1話
午前七時。
狭苦しい1LDKマンションの一室に透き通った陽光が差し込む。さらさらと流れる小川もそれを受け、命が与えられたように揚々と輝き始める。微かに聴こえる清流のせせらぎ、小魚が奏でる水飛沫が道行く人々を和ませる。それらがとろけるように調和し合って、まるで小さなオーケストラのよう。
天気は快晴。
この幸福溢れるシチュエーションの中ならば誰しも胸が空くだろう。過去の失敗ないし執心すらもリセット。やり直すことを決心し再スタートを駆け出す。まるで魔法のようだ。時に災厄をもたらし、時に生物の心情を操る。最も恐ろしい崇高なる存在は気象なのかもしれない。
しかし、そんな天変地異をもろともしない、年中ダークマター精神を志す少年が一人。
「梨奈。早くしろ。遅れるから」
何の感情も込められていない単調な声音で実の妹を急かす声が。
彼は、曾田国春。
とある府立商業に通う高校二年生である。
「朝食食ったか? 歯磨いたか? 着替え、とか持っていくもん用意したか?」
執拗に事細かく尋問する主夫を尻目に、
「うっさいなー、わーかってるって。全部完璧に終わらせたから。ほら。見て」
梨奈は自慢げに鼻を鳴らし、ろくにない胸板をぐっと反らす。
だが、梨奈の扱いを受けてしまった消耗品どもは無惨な状態で放置されていた。ぶっきらぼうに撒き散らしたパジャマ。食器は残されたピーマンと一緒にシンクの中へぶち込んである。洗面台の蛇口は流しっぱなしだし、これのどこが完璧なんだよ、欠陥バリバリあんじゃねーか、と心の中で呟き嘆息する。
「おまえ……これでよくそんな威張れるよな。俺じゃなかったら説教されるか追い出されるかのどっちかだろ。普通」
呆れた様子でもの言い、しかし決して怒ることなく冷静に対応する国春。それ以上は咎めず無言で台風こと梨奈がもたらした惨害範囲を整える。
それを監視するように凝視していた梨奈は、
「あんがと。やっぱ優しいね。ソーダは」
ソーダ、梨奈は国春をそう呼んでいる。呼びやすいから、だそうだ。正直恥ずかしいからやめてほしいと常々懇願しているが。断固拒否されるばかりだ。
「優しくねぇよ。事務的にやってるだけ、仕方なくやってるだけだ。そこを勘違いすんな」
無愛想そうにキッパリ断った。実際国春は、感謝されることに苦手意識を持ち、また本当に仕方なくしていること、と思っている。この狭い部屋で二人暮らし。自分がこなしたほうが断然早い。
梨奈はそんな心境に気付いていないのか、言う。
「またまた〜素直じゃないな。だってあたしを追い出そうとも説教すらもしないじゃん。結局はやってくれるんだから。そこが優しいって言ってんの。友達とかただはしゃいでいるだけで美的感覚なんてこれっぽっちも持ち合わせてないし。稀少だよ? ソーダは」
人差し指を立てて得意げに回し、さも自分のことのように褒める。
国春は無言で聞いていた。なんとか始末を終え、鞄を肩に掛ける。主夫は忙しいのだ。お嬢様の雑談など聞いてなんかいられない。
「俺を絶滅危惧種みたいな扱いはやめろ。ったく……ほら、行くぞ。早くしないと本気で遅れちまう」
「へいへい」
おっさん臭い返事をし、梨奈もまた鞄を肩に掛け、連れ立って玄関を後にする。国春は鍵を見落とすことなくロックしてから学校へ歩き出す。と、言い忘れていたので一応、
「そもそもおまえ、行く宛ねーだろ……」
伝えておいた。意図はなかったが、むずむずしたものが引っ掛かってたので勝手に出たのだろう。梨奈はふっと顔を緩め、
「それもそーだったね」
寂しそうにも捉えることができそうな曖昧な表情をつくる。それはもう緻密で今にも崩れてしまいそうな、そんな不安定さが露骨に浮き出ていた。
駄洒落に気づいたのは自分だけだろうか? ウケを狙ったのか、それとも無意識なのかは定かでないが、どうでもいいことに脳が反応してしまった。そのせいで梨奈の表情には気づけなかった。
梨奈はすぐに機嫌を取り戻して騒ぎ始める。国春はそれを無視。ただまっすぐ前を向いてひたすら歩く。それでも梨奈は攻撃の手を緩めない。肘でツンツンつついたり、景色を眺めて感想を言ったり子どものはしゃぎっぷりだ。
これが二人の日常である。陰気な国春と無邪気な梨奈のいつもの日常。
かみ合わない調子の中、仲良く並んで歩いていった。
今日は二人の、始業式と入学式だ。