復讐という名の毒
666タワーの麓の草原には、原色の、テントが建設されている。
「キングサーカス」。空中ブランコ、象使い、二台のバイクが球体の中を走るパフォーマンス、ホワイトタイガーの火の輪くぐり、道化師の玉乗り………スラムの子供達は、三年に一回のイベントを心待ちにしていた。中でも最大のイベントは、人口彗星ショー。テントの天井が開き、スタジアム席から見る彗星は格別。子供だけでなく、男女の客も多くやってくる。最高の席で無くても、たとえ柱の裏のような席でも、会場にいるだけで幸福な気持ちになれる、サーカス。
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ありさはサーカスのチケットを手に、本堂こずえが住む、長屋の引き戸を開けた。
「ねえ、気晴らしにサーカス行こうよ。社長から貰ったんだ」
そこには、薄暗い部屋で寝転がる、こずえの姿と、貧相な身なりの男が一人。部屋は甘い匂いが満ちている。ありさは子供………エデンの姿を無言で探した。泣きも喚きもしない代わりに、息もしていない子供は、一歳にもならない前に、静かに死んでいた。ありさは、震える己の体を抱きしめ、言った。
「こずえ、エデンが死んでる」
こずえは、痩せた顔をありさに向け言った。
「糺の恋人って、すごく奇麗な男の子なんだってさ………ジャックっていう………ねえ。あんたの言う”スラムのキリスト”って、うちらと同じじゃん。はは………ははh………」
こずえは、ばたんとひっくり返って動かない。部屋には男の大きないびきが、耳障りに響く。
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ありさは、エデンの亡骸を川に流した。メンソールの煙草の煙を思いっきり肺に入れ、息を吐き出したら涙と泣き声が出た。自分のお腹の子も昔、冬の川で「流した」っけ。
ありさの心は冷えていた。ジャック。近頃あの子は、スラムに来ない。それに、噂が本当で、こずえの言う事が本当なら。なぜ、母子を助けなかったのか。デーモン一族の、ジャックが。いや、糺本人が。
少しの金でいいから………赤ん坊と、こずえがしばらく働かなくても生きられるくらいの………なぜ、放っておいたの? あんた達なら、簡単じゃないか。ジャック! ちきしょうめ!
ありさは、その日仲間の女たちに「相談」を持ちかけた。
「ジャックを見つけて。あいつが………赤ん坊を………エデンを殺したんだ」
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噂というものは、川に流された毒のように広がる。それも、「最悪」なストーリーほど。スラムの住人たちは、飢えていた。文字通り。あらゆるものを分け合い暮らす、ファミリー。誰かに何かあったと聞けば、深く考えもしないで「動く」連中も多い。ありさは、効果的に「毒」を流した。復讐心と無知が、彼女の心を汚した。誰よりも優しい、女の心を。
そこに折り悪く加藤 糺が、二か月ぶりに帰宅した。サーカスの要員じみた怪人姿で現れた糺を見た群衆の一人が、糺に向かって石を投げた。糺が手にしていた、白い封筒が血に染まった。石が右手の甲を傷つけたから。封筒が一人の少年に奪われた。中身を取り出し、札束を確認するや大騒ぎする人々。
「お前! 嫁と子供を放って、伊達男気どりか! 今頃のこのこ現れやがって!」
「エデンは死んだ! おめえらが乳繰り合ってる間にな!」
「ジャックを連れてこい、可愛がってやる」
糺は、付き合いの薄かった「ご近所さん」の、様々な色の頭を見渡した。
こいつらは、俺に何をしてくれた? ただ、バカにしただけじゃないか………そう思ったら、人々はただの煩い蠅のように、糺には思えた。気が付いたら、大人も子供も見境なく張り倒して歩き、呆気に取られる人々を無視してその場を立ち去っていた。
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ジャックに、外には出ないように伝えなければ。そう思いながら焦る糺の背後を、ピッタリついて行く影。
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ジャックは草原の、サーカスのテントを一望できる地点に「ロケット」を置いた。
母の肖像………に見せかけた、自分の写真入りのペンダント。
「母の形見なんだ………か。バレたら許してくれるかな、糺は。僕は父に似ているんだから」
ジャックは、偽の「アレ」を置き、タワーに戻ろうとして、何者かにかどわかされた。糺が再びジャックに相まみえるのは、全てが終った後の事だ。




