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4.令嬢が初めて抱いた感情

 

 彼女の初恋は、ヴィオレットにとっては酷く滑稽なものだ。何か特別な事情があるにしても、さっさと諦めてしまえばいいと思っているし、そもそもあんな王子のどこに惚れたのか全くもって理解できない。

 それでもそんなことを思っても本人に伝える必要は無いし、そもそも本人も馬鹿だなんてわかっていて、ヴィオレットが同じように思っていることもわかっていて、それでも彼女にとっては大切な初恋なのだ。


 それがどれほどクリスティーナを苦しめるものだとしても、彼女はその感情を大切に大切にしている。


「エルは好きになった人はいないの?」

「いない。そんな時間は無い」

「人それぞれだと思うけど、いつの間にか心に巣食っているものなのよ。わかりやすい言い方はあれかな?何かしら気になっていつも目で追ってしまう、みたいな」


 ヴィオレットに背を向けて話しているクリスティーナには、今の彼女の表情を見ることができなかった。

 だから、ヴィオレットにしては珍しく変化した表情には気付かない。


「でも、リズを見ていると恋をしたいとは思わないし、好き好む相手が欲しいとも思わないわ」

「私を基準にしないでよ。でも、エルに心悩むまで想える人ができたら笑ってしまうかも」

「ねぇ、それってどういう意味かしら」


 くすくすと笑いながら答えるクリスティーナをヴィオレットは不愉快そうに睨んだ。


 もう1人、偶然にもヴィオレットと同じ時期に学園に滞在している西の国の王女であるアンジェリカを含めた3人は時折クリスティーナの研究室に集まっている。

 ただ隣国の公爵令嬢であるエルヴィス・ヴィオレット・ルチダリアはよろしくない噂を抱えていて、クリスティーナ・アルデリア侯爵令嬢は入学して以来学園には姿を現していない、アンジェリカ王女は秘密裏に学園に来ているので正体を知っている人間は限られている。


 3人が出会ったのは本当に偶然で、その内2人が異世界転生と繰り返す人生に気付いたという摩訶不思議な体験者であったことも偶然だった。

 ヴィオレットにはそんな体験はないものの、誰にも言えない秘密を抱えていることに関しては同じだったので2人に巻き込まれるようにして交流を深めていった。


 しかし、それぞれの立場上交流があることを公になってはならない。滅多に出会うことなどないが外では他人の振りをするのは3人揃って一致した結論だ。公には3人はお互いのことを名前程度にしか知らないし、アンジェリカのことに至っては学園にいることも知っていてはいけない。

 この3人の関係を知っているのは、学園長であるリアムと見てみぬふりをしている研究所のヴォルグ所長だけ。


 そして、少しだけ能天気なアンジェリカの発案で3人はお互いにしかわからない呼び名で呼んでいる。ヴィオレットはエル、クリスティーナはリズ、アンジェリカはアン。

 お互いの事情と個人の希望の結果、わかる人にはわかるだろう呼び名になったのだが、例え口が滑ったとしても正当な誤魔化しがきく呼び名でもある。


「ごめん。でも、エルに好きな人ができたと連絡が来たら、それは貴女の事情が片付いたということでもあると思うの。少なくともエルは、今は例え好きな人ができたとしても理性でそれを抑えつけるんだわ」

「・・・でも、恋は盲目、でしょ?」

「私じゃないんだから、エルはあり得ないでしょう?」


 この年になって初めて友人を振り返って自嘲するクリスティーナ・アルデリア侯爵令嬢は、ヴィオレットが留学している国の第二王子ノアの婚約者だ。

 学園の温室で偶然出会った、学園では稀有な存在だった第二王子の婚約者。周囲からは妖精姫と言われている。それは勿論クリスティーナの美しい容姿からでもあるだろうし、入学しているのに講義に一切出席しない彼女を嘲笑う意味も込められていたことはすぐにわかった。


