2.前当主の訃報
オースティン=ネモフィラ・ルチダリア。
それはルチダリア公爵家の前当主だった男の名前だ。二年前、病に侵されていた彼はたった一人で死んでしまった。
公爵家の屋敷を現当主である息子に譲った後、世情からは離れんと言わんばかりに郊外の屋敷で世間に顔を出すこともなく静かに過ごしていた。
ルチダリア家前当主の訃報が王宮に届いたのは、彼が亡くなった翌日のことだった。
国王の執務室には、国王と宰相と第一王子の3人が揃って眉を寄せて険しい表情をしている。
「発見したのは、彼の右腕である執事だったそうです」
「現公爵は、何か言っていたか?」
国王の問いに宰相はさっと表情を曇らせる。
前当主の訃報を王宮に伝えに来たのは現ルチダリア公爵当主だ。妻を早くに亡くし、後妻を娶ることもなくたった一人で育てた、一人息子のコンスタント=ナーシサス・ルチダリア。
「神妙な顔はしていましたが・・・」
そこで途切れてしまった宰相の言葉に、国王と第一王子の怒りは静かに膨れ上がる。
「オースティンは素晴らしい男だったのに、何故あんな息子を野放しにしてしまったのか」
「・・・彼にも考えがあったのでしょう。もしくは、父親を手にかけたからこそ息子までは非情になれなかったのかもしれません」
2代前のルチダリア当主が王家に謀反を起こす準備をしていると密告してきたのは、その息子であるルチダリア前当主のオースティンだった。
オースティンが、自らが捕らえた父親の片腕を顔色一つ変えずに切り落とし、叫び声を上げた父親の顔を踏みつけたという逸話は有名だ。血の繋がった親でさえも容赦なく断罪する冷酷非情な男なのだと、国中の誰もが恐怖に震えた。
その時王太子としてその場にいた現国王は、これがルチダリア家の次期当主なのかと恐れもしたが同時に安堵した。
ルチダリア家の祖先は、このソルレイリア国の初代国王の双子の弟だ。
国王である兄から絶大な権力と広大な土地を与えられた弟は誓った。これから国を支える子孫が間違った道を進もうものならルチダリア家が正しい道に導き、王家に反意を覆す者がいるならば王家に替わって処刑し、未来永劫の忠誠を王家に誓い、それが破られる時は家の断絶を意味する時だ、と。
そのルチダリア家に不穏な動きがあると噂が囁かれ始めたのはいつからだったか。
噂が本当なのか嘘なのか。それは確かめてみなければわからなかったが、当時は誰もが噂は噂に過ぎないと誰もが思っていた。誰かを蹴落とすため、陥れるために、悪い噂がさも本当のことであるかのように流されることは日常茶飯事のことである。
その真偽を見極めることが出来ずして、人の上に立つことは出来ない。
ルチダリア家の2代前の当主は王家に忠誠を誓う、誠実で真面目な男だった。ルチダリアの名と歴史に恥じない、血筋を盾に傲慢になることもない男だった。当時の国王でさえ、そう信じていた。
だからオースティンの密告と証拠は正に寝耳に水というやつで、しかしでっち上げだと笑い飛ばすには確かな証拠が揃いすぎていた。半信半疑だった。しかし黒に近い証拠があるにも関わらず放置しておくことは出来ないし、万が一の可能性があるならばそれは国の危機になる。
オースティンに暫く密通者の役割を果たすように命令し、国王は彼からの報告を一つ残らず聞いた。
父親は息子に、我々にも国を治める権利があるのだからこれは正統な主張なのだと言ったらしい。
それを聞いて、国王は本人に聞いたそうだ。
『初代からの誓いにより、ルチダリア家には王位継承権が破棄されている。しかし、確かにルチダリアの血筋は王家に準ずるものだ。お前も権力を持つ者として一国の王になりたいと思わないのか?』
彼は国王に頭を垂れて恭順の姿勢を取ったまま、その問いに答えた。
『いいえ、陛下。ルチダリアの血は王家の為、引いては国の為にあるものでございます。初代ルチダリア当主の意志が、我らが進むべき正しい道なのです』
そして、彼は迷うことなく父親に剣を向けた。
王家に反意を翻したにも関わらずルチダリア家に大した処罰がなされなかったのは、密告したのが次期当主であったこと、次期当主であるオースティンの忠誠は真実本物のものであることが皆の記憶に刻み込まれ、当主になった際に再度未来永劫の忠誠を誓ったからだ。
そんな忠義心厚い父親の覚悟を息子が裏切るとはよもや思いもしなかっただろう。
息子のコンスタント=ナーシサス・ルチダリアは、オースティンのたった1人の子供だった。コンスタントが5歳の時に妻を流行り病で亡くしたオースティンは再婚をすることなく、たった1人の子供である跡取りを愛情深くも厳しく育てていた。
立派な父親と比べるとどうしても多少の見劣りをしてしまう子供ではあったが、彼の息子なのだから何も心配することはないだろうと周囲の者は思っていた。
コンスタントへの疑惑が噴き出したのは、当時婚約していた婚約者とは別の女性と関係を持ち、あまつさえその女性に子ができたという話が広がったからだ。
その女性は伯爵家の令嬢で、その伯爵家は当主もろとも決して良い話を聞くような家ではなかった。けれど手を出してしまったのはコンスタントの方で、伯爵家がこれ幸いにとあらゆる場所で話し、瞬く間に社交界に広まった話をさすがのオースティンにもどうすることも出来なかった。結局、本来の婚約は解消され、コンスタントは伯爵家の令嬢と結婚した。
その子供がエルヴィス=ヴィオレット・ルチダリアだ。
血の繋がった親でさえも容赦なく断罪する冷酷非情な男は、息子が不義理な行動を犯したとしても、生まれた孫娘はかわいくて仕方がなかったらしい。
ある日王宮にまで孫娘を連れてきて見せびらかし、遂には王太子から国王になったばかりの現国王の元にまで溺愛ぶりを見せ付けたに来た。
『申し訳ありません。この子の2歳の誕生日を迎えられたのが嬉しくて嬉しくて』
そう言って幼い孫娘を締まりのない顔で見つめるオースティンは、冷酷非情などとは正反対の人間だとその頃には言われるようになった。
そう、やはり血の繋がった者には甘い人間だ、と。
孫娘が生まれる前に当主の座を息子に引き継いだきり、オースティンが表舞台に立つことは決してなかった。
例えどんな噂が広まっていようとも、公爵領がどんな状態になっているのか本当のことが広まっていようとも。
王都にあるルチダリア公爵家が持っている内の1つである郊外の屋敷で、何も言うことなく関わることなくただ静かに暮らしていた。
聞いたところによると、数年前から病を患っていて寝たきりになっていたのだそうだ。
屋敷にいるのはオースティンの右腕だった執事1人だけで、雇っていた小間使いが時折出入りしていただけだった。
権限を譲った以上なんの力も持っていないオースティンに、息子も孫娘も会いに来ることはなかったそうだ。
「厄介な者たちを残してくれたな・・・」
国王の呟きが執務室に重く響く。
第一王子はルチダリア家の令嬢のことを考え始め、ふと聞こえてきた微かな音に窓の外を見上げる。
昨日から降り始めた雨はまだ止まない。王都を覆う空はどんよりとした黒に近い灰色で、陽の光を差し込ませまいとひしめきあっているようだ。
あの日と同じ空を見上げながら、ルイスは婚約者候補としてヴィオレットと初めて会った日を思い出した。