3 恋慕
入籍後、すぐに春休みに入り、奈津美は一足先に、陽人の借りたマンションに引っ越した。
合い鍵を渡された奈津美は、自分1人で先生の新居に入るのは…とためらったが、「ここは君の家でもあるんだから」と陽人に押し切られた。押し切るも何も、本当に奈津美はそこで暮らすことになるのだから、鍵を持っていないと話にならないのだが。
私物も、小物は自分でせっせと運んだが、机やカラーボックスなどの大物は、後日、中味も含めて、陽人がレンタルの軽トラで運んでくれた。
「先生、トラックなんて運転できるんですか?」
と聞くと、
「2トンまでの軽トラなら、普通免許で運転できるんだ。一人暮らしの荷物程度なら、運送屋に頼むより早いし安上がりだよ」
と笑った。実際、奈津美のところに来る前に、自分の荷物を向こうから持って来て運び込んできたそうだ。
「これで僕の荷物は全部だ。僕も今日からここに住むことになるから、よろしくね、奈津美ちゃん」
“奈津美ちゃん”と呼ばれて、奈津美は心の中で飛び上がった。小学校時代は“奈津美さん”と呼ばれていたが、それは、クラス全員同じだった。男の子も女の子も、みんな、名前にさん付けが当たり前だったから。けれど、再会以来ずっと“君”と呼ばれていて、名前を呼ばれたのは初めてだ。
「あ…名前…」
「ごめん、気に障ったならやめるけど、一応、僕達は家族になるんだし、いつまでも“君”ってわけにはいかないしね」
「いえ、いいんです。ただ、初めて名前呼んでくれたから…」
そう言うと、陽人はばつの悪そうな顔で笑った。
「なかなかきっかけが掴めなくてね。仕事だとさん付けになるから、家族らしくっていうとちゃん付けなのかなって。いきなり呼び捨てにするのはハードル高くてさ」
じゃあ、私は“陽人さん”って呼べばいいのかな? そう思ったが、奈津美は黙っていた。厚かましいような気がして、やはり気が引ける。きっと先生も名前で呼ぶのは気が引けるから、今まで“君”と呼んでいたんだろう。
夕飯は、陽人が作った。大したものは作れないけど、と照れながら、かなりの手際の良さで、それなりの料理を作る。奈津美も手伝ったが、どう見ても奈津美が作るより手慣れている。なんか手慣れていませんかと訊くと、母が死んでから、ずっと食事当番だったからね、と笑った。
食べてみると、本当に奈津美が作るものよりおいしかった。奈津美も母の手伝いくらいはしていたが、自分で作ることはほとんどない。比べるだけ無駄なレベルだ。
食後のお茶を飲みながら、陽人が切り出した。
「これからのことを少し話しておくよ。
まず、僕は奈津美ちゃんの学校に赴任することになった。ただし、校長と人事の担当以外は、僕達の結婚のことは知らない。
僕が奈津美ちゃんの授業を受け持つ可能性もあるし、奈津美ちゃんの周囲も多感なお年頃だからね。一応、2人とも独身、ということにしておくことになったんだ」
「わかりました」
言外に“いつでも関係を解消できるよう”と言われている気がしたが、そこには気付かないふりをした。本当に、奈津美が望めばいつでも離婚はできるのだろう。気を遣ってくれてるのはわかるが、なんとなく寂しい気がした。
「年も離れているし、いきなり夫婦と言われても戸惑うと思うけど、頼ってほしい。夫と思いにくければ兄とでも思ってくれればいいよ。部屋も別々にするし、自分の家と思って気を遣わないでほしいんだ」
それは、仮面夫婦として暮らすという宣言だった。確かに、最初から、手続的に結婚した方が色々と便利だから、とは言われたが、自分に女としての魅力がないのかと思いもする。かといって、いきなりそういうことになるのは、やはり抵抗もある。これじゃ、単なる居候じゃない。端的に言えば、面倒を見てもらうために一緒に住むのだが、それでは奈津美の気がすまない。
「お掃除とかお洗濯とか料理とかは、私にやらせてください。料理は、その、先生の方が上手なのはよくわかりましたけど、でも、せめてここにいる意味が欲しいんです」
「僕は、家事をしてもらうために君を連れてきたわけじゃないよ」
「わかってます。それは、とってもありがたいです。でも、家族なら、家事の分担は当然ですよね?」
そう言えば、陽人が折れることは予想できていた。ずるいとは思うが、それこそ家事くらいしないといたたまれない。
陽人は、少し考えてから答えた。
「わかった。じゃあ、掃除と洗濯はお願いするよ。炊事は、平日はお願い。休みの日は、状況を見て空いてる方がやろう」
「わかりました。これから、よろしくお願いします」
「よろしくね、奈津美ちゃん」
それから新学期まで、2人はゆっくりと距離を測りながら暮らした。結局、風呂は陽人が先に入るかたちで落ち着いた。どこの家だって、旦那さんが一番風呂に決まってます、という奈津美の主張が容れられたかたちだ。風呂の後で洗濯する都合もあって、陽人は反論しなかった。うっかり奈津美の入浴中に扉を開ける危険を考えれば、先に入浴して、その後は風呂場に近付かないのが手っ取り早いという判断もあったようだ。
奈津美は、自分の下着は自分の部屋に干しているが、それについても陽人は何も言わなかった。奈津美が陽人の下着を畳むことについても、気にしてはいないようだ。
そして、新学期。
始業式で、赴任してきた教師の挨拶があり、当然、そこには陽人の姿もあった。
特に美形というわけではないが、若くてそれなりに整った容姿の陽人は、女子生徒のざわめきを持って迎えられた。
そして、予想どおりというべきか予想外というべきか、奈津美のクラスの担任は、陽人だった。
最初のホームルームでの
「この学校の教師の中では、君達の年齢に近いから、気軽に何でも相談してほしい」
という陽人の言葉も、好意的に受け止められたようだ。
「先生、結構感じいいよね」
「あ、うん、そうだね」
というクラスメートとのやりとりに、ほっとした反面、面白くないという思いを抱いたことに、奈津美はどきりとした。
その日の夕飯の時に、訊いてみた。
「先生、クラス担任になるって、知ってたんですか?」
「いや、それは知らされてなかった。保護者のこととか考えると、クラス担任になるのがベストだろうとは思ってたけど、なにしろ若造だからね。クラス担任を任せてもらえるかはわからなかったんだ。実際、担任やるのは、今回が初めてだよ」
“保護者のこととか”というのは、三者面談などのことだ。美芙由が来られるようになれば問題ないが、そうでなければ陽人が奈津美の保護者ということになる。結婚していることを隠している以上、そして、生徒の家庭環境について担任が把握する必要がある以上、担任が陽人でなかった場合、面倒が増えるのは目に見えていた。実のところ、その辺りを考慮して校長が陽人を担任に指名したのだが。
「先生、女子から人気出そう」
その一言は、特に意味を持って発したわけではなかったが、なぜか口を突いて出ていた。
「嫌われないなら、助かるね」
何の気なしに返ってきた陽人の言葉に少しいらついたのがどうしてか、奈津美にはわからなかった。
1か月が経ち、ゴールデンウイークが目前に迫ってきた。
この1か月間、奈津美は、毎日弁当を作ってきた。陽人は職員室で食べるから、中味が同じことを指摘される心配もない。夕飯の残りと冷凍食品で彩りはよくないが、陽人からは「一人暮らししていることになっているし、自分で作った弁当っぽくて助かる」と、喜んでいいのか悩むお褒めの言葉をいただいた。弁当箱は綺麗に洗ってきてくれるし、本心から喜んでくれているとは思うのだが。
大した料理も作れないのに、「おいしかったよ、ありがとう」と言ってくれる。「おかえりなさい」と迎えた時に「ただいま」と微笑んでくれる。そんな毎日が、奈津美は嬉しかった。
かりそめの夫婦ではあるが、先生の奥さんになれたような気がする。戸籍上は本当に奥さんだが、実態は違う。本当の奥さんになりたい、とも思うが、やはり陽人には言えなかった。
「先生、ゴールデンウイークはどうするんですか?」
夕飯を食べながら、訊いてみた。2人の会話は、主に夕飯前後に交わされることが多い。
「どうって?」
「何か予定とかないんですか?」
「う~ん。とりあえず、君のお父さんの四十九日くらいかな。水泳部は、この時期は体力作りだけだから、全休だし」
陽人は、水泳部の顧問になっていた。若いし、泳ぎもそれなりに達者だから、というのが理由だが、なにしろ4月末くらいではプールは使えないので、部活はもっぱら体力作りが中心になる。わざわざ休みに学校に来てまで走り込みしたい部員などいるわけもなく、満場一致でゴールデンウイークは休みということになったそうだ。
そして、四十九日の法要は、4月29日に行うことになっている。命日が3月12日なので、4月中にやらなければならないのだ。準備は、新学期で忙しい中、陽人が美芙由に相談しつつやってくれた。奈津美は嫁に出たかたちだから、やはり喪主、というか主催は、陽人ではなく美芙由にせざるを得ない。ただ、美芙由が体調を崩していることは親戚も知っているので、ごく小さく、明博の兄妹などだけ呼んで行うことになった。
美芙由は、28日の夜に退院してきて29日に法要、30日に病院に戻ることになる。
それで、5月3日からの5連休が浮くことになったわけだ。
「奈津美ちゃんは、どこか行きたいところはないの?」
それは、今の奈津美にとって、かなり困る質問だった。
明博が亡くなったことも、美芙由の体調が悪いことも、友達には話してある。
となると、そうそう出歩けるわけがなかった。正直にいえば、ちょっと服など見に行きたい。だが、1人で行くのは寂しいし、友達も色々予定が入っている。かといって、陽人に一緒に行こうとせがむのは、気が引ける。
「実はさ、こんなの貰ったんだよね」
陽人が見せたのは、隣県の水族館のチケットだった。
「貰い物で悪いんだけどね、ここだったら知り合いに会う心配もないだろうし、気分転換も兼ねて一緒に行かないか?」
「結構遠いですけど、いいんですか?」
「車なら日帰りできるし、奈津美ちゃんさえよければ、どう?」
2人が一緒に住んでいることは秘密だから、一緒に出歩くことは避けている。土日に2人で買い物、などということはせず、日々の食材は、奈津美が学校帰りに買って帰ってくるか、陽人が買ってきてくれるかのどちらかだ。美芙由のお見舞いに病院に行く時以外で、2人が一緒に出掛けたことはない。
きっと私に気を遣って誘ってくれているんだろう、と奈津美は思った。同級生にでも会ったらどうしようと思って、必要最小限しか外に出ないようにしていることに、陽人は気付いているだろう。
私が外に出ることを避けているのを知っていて、息が詰まるだろうと気を回してくれているんだ。わざわざ出掛ける先まで用意してくれるなんて。
申し訳なさと共に、一抹の寂しさが胸をよぎった。
恩人の娘だから、天涯孤独になりかけの可哀想な娘だから、そんなにも気を遣ってくれるんだ。
陽人は、その偉ぶらない態度と気さくな物言いで、クラスではそれなりに人気だった。女子生徒の人気はもちろんのこと、男子でも嫌っている者はいないのではないだろうか。元々奈津美の初恋は陽人だったし、一番苦しい時に支えてもらったことで、想いはいつの間にか再燃していた。
1か月間一緒に暮らしているうちに、それは恋といっていいくらいには育っている。“長谷川先生って、ちょっといいよね”などという声が聞こえるにつけ、わけのわからない焦燥感が胸を焦がした。
そんな折の誘いだった。かたちはどうであれ、これはデートだ。恋をする前に成り行きで結婚してしまったが、今、現実に私は先生に恋をしている。なら、これはチャンスだ。
「行きたいです、一緒に。連れて行ってください」
“一緒に行きたい”と言うことが、せめてもの意思表示だった。これでわかってほしい。私の気持ちに気付いてほしい。
口に出して望めば、きっと聞き入れてくれるだろう。今、先生には付き合ってる人はいないし、私が好きですと言えば、先生の本心がどうだろうと、応えてくれるだろう。先生は優しいから、私が傷付くようなことはしない。でも、それじゃ嫌。せめて同情からじゃなくて、私を求めてほしい。体だけでもいいから。
水族館では、自分でもどうかと思うくらいはしゃいだ。外だから、むしろ「先生」呼びはまずいと、今日だけは「陽人さん」と呼ばせてもらった。「陽人さん」「奈津美ちゃん」と呼び合い、手を繋いで歩き、並んでクレープを食べて、気分はすっかりデートだった。
はしゃぎすぎた奈津美は、夕方、車に戻る頃にはくたくただった。陽人さんはこれから運転しなきゃいけないのに、と思いつつもまぶたが重い。
「楽しんでくれてよかったよ」
「とっても楽しかったです。ちょっと疲れちゃいました」
陽人は、二、三度瞬きした後、にこりと笑って言った。
「どっかでご飯食べて帰ろう。着いたら起こすから、眠かったら遠慮なく寝てていいからね」
そんなわけにはいかない、陽人さんも疲れてるのに、と、しばらくは頑張って会話していたが、いつの間にか眠ってしまっていた。
そんな奈津美を見て、陽人は「信用されてるね、まったく…」と苦笑いした。
「着いたよ、奈津美ちゃん」
声を掛けられて、奈津美はうっすらと目を開けた。周りが真っ暗だ。何してたんだっけ、と思いながらぼうっとしていると、目の前に先生の顔があった。あ、先生とデートしたんだった。…あっ!
「ご、ごめんなさい、先生、私、寝ちゃって」
陽人は、にっこり笑い、
「寝てていいって、言ったでしょ。目が覚めたら入ろうか」
言われて外を見ると、レストランの駐車場だった。イタリアンだろうか。寝ている間に着いていたようだ。そういえば、着いたら起こすと言われていたっけ。
「大丈夫です、すぐ出られます」
慌てて答えると、陽人はくすりと笑った。
「うん、口元拭いてから出ようか」
言われて口元に触れてみると、よだれの跡があった。初デートで、ぐーすか寝こけた上に、よだれまで…。
「ごめんなさい、先生」
真っ赤になってティッシュで口元を拭いていると、陽人が笑った。
「そんなに慌てなくて大丈夫だよ。それより、今日は“先生”じゃないんじゃなかった?」
珍しく意地悪い笑みを浮かべた陽人にそう言われ、奈津美はまた真っ赤になった。
「ごめんなさい、陽人さん」
初めて2人で出掛けた記念だからと、奈津美にとってはこれまた初めてのコース料理を食べ、マンションに帰った時には、午後10時を回っていた。
「「ただいま」」
玄関に入って揃って出た言葉に、2人は顔を見合わせて笑った。この1か月で、ここが2人の自宅になっていたことに。特に、生まれ育った家が今も残っている奈津美にとって、陽人と住むこのマンションが自宅になっていたことは意外な発見だった。
リビングで向かい合ってコーヒーを飲み、今日1日の出来事を話していると、奈津美の目から涙がこぼれ落ちた。
「え…?」
「どうしたの、奈津美ちゃん」
奈津美自身が、理解できなかった。楽しかったあれこれを話していたはずなのに、どうして涙なんか…。
「私…また陽人さんと一緒に遊びに行きたい…」
言葉にした途端、涙が溢れた。気持ちも。
「ごめんなさい、私、言わないはずだったのに。陽人さんが好きです。ずっと一緒にいたいです。同情なんて嫌。陽人さんに好きって言われたい」
一度溢れ出した想いは、もう止められなかった。奈津美は、涙と一緒に、これまで言うまいとしてきた言葉をこぼし続けた。
「奈津美ちゃん」
いつの間にか、陽人が隣に座り、肩を抱いてくれていた。
「辛い思いをさせちゃったね。僕も、奈津美ちゃんにはずっと傍にいてほしい。家に帰った時、待ってくれてる人がいるのが、こんなに嬉しいものだなんて思わなかった。
ただ、僕が求めたら、君は拒めない立場だから、言えなかったんだ」
「陽人さん…」
奈津美は、涙でぐしょぐしょの顔で陽人を見上げた。その優しい目を。
「僕の奥さんになってほしい。戸籍の上だけじゃなく、本当の奥さんに。一生ずっと一緒にいてほしい」
「はい! …はい…嬉しい…好きです…」
そして、奈津美は、初めてのキスと、初めての痛みを迎え入れた。
「あのさ、男の車に乗った時に“疲れた”と“眠い”は禁句だよ。“ホテルに寄ってご休憩しよう”って意味だからね」