宿痾
白濁した意識が一際大きなうねりに飲まれるのと覚醒するのは殆ど同時だった。
生きているだとか死んでいるだとか、一切がどうでもいいと吐き捨てられるぐらいの燃え上がるような熱が全身を舐めていく。
そんな苦しみが無限に続くように思え、自失と覚醒を繰り返し続け、気付けば自分が在ることに気付いた。
背中には固い感触があり、確かな感覚がある。
同時に全身を襲っていた痛みも苦痛も消え去っていたが、これ以上ないほどの倦怠感が体には未だ在住している。
消耗しきった体は動かすこともできず、瞼を持ち上げるだけで虚脱しそうなほどだ。それでも、瞼の奥に見える光は、活力を与えてくれるような気がするのだ。
爽やかな風が吹いたように感じ、意を決し瞼を持ち上げたその先は森のようだった。
体を起こす余力もないため、辺り全てとはいかないが、見ればどうにも樹洞の中にいるらしい。半端にもたれ掛かった状態の高校生がまるっと入るほどの樹洞だ、大樹といって差し支えない程立派な木に違いなかった。入り口からは燦々と暖かな陽光が入り込んでくる。
動けず、辺りを見回すしか出来ないなんて、まるであの時みたいだ。ここは何処なんだろう。僕は生きているのか? それともここは死後の世界なんだろうか。思考が広がろうとすればするほど、疲労がそれを隅へと追いやっていく。
ここがなんであれ、これはどういうことなのかという疑問さえも氷解するほど、陽光は優しく感じられ、その見守ってくれるような光にいつしか僕は寝入っていた。
目を覚ませば、辺りは真っ暗だった。寒くはないものの、不安から身を縮こめる。長いこと眠ったからか、体は軽く感じられた。
樹洞の中は暗く、気を付けながらゆっくりと身を起こす。星明かりがあるのか、うっすらと外は明るい。飢餓感が訴えるが、食べるものなどない。
いや、待てよ。確かポケットに、とブレザーを漁ると飴玉が一個見つかった。何もないよりはいいと口に放り込む。包装は無造作にポケットに入れ、樹洞から顔を出した。
少なくとも、森の中であるらしかった。ただ、そこにある植物はよく見ればどことなく記憶と若干ながら差異があるように感じられる。
動物も誰かが居るという気配らしきものもない。
森はやけに静かだ。
樹洞に入り込んだ夜風がほんのりと頬を撫でる。ゆっくりと息を吸い、静かに吐いた。
「生きてるのか、僕は」
喉はいがらっぽく、咳き込みそうになる。
なんであれ、僕は生きていた。少なくともここは病院ではないし、殴られた場所は痛くない。死んだ、とは思いたくないけれど、何もかもがあやふやで確証もない。もしかしたら、これ自体が走馬灯のようなものかも知れない。とは穿ち過ぎか。
よろける体を慎重に動かし、樹洞から出るとぐっと伸びをした。身体中が硬く感じられ、堪らなかったのだ。
「でもこれは、どうしたものだろう」
星空は自分の知るものよりも遥かに澄んでいて、遠くまで見渡せそうなほどだ。その癖にどこか違うようにも感じる。ここはお前の知っている場所ではないぞと訴えているようで、空気にまで違和を感じてしまう。
此処が何処であれだ。近くに人里か何か、せめて食べれそうなものを見つけないと遠からず、僕は死ぬだろう。
サバイバル経験なんて無い。何が居るかも分からないのだから、そう遅くないうちに死ぬような窮地に陥っても驚くようなことじゃない。
ここが死後なら。と妄念が頭を掠める。
ここが死後なら、再度の死は輪廻の軛から外れるとかそんなところだろうか。
輪廻なんてものがあるかは知らないけれど、それを不用意に試すことは出来ない。
出来るはずもない。賭けるにはあまりに損が大きすぎる。損得勘定ではないのだから良し悪しと言うべきか。良いも悪いも死ぬまで分からないし、当人にしか認知できないとは思っていたが、僕はどうだったのか。
なんであれ、僕は今此処にいて、生きている。生きている様なのだから当座は食いつなぐことを考えるべきだろう。
もしかしたら、そこまで真剣に捉える必要さえないのかもしれない。
やたらリアルな夢であるかも知れない。
そのうち、眼が覚めるのかもしれない。
目が覚めてしまえば、ちっとも覚えてないただの夢。
仮に夢であるならばんあの男に殴られ飛んだ意識からだろうか。
それとも、もっと昔で一人壁越しに母の死体を感じたあの瞬間からか。もっと大したことなくて学校での居眠りかも知れないぞ。もっとずっと昔で、父が生きていた頃の、赤子の僕の夢であるかもしれない。
母が狂わない世界なら幾らか幸せだっただろうか。
そもそも、こんな夢を見る赤子ならそれはきっと生まれながらにして不幸かもしれない。それこそ当人だけが判断すべきなのだろうけど。きっとそれは苦痛だろう。
いつの間にか妄想のような思考が渦巻いているのに気付く。夢を見るのはどうしようもないことだから嫌いだと考えるくせに、都合良く捉えようとしているのは自分ごとながら酷く滑稽に思えた。
「……気が滅入るだけだしな。考えるのは止めよう」
かぶりを振った僕は、食べるものを、人の痕跡を探して当て所なく歩き出した。