3.ヴィオレット
あの令嬢と初めて会った時のことを、ルイスは今でも鮮明に覚えている。
グレーの瞳が真っ直ぐに己を、否、己を通り越して遠い空を見上げた幼い令嬢は何を思って自身の瞳と同じ色の空を見ていたのだろう。
ぽつりぽつりと雨が降りだす中、誰もが慌てて室内に入っていったというのに、その令嬢はその場から動くことなくぼんやりと空を見上げていた。残った者がいないか確認していた王宮の侍女に慌てて呼ばれ、やっと小走りに室内に入っていった。
その様子をじっと見つめていた1人の少年には気付いていなかっただろう。また、雨のせいで髪がしっとりと濡れていて、不自然な些細な変化も少年以外の誰もがきっと気付いていなかったはずだ。と言ってもその変化を見つけたのは偶然でその後すぐにその場にいた令嬢たちは皆帰されてしまったから、少年の見間違いであるという可能性も無くはない
その数日後、別室で引き合わされたその令嬢・・・ヴィオレットは挨拶と相槌以外に彼女自身から話し出すことはなく、さっさとこの時間を終わらせてくれと言わんばかりの空気を醸し出していた。
実際にそう思って、そんな態度を取っていたのだと思う。にこやかではあったものの、明らかにおざなりな返事は相手を苛つかせるとわかっていてしているのだと、なんとなく察した。
だが、この公爵家令嬢から世間話という名目で情報を引き出すという目的を持っていた自身も簡単にこの時間を終わらせるわけにはいかなかった。
大切に育てられてきた公爵家の姫君。
機会があるこの時に手懐け、取り入り、情報を引き出すことがルイスに与えられた仕事だった。
これも一国の王子という責務を背負った己の役目。幼い頃、子どもの頃というのは無邪気な笑顔に騙されて人の懐に入りやすい時期でもあり、王子という立場、自分の顔が一般にとても整っていて女性受けする造形だと理解していた。
そんな打算にまみれていても幼い頃から褒められていた完璧な笑顔をいつも浮かべていたはずなのに、この年下の令嬢は心動かされているようには全く見えなかった。
笑みを向ければ心を緩めてくれるのに・・・これは難しそうだ。
ルチダリア公爵家の歴史は王家と共にある。ルチダリア家の祖先は、クラッスラ王家の商大国王の双子の弟であり、王家の歴史をルチダリア家無しでは語ることは出来ない。
それほどまでに王家とルチダリア家は切っても切り離せない関係にある。
実際にヴィオレットの祖父であるオースティンは、ルチダリアの名に恥じない人間であることは周知の事実だ。
しかし、その忠誠心が次代の人間にも受け継がれているかとは全くの別問題であった。
まずコンスタント・・・夫妻の人格に問題がある。彼らは権力を誇るためか華美に着飾り、夜会に参加し、下級貴族と見ると馬鹿にした態度と発言を改めない。また彼らの馴れ初めに劣らず、その後の愛人関係も酷いもので夫妻共に夜な夜な仮面舞踏会に赴くというのだから呆れる他ない。
また金遣いの荒さは王都中の人間が知っている。特に夫人と娘がある服飾店で他の客人が作らせていたドレスまでも欲しがり、謝罪もせずにそれが当然だと勝手に持って帰ったという話には唖然とした。現公爵は装飾品に加えて賭博に時間を費やしているそうで、負けて帰ることが多いのに羽振りが悪くなる様子がないことが不可思議な点だった。
そして、ルチダリア一家は一年のほとんどを王都で過ごしている。ここ数年一家が領地に帰った様子はなく、現公爵が帰ったとしてもたった数日だけという報告しか聞かない。領地経営は代理の執事に任せきりにしているようで、それでも税収だけは厳しく取り立てを行い、領内はかつての豊かさを失っている。最近では経営に苦しみ、閉まっていく店が多く、空き巣や強盗などの犯罪も多発しているらしい。ある町ではもうここで暮らしていけないと一夜で町人が消えたという話も聞くほどだ。
一言で言えば、ルチダリア家は人格に問題のある人間ばかりで収入と支出がおかしい。
そして最後に挙げるのは、ルチダリア家の謀反の疑いがあること。
いつの時代においても王家に敵対する勢力は存在する。
