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プロローグ

 空気がやけに纏わりつき重く感じられて、自分がいつの間にか寝ていたことに気が付いた。

 滞留した空気は淀んでおり身じろぎすることさえも不快だ。

 一体どれほどの時間が経ったのだろう。曖昧となった時間の感覚と同じように体の感覚も、感情もどこかフィルター越しのような感覚を受ける。


 意識すれば瞼の向こう側はほんのりと明るい。昼間なのだろうか。じわりと滲む肌には臭気が滲む。

 僕の汗、つんとするような吐瀉物の匂い、半ば腐りかけでさえある有機物の発する匂い。ないまぜになったその匂いに思わず息が詰まる。意識しなければよかった、と後悔がよぎるが気持ちの問題で既に鼻は仕事をしていない。もう慣れてしまった。


 目を開ける。たったそれだけの所作に酷く疲れを感じつつも自分の胸を見やる。腐りかけの吐瀉物が体に幾らか掛かっており、蛆か何かが沸いていた。服の上で蠢くそれがなんとも言えずくすぐったい。

 うっすらと光が差し込むこの部屋は昼間でも薄暗い。窓には目張りがされており、隙間には養生テープやガムテープが節操なく貼られている。それでもどこかに隙間はあるのだろう。埃と共に舞う羽虫の羽音が妙に響く。そのような部屋の為、夜になれば見通すのも困難な程に夜の帳はおりてくる。


 そんな部屋でただ一人、僕だけがそこに居るのだ。動くものは僕と虫のみで、胸をただ上下させるだけの僕よりも余程虫の方が生きている。


 なんでこうなったんだろう。そんな堂々巡りの考えはもう捨てていた。そんな気力もない。ずっと横になっている為に、酷く床に触れる腕や腰が痛む。身じろぎしたいが体はその意思を拒絶する。


 視界だけが僕の自由にできる世界だった。乾いたような眼球を回して学習机を見る。椅子の背もたれにはランドセルが掛かっており、その中身の大部分は潔癖なまでに整然と本棚にしまってある。


 片付けなさい、と母は怒るような人ではなかった。ちらかっていればただ僕を見やるのだ。昔は窘め一緒に片付けをしてくれたものだ。小学校に上がって少ししてからだろうか、何も言わず奇妙な、どうしてかそこにいる胡乱な客を見るように見つめるばかりになったのは。その目が酷く怖かったのを僕は良く覚えている。


 一方で机の下には筆箱と中から飛び出た鉛筆や消しゴム、国語の教科書とノートが転がっている。半ば吐瀉物に浸ったノートはもう使えないだろうなと思う。国語の教科書に至っては吐瀉物は触れていないものの、僕の尿が殆どを駄目にしている。

 仕方がなかったのだと言い訳がましく思考がよぎる。こんなに吐けるのかと身体中のものを出し切った僕の体は排泄を堪えるという殊勝さを持っていなかったのだ。


 立ちくらみのように視界がぐらつく。虚脱感や疲労が波のように体に打ち寄せる。堪らず目をぎゅっと瞑る。体の不調は食べることも飲むこともしていないことから来るのだろうな、そう言えば日の光をまともに見たのはいつだったろうか。

 夜も朝も、ただ衰弱して寝るばかりになってから時間の流れから隔絶された気になってくる。

 日に日に苦しいまでの暑さを感じ始めているのは弱り切った体のせいだろうか? それとも夏がすぐそこまで来ているからだろうか。朦朧とするのは脱水症状なのかもしれない。


 推理小説の舞台みたいだなと思う。それとも現実の方が奇なりというぐらいだし、貴重な体験と言えるのかもしれない。そこまで考えて被りを振った。余りにも卑屈に思えたのだ。生きることに対して。


 密室の中、衰弱している少年。それは他ならぬ僕であり、体は消耗しきっていて動く気力もない。そうであるなら僕は死体で見つかるのだろうか。それとも警察か近所の人が助け出してくれるのだろうか?

 もう時期に死ぬのだろうな、僕は。なんだか確信めいたものが心の芯のような、深いところで囁く。僕はここで死ぬのだと。

 そこに諦念などはない。何となくそうなるのだろうから、そうなのだろうと思うばかりだ。喚いたところで変わるものではない。死ぬべくして死ぬのだ。


 ああ、嫌だ。なんて思うことはないけれど、せめてこの羽音は収まらないだろうか。

 ぶぉんぶぉんと周りを引っ切り無しに飛ぶ羽虫に辟易するだけ僕には余裕があるのだろうか? 下らない堂々巡りの思考を僕は振り払うことはしない。もしも、してしまったなら。


 引き戸で遮られた居間を見やる。引き戸は木の枠に曇りガラスが誂えられたもので、居間の様子がうっすらと垣間見えるのだ。ただ何かが噛ませてあるらしく、その一部は遮られしまっている。

 床に椅子が倒れているのが何となく分かる。その奥には壁へと追いやられたテーブルの輪郭がかろうじて見える。それよりも高い位置。天井からぶら下がるアレは何なのだろうか。


 泣きじゃくる母の声。けたたましい電話。椅子の倒れる音。引き攣ったような奇声とも慟哭とも付かないそれは一瞬だった筈なのに未だに耳から離れない。

 仮にそうだとしたなら、母は僕に背を向けているのだろうか。それともこちらをガラス越しに見下ろしているのだろうか。


 まだ生きているの? 早くおいで、私はここだよ待っているよ。


 何となく、揺れた気がして。見られているような錯覚に囚われて吐き気が込み上げる。口いっぱいに広がる酸味を噛み締めながら、頰を伝う涙に僕は顔が歪むのを感じ、目を閉じた。暗い瞼の裏の世界に入り込むように矢鱈、明瞭に羽音が響く。


 ぶぉんぶぉん。蝿は無邪気に僕を中心に飛び跳ねる。

 ぶぉんぶぉん。時折、生きているのを確かめるように肌に止まる。

 ぶぉんぶぉん。うっすらと垣間見ると、吐瀉物の上に立つ蝿が目に入る。

 笑ったように見えた。

気持ちのいい作品になることはないでしょう。

二部にあたる混乗から文体を修正しておりますれば

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