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2.16世紀前半のヨーロッパ大陸

ヨーロッパ大陸の情勢


まずこの時代、ヨーロッパは世界の他の地域に対して、圧倒的な優位に立つ存在ではなかった。むしろ文明水準においては、イスラム文明や中華文明の方が先進地帯であった、と言うべきであろう。


現代では「欧米」と言われるが、この単語の「米」すなわちアメリカは、もちろんこの時代にはまだ、国家としては存在していない。ただ、南北に細長い広大な大陸の原住民たちが、古来よりの独自の文化の中で、普通に「生活」していただけである。


その素朴な生活をしていた彼らのもとに、この時代からヨーロッパの人間が押しかけ、やがては彼らの生活を破壊していくようになる。


それを可能にしたは何か?カールが生まれる50~100年程前から、イタリアを中心として興った「ルネサンス」である。


ルネサンスは、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロのような文芸・芸術の興隆のみならず、印刷術や機械式時計の発明、砲術の完成といった技術革新から、簿記・為替・金融取引などの経済活動上の新しい発明もあった。これらが後にヨーロッパ勢の海洋進出を可能にし、経済的優位をもたらし、覇権の確立につながっていく。だがそれにはもう少し時間を要する。


◎イタリア


そのルネサンスの中心地となったイタリアではあるが、政治的には現在のような統一国家にはなっていない。今でもよく耳にするミラノやジェノヴァ、フィレンツェといった都市がそのまま「国家」のようであり、モザイクのように入り組んでいる。漠然とした地域呼称としての「イタリア」はあっても、内実は各都市の思惑が入り乱れた群雄割拠の状態である。


であるが故に、ミラノを中心とした北部のロンバルディア地方にはフランスが、南のシチリアやナポリにはスペインが、勢力拡大を目論み、絶えず侵入を繰り返す。1494年にフランス王シャルル8世がイタリアに侵攻、スペインのカトリック両王とナポリの領有をめぐって、数回の戦争を起こしている。


長靴の形をした半島の中心部、永遠の都「ローマ」を中心とした地方は、ローマ教皇領である。だがローマ教皇には、カトリックの総本山としての宗教的権威はあっても、政治的・軍事的にイタリアを統一する力はない。ローマ教皇にとっては、その領土の南北が敵対勢力、特に常に対立の絶えない神聖ローマ帝国皇帝に挟まれることは、これ以上のない悪夢である。故に、その時々の情勢によって同盟を組む相手を変え、その領土の安全を図っている。


余談ではあるが、現在イタリアはG8などの「先進国」グループに入ってはいるが、「イタリアが先進国に入っているのは、バチカンがあるから」という、まことしやかな声もある。昔も今も、軍事力のような目に見える力はなくとも、宗教的権威という「目に見えない力」は相当に大きいようである。


この時期のイタリアは、ジェノヴァやヴェネツィアが海洋商業国家として繁栄を謳歌し、フィレンツェではメディチ家といった大富豪も出ているが、総じて周辺国家、特にフランスとスペインの草刈り場のような状態である。この状況を嘆いたマキアヴェリが、その有名な著書『君主論』の中で、k踏力の統一国家の形成を主張するのであるが、中堅官僚であった彼には、そこまでの大事業を成し遂げる力はない。


しかし、総体としての結集力はないが、かつてのローマ帝国の栄光の遺産か、南国の輝く太陽が人の心を魅了するのか、はたまたカトリックの総本山がある故か。古来より、特に北方の人間は「イタリア」に恋い焦がれる傾向が強い。この時代にあったかは定かではないが、「ナポリを見て死ね」という言葉もある。イタリアの地には、「この地を我が掌中に」という欲望を起こさせる「何か」があるようである。


◎ドイツ


今の「ドイツ」の地は、大小350前後の諸侯が入り乱れて存在し、その上に「神聖ローマ帝国」が鎮座している。「ローマ」とは付いているが、この帝国は古代のローマ帝国の後継国家ではない。皇帝の即位に当たって、ローマ教皇から冠を授かるのが不文律のようになったために、自然とそう呼ばれるようになった。


実際、歴代の皇帝もドイツの地より、イタリアに滞在してることのほうが多く、ために「ドイツ」の地は群小諸侯が割拠し、他の周辺国よりも統一化が遅れた。


数年後には皇帝となるカールには気の毒だが、「神聖ローマ帝国」皇帝の地位は、群小諸侯の「利害の調整役」といった感が強い。皇帝の命令一下、全ての諸侯が一糸乱れぬ行動を取ることは少ない。それどころか、恐れ多くも皇帝に歯向かってくることさえある。そしてそれが周辺国の後押しを受けたりすると、長期間にわたる混乱に陥ることさえある。利益よりも心労の方が多い役職、と言えるであろう。


1512年から、この帝国は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになった。驚くこととにそれまでは、公式文書にさえ「神聖ローマ帝国」の名前は出てこない。それだけ融通無碍な帝国であった。


15世紀の半ばから、皇帝の位はハプスブルク家の独占状態となる。広範な範囲の多数の諸侯の理が調整のためには、大多数から権威を認められるか、「人畜無害な存在」の者が皇帝に選ばれることが多い。ハプスブルク家もその興隆の当初は、後者の理由で何人か皇帝を輩出したが、この時代になると、大多数の諸侯からその権威を認められている。


統一国家としての実体は無きに等しいが、敢えて簡略化して図式化すれば、


「ハプスブルクオーストリア=神聖ローマ帝国=ほぼドイツ」


とでもなろうか。


領域としては、現在のイタリアやベルギー、オランダ(この当時はネーデルラント)が含まれる時期もあるが、これらの地の人々には、「神聖ローマ帝国臣民」としての意識は、ほぼ皆無だったのではあるまいか。


ともあれ、ドイツの地の統治主体は、後にホーエンツォレルン家のプロイセンが台頭してくるまでは、ハプスブルク家のオーストリアが主体となる。


◎フランス


イタリアやドイツの状況に比べると、フランスは比較的統一が進んでいる。一時はイングランド王家が、フランスの地に所領を持つという複雑な状況もあったが、それもこの時代には一段落し、現在の地図に当てはめてみても、ほぼ収まるような状況になっている。


ドイツや北イタリア、いわゆる「神聖ローマ帝国=ハプスブルク家」と接する東部と南東部は、領土を取ったり取られたりであるが、北のイングランドとはドーヴァー海峡、西南のスペインとはピレネー山脈、そして南は地中海と、「自然の境界」を多く持つが故に、国土の保全は比較的保ちやすいのであろう。


甚大な被害をもたらした20世紀の2度の世界大戦で、ドイツが敵役のような扱いになったため、「ドイツが常にヨーロッパの紛争の元」なる見方もあるようだが、より長いスパンで歴史を見てみると、ヨーロッパの大国間の戦争で、ほぼ毎度に渡って何かしらの火種を提供してきたのは、実はフランスである。


この時代より前にはイングランドと「百年戦争」を戦い、時代が下っても、ハプスブルク家とは常に宿命のライバルであり続け、「太陽王」ルイ14世の時代には、その約70年の治世の間はほとんど戦いに明け暮れる。イングランドとは世界各地で植民地獲得競争を繰り広げる。そしてフランス革命とナポレオンの時代には「革命戦争」と称して、「自由・平等・博愛」の下に、ヨーロッパ中を戦渦に巻き込む。


しかしこの国のしぶとい所は、戦争だけではなく外交も上手く立ち回り、勝者の側に付いたり、「自由・平等・博愛の国」というイメージを損なわずに、一定の存在感を示し続けていることにある。ナポレオン戦争時には外相タレイランが、敗戦国にも関わらず、足並みの揃わない列強を尻目にいつの間にかウィーン会議を取り仕切り、寸分の領土も失わずに「列強」の地位に留まることに成功。第2次世界大戦時には、戦闘ではあっさりドイツに負けて占領されたものの、ド・ゴールが「フランスの栄光」を唱え続け、戦後にはちゃっかりと「戦勝国」に加わっている。その時代ごとに傑出した人物を輩出する点は、ある意味で敬服に値する。


この時代には、シャルル8世が1494年、イタリア半島に侵攻し、またしても紛争の主役となる。


◎イングランド


イングランドは幸か不幸か、カレーを除いて大陸の所領を失ったために、大陸での領地紛争に直接巻き込まれることは、ほとんどなくなった。


この時代のイングランドを、後の「大英帝国」のフィルターを通して見ては、事態を見誤ることになる。この当時のイングランドは、ヨーロッパの主要大国の中では、どちらかと言えば弱小の部類に入るであろう。人口は少なく、国内は貴族の勢力争いに明け暮れる。そして南にはフランス、北にスコットランドという「宿敵」を抱え、この両国が手を結んで南北から挟み撃ちされることは、イングランドにとってこれ以上はない「悪夢」である。


さらに大陸においては、現在のオランダやベルギー、この当時は総称して「ネーデルラント(低地諸国)」と呼ばれた地域に敵対勢力の手が及べば、ここを起点にして、その勢力はイングランドに侵攻を仕掛けるであろう。その最大の脅威は、フランスである。


つまりイングランドにとっては、フランスが大陸各地での戦争に忙殺され、その矛先がドーヴァー海峡を越えて来ない状態こそが望ましい。またこの当時の先進地帯である「ネーデルラント(低地諸国)」が、敵対的な大国の手に渡るのも困りもの。


それ故、時の国王・ヘンリー8世は、カールの叔母・キャサリンとの婚姻により、ハプスブルク家と結びつく。


ハプスブルク家にとって島国のイングランドは、所領をめぐる利害は発生しない。しかも双方にとっての宿敵・フランスへの、北からの牽制にもなる。


一方イングランドにとっても、海軍力をほとんど持たないハプスブルク家が「低地諸国」を取り込み、神聖ローマ帝国皇帝としてにらみを効かせてくれた方が、フランスが出張って来るよりもどれだけ不安が減ることか。


ハプスブルク家の「婚姻外交」と、イングランドの「勢力均衡」の思惑が一致し、カールとヘンリーは伯父・甥っ子の関係として結びついた。


◎スペイン


カールが後にその国王となるスペインは、カスティーリャ王国の女王イサベル1世とアラゴン王国のフェルナンド2世が1469年に結婚。1479年、フェルナンドの父・フアン2世が死去し、正式にフェルナンド2世として即位した後に、カスティーリャ王国とアラゴン王国の同君連合が成立した。この連合により、ほぼ現在の「スペイン」の基盤が成立したと言えるであろう。面積にして現在の「スペイン」のほぼ9割を占め、マドリードやバルセロナなどの主要都市も含んでしまう。


それ以前に、ポルトガル王室の介入による「カスティーリャ王位継承戦争」も制し、1492年にはイベリア半島にわずかