6.令嬢の友人は強かに生きている
「本当にいいの?二言はないわね?」
ヴィオレットが触れている赤い宝石が仄かに光っている。
その赤い石を通して、硬い声音が真夜中に連絡をしてきた遠く離れたクリスティーナに届いた。クリスティーナも同じ赤い宝石を持っていて、触れているそれは仄かに光っている。
その赤い宝石を二人に渡したのは、西の国の王女であるアンジェリカだ。ヴィオレットはアンジェリカよりも早く帰国したが、今はもう彼女も西の国に帰っているだろう。
内乱の最中、国を建て直そうと密かに健闘していた王女と政略的な婚約者である東の国の第三王子が反発しあいながらも惹かれ合って、国の平定後に結婚し、仲睦まじく暮らしているという物語は国をいくつか挟んだソルレイリア国にも伝わっている。
宰相の策略かと、ヴィオレットから物語を聞いて愕然と崩れ落ちたアンジェリカが面白くてクリスティーナと共に声を上げて笑いあった。
不安になる言い方をしないでよ、とクリスティーナは呆れたように返す。
ヴィオレットにしてみれば、クリスティーナのわかったという返事が信じられなかったのだから仕方ない。
クリスティーナにとっては決して過ごしやすい条件ではないのに、どうして即答するのかヴィオレットには理解できない。
彼女が一体どんな理由でソルレイリア国に来たいと言い出したのかはわからない。しかし侯爵令嬢として来るのではなくてクリスティーナ個人として来るのならば監視の目がなくても自由には動けないし、ごく一般的な貴族令嬢としての待遇はできない。ヴィオレットの元に来るまでも指示通りに動いてもらわなければいけない。
瞬時に国境から王都までの道のりを思い浮かべ、導きだして相手に伝えた行程は普通の貴族のか弱いお嬢様にとっては厳しいものだ。
その普通の枠組みにクリスティーナが入るとは思っていないが、それでもヴィオレットよりも身体の弱い普通の女性に強いるものではない。体力、気力、忍耐のどれもが必要だからだ。
1人で来るといっても侍女を1人くらいついて来させなければ、近くに出掛けることすらできないはずだ。しかし、侍女をヴィオレットの元に来させるわけにはいかない。国に入ってどこかの宿で置いていくことになるだろう。
また馬で走るのが1番早いが、クリスティーナは見目が良いので目立つし、小さな町では見慣れない者がいると不審に思われる場合がある。フードを被るにしても2人の人間を乗せた馬が速い速度で走る光景は不自然なものに映るだろう。とすれば、多少遅くなっても荷馬車か箱型の馬車に乗せる方が誤魔化しがきく。その方がクリスティーナも多少は落ち着いて過ごすことができるはずだ。
追っ手を追い払い、誰にも気付かれず不審に思われることなく用意する屋敷に向かわせるためには、今はそれが最善だ。
それでもクリスティーナがヴィオレットの指示は必ず聞くと言い、その声音から彼女の意思は強いのだと確信した。
だからヴィオレットは頭の中に描いていた行程を再度詳しく伝え、最後に念押しする。
「その日を過ぎたら迎えには行けない。必ず遅れないように」
今の最善の案しか出せない自分の思考に苛立ち、思わず八つ当たりするような口調で最後の念を押してしまい、ヴィオレットはクリスティーナとの連絡を終えた。
「・・・・・はぁ」
重たいため息が唇から零れる。
机に突っ伏しても隙間から漏れてくる光から逃げるように目を閉じた。
クリスティーナを迎えに行く人物、クリスティーナに過ごしてもらう屋敷は考えるまでもなく決まっている。
ウィリアムはともかく、祖父の右腕だった執事は喜んで受け入れてくれるだろう。彼なりに、ヴィオレット自身のことを一応は心配しているようだから。
彼等なら、クリスティーナがそうそう危険な目に合うこともないはずだ。老執事の屋敷にいれば、ヴィオレットが心配することなど何もない。
しかし、クリスティーナを今受け入れて大丈夫なのかという疑心が今更ながらわきあがる。
連絡を受けた時にはこれでも慌てていたので受け入れる方向で話を進めたが、ヴィオレットが国に戻ってきてから王都の空気がどこかおかしいと感じていた。確かな証拠があるわけではない。根拠もない、ただなんとなくどこか変わったかもしれないという勘だ。
それを最も大きく感じたのは、王宮の、そして第一王子の周囲の空気だ。
ヴィオレットが学園に関しての報告書を提出しに行った時、どことなく変化があるような気がした。第一王子からでも側近のハリスからでもない、ヴィオレットを観察するような視線をどこからか感じて周囲の気配を探ったがそれはすぐに消えた。
それこそ勘違いだったかもしれない思ったが、勘というものは時として重要で、今までの経験からの勘をそのまま無視しようとは思わなかった。
それでも不確定要素がありすぎる勘と突然のクリスティーナの来訪。
不安なのに少し嬉しい、けれどクリスティーナが来てからのことを考えれば考えるほど不安になる。
クリスティーナを守らなければ。
これ以上の傷をつけないようにするために。
ヴィオレットが国に帰る前、クリスティーナはその身を毒に侵されてしまった。
それはクリスティーナが研究対象としていたものが毒だと知っていたのに、何も言わずにただ見ていたヴィオレットのせいだった。
思い返してみれば、あの日のヴィオレットは少し浮かれていたのかもしれない。
その夜、ヴィオレットは温室にいた。
呆然としたまま温室に入り込んで、自身の目の前に咲いている白いスミレの花を見ていた。
『ねぇ、エル。貴女・・・早く隣国に帰った方がいいわ』
アンジェリカが渋る顔でそう言ったのは、いつのことだったか。
ヴィオレット自身が気付かない、気付いていないふりをしていた想いにアンジェリカはいち早く気付いた。けれど、それを当人に直接確かめることも指摘することもなかった。
けれど、唐突にそう言って、アンジェリカはもう何も言わなかった。
クリスティーナは初恋に固執していた。それが乙女ゲームとかいう設定だったとしても、ループしていた人生を思い出してもクリスティーナは初恋に固執し続けている。
前回までは婚約者の想いを得ようとし、今回はいずれ婚約破棄する想い人の幸せを願っている。
明らかな執着を表していたクリスティーナが突然身を引いたことによって、婚約者のノア王子は戸惑い、嫌っていたクリスティーナを気にし始めていた。はっきり言って、単純にもほどがある。これがある種の傲慢かと、ヴィオレットは不快に思った。
ヴィオレットの、おそらく初恋だろうそれは、吹けば飛んでしまいそうなくらいに淡いものだった。ヴィオレットが恋をしていたとしても、決してその想いにも想い人にも固執したりしない。
事実、ヴィオレットはそれを最初から無かったものにしようとしていた。そんな想いを認めたところでそれをどうするつもりもなければ、何かしたとしても前に進むことは無いとわかっていたからだ。
例え初恋に固執したヴィオレットが相手に執着したとしても、相手はつゆほども気にしなければ、一歩引いたとしても追いかけてきてはくれないし、引いたことを無視するかそのことにすら気付かない。
相手にとって、ヴィオレットは所詮その程度の存在だと理解している。
この想いは、きっと憧憬に近い。
ヴィオレットの正体を初めから見破っていた彼に対して、恋だのと勘違いするような想いではないのだ。
姿を見るだけで嬉しくなったり、どんな会話でも楽しかったり、会う前には軽く身支度を整えたり、思い出すと胸が少し苦しくなったり、クリスティーナの研究室に行くとつい姿を探してしまっても、話しているうちに帰る日が近づいていると現実味を感じ、物悲しくなっていつの間にか己の名前の花を見ているのも、何も他意などない。
恋にうつつを抜かして成すべきことを後回しになってしまうわけにはいかない。
やるべきことがある。
ヴィオレット自身にしか、”エルヴィス”にしかできないことだ。
早くこんな茶番は終わらせなければならない。
スミレの花へ新たに決意を誓ったヴィオレットは、温室を速やかに出た。
その時、ヴィオレットは浮わついていた。
淡い初恋だったろうその想いに溺れることなく、役目を優先することができる己に。
その足でクリスティーナの研究室へ向かったヴィオレットの目に映ったものは、その浮かれていた気持ちを瞬時に凍りつかせ、激昂させるには十分なものだった。
クリスティーナは人の話を聞かない。文字通り耳で聞いてはいるが、それが彼女にとってどうでもいいことだと実行に移すことをしない。というより、聞いた瞬間から頭の外へと流れ出ていることが多い。
クリスティーナの上司にあたる所長が夏期休暇に入る前に散々言って聞かせていたはずだった。
考え事をしながら火に触らない、何を実験するにしても口当ては必ずする、実験ごとにあるいは空気が悪くなったと感じたら窓を全開放して換気をする。
それはクリスティーナが考え事をしながらマッチに火をつけ、危うく彼女自身に火をつけそうになったことから、改めて課せられた実験をする上での条件だった。
そのどれかを破ったのか、それとも別の不測の事態が起こったのか。
ヴィオレットが急いで研究所に入り、研究室に向かうと閉じられた扉の隙間から煙が漏れだしていた。
部屋に充満していた覚えのある煙を嗅いだヴィオレットは手で口元を覆い、部屋の主が無事であることを祈りながら扉を開けた。
大量に煙を吸って室内で倒れていたクリスティーナを発見すると同時に急いで窓を全開にしてから反対側の廊下に出し、燃やされていた煙の出本に水をかけて近くにあった布で幾重にも巻いてゴミ箱に捨てた。
そして、ヴィオレットは意識を失っているクリスティーナの肩を見た。
知っている毒の中に、クリスティーナの研究対象だった赤い実があった。それを毒だと知らせなかったのは、赤い実がどうやって毒になるのかは知らなかったからだ。ヴィオレットが見たのは、基にされた赤い実と毒に加工されたものだけ。
そして、言う必要がないと決めつけて、経過を一緒に見ながらいざとなれば遠ざければいいと思っていたからだ。
それは、ヴィオレットにしてみれば、とても安易な考えだったと後悔しても遅い。
まさか夜中に運悪く毒を発生させる実験を始めるなんて、ヴィオレットは予想もしなかった。
その毒を含んだ人間に、どんな症状が出るのか知っていた。
クリスティーナの肩に花の形をした赤い跡が浮かび上がろうとしているのを確認して、ヴィオレットは研究所の二階にいるだろうリアムの元へ走った。
先程まで会っていたリアムは驚きながらも、ヴィオレットが話す事件を聞くと血相を変えてすぐさまクリスティーナの元に走った。
その間廊下に放り出されていたクリスティーナだが、この日の研究所では眠っている研究員が多く、また外で大きな音がしていても出てこない研究員が多かったことが幸いして、クリスティーナを医務室に運ぶ間も誰にも見られることはなかった。
翌日も意識が戻らなかったクリスティーナの肩には、花の形をした跡が2度と消えることはないかのように真っ赤に染まっていた。
自らの安直だった思いを後悔するヴィオレットを茶化すクリスティーナは、毒を受けて消沈する気配などなくあっけらかんとしていて、むしろヴィオレットとリアムの方が焦っていた。
リアムはクリスティーナを可愛がっていたから、毒をその身に受けてしまったことがよほどショックだったのだろう。翌日の夜にあった学園のパーティーを無断欠席して解毒薬を探しに行った。
ヴィオレットはこの赤い実の解毒薬を知らない。
毒であることを知っていて、自分のためにそれを知らせず、クリスティーナは毒に侵されてしまった。それなのに、解毒薬を知らないヴィオレットは、クリスティーナを助けることができない。救うことができない。
跡の赤さからあとどれくらい生きることができるのか、ヴィオレットにもその判断はできない。
しかし、死への道が近くなるほどその濃さは増していくことは知っていた。
クリスティーナをこれ以上傷つけてはいけない。
ヴィオレットが全身全霊で守る義務があるのだ。
それでも、国内では、と限定してしまう自身の冷酷さと無力さがこれほど恨めしいと思ったことはなかった。
「・・・・・・」
身体を起こして、引き出しから書き物を出す。
クリスティーナを受け入れてもらうため、祖父の右腕だった老執事に簡単な事情と近々秘密裏に訪ねることを簡潔に書いて封をした。
その間に特徴的なリズムで5回ノックして入ってきたウィリアムを振り向くと、彼はおもむろに蹄鉄を差し出した。
「どうしたの?」
従者の突飛な行動に素直に驚きながらも、反射的に受け取ったそれをじっくりと眺めながら不思議に思って問いかける。
馬の蹄を守るためのそれは使い古され、所々欠けている。自然と外れてしまったのだろう。
「今日、王宮の馬のそれが外れたから新しく付け替えたんです。だからもらいました」
「あなたが?」
「幸運のお守りなんでしょう?・・・別に同僚の中で俺だけがもらってなかったから押し付けられただけだし、俺は持っておく必要ないから渡しただけです。要らないなら捨てますから」
ぶっきらぼうに言い捨てたウィリアムはそっぽを向いたのをヴィオレットは珍しいものを見たと目を丸くした。
前世日本人の記憶を持つアンジェリカがこの場にいたならばきっとこう思ったことだろう。
これはツンデレだわ、と。
「いえ、・・・ありがとう」
蹄鉄をハンカチで包み、引き出しの奥にしまいこむ。
そして、ヴィオレットはもう一度ウィリアムと向かい合った。
「ウィリアム、貴方に新しい仕事をお願いするわ」
ウィリアムは主人であるヴィオレットに告げられた予定外の仕事を聞いて目を丸くせずにはいられなかった。




