6 進路
授業を終えた後、陽人が教壇から奈津美に声を掛けた。
「長谷川さん、昼休みに職員室に来てください」
それを聞いて、視線が奈津美に集中したが、次の
「三者面談の日程の件で、お話があります」
という言葉で、クラスメートの興味は霧散した。今は三者面談の時期で、時折日程がなかなか合わず個別に調整している生徒が何人もいるからだ。
昼休み、奈津美は職員室を訪ねたが、用件は事前に聞いて知っていた。呼び出しは、あくまで外形的に必要だっただけだ。職員室内には、陽人と奈津美が夫婦だと知る者はいない。奈津美の母が入院中で、三者面談のために病院を訪ねる必要があると、職員室に知らしめるための儀式だった。
「ああ、長谷川さん。昼休みに呼び出してすまなかったね。
実は、三者面談なんだけど、入院中のお母さんを訪ねるかたちでやりたくて病院にお願いしていてね、やっと許可が出たんだ。
今日の最後の面談が終わってからになるから、君は先に病院に行って待機しておいてほしい。
面会時間の関係もあるし、5時半くらいには到着できるようにするから」
「わかりました」
教室に戻った奈津美に、笑子らが「なんだって?」と聞いてきたので、「今日の放課後、お母さんの病室で三者面談やるんだって」と答えると、「病院まで押しかけんの? お母さんもセンセーも大変だね~~」と同情された。
実際のところ、奈津美は結婚したことで成人扱いされるため、保護者は必要ない。それでも敢えて保護者を、というなら、陽人だろう。だが、陽人は、奈津美の大切な将来について、きちんと話し合った結果を美芙由に伝えておきたかった。そして、周囲へのカモフラージュも兼ねて、“病院での三者面談”というかたちにしたのだった。
病院に先に着いた奈津美は、一足先に美芙由の病室に向かい、予め陽人と相談済みの進路について話しておく。
これは、美芙由に掛かる負担を軽減するためだった。
「奈津美の希望は、三宝大の教育学部だよね。
今の成績なら、推薦もらえそうだね。
奨学金も、僕の収入からいうと、もらおうと思えばもらえるんだけど、あれも結局借金だからね。借りない方がベターだと思うんだ」
「先生、私、もう、大学行かなくてもいいかなって思ってるんだけど…」
「どうして?」
「大学に行って先生になるより、陽人さんの奥さんとして家で待ってる方がいいかなって」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、それだと奈津美が可哀想かなって思う」
「私、可哀想なんかじゃない! 陽人さんの奥さんするのは、とっても幸せだもの!」
「ありがとう。別に、専業主婦が悪いっていうわけじゃないんだ。
ただ、本音で友達と接することができる大学時代っていうのがあってもいいと思うんだ」
「本音で接する?」
「そう。秘密を持った高校生活を強いてしまったからね。
大学でなら結婚していることを隠さなくてもよくなるから、家でのことなんかを外で話すこともできるだろう」
陽人は、奈津美に自由な高校時代を与えてやれなかったことを悔いている。
あの時はそれが最善と信じていたが、それでも友達と腹を割って話せない秘密を持たせてしまったことについては忸怩たるものがあった。
大学でなら、同棲している人間もそれなりにいるし、さすがに既婚者はあまりいないだろうが、皆無ではないだろう。
「極論するとね、奈津美は大学に行ったからって就職する必要はないんだ」
奈津美は耳を疑った。先生になるために教育学部に行くんじゃないの?
「もちろん、なりたければ教師になればいいよ。でもね、僕はどちらかというと、世間を広くするために大学に行ってほしいんだ」
「世間を広く?」
「そう。社会を見る、と言ってもいいかな。
奈津美は、放課後に友達とお茶して帰るみたいな高校生活は送れなかったからね」
「私は、別に不幸なんかじゃ…」
先生まで、私の高校生活をつまらないって言うの?
それは、奈津美のこの1年間を否定する言葉だ。奈津美の心は沈んだ。だが。
「つまらないってことはないよ。ほかの子が味わえないような高校時代を送ったんだから。充実した青春だよ。
ただね、気楽に好きなことを学ぶ大学時代もあっていいんじゃないかとも思うんだ」
「気楽ってなに!? 大学行ったら、お金掛かるのに、気楽になんてできるわけないじゃない! 先生のお給料で私を養ってるだけでも結構厳しいのに、大学まで行って働かなくていいわけないじゃない!」
陽人は、自分の給料だけで暮らすようにしていた。明博の保険金は、奈津美の大学進学のために残しておこうという考えからで、それは奈津美にも話してある。27歳の陽人の収入だけで2人が暮らしていくのは、不自由でこそないがそんなに余裕があるわけでもない。
奈津美は、陽人の負担になっていることを自覚しているだけに、大学に行っても就職する必要はないという話は納得できなかった。
「まあ、僕の給料では苦しいっていうのは認めるとして」
陽人は苦笑した。安月給を責められる夫って、こんな感じなのかなと思いながら。
「僕は、大学に行くこと自体に意味があると思ってる。
もちろん、何を学んだか、それを活かせる仕事に就けるかっていうのは大事なんだけど、大学で作る人間関係とか、そういうものも大事だと思うんだ。たとえその後就職しなかったとしても、子供を育てるのにも、色々な人生経験があることはプラスになると思う」
「大学の費用を払ってもですか?」
「若い時の苦労は金を払ってでもしろっていうだろ? 経験は、お金には代えられないことも多いんだ。
奈津美には、自分の世界を広げてほしい」
「自分の世界?」
奈津美には、陽人の言葉の意味が判らなかった。2人で一緒に生きていくのに、私の世界なんて、いるの?
「もちろん、僕は奈津美と一緒に生きていく。それは大前提なんだけど。
でも、僕は、これからも多くの生徒を持つことになる。授業や、部活や、生徒の卒業や、色々な思い出を積み重ねていく。でも、そこには奈津美はいないんだ。それは、僕だけの思い出になる。
だからね、奈津美だけの思い出があったっていいんだ。いや、あった方がいいんだ。
僕達は寄り添って生きていくけど、2人がセットなんじゃない。1人1人の独立した人間として、共に歩くんだ。
だから、奈津美は、僕の妻としてだけでなく、長谷川奈津美という女の子として、自分だけの世界を持っていてほしい。その上で、僕と共に生きてほしい。
そのためには、妻として以外の時間を持つべきだ。
だから、進学してくれないか。自分の時間を持って、その上で、就職するかどうかは後で考えればいいよ」
陽人は、奈津美が自分への依存と罪悪感に押し潰されることを恐れていた。元々は陽人に支えられるために結婚したが、今は愛し合っている。支えられるための結婚生活はとっくに終わったのだ。
このまま専業主婦になったら、陽人以外に頼る相手も友達もいなくなるかもしれない。夫婦ゲンカをした時、愚痴をこぼす相手もいないようでは、いずれ潰れてしまう。結婚していることをオープンにできる友人を作った方がいい。
「独立した、人間…」
「奈津美は、1人で生活できるくらい稼げるようになっても、僕の奥さんであることをやめるはずがない、僕は愛されてるって、自惚れてもいいだろ?」
「うん…もちろん…。
愛してる。陽人さん…」
こうして、奈津美は、当初の夢のとおり、大学進学することになった。
次回最終話「卒業」は、明日更新です。