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怪人の恋

 人類が神になる日が来ると、誰かが言った。多くの人は、その言葉を歓迎した。もの珍しい小説のように。

      *      *      *

【ゲーテ『ファウスト第一部 前狂言 座長の台詞』より】

 一体どうすれば、万事が目め新しく意味ありげで、しかも御見物衆のお気に召すというように持って行かれるか。むろん大入りの景気が見たいからこういうんです。

【道化役の台詞より】

 このわしが「後の世」とやらを慮ったら、一体誰が現在只今の人たちを笑わせるのですか。

   

 


【ルナシティ歓楽街・置いてけぼり亭目指して】

 その店は、月の裏側・ルナシティの歓楽街にある。たったそれだけの情報を頼りに街を歩くミサキに、話しかける者はいない。

「横浜の中華街」をそのまま模写したような街………そこに足りないのは人波だけ。パイの匂いが、入り口の門近くに漂い、狭い路地には「占い」の看板が並ぶ。多くの店の入り口にはメニュー表が立てかけてあり、小さな店からは客の話声や肉汁の匂いが、すぐそばから漂ってくる。


「異様だね………歓楽街で、道に人があんまりいないなんて」


 ミサキは痩せた胸の、鎖骨の下あたりを撫でた。アゲハ蝶のタトゥーに触れる時、ミサキは怯えている。その弱気を払しょくするように、最後にひと撫で。ミサキは前を向き、大きく腕を振って歩いた。


「ふん!もう、遠慮して生きなくていいんだ! 堂々と、歩くんだから!」


 ミサキの身長は、160cmも無い。その小さな体を大きく見せるための、厚底ブーツ。メイクを取れば、子供のような顔。初老の男性を「愛して」いた………その気持ちは嘘では無いが………自分の事も分からないのに、誰かを本当に愛していると、どうして言えるのか。

 転生が何なのか、よく分かっていない不安。先が見えない不安。ようやく抜け出した最低の生活の代わりに得た、新たな問題。


「おい! 酷い顔してるなあー、怖い顔の姉ちゃん!」


 突如響いた男の声に驚きすぎて、厚底ブーツから転がり落ちそうになって足首を捻ってしまったミサキを、抱きかかえる女性。


「もう! 声がデカいんだよ、キングは」


 そう言って、ミサキが体制を整えるのを手伝う女性に


「いやいや、靴が悪い。落ちるようなもん履くのがいけないの」


 と、悪びれない男「キング」。ミサキの目から視線を外さず、女は自己紹介を始めた。


「私はイチゴ。髪の色が赤いでしょ。で、このうるさいおっさんは「キング」。(キム)だから、キング。kimって発音をkingに変えただけ。単純でしょ。ねぇ~」

「なにさ!あたしをおっさんって呼んだら殺すって、そう言ったよね?仁子(じんこ)ちゃん!」


 イチゴの二の腕をバシンと叩き、鼻息も荒く勝ち誇ったような表情で睨みつけるキング。


「………今度その名前、言ったら許さない」


 顔が髪色と同系色に変化したイチゴは、そっぽを向いた。


「ははっ………! はははっ!! あんた達、仲いいんだね。ねえ、置いてけぼり亭って知ってる?」


 ミサキがその質問を続けようと口を開く前に、キングが真顔でミサキの真ん前に移動し、タンクトップ越しの胸板をミサキの唇ギリギリまで近づけ、頭の上でそっと呟いた。


「黙ってついて来な、嬢ちゃん」


 腹に響くような低い声。そして、ミサキに背を向け歩き始めたキング。ミサキはイチゴの方を見た。イチゴは、今度は蒼白になって、ミサキに向かってアゴでしゃくり、キングに従った。


「何なの、あいつらの力関係は。それに………もうっ! 私は転生者! 死なない! 大丈夫!」


 怪しげな連中について行く事への言い訳を、自分自身に叩き込んで、ミサキは石畳の道を走り出した。

      *      *      *      *

 加藤 糺は、その日も「アレ」を探し、いつものように「飼い主」への報告をするために、干し草まみれになって666タワーの「VIP通路」の入り口に立っていた。季節は冬。草原の、伸びた草の色は、黄色い。そんな荒涼とした風景の中に、茶色いマンホールの蓋がある。その上に立ち、跪き、手のひらをマンホールの蓋にぴったりと付ける。糺の姿が、消えた。

      *      *      *      *

 跪く糺に近づき、火傷で歪んだ口から洩れる、唾液を舐めるジャック デーモン。


「今日は、糺にプレゼントがあるよ。気に入るといいんだけど………僕がね」


 そう言って、顔の右半分を覆う仮面が付いた、黒い、つば付きの帽子を糺に被せるジャック。


「立って、見せて」


 ジャックの言葉に従う糺。その姿は………怪人。歪んだ顔は覆われ、蒼ざめた大ぶりな美しい顔を見て、頬を赤らめるジャック。その表情は、よろこぶ女のようだ。糺は、何も言わずジャックを抱き寄せ、強く、抱きしめた。きしむ躰から、悲鳴にも似たため息が。ジャックは目を閉じ呟いた。


「殺して………」と。

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