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プロローグ2

 類まれな幸運だったと聞いたのは確か退院した日のことだった。


「心身の疲弊が著しいですが、取り敢えずは大丈夫でしょう。密閉された空間で長い事食事もなく横たわっていたそうですし、精神的なダメージは計り知れません、発作がなくて本当によかった」


 僕は喘息持ちで、まだあの頃は発作が時折あったのだ。あの状況下で発作が無かっただけ確かについていたのだろう。

 僕を一時的に引き取ることとなったらしい親戚とお医者様の会話は子供の僕には難しいもので、殆どが頭に入らなかった。自失気味であったから興味を持てなかったのかもしれないが。


 親戚一同で集まる時によくここに会するのだと、自慢げに大きな平家を披露されて、

「お前も来た事あるんだぞ。といっても赤子の時分だったが」と頭をぼりぼり掻きながら言うその人は父方の兄だったか。

 昔ながらの日本家屋といったその大きな家は近所でも有名な名家と後で知ったが、当時の僕にはやけに大きな家屋は威圧的で、なんとはなしに怖く思えた。


 そこでの日々は特に記憶に残っていない。叔父ら家族が壊れ物に接するようにどこかぎこちなく優しかったことだけは薄っすらと残っている程度だ。細波一つ立たない何日かが過ぎ、親戚一同が家に集まった。


 親戚の大人達は皆、僕の顔を見るとどこか、くしゃくしゃっと泣きそうな、何かをこらえた顔をした。


「よく頑張ったなぁ」


 親戚の誰かに頭をぐしゃぐしゃと撫でられ、僕はきょとんとしていた。

 僕は何も頑張ってなどいなかったよと口にするのに、何故か並々ならぬ勇気が必要で、「頑張った」という言葉が胸に渦巻くのをただ受け入れることしか出来なかった。


 夕飯まで親戚の子達と遊ぶことになったが、あまり覚えていない。何か、忘れたいようなことがあったのか、覚えるほどのことがなかったのか。記憶は曖昧な輪郭しか残していない。

 夕飯まで一緒に過ごし、子供達は早々と寝かしつけられることとなった。と言っても、20時を回るほどで幼稚園に通うような子も居たから決して早いものではなかったと思う。高校生の女の子だけが文句を言っていたのは年を思えば仕方のないことだった。


「なあ小僧を一時的にしても誰が引き取る?」


 そう言ったのは親戚一同の誰だったのだろう。すっかり子供らが寝入った時間、用を足しに起きた僕は明かりの漏れた部屋の前で立ち止まっていた。

 なんとなく、怖く思えた。それは家に抱いた怖いという感情からか、なんとなく察せられる勝手に決められてしまう自分のことだからか。


「嫌だという奴は居ないと思うが、責任を持ってしっかりしてやらなきゃ駄目だろう」

「私らが楽だからって親戚間でたらい回しにするのはあんまりだものねえ」

「妹の子供が妹の所為でああなっちまんだ。俺が引き取ってやりたいが独り身だからなぁ。必要な時に一緒に居てやれるかと言われると……」

「子供らは皆んな一人立ちしたから、うちは構わないよ」

「いや、あんたのとこは代議士だろう。幾ら子供とはいえ、いや子供だからこそ世間様は親の失態を子供の責任みたいに白い目で見るんじゃないかね」

「おい、口が過ぎるぞ」

「そうよ、子供らに聞こえたらどうするの」

「全員、寝てんだろう?」

「まあまあ。いいじゃねえか、事実は事実だ。俺は兄として情けねえよ、妹が問題抱えてるのに気付けなかったんだぞ? もっと、死ぬ前に何か出来たと思うんだ……せめて頼ってくれればなぁ」

「まったく、何を言うかと思えば。そんなの俺達皆そうだろうよ」


 その後も細々と聞こえる親戚達の声は何か異国の言葉のような感慨があった。

 幾つも交わされるそれらは僕の体を次々にすり抜けていく。


 母のしたこと。


 それが具体的になんであったのか、僕は知らなかった。ただ、それは世間から白い目で見られるようなことで、拒絶されるような何かであると思ったら、心が空っぽになるような、思わず息が詰まるような気持ちが胸中を満たしていく。それが悲哀のようなものを帯びているのに気付くのは声も出さずに泣いていたことに気づいてからだった。

 その後どうしたかは全く覚えていない。気付けば朝で、僕はいつの間にか居た布団の中、身じろぎした。


 話し合いのもと、父方の叔母に引き取られることになったらしい。

 叔母のことは詳しく知らないが、いつも優しげな雰囲気を纏う人だった。


 僕の与えられた部屋には他界した叔父の書斎に入りきらなかった本が壁の一面を陣取っていた。難しく古めかしい本が殆どで、到底読めるものではなかったがそれをぱらぱらとめくるのが半ば僕の日課となっていた。

 本に訳もなく触れるようになったのは、色々な手続きに追われる叔母の邪魔をしたくなかったのが一番の理由だったのだろう。

 それを抜きにしても外で遊ぶには叔母の家は元々住んでいたマンションから遠く離れており、土地勘が全くなかったのだ。小学低学年だった僕にはあまりにも知らない世界だったこともあり、読めない読書へと傾倒することになるのは遅くなかったことだろう。


 忙しく電話を掛けたり、出かける叔母に申し訳なく感じているのが表情に出ていたのだと思う。叔母はにこりとしながら口にするのだ。


「何にも不安に思うことはないからね。あまり遊べるもの、なくてごめんね」


 叔母の態度や行動の端々から感じてはいた。大切に思ってくれているのだと、それだけで茫洋とした僕の心は救われていた。


 叔母が市役所に出掛けている時のことだった。

 チャイムの音が家に響いた。

 コンコンと玄関から叩くような音がする。

 分からないながらも文字を飛ばし飛ばし追いかけていた僕は、びくりとして本を閉じそろそろと部屋を出た。


 そのチャイムに出ようとは思わなかった。叔母への要件を告げられても、難しい話だろうから分からないし、勝手に家にあげるわけにもいかないのだから、と考えてのことだ。

 ただ、家に閉じこもり娯楽に限界を感じていたのも事実であり、予期せぬ来訪者は一体なの誰だろうという好奇心を大きいものだった。


「すみませーん、栗本さん。いらっしゃいませんかー」 


 チャイムのあと、そんな男の声が聞こえた。何処か軽薄そうな、白々しい雰囲気がその声にはあった。一層増した好奇心が玄関の扉に近付くよう訴えかける。


 男はチャイムを鳴らして少し経ってなおまだ外に居るようで、嵌め込まれた玄関の曇りガラスには男の姿が透けて見える。全身が黒く、風体からスーツだろうか。

 音を立てないようにそろそろと僕は、玄関の覗き穴に慎重に近づいていく。小柄な体格もあって、気付かれていない自信があった。


 チャイムの音。先ほどよりも強いドンドンという音に、思わず身が竦む。


「栗本さーん、今よろしいですかー」


 執拗な訪問客に警戒心を強く抱くほど当時の僕は賢くなかったし、保護されてから何処か浮ついたような、ここに生きていない、根ざしていないような、ふわふわとした感情を抱いていた。


 床から背伸びするように扉に手を付けた僕は、覗き窓に顔を近づける。ゆっくり目を当てがい、誰が向こう側に居るのか確認するのだ。


「なんだ、いるじゃないの」


 向こう側には大きな目があった。感情を感じさせない、どこか無機質な興味もないような、軽視するような視線。

 こちらをじっと見るその目に僕は鋭く悲鳴を上げて三和土に落ちそうになり、慌ててたたらを踏むように足を動かし尻餅をついた。痛いとか感じる余裕は僅かにも無かった。


「……栗本さん独り身だったっけか」


 男が外で呟くのをうっすらとしたものだったが、肌が泡立つような嫌な気配が滲んでいた。


「ああ、なるほどね。そうかそうか、ここに居たの。僕は君のお母さんの友達なんだ。開けてくれないかなぁ」


 その声が、あの目が何か危害を加えるようなものに感じられた僕は、自分の部屋に駆け込んでいた。その後も暫くチャイムの音と叩くような音がしたが、気付いた時には静かになっていた。


 なんでそこまで怯えたのか自分でも訳が分からない程で、怯える僕を見た叔母まで動転する程だった。宥められ落ち着いたところで、何があったか話すと叔母は苦々しげに顔を顰めた。


「出来ればもっと大人になってからと思ったんだけど、話しておかないと駄目かもしれないね」


 そう言って叔母は掻い摘んで話してくれたのだ。母が宗教に傾倒していたこと。そして、入信していた宗教は余り、世間様からして良いものではなかったこと。その関係で母が何か酷く悩んでおり、何度も叔母に電話をしていたこと。毎日のように掛かってきた母からの電話がある日ぱたりと無くなり不安になって家を訪ね、結果として僕を助けることが出来たこと。


「もしも誰か訪ねることがあっても私が居ない時には出なくていいからね」


 叔母は優しく頭を撫でると、大丈夫だよと抱きしめてくれた。僕は溢れそうになった何かにくしゃりと顔を崩した。


 叔母は来訪者を母の宗教に関係する人間と考えていたようで、随分と警戒したようだったが叔母の不安とは裏腹にそれ以降訪ねてくることはなかった。

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