 アルデリア侯爵令嬢は第二王子ノアに執着している、という話はヴィオレットが自国にいた頃から知っていた。他国の婚約関係が流れてくるまで有名な話というわけではなく、ヴィオレット自身が集めた情報で元から知ったいたことだ。

 しかし、実際に学園に来て色々と情報を探っているとどうやらここ最近の侯爵令嬢の行動はおかしいという話が出てきた。しかし、婚約者がどの家の誰でどんな仲なのかを知っておく必要があっただけで、実際に本人にどんな変化があったかまでは知る必要は無かった。


 ヴィオレットにその機会を作ったのは、研究所の総括者でもあり、学園長も担っている王弟のリアムだ。


 リアムに言われて温室に行かなければ、クリスティーナがあの赤い実の葉っぱを手に取っていなければ、ヴィオレットがクリスティーナに話しかけてアンジェリカの境遇を思い出して2人に関わることはなかっただろう。


 あの日は、きっとヴィオレットにとって人生の何度目かの分岐点だった。

 クリスティーナとアンジェリカとの出会いは、ヴィオレットにとっては運命の出会いだったのだと思う。

 そんなこと恥ずかしくて2人には言えないけれど。


「そろそろお茶にしようか」

「じゃあ、この書類の束を片付けないとね」


 ヴィオレットはこれ見よがしにため息をついて凄惨に散らかされた書類を片付け始める。

 クリスティーナも苦笑いを浮かべながらいつの間にか散らかっている書類を片付け始めた。時々整理はするものの、気付いたら元通りに散らかっているのだ。綺麗好きだったはずなのに、エルの言うとおり隣室の所長室の汚さに感化されてきたのかもしれない。


 クリスティーナは学園に入学していながらも通ってはいない。毎日学園の隣にある植物研究所に通っていて、研究員の真似事をさせてもらっているのだ。

 クリスティーナがそれを望み、リアムが許可してくれたからこそできていることだ。ちなみに学園に通っていて求められる卒業までに必要な学力と知識は既に持っている。何故ならクリスティーナはクリスティーナという人生を何度も何度も繰り返しているのだから。いざとなれば、いつでも卒業はできるのだ。


 書類と実験道具を片付けて、お茶をするのに必要なスペースだけを空ける。部屋の隅に置かれていたバスケットの中からサンドイッチと少なめに入れられた飲み物を取り出して机の上に並べた。

 気付かなければ食べ物を摂取しようとしない2人の為に、今朝アンジェリカが持ってきたものだった。食べなければ彼女は怒るし、無理を言って作ってもらった食堂のシェフたちに申し訳ない。

 多分、シェフたちはアンジェリカの為に作ったのであってまさかヴィオレットとクリスティーナに食べられているとは思ってもみないはずだろう。


「最近、食べられるものであれば何でもいいかなって思えるの。だって、口に入ったらそれは食べ物よね?」

「いや、その考えは駄目だから。言ってることは私も十分理解できるけど、本当はちゃんと毎食摂っておくべきなのよ?リズは痩せすぎだから」

「私が痩せすぎなら、エルは病的だわ。そのドレスの下に布を何枚も巻いてること、私とアンは気付いてるからね」


 サンドイッチを食べようとしていた手が一瞬止まる。

 ヴィオレットはちらりとクリスティーナを見るが、彼女は気付かないふりをしているのか、サンドイッチを食べてから紅茶を口にしている。


「・・・いつから?」

「私たち自身で気付いたわけではないの。学園長に言われてよくよく見てたら、確かにそうだなって。寝不足なのも、学園長からそれとなく言われて気付いたの。難しいだろうけど、食べ物がある時はちゃんと食べて休める時にはちゃんと休まないと駄目よ」


 ヴィオレットは目を伏せて少しだけ微笑んで、次の瞬間には何事もなかったかのようにサンドイッチを口にする。


「それはリズにも言えることね」


 視界の端で珍しいものを見たと思いながらクリスティーナは、そうかもねと同意した。






『君がエルヴィス・ヴィオレット・ルチダリア公爵令嬢か。ご存知の通り、私がこの学園の学園長です。ようこそ、私は君を歓迎するよ』


 やっぱり食えない人だわ。

 学園長であるリアムに会った時に、ヴィオレットは率直にそう思った。


 学園長でもあり、研究所を束ねる実質的なトップの存在でもあり、王弟でもあるリアム。そして、学園長に赴任するまではやり手の外交官として各国を飛び回っていた。


 学園に来た初日に、ヴィオレットはリアムに会った。学園長室に通され、国から付けられたヴィオレットの護衛もとい監視の騎士は彼の指示の元その場を離れた。

 部屋にはリアムとヴィオレットの2人きりになった。


『初めまして、王弟殿下。この場では学園長様とお呼びすべきかしら?ご存知の通り、私がエルヴィス・ヴィオレット・ルチダリアでございます。どうやら私はこの国にとっては厄介者のようで、ご迷惑をおかけするとは思いますがどうぞよろしくお願いいたしますわ』

『そうだね。君も大変だね。こんな時期に、他国に追いやられるなんて』

『まあ、どういう意味でしょうか』


 ヴィオレットはこてんと首をかしげ、困惑した微笑を浮かべながらリアムを見つめた。

 そんな彼女を、リアムは面白そうに見つめ返していた。


『君にある程度の自由を許そう。温室にも出入りしてみるといい。ただし、お互いの領域に決して踏み込まない踏み込ませない。それだけを守ってくれたら、私はこの学園と研究所内の自由を保証するよ』


 にこやかに柔らかく微笑みながらも、その目は笑っていなかった。


『ルチダリア家のご令嬢。僕の管轄内で問題を起こしたら、わかるよね?』

『・・・・・、承知いたしましたわ』


 たかだか10代後半の子どもが、交渉の場数に長けた2回りも年上の大人に圧をかけられて逆らえるはずがなかった。

 逆らえたとしても、それは言葉上であって実際にはいいようにやりくるめられているだろう。そもそもこの国では何もできやしないのだから本当に勉強だけして帰るつもりだった。


 ヴィオレットは真っ赤に塗られた唇の端を吊り上げて素直に頷いた。


 リアムは20代半ばまで外交官を担っていた。明るくにこやかで人当たりも良い、お喋りではあるが口は固い。素直な反応で正直者だという第一印象を与えるが、その腹の底では10歩先のことを考えながら話していて知らず知らずの内に答えを誘導されてしまう。非常に優秀な人物で他国からも評価は高い。

 加えて植物が大好きで、研究所が所有する温室に持ち帰るために今も世界各地を飛び回っている。

 元は外交の場で辣腕を振るっていた人間がただ世界を飛び回っているわけではないだろうし、植物の知識は薬にも毒にもなりうる。

 学園長になった今でさえも、引き抜きの勧誘が来ているという。


 隣国に留学するにあたって、ヴィオレット自身の最大の目的はリアムだった。だが、下手な真似をすれば逆にこちらがやられることは危惧していたので積極的に近付くつもりはなかった。


 第一王子から与えられた表面上の役割は自国で学舎を作るための視察である。

 ヴィオレットが自由に使える者はウィリアムだけで、国を離れて1人でいる以上、今はなにもできやしない。書状を送ることはできるが、検閲が入る可能性があるし、名前を変えたとしてもウィリアムに必ず届くという保証は無い。

 だから、ヴィオレットができることは隣国の情報を探ることだけだ。


 現状、ソルレイリア国と隣国の仲は悪くもなければ特別良くもない。近いうちに争いが起こることもないだろう。

 しかし、いつどんな情報が今後の為になるのかわからない。広い視野を持って物事を見る為には様々な情報は必要だ。


 長いとも短いとも言える期間の中で、ヴィオレットは隣国のあらゆる情報を頭の中に入れて帰ろうと思った。王宮内の派閥関係、自国と同じ2人の王子たち、その婚約者たち、国内で何が流行っているのか、学園にいるのだから貴族の人間関係も詳細に。

 そして、リアムに直接会って人柄を見極め、他国に引き抜かれることなく、このまま学園と研究所にいるようにしておきたかった。


 他国からの者が来る場合、ある程度の情報の流出は仕方のないものだ。

 それをまさかリアムから許可されるとは思ってもみなかったし、ヴィオレットの事情を知っているような言葉を匂わされたことには心がひやりとした。


 ヴィオレットとリアムでは明らかに経験値が異なる。彼を出し抜けるとは到底思っていない。だからといって簡単にこちら側の情報が渡るとも思ってもいない。

 やはり何か自国に厄介なことが起きる気配でもあったのだろうか。目が届かない所で何かがあったのかもしれないし、ヴィオレット自身が何か失敗してしまったのかもしれない。さっさと視察を終えて帰った方がよいのではないか。


 そう考えながら、ヴィオレットが学園長室を去ろうと頭を下げた時だった。


『まあ、ここでは気負わずに頑張りなさい』


 リアムが席を立った気配を感じながらも一礼をしたヴィオレットが頭を上げる前に、彼は目の前にやって来た。

 そして、ぽんぽんと優しく頭に触れた。

 たったそれだけの出来事なのに、ヴィオレットの顔は一瞬で熱を持ってしまった。






 その後、クリスティーナとアンジェリカと出会い、2人に興味を持ったヴィオレットは予定通りに滞在することにした。もちろん、自身の秘密が漏れていないことを確認して。


 全ての講義を1度だけ受けてその後は自由に学園内をうろつきつつも、やはり多くの時間を過ごしたのはクリスティーナの研究室だ。彼女の研究室には植物に関する専門書があり、任されている実験に関する書類もあるので勉強になる。

 そのうえ、リアムが口添えでもしたのか、研究所にいる時には監視は見て見ぬふりをして研究所内には決して入ってこない。


 クリスティーナの研究室は、ヴィオレットにとって唯一この国で安堵できる場所だった。


 今日もヴィオレットは安堵できる友人の研究室に赴いた。

 ノックをしようと手を胸元まで上げたところで、ヴィオレットの耳に2人分の話し声が聞こえてくる。クリスティーナと、もう1人はリアムの声だ。


 凪いでいた心が1度だけ波打つ。

 ヴィオレットは静かに力強く目を閉じて、深く息を吸ってゆっくりと吐き出すと同時に目を開けた。


 ノックと同時に扉を開けると、休憩していたのだろう2人が揃って振り向いて笑った。


「おかえり」

「おかえり」


 おかえり、なんて他国の人間に使うのはおかしい言葉だ。


 毎日のように、時には日に何度もやって来るヴィオレットに向かって最初に言い出したのはクリスティーナだった。

 思わず怪訝な顔をした当人を見て彼女は面白そうに声を上げて笑った。それをアンジェリカが目撃して、何故かそれを言うのが当然のことになった。


 前回の時、リアムもその場にいた。

 クリスティーナとアンジェリカが揃ってヴィオレットに向かっておかえりと言ったのを驚いた表情で見比べられ、ばつの悪い顔をしたのだが、面白がったリアムも2人に倣うようにおかえりと言ったのだ。

 それを今回もクリスティーナに倣って真似したのだろう。むしろこれからも続けるかもしれない。


 そんな風に出迎えられて、内心の気恥ずかしさとむずがゆさを押し留め、ヴィオレットは2人の後ろにある作業台の上の赤い実から視線を逸らしながら笑みを浮かべた。

 二重の意味で、顔色が変わっていないことを祈って。



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