1 許嫁
遥彼方さま主宰「ほころび、解ける春」企画参加作品です。
2021.7.3 ちはやれいめい様よりいただいたPVのGIF版を設置しました。
「いってらっしゃい」
マンションの玄関で、制服姿の少女がスーツの男を見送っている。
兄妹というには似ておらず、年も離れている。そして何より、2人の間には甘い空気が漂っていた。まるで新婚夫婦か恋人同士のように。
「じゃあ、戸締まりしっかりな。あと、車に気をつけて」
「もう、毎朝おんなじこと言って。私、子供じゃないんだからね」
「子供だなんて思ってないよ。でも、心配なんだ」
「それは担任として? それとも旦那様として?」
「もちろん、夫としてだよ、可愛い奥さん。じゃあ、先に行ってる」
「ん」
少女が目を閉じると、男は軽くキスをして、出掛けていった。
そう、2人は新婚夫婦だ。それも、高校生と担任教師という関係の。
話は10か月前、彼女が高校1年生の12月に遡る。
「ちょっとお母さん、結婚ってどういうこと!?」
「ごめんね奈津美、お父さんが生きてるうちにあんたの花嫁姿どうしても見たいって言うの」
奈津美の父明博は、末期の膵臓ガンで、ホスピスに入院していた。まだ42歳と若かったことが災いして、職場の健康診断でガンが発見された時には、もう手遅れだったのだ。
保険を手厚いガン特約のついたものに切り換えたばかりで、金銭的に困窮する心配がないことが不幸中の幸いだった。
奈津美だって普通の16歳の少女程度には父親に対する愛情もあるし、父の命があとわずかともなれば、願いを叶えてやりたいと思わないでもない。だが、さすがに突然結婚しろと言われたことには、反発せずにいられなかった。
「私、まだ16だよ! だいいち相手だっていないし!」
「相手は、いるのよ。許嫁が」
「なによ、それ! 私、聞いてない!」
16歳で、突然結婚話が浮上したことも相当な驚きだったが、それ以上に、以前から自分のあずかり知らぬところで結婚相手が用意されていたことには、驚きを通り越して怒りすら覚えた。
奈津美は、まだ恋をしたことがない。10歳の頃、教育実習にきた長谷川先生に淡い憧れを抱いた程度だ。
大人でかっこよくて優しい長谷川先生は、少しませたところのあった奈津美には、クラスの男子とも、担任の先生とも、まったく違って見えた。
先生の名字が長谷川で、自分と同じだったことも、親近感を覚える一因となったのだろう。「長谷川奈津美」と自分の名前をつぶやくだけで、なんだか長谷川先生のお嫁さんになれたような気がしたものだ。
憧れの先生としゃべる理由が欲しかった奈津美は、わからないところがある、と言って、授業の後で質問しに行った。長谷川先生の方でも、慕ってくる生徒の存在が嬉しかったのか、優しく対応してくれた。単純な理由ではあるが、これ以後、奈津美は予習復習を欠かさなくなり、中学に上がる頃には優等生と目されるようになっていった。
授業の終わりや放課後に長谷川先生と話す時間は、何にも代え難い幸せな時間だったのだ。
だが、そんな幸せな時間は、たった2週間で終わりを告げた。
当然と言えば当然だが、教育実習期間の終わりと共に、長谷川先生が学校からいなくなってしまったからだ。彼が本当はまだ先生ではなく、他県にある大学の学生に過ぎないことを、奈津美はその時初めて知った。いずれ本当に先生になったらまた会えるかもしれないとは言われたものの、10歳の奈津美にとって、それは永遠の別れとなんら変わらなかった。
淡い初恋は、恋とはっきり認識されることもないまま潰え、あんな素敵な先生になりたいという憧れとして胸に残った。奈津美は、大学の教育学部を目指すようになり、公立で一番の進学校に進んで今に至る。
父が倒れたことで、迷いはしたが、地元の国立大学なら、保険金と奨学金でなんとかなりそうだった。
そんなわけで、特に恋人がいるわけでもなかったが、寝耳に水の結婚話には反発を覚えた。まあ、当然ではある。
奈津美は、母の美芙由に噛みついた。
「だいたい、うちみたいな中流家庭で、なんで許嫁なんてもんがいるのよ。お父さんだって次男だし、継ぐものなんかないでしょ。私、婿養子取るなんて話、聞いてないよ」
怒りながらも理性的なのは、奈津美の長所だ。
「婿養子を取るわけじゃないの。言ったでしょ、お父さん、奈津美の花嫁姿が見たいのよ。式は挙げなくていいから、新郎新婦が並ぶところを見せてあげてちょうだい」
「なんだ、本当に結婚するわけじゃないのね? あー、びっくりした」
「いいえ。この際だから、本当に結婚してほしいの。お父さんがいなくなる前に、奈津美には結婚して生活基盤を作ってほしいのよ」
生活基盤と聞いて、奈津美は顔色を変えた。やっぱり大学に行くのは難しいんだ、と。しかし、美芙由は続けた。
「お金のことなら、たぶん大丈夫。でも、この先何が起こるかわからないし、お母さんだって、いつどうなるかわからないでしょ。もしお母さんが事故か何かで死んだら、奈津美はひとりぼっちよ。だから、いまのうちに家族を作ってほしいのよ」
「そんな、なんでお母さんまで死ぬとか言うわけ!?」
「だって、お父さんがガンになるなんて、誰も思ってなかったでしょ。人間なんてそんなもんなの。だから、ね。せめて会うだけ会ってちょうだい。それで、どうしても気に入らないなら、写真撮るだけでいいから」
そうまで言われてしまえば、奈津美も断れなかった。
「相手はどんな人なの?」
「お父さんの親友の息子さんで、公務員よ。26歳」
10歳も違うじゃない! 奈津美は、喉まで出かかった言葉をなんとか押し止めた。会うだけだから。お父さんのために、写真くらいは我慢しよう。そんな思いだった。
そして、写真撮影の日がやってきた。
この日のために、ホスピスから、奈津美と相手の着替え用にそれぞれ一部屋、記念撮影のために小会議室を借りている。着付けと写真撮影のためのスタッフも呼んで、なかなかに大がかりなものとなった。
美容院で髪をセットしてもらった奈津美は、借りた部屋でレンタルのウエディングドレスを着付けてもらい、その間に、美芙由が相手の男を駅に迎えに行っていた。結婚する気などさらさらない奈津美は、美芙由が釣書を見せようとするたびに逃げ回り、未だに相手の男の名前も顔も知らない。
着付けを終え、会議室で待つ父のところに行くと、廊下に母と、タキシードを着た男が立っていた。どうやらこれが相手かと、「ご迷惑をお掛けします。今日はよろしくお願いします」と声を掛けると、「ええ、お気になさらず」と素っ気ない返事が返ってきた。やはり向こうも10歳も下の子供には興味がないのだろうと、少しほっとした。
父の目の前で並んで写真を撮った後、ベッドで上半身を起こした父を囲んで4人で写真を撮って、奈津美の苦行は終わった。
どこから来たのかは知らないが、この後、奈津美が着替え終わる頃には帰っているだろうと思い、奈津美は改めて男に礼を言った。たとえ自分が不本意でも、父のわがままに振り回された男こそいい迷惑だっただろう、そう思えるくらいには奈津美は大人だった。
「今日は、本当にご面倒をお掛けしました」
ドレス姿のまま頭を下げた後、奈津美は初めて男の顔をまともに見た。どこかで見たような顔を。
どこで見たんだろう。記憶をたぐり、思い出したその名は。
「長谷川先生!?」