4 嫉妬
陽人と想いが通じ合った奈津美は、ずいぶんと心が軽くなった。
もちろん美芙由のことは心配だが、四十九日での様子を見れば、静かにしていれば問題ないレベルだ。美芙由の心痛の一因だった奈津美の今後についての心配も、2人が本当の夫婦になったことで解消された。四十九日からは何日も経っていないが、安心させる意味もあって、翌朝、2人で報告に行ってきたのだ。母に「奈津美を幸せにするとお約束します」と誓ってくれた陽人の姿に、奈津美は天にも昇る気持ちだった。昨夜ベッドの中でも誓ってくれたが、改めて母に誓ってくれるのはまた格別だ。
もっとも、奈津美にしてみれば、“初体験しました”と報告に行ったようなものでもあり、少し居心地が悪かったのも事実だ。「それじゃあ、初孫の顔を見るまで元気でいないとね」などとからかわれて、小さくなっていた。一方、陽人は、「長生きしてください。少なくとも奈津美が高校を卒業するまでは、子供を作る気はありませんので」と平然と返していた。こういうところは、やはり人生経験の差だろう。
その帰り、郊外の廉価家具店に行き、ダブルベッドを注文してきたが、誰かに見られることを警戒して、2人別々に見て回って、お互いに気に入ったものの品番を連絡し合うという念の入れようだった。杞憂に終わったが。
奈津美の体を気遣って、残りの数日は家で大人しくしていたが、ゆっくりと2人で話もでき、寄り添って眠るなど、絆を深めた数日間だった。
ゴールデンウイーク明け、奈津美は上機嫌で登校した。
特にどこに行くということもなく、“ゴールデンウイークは四十九日の法要”と言っていた奈津美が、端から見ても上機嫌であることに友人達はいぶかったが、「お母さんの具合がだいぶ良くなった」と言うと、それ以上は誰も何も言わなかった。
「あのね、今日、学校で“陽人さん”って言いそうになったの。長谷川先生って言い直してなんとかごまかせたんだけど、また間違えちゃうと危ないよね」
「そうだね、気をつけないと。別に悪いことをしてるわけじゃないんだけど」
「私達の関係、友達にだけでも話したらだめかな」
奈津美にしてみれば、友達に秘密を持つことにはさほど後ろめたさはないものの、いちいち気を遣って喋らなければならないのは疲れる。それに、彼氏を作らないのかとか、男を紹介しようかとか、余計なことを言われて面倒だというのもある。なにより、せっかく両思いになれたのに、一緒に出歩くことができないのは、つまらなかった。
「難しいところだね。元々は、かたちだけの夫婦のつもりだったから隠したって部分が大きいんだけど、その点はもうクリアしたからね」
そう言って、陽人は考え込んだ。
「やっぱり、ちょっと難しいかな。予想される問題は2つ。
1つ、奈津美が好奇の視線に晒される。結婚したって公表するのは、奈津美が処女じゃないって公表するのと同じだからね。下手をすると、興味本位で夜のことを聞きに来る生徒が出る可能性がある。男女問わずね。そこまでいかなくても、どうやって知り合ったか、いつ結婚したのか、そういうことを根掘り葉掘り聞いてくる子は出てくると思う。
2つ、僕が別の高校に異動することになる。担任するクラスの生徒が妻というのは、公平性を疑われる。試験前後には、奈津美と寝室を分けるつもりだし、ひいきは一切しないけど、周りはそうは見ない。まあ、奈津美の事情を考えれば、ここから通える学校に異動させてもらえるとは思うけど、かなり問題になるだろうね。元々無理を言って便宜を図ってもらってるから、勝手には変えられない」
元々、奈津美の父の関係者が教育委員会にいたお陰で陽人はこの学校に赴任できたのだ。婚姻届の証人欄の片方もその人だ。下手なことをすれば、顔を潰すことになる。
また、陽人は奈津美の気持ちを考えて敢えて言わなかったが、陽人自身の立場は確実に悪くなる。経緯を知らない一般の目から見れば、陽人は16歳の少女に手を出した高校教師なのだ。
そしてまた、奈津美が性犯罪の被害に遭う危険性を跳ね上げることでもある。人妻であれば、性犯罪の被害に遭った際に訴え出る可能性が減るし、妊娠させても夫の子として生むこともできると考える輩はきっといる。陽人としては、奈津美が危険に晒されるおそれのあることはしたくなかった。
「陽人さんがいなくなっちゃうのは困る。やっぱり秘密にしておかなきゃだね。じゃあさ、私、家でも“先生”って呼ぼうか」
「家でも?」
「うん。だって、家で呼んでると、学校でもうっかり呼んじゃうわけだから、家でも先生って呼んでれば間違う心配はないでしょ。陽人さんって呼べないのは残念だけど、最初は先生って呼んでたんだし、陽人さんがいなくなっちゃうよりいいもの」
せっかく「陽人さん」と呼べるようになったが、背に腹はかえられない。こうして、家でも「先生」呼びが定着することになったのだった。
そして、7月になった。
ふと、陽人が動くのをやめた。
「はるとさん?」
「あ~、ちょっと、その爪さ、今はまずいんだ」
何を言われたのかわからずにいると、陽人が続けた。
「もうじき水泳部はプールを使えるようになるんだ。水着になった時、背中に跡があると、ちょっとまずい」
紅潮した顔が、別の意味で赤くなる。
「あの、私…ごめんなさい」
消え入りそうな声で奈津美が謝るが、陽人は別段怒っているわけではない。
「水着になる時期だけは、ね。これは、結婚してることを公表してても同じだよ。多感な時期の生徒には見せられない」
「水泳部の人達は、陽人さんの水着姿見られるんだよね。私も見たかったなあ。プールの授業だけ、陽人さんが来てくれればいいのに」
そう言って、奈津美は陽人の首に抱きついた。数学教師の陽人が体育を教えに来るわけがないのはわかっているが、自分も見ていない夫の水着姿を他人が見るのは面白くない。「スタイルいい人もいるんだろうね。目移りしちゃ嫌だよ」
「大丈夫。僕はプロポーションで奈津美を好きになったわけじゃないから」
「それはそれでむかつく。どうせスタイル良くないですよーだ」
「だから、そういうんじゃないって」
2人は、じゃれながら睦み合った。
「長谷川センセって、案外細マッチョなんだってさ」
「え~、なに、誰情報?」
「水泳部からの極秘情報。ソースは明かせないな」
それなりに人気の陽人だけに、意外と筋肉質だ、などというどうでもいい話でも、やはり盛り上がるものらしい。
脇で聞いている奈津美は面白くないが、文句を言える話でもない。あまり乗り気で話を聞いてもまずいだろうし、かといって興味なさそうにするのも、何か違う。
「奈津美ぃ、どしたの? 暗いよ」
どうやら顔に出てしまっていたようだ。
「え? あ、うん、なんでもない。ボーッとしてただけ。何の話だっけ?」
奈津美には、陽人との関係を秘密にしていることに後ろめたさのようなものはない。あるのは、オープンにできないことへの不満だ。優越感のようなものも感じない。ただ、陽人を好きだと人に言えないもどかしさだけがあった。
「…なんて話があったの。先生、大人気ね」
夕飯の時に、その話をしてみた。
「細マッチョっていうほど逞しくはないと思うけどなあ」
陽人からは、若干ずれた感想が返ってきた。
「先生、細いから、思ってたより筋肉あるって思われたんじゃない?」
私は前から知ってたし、驚かなかったけど、とは言わない。
ああ、でも、先生の後ろ姿の写メとか見せられなくてよかった。顔が写ってなくても見分けられる自信があるし、うっかり「先生!?」とかいきなり正解しかねない。そうなったら、ごまかすの大変そうだなぁ。
「ヤキモチ焼かれるってのも、いいものだね」
いつものように柔らかな笑みを浮かべて、陽人が言う。
「そんな可愛い奈津美と、夏休みに泊まりがけで海に行きたいと思いますが、参加しますか?
したい人は挙手願います」
「はい! 行きたいです!」
陽人とは、ゴールデンウイークの水族館以来、遊びに行っていない。泊まりともなれば、初めてのことだ。奈津美は一も二もなく飛びついた。
「じゃあ、行き先を考えようか。水着も買わないとね、週末にでも、ちょっと足を伸ばして買いに行こうか」
「うん!」
泊まりがけで遠出すれば、陽人と手を繋ごうが腕を組もうが、人目を気にすることはない。それは、奈津美にとって、何よりも楽しみなことだった。
一応、念のため。
えっちの最中は、奈津美は「陽人さん」と呼んでます。