ルチダリア家はそんな敵対勢力を抑制してきた家だ。なのに、そんなルチダリア家を筆頭に王家に謀反を起こそうとしているという噂話が誠ひそやかに囁かれている。もうどこかの家とは密談を行い、勢力を伸ばしているのだと。
しかし確たる証拠が掴めなかった。ろくな話を聞かない現公爵は愚か者ではあるが、ずる賢くなかなか尻尾を見せない。
腐ってもルチダリアの家の人間なのだと、国王と宰相は苦虫を嚙み潰したような表情で言っていた。
ヴィオレットから実のある情報を引き出せず自身の不甲斐なさを噛み締めている時に、壁際に控えていた従者からタイムリミットを告げられてしまった。名残惜しく思いながらも今日はこれが限界だと諦め、歯がゆい思いを抱えながら笑顔で彼女を見送った。
そんな思いを知ってか知らずか、ヴィオレットは最後まで淑女の完璧な笑みを張り付けたままどんな表情にも崩されることはなかった。
間もなく、ルイスの婚約者候補としてヴィオレットを含めた3人の娘の名前があげられた。
3人共賢い娘で、学問においても教養においても問題は無かった。しかし、年々ルチダリア家の令嬢であるヴィオレットは資質が問われるようになり、ついには候補から除外することが決定した。
それが3年前のことである。
6年間、ヴィオレットは第一王子であるルイスの婚約者候補だった。家柄だけを考えるならば、次期王太子妃としての資格は十分にあった。しかし、気分屋で傲慢で目下の者を見下し、周りとの調和を考えずに行動する。生来の性格が歪んでいるのか明らかな悪意を含ませた言葉を放ち、それに伴った行動をする。
第一王子と第二王子には媚びた態度を、他の婚約者候補には格下の者のくせに私よりでしゃばるなと高飛車の態度を崩さなかった。
ある時、誰かが柔らかく諌めたら、最後にはこう言った。
『だから、何だと言うの?私はルチダリア家の娘なのよ。私は振りかざす権力がある家に生まれたの。使えるものを使うことは当然のことでしょう?』
その話は瞬く間に世間に広がり、そのような娘を候補といえども婚約者に準ずる立場に置いておくのはいかがなものかと議論され、結局婚約者候補から除外されることになったのだ。
それを王宮に呼び出して告げた時、彼女は不敵な笑みを浮かべて静かに聞いていた。
隣にいたルイスの弟がそれとなく、しかし注意深く令嬢の一挙一動を見逃さないように気を配っていた。
『さぞご立派な国王様になられますわね』
毒々しく真っ赤に塗られた唇から侮蔑の色を含んだ言葉が放たれた瞬間、即座に弟が立ち上がって剣の柄に手を持っていったがそれを防ぐように手を掴んだ。壁際にいた従者はピクリと動いただけだが殺気を放っていて、彼女が連れてきた侍女は今にも気絶してもおかしくないほどに顔色を無くしていた。
なのに、それらに気付いているだろう当人は不敵な笑みを崩さなかった。
いつかの茶会の時と同じだと、ルイスは思った。
ヴィオレットとルイスの視線が真っ向から対立し合う中で、先に視線を外したのは彼女の方だった。
『長居は無用のようなので、これにて失礼させていただきますわ。・・・それではごきげんよう』
偽りの悲しげな表情をした彼女は落胆を示すかのように俯いたまま扉に向かい、その途中で真っ白な顔色をしたふらつく侍女を連れて部屋から出ていった。
そのほんの一瞬の表情を見つけたのは、きっとルイスだけだったのだろう。
そして、その表情の真意を見通す者もまたルイスだけ。
悲しげに俯いていたヴィオレットが、最後に、僅かに口の端がつり上げた。
ヴィオレットを婚約者候補に入れたのは、元よりルチダリア家を監視するためだった。少しでも情報を得やすくするため、当時から悪い噂のあったコンスタントに圧力をかけるための仮初のもの。最初から婚約者に決まることなど有り得ない人選だった。
しかし、本来ならばルイスの婚約者を決めた時点で彼女は外される予定だった。
王族の婚約者候補というものは、候補の段階で王族側から除外されることは滅多にない。婚約者を決めた時、あるいは寛容なこの国で令嬢側にどうしても良い人が見つかった時以外はあくまでも婚約者候補のままだ。
王族側の都合で除外されるということは、よっぽどその令嬢に非があると言われたも同然のことであり、令嬢側としては自業自得とは言え屈辱的な出来事だ。実際、コンスタントに伝えた時の彼は屈辱に顔を歪ませていた。
なのに、当人は心の底からこの決定を喜んでいるように見えた。
ふと考え、もしや婚約者候補から除外されるための行動を選びとって起こしていたのかもしれないという推測に至る。
まさか、とは思いつつもその推測を全否定しようにも心のどこかで何か引っかかるものがあった。
この疑問がルイスから消えることはなかった。
執務室にある長椅子で微睡んでいた第一王子のルイス=エルマー・クラッスラはふと目を覚ました。
休みたいと従者に伝えたので、今この部屋にはルイス1人しかいない。
寝ぼけまなこに聞こえた音に目を外に向けると雨が降っていて、空は暗く濁った曇り空で覆われていた。
「・・・ヴィオレット、か」
ルチダリア家の一人娘を思い浮かべた時、どうしてもセカンドネームで呟いてしまう。
対外的に名を呼ばれる時はファーストネーム、親しい間柄で愛称を呼ぶ時はセカンドネームから、というのが昔からの慣わしだ。
彼女のファーストネームである“エルヴィス”は男に付けられる名前だ。生まれる前から決められていた名前だそうで、彼女の祖父が男の子を期待していたのに女の子に生まれた孫を嘆いて強制的に付けた名前だと言われている。それから現当主夫妻に子が生まれることはなく、結局彼女が唯一の孫になってしまった。
そして、セカンドネームは”ヴィオレット”。
セカンドネームから愛称が取られるのは、この国ではセカンドネームが重要視されているからだ。なので、ファーストネームよりも重要な意味を込められている。
ヴィオレットとは花の名前で、花言葉は忠誠だ。
1年前に亡くなったオースティンはさぞ嘆きながら死に絶えたことだろう。
跡取りである息子は愚か者に育ち、その子である孫も名前に込めた意味とは真逆の行動を起こしている。
誰もが今のルチダリア家は王家へ忠誠など誓っていないと思っているし、知っている。
それにはルイスも確信に近い思いを抱いている。
しかし、ルイスは今でも思い出すのだ。
この雨の中どんよりとした空を見ていると、初めて会った時に見つめていた令嬢の表情とその瞳を。
あの時彼女は何を考えていたのだろうか、と。
執務机の上に置いてある書類に視線を移す。
その書類は顔も名前も知らない人物からの告発文だ。
その告発者に会ったことはないが、最初の告発文はルイスの目の前に落とされた。
“ルチダリア公爵家はとうの昔に腐りきっている。”
最初の告発文にはそう書かれ、数ヶ月置きにルイスの元に届けられる告発文には次から次へとルチダリア公爵家が行っている不正や悪事が書かれていた。それに呼応するかのように、ルチダリア家の悪評が今まで以上に広がり、いい加減糾弾すべきだという声も大きくなりつつある。
また数年前からルチダリア家には外からやって来た商人が出入りするようになり、それまで王都の店に来てばかりだった彼らはその商人を贔屓にするようになった。そして、オースティンが亡くなった後から、彼等の付き合いはより親密になった。
ルチダリア家の金遣いの荒さはさらに激しくなり、謀反の話が本格的に進んでいるようだ。また最近公爵はその商人を周りの人間に紹介し、商売の手助けをしているという。
その商人が怪しいとルイス達は踏んでいるが、商人とあやしい取引をしているという確たる証拠は掴めず、差出人不明の告発文と信憑性に欠ける証拠を頼りにルチダリア家を糾弾することは出来ない。
けれど、証拠さえ掴めば、堕ちてしまったルチダリア家は決められた行く末を歩むしかない。
今も苦しんでいる領民のため、ルイス達は早く終わらせなければならない。
「早く、終わらせなければ・・・」
真実かはわからなかったが、まるでヒントを与えるかのような告発文のおかげでルチダリア家の調査は進むようになっていた。
もうそろそろ終わりにしなければならない。
この数十年に渡る腐敗は、早く終わらせなければならないのだ。