2話
石で造られた国春の背丈ほどの塀が双方に延々と続いている。それに挟まれた道をゆっくり歩く二人。
「ねえ、ソーダ。友達いる? 作った?」
唐突に失礼にも程がある質問を投げかける梨奈。一瞬動揺し、そして返答せざるを得ない状況と悟った国春はようやく口を開く。
「な、なんだよ。いきなり」
「いいから答えなよ。まあいないと思うけど」
「……わかってんなら聞くなよ」
がっくりと肩を下ろす国春を一瞥して、一拍間を空けてから再び尋ねる。
「まだ過去のこと、引きずってるの? ママとパパのこと」
「梨奈は?」
質問を質問で返すと、
「あたしがソーダみたいになっちゃったらもう終わりじゃん。ソーダも嫌でしょ?」
「なんか失礼な言い草だな」
国春は怪訝な顔を不機嫌そうにしかめ、梨奈は嫌味と滑稽を含ませた声音で会話する。
「いいから答えな」
これ以上は口答えするなみたいな口調で国春に問いただす。
「…………」
国春はしばし押し黙った。ふと脳裏に浮かんだ忌々しいあの過去が鮮明に想起する。
ーー2年前までは兄妹と両親、計四人の核家族であった。
決して裕福とは言えない暮らしぶりだったが、困るほどの欠点があったわけでもない。普通の家庭、普通の家族だった。ただ父の性格を除いて。
父は横暴且つ酷烈、無慈悲な人物であった。
勉強しなければ無理矢理机に向かわされ、監視され、理解できてなければやり直しを命じられるという鬼畜教育方針を掲げた。妻ーー麻友には「お前がだらしないから子供たちがクズになるんだ!」と罵り、梨奈にも「こんな奴らを見習うな。人として終わってしまう。俺だけを見習え」と、非道な忠告を言い聞かせるのだった。
国春は、父の傍若無人な態度には意義を感じていたものの、怠けていた自分にも非があると自覚して以来家事、勉強は積極的にこなすようになった。これ以上梨奈と麻友が自分のせいで刃を向けられないように。
しかし父の言動は一層激しさを増した。
仕事関係のトラブルをすべて麻友にぶつけることでストレス解消を図り、自分の失敗すらも根拠のない言い訳で正当化しては暴力を振るった。言わずもがな国春と梨奈にも。
もはや地獄絵図と成り果てた。反攻しても大人しくしていても逃げ場はないというジレンマを植え付け恐怖で支配させた。生きた心地が感じられないまさに蚊帳の外状態。
そんな家庭とも言えぬ獄中生活がしばらく続いて数ヶ月、麻友が他界した。過度なストレスの原因で精神病を患い引きこもるようになったのだ。必死に二人は看病に専念するが、父は手伝おうともせず、それどころか嘲笑うかのように生涯を見届け、死亡通知を聞くとさっさとその日に家を出て行ってしまった。二人を残して。
母の他界には涙が無限に溢れ落ちた。真紅のカーペットが色褪せるほど泣いた。男が泣くなんて情けない。男の自分が一番分かっているくせに。それでも涙は止まってくれなかった。辛いなら曝けだせ、と涙が誘うように眼の奥底から滴らせた。しかしその一方で、父の家出には悲愴なんて思いは微塵も感じなかった。元々あいつのことなんか、親として認めてなかったからだ。やっと国春は理解した。最初から父の眼中にはないオマケだったということを。
それからは息をする暇もない毎日が続いている。一軒家という莫大な負債を背負うのは無理だと判断し、売却。コストを最大限に抑えるため格安の1LDKに引っ越した。
あれやこれやの雑務をこなすこと、そして梨奈の面倒を見ることだけにしか生き甲斐を見出せていない国春。
「……その話は……やめろ。……もう忘れろ。あんな……あんなの俺たちの父親じゃねえ。悪魔だ。俺たちを蹴落とすために生まれた悪魔なんだ」
語気が荒くなる。いらいらしているのだろうか。いつもは動じない強靭な精神の持ち主なのに?
その威圧に押されたのか梨奈の歩調が崩れた。わずかに遅れた距離を取り戻そうと小走りで歩み寄る。
ーー国春は質問には答えなかった。
「でもソーダは……ううん。ごめん。嫌なこと思い出させちゃって」
梨奈は軽く首を振って詫びる。
「いや、俺も悪い。ちっと梨奈に八つ当たりしちまった」
すると梨奈は子猫のように安心の色を浮かばせる。
「やっぱり優しい。ソーダは」
「……やめてくれ」
……このやり取りは何回目だろうか。
国春は遠い目で虚空を見据える。その目に何を映し出しているのか、きっと一人として分からないだろう。国春でもわからないのだから。掴めそうで掴めない。近いのに遥かなる天空に潜めて遠く感じさせる。正体も距離もまったく掴めない。
校門をくぐり、緩やかな坂道を上る。校舎の入り口で立ち止まり、
「じゃあ行ってくるね」
そう言い残してすたすたと去っていってしまう。力強く訴え掛けるように勇ましく行進する。
最後に、その頼りない背中を国春は呼び止めた。
「……もっと元気だせ。なんか調子狂うから……いつもみたいに生意気な感じで。そっちのほうがずっと梨奈らしいから………………あと、友達。作れよ」
本心からの願いだろう、国春はそう思う。やっぱり心配だ。梨奈のことが。どれほど生意気でも優しい。守りたくなる。最も心を許せる、信頼できるたった一人の家族。その大黒柱が腐ったり抜けたりしてしまえば、跡形も無く押し潰される。だから守りたい。自分のためにも梨奈のためにも。大黒柱を守り抜くのは外枠の使命なのだ。
えー? それ褒めてんのー? とニヤニヤ笑いながら、梨奈は一度も振り返らずに姿を消した。最後のほうは聞き取れなかったとしてもまあどっちでもいい。梨奈はずっとずっと強いから。反動で立ち直れなくなったときが出番だ。
思わず笑みが零れる。
国春もまた教室に向かうべく、力強く階段を踏み出した。