来訪4
その段ボールには本が詰め込まれていた。中でも一回り大きいそれを手に取る。
それはアルバムだった。
古ぼけ、何度も開いたらしく付け根から取れそうなほど痛んでいる。僕は、母がそれを時折眺めていたのをよく覚えている。
僕が近づけば曖昧に笑いながら母はそれを仕舞うのだった。
思えば、僕は父のことを知らずにいた。どうにも僕が物心つく前に亡くなったらしく、記憶の片隅にある朧げな輪郭こそが父の全てだった。その片鱗を見てしまうことで幼心に重荷だと考えたのか。そうであるなら宗教に傾倒する前の母の優しさに他ならないのだろう。
それとも単純に存在を隠したいだけの理由があったのか。
アルバムには家族写真らしきものが多く収められ、僕を抱きしめる母と父らしき男の姿があった。幸せな家族、そう呼ぶに相応しい写真の数々に映る自分の姿に戸惑う。
こんなに笑顔を振りまく母を僕は終ぞ見なかったんじゃないか。僕を一人育てていたあの人は、写真に写るこれを母とするなら、母と呼べるような人ではなかったのだろう。
冷たくもない。かといって優しさだの温もりだの、そういった血が通い心ある人間なら大凡抱くであろうものを、僕は感じなかった。いや、僕こそが欠けていたのか。
どうしても写真に写る人影を、自分の家族を、まるで借り物のように感じられるのだ。
それでも、と思う。
父らしき人を自然と目で追いかけているのは何処かで父というものに焦がれていたからだろう。だが、見て行くにつれぱたりと父らしい男の姿は消え、程なくして写真の収まってない頁が続くばかりとなった。
何があったのか分からないが、恐らく父の死によるものだろうことは察することができた。健康な姿からは病気だったとはどうしても思い辛く、事故だったのかもしれない。いや、まだどこかで生きていて、僕とは掠りもしない生活を送っているのかもしれないが。会うことがないのならどちらも同じことだ。
母は何故自殺したのか、それを知り自分の心と向き合い、どうあれ一つの決着をと考えていた。
だが遺品を見ていけば父について知ることが出来るのだ。そんな漠然とした思いが湧き上がり、手が少しだけ速くなる。
求めていたのだろうか、父性を。父として共にいてくれる存在を。
そんな心の機微を理性が同時に押し込め言うのだ。くだらないよ、煩わしいことだよと。
漠然と何かを求めるように手が動くのを他人事のように見ていた。
が、何かが心に引っかかる。
大した話ではない、ように思う。それなのに脳の片隅をぴりぴりと焦がすのだ。
戻そうとしたアルバムを再び開き、順繰りに写真を見ていけば、その疑問に直ぐに辿り着いた。
赤子を抱く母の胸元。赤い宝石のついたペンダント。アルバムの写真に居る母は常にそれを身につけて居る。だけど、僕の知る母がそういった装飾品を付けているのを見たことがない。
それが違和感だったのだろう。いくら貶めても、母は質実に生きていた。それは事実だ。
それは何となく、知らない父と母の知らない一面を垣間見たような気持ちにさせる。
それもそうだ。人の全てを知った気になるなんて傲慢に違いない。生きていれば沢山のことを学び知り、もしくは失うのだ。それが人生だのと大仰にいうのだろう。
なんであれ、知った気になるのが人間だろうし、見知っただけで分かった気になりイメージと掛け違いがあれば違和感を覚えたりする。
知らなかった母の一面に僕は何故だか歯噛みした。
身に付けていないのは、父からの貰い物だからだろうか? 目にすれば、思い出してしまうから。だとしたら、一人でアルバムを見たりするとは思えない。それだけ大切にしていたのか。
何か分かるとしたら欠かさずつけていた日記だろうか。
随分と時間が経った気がしてアルバムを戻し、時間を確認すると中に入ってまだ三十分と経っていない。叔母が来るのはもう少し後だ。それまでに進展がなければ訊ねるのがいいだろう。叔母はきっと僕から動くことを望んでいるのだろう。
アルバムの入った段ボールを脇に避け、他の段ボールへと手を付けていく。
父と付き合っていた時の文通や小物が入った段ボールなどばかりで、殆ど見るものがなく作業のように手を動かしていると、母が趣味にしていた裁縫道具や布がまとめて入った段ボールの底の方に何か、箱のようなものがあるのに気付いた。
小ぶりな片手に収まる赤金色の箱で、表面は布か何かが貼ってあるようだった。
開けてみると母の付けていたペンダントが真ん中にちょこんと乗っていた。写真の中の母がよく身につけていたそれは丁寧に保管されており、金属製の鎖部分に錆や剥げは見えない。大ぶりな赤い宝石が本物なのか、カラットもよく分からないがその放つ輝きは暗がりにあっても美しく存在感を滲ませることだろう。
それを手に取ろうとしたところで後ろから足音がした。
遅かったね。そう言おうとして背中に強い衝撃を覚え、前のめりに僕は突っ伏した。背中に走る鈍い痛み。擦った顔と手が痛い。動揺とショックにちかちかする視界にくらりとしながらも振り返る。
「やあ、久しぶりだね」
男が居た。
誰だ。誰何の声を上げる前に自分の記憶が訴える。
丸い淵の向こう、こちらを見ていた虚ろな目。
この軽薄な声はあいつではなかったか。
だとして、だとしたら何故ここに。
なんでお前が居るんだ。
結びつくように弾ける思考に慟哭のようなものが胸中を満たし、息苦しさに胸を抑える。
「やだなあ、忘れちゃいましたかねえ。や、いいんですけどね」
や、その様子からして覚えているのかな。口角を上げながら男は僕を見る。
男は飄々とした風で、口元にはニヤつきが張り付いている。どこかバランスの欠けた男だ。嫌に冷たい目で見下しながら男は聞いてもいないのに語り出す。それが楽しみだったとでも言いたげに。
「やっとですよ。分かるかな、長い本当に長い仕事でしたよ。別に襲っちまえばいいと思うんですけどねえ、上は長期的に見ろタイミングを待てなんて言いやがる。現場を知らないんですよねえうちの上司。ボクが一人でここに来る、そんな僅かな可能性に普通賭けないでしょ、馬鹿ですよねえ。ま、結果として言えば勝ちなんですがね」
何を言っているのか。
怖いと思った。分からないことが怖いのか、振り翳すその暴力が怖いのか。判然としない。
立ち上がろうとした僕の肩に男は思い切り靴先を捻りこむ。鈍い音が体を貫いた。
普通の靴では考えられないほどの硬さに、安全靴か何かなのだと冷静な心が呟くが痛みの前にはすぐに掻き消えた。
「あんたっ、なんなんだよ!」
「ぜいぜい言いながら言われても聞こえにくいですねえ。もっと大きな声出せないんですかね今の子は」
肩を竦め大仰な仕草をすると腰から棒を外し、それを見せつけるように伸ばして行く。
「そんなジロジロと見てどうしたんです? ああ、警棒見たことありませんか。普通に生きてりゃそんなもんですかね」
まあ護身用にも大仰ですかねえ、と男は肩を竦めて戯けてみせる。
睨みつける僕に嫌な笑みを向けながら男はぶらぶらと警棒を構えてみせる。嘲っているのだ。逃げ場はこの男の後ろにしかない。泣きそうになる心にぐっと叱咤する。目的が分かれば或いはと。
或いは、なんだというんだ? ここにある何かを望んでなら、それはもう覆せはしないだろうに。痛みに胃が萎縮する。差し向かう暴力に心が強張るのに何も変わりはしないのに。
「長い仕事の終わりですし、良いこと教えてあげましょうかね。遠目で見てても何処か抑圧された風なのは痛々しかったですねえ創汰ちゃん。あんたの母親は何か知らなくていいことを知った、なんて言うとお話みたいで面白いですねえ。まあ事実そうらしいですよ? ついでに何か持ち去ったらしいんですよねえ。盗んでもどうにもならないと思うんですけど」
男が何かを思い出しながら語るその隙に僕は飛び掛かろうと、もしくは突き飛ばそうと足を動かした瞬間、まるで鞭のように僕の胸を警棒が突いていた。
嫌な音がした。気のせいかも。まるで焼きごてでも当てられたように鈍痛が広がり、えづくように咳が出る。上手く息が出来ない。そんな僕の肩に衝撃が走り、骨の折れた様な鈍い音が体中を駆け巡るように響く。
話は最後まで聞くもんでしょう、そんな声が聞こえた気がする。痛みに狼狽え嗚咽を漏らす僕を足蹴にする。気付けば仰向けになった僕は何かが光っているのを見た。鈍い光。悍ましげに鋭く光るそれが振り下ろされる段階になってそれが致命的なものであることに気づき、ああ駄目だ嫌だこんなの、何一つ正しくありもしない世界でこんなのは余りにも悲惨で汚穢の中這いずる鼠のほうが幾らか上等で僕はなんて惨めなんだろう。
助けてよ。
ひゅっと切るような音は僕の息だったのか、それとも。
まるで世界が色を失うような錯覚の中伸ばした手は母のペンダントを握りしめていた。
全く駄目な子供だったな、叔母さんごめんと過ぎる言葉はどこか空虚で透明だった。