2 入籍
「長谷川先生!?」
思わず口を突いた奈津美の言葉に、男──陽人は驚いていた。
「え? 君、16歳なんだよね? どうして僕を?」
「あの、私、長谷川奈津美です。四ツ木戸小学校の、4年2組の」
「四ツ木戸小学校…あ、もしかして、よく教科書持って聞きに来てた…」
「はい、そうです」
「そうか…教生の時の…。あんまり綺麗になってるから、わからなかったよ」
綺麗だなんて、そんな。奈津美は真っ赤になってしまった。陽人は、化粧をしている奈津美を見ても気付かなかったと社交辞令的に言っただけなのだが、突然の再会に驚いている奈津美は気付かない。思いがけない再会に、奈津美は混乱していた。
陽人は、新学期からこの街の高校に赴任してくる予定だとかで、物件探しのため不動産屋に向かい、奈津美は、結局、どうして陽人が許嫁なのか、その理由を聞くことも、婚約の解消を言い出すことも、できないまま終わった。
そして、二月後。明博は死んだ。最期の数日は、苦しまないよう薬を使ったため、薬を使う前に別れの言葉を残すことになった。
「奈津美の花嫁姿を見られてよかった」
その一言は、奈津美にとって福音だった。せめてもの親孝行ができた。その後、明博が息を引き取るまで、奈津美の心は温かかった。既に死は逃れられないものとして、ゆっくりと覚悟はしてきたから。…そのはずだったのに。
やはり初めて身内を喪った悲しみは深かった。翌日、喪主である美芙由の隣に制服姿で悄然と佇む奈津美は、参列者の涙を誘った。
通夜振る舞いの後、葬儀場に泊まり込む2人に、陽人が手伝いを申し出た。
「男手もあった方がいいでしょう。お棺の方には僕が」
申し出をありがたく受け、線香番は奈津美と陽人が務めることにして、通夜や葬儀の手続で疲れていた美芙由には眠ってもらうことにした。
こうして、ようやく奈津美は陽人と2人で話す場を得たのだった。
「あの、ありがとうございます。おかげで、おか…母が休めます。…ここ二日くらい寝てないんです」
「君は?」
「え?」
「君は、ちゃんと寝てるの?」
「はい…。私じゃ、何の役にも立たないので」
奈津美は、自嘲気味に答えた。
美芙由は、最期の数日、明博の傍についていた。しかも、死んだ直後から、通夜や葬儀の打ち合わせや手続でバタバタしたため、夕べはほとんど寝ていない。奈津美は、父の傍には交代でいられたが、打ち合わせなどの事務面では全く手伝えないため、とにかく寝ておくようにという母の言いつけで、寝苦しいながらもそれなりに睡眠時間が取れていた。そういった点でも、奈津美は母に対して申し訳なさを感じていた。
「役に立たないなんてことはないよ。君がいるってだけで、お母さんは助かってるんだから」
「なんですか、それ」
「母は強しって言うだろう? 守るべき子供がいるってことは、心の支えになるんだよ」
陽人が慰めてくれていることはわかる。でも、と反発を覚えた奈津美に、陽人は続けた。
「まだ高校生の君が、お通夜の段取りとかできないのは、むしろ当たり前だよ。僕の父はね、僕が大学4年の時に死んだんだ。
僕はその時22だったのに、喪主だったのに、各種手続は全部周りがやってくれたよ。
とっくに成人してる男が、何もできなかったんだ。オロオロしてるばっかりで。
でも、まだ学生だからってことで、大目に見てもらえた。社会経験がなければ、そんなもんだよ。
君の立場なら、泣き崩れて何もできなくても許される。むしろ君は、気丈に振る舞ってるだけ立派だよ」
立派と言われて、涙があふれ出した。
奈津美は、母の手助けを何もできない自分が情けなかった。それを、立派だと言ってもらえるなど、考えてもいなかった。
あまり意識していなかったが、16歳の少女にとって、近いうちに父が死ぬという恐怖はかなり重いものだ。
どうしようもないことと諦めてはいたが、それでも平気なわけはない。
それにしても、と思う。先生は、どうしてここまでしてくれるんだろう。先生にとっては何の意味もない写真を撮るために、県外から来てくれるだけでもすごいことだ。たとえ、その後で用があったとしても。その上、わざわざお通夜の後で泊まり込んでくれるなんて。
「先生は、どうしてそんなに親切にしてくださるんですか?」
聞かずにはいられなかった。
「僕の母は、僕が小学生の時に死んでね。父1人子1人だった。それで父が死んで途方に暮れてる僕を、君のお父さんが色々助けてくれたんだ。すごく助かった。言葉では言い表せないくらい。
その時、僕も、今の君と同じように聞いたんだ。どうしてそこまでしてくれるんですかって。
答えは、“友人の家族を助けるのに、理由はいらないだろう”だった。
それでも気にしていたら、“だったら、俺に何かあったら、妻と娘を助けてやってくれないか”ってね。
憧れたよ。こんな大人になりたいって思った。
だから、本当にお父さんから連絡が来た時は嬉しかった。あ、ごめん、不謹慎だったね。
とにかく、君と君のお母さんのために、僕はなんでもしようと思ったんだ。まさか、許嫁になってくれなんて言われるとは思わなかったけどね」
陽人の言葉は、奈津美にも理解できるものだった。今世話になっている先生に、何をどうやって恩返しすればいいかわからないから。
「嫌じゃなかったんですか? 私みたいな子供と婚約しろなんて」
「嫌っていうか、面食らったけどね。まあ、お父さんが知らないだけで、君には恋人がいるかもしれないわけだし、それはさすがに無茶でしょうとは言ったけど」
陽人の言葉は、どこまでもまっすぐだ。
「正直、10歳も下の子とどうこうなる気はないけど、むしろその子の方が嫌がるのは目に見えていたからね。“お嬢さんが嫌だと言わないんでしたら”って答えた」
「先生は、彼女とかは…」
「さすがに、彼女がいたら断ってたよ。僕はまだ、一人前になるために頑張ってる最中でね。あまり、そういう方面にエネルギーは割けないんだよ。ってことにしておいて」
と言って、陽人は笑った。モテないわけじゃないってことにしておいてほしい、ということなのだろう。
先生はすごくモテそうですけど、とは、言わないでおいた。
その後も、不寝番をしながら色々話をした。陽人が、昔憧れた素敵な先生のままだったことが、奈津美は嬉しかった。
翌日、無事葬儀も終わり、手伝ってくれた陽人も交え3人で夕食を食べた。
美芙由も奈津美も心身共に疲れ切っており、食事を作るだけの元気が残っていなかったから、外食だったが。
固辞する陽人を是非にと誘ったのは、美芙由だった。美芙由と奈津美の2人だけでは、空気が重くなりすぎる。そう言われれば、陽人も断ることはできなかった。
そして、店を出たところで、美芙由が倒れた。頽れる美芙由を支えた陽人は、奈津美に持たせたスマホで救急車を呼び、一緒に乗り込んだ。
本来なら、奈津美だけを乗せるところなのだが、奈津美が陽人の上着の裾を掴んで離さなかったのだ。父を亡くしたばかりで母が倒れたという状況に、16歳の少女が耐えられるわけがなかった。そして、陽人は、奈津美を放ってはおけなかった。
診察を待つ間、陽人は廊下の長いすに腰掛け、小刻みに震える奈津美を抱き締め、励まし続けていた。
「どうしよう、お母さんまでいなくなったら、私、1人になっちゃう」
「大丈夫、大丈夫だから」
「でも…」
「大丈夫。お母さんを信じて。君をひとりぼっちになんかしないから」
「でも…」
結局、美芙由は過労とストレスによる心筋梗塞と診断された。
取り立てて命の危機ではないが、心を穏やかに保つ必要があり、当面は入院することになる。
入院費用は保険で賄えるし、奈津美の生活費も明博の保険金で足りる。だが、問題は心の方だった。奈津美を1人で住まわせることが、美芙由の心臓に負担を掛ける一因となってしまうのだ。
「私が、お母さんの重荷になってるんですね」
「そういう言い方をするものじゃないよ。お母さんが君を心配するのは、親として当然の気持ちなんだ。君が悪いわけじゃない。
どうだろう、僕に君を支えさせてくれないか。幸い、僕は来月からこっちの高校に赴任する予定だから、この辺りに住むことになる。君もお母さんに会いたければいつでも会えるよ」
「それって、本当に先生と結婚するってことですか?」
「そうだね。そうすれば、お母さんの心配は相当軽減されると思う。
十も上のおじさんで悪いけど、君を支えさせてほしい」
「そこまでご迷惑お掛けするわけにはいきませんから…」
「迷惑なんかじゃないよ。僕が君を支えたいんだ。正直言って、君を女性として見ているわけじゃない。けど、君を支えたいという思いはお父さんへの義理とかじゃない」
女として見ていないと言いつつも、これは一応のプロポーズだった。
奈津美はしばらく目を閉じて考え、そして答えを口にした。
「よろしくお願いします」
気持ちとしては複雑だったが、美芙由が倒れた時のことを思い出すと、1人になるのは怖かった。
夜が明けると、陽人が市役所からもらってきた婚姻届に2人で署名した。その後、陽人は美芙由のところに行って事情を説明し、署名をもらってきた。
「他人である僕が奈津美さんを支えていくには、一緒にいる理由が必要です。ですから、籍を入れさせてください。それで彼女は成人擬制しますし、僕も彼女を守ります。
もちろん、彼女がその気にならない限り、一切手を出さないと誓います」
こうして、3月14日、2人は入籍した。
成人擬制
民法では、未成年は契約等の法的行為を行うには、法定代理人(親)の同意を必要とする。
ただし、結婚すると、未成年であっても成人に達したものとみなされる。これは、所帯を持ったのにいちいち親の同意が必要というのは不合理との理由から。
陽人は、奈津美が自分と結婚することによって、美芙由が死んでも新たな法定代理人を必要としないように、ということで、このように申し出ている。
一旦成人擬制すると、離婚しても成人のままなので、今後どうなるとしても、奈津美に不利益はもたらさない。
なお、改正民法では、男女とも18歳以上でないと結婚できず、18歳で成人なので、成人擬制という制度は消滅するはず。