希子さん。あなたには、神田幸彦氏の財産が残されます。彼らにはもう、必要の無いものですから」
回収人は、希子を拘束する手を緩めず、彼女を慰めた。
(何度この光景を見ただろう。世の旧式の夫婦たちは、なぜ愛してもいないのに一緒に暮らせるのか)
回収人………加藤 糺は、この後この女と寝るのだ。そこまでが、仕事なのであった。
* * * *
糺が帰宅すると
「お帰り」
と迎える声の主、本堂こずえは、糺の家でシャケの蒸し焼きを調理しながら赤ん坊に授乳している。娘を抱きかかえながらのその様子にハラハラしながら、糺は着替え始めた。
仕立ての良い黒いスーツをハンガーにかけ、壁のフックに吊るす。赤い生地に「666」のエンブレムが刺繍されたネクタイと脱いだスラックスをその辺に放り、ワイシャツを脱ぎながら脱衣所に向かう。
「ねえ、糺君って、嫌にならない? ………まだ30でしょ。オバサン………おばあさん相手にさ。女はね。黙ってればどうってことないけどさ。おじいちゃん相手でも、向こうが喜んでれば。どうなのよ、続けられそう? 誘っておいて、こんな事言うのも何だけどさ。一応先輩じゃん、私」
こずえが炊飯器の炊き立てご飯を混ぜながら、落ち着きのない様子で糺に尋ねる。
「………。ババアには慣れてるから」
そう言って、糺はみそ汁の豆腐を口に入れ、汁をすすった。
「ごめん、忘れてた。はは………私、忘れっぽいから………バカなんだよね。はは………」
気まずい空気を誤魔化すように、へらへらと笑いながらビールをあおるこずえ。疑似家族独特の、ぎこちなさ。その空気を、ぶち壊したいと思っているのは。どちらが言うでもなく、二人はお互いを求めた。それが体なのか、それとも他の何かなのか、判別しながら生きる程の価値が無い、人生。糺とこずえの、共通認識。
「私たちって、似てるのよね。嫌な所が何もかも」
こずえの胸には、義父が彫った刺青が。それを撫でる糺の顔の右半分には、幼い頃の火傷の痕。お互いの傷を隠すように、手を当て合う二人の心には、ある一つの想いがあった。
「転生しよう、そのために、稼ぐんだ。何をしてでも」
それが、二人の人生の、たった一つの希望。
赤ん坊の泣き声が止まない中、絡まり続ける二人。
罪とは、切っても、切っても、生えてくるしつこさよ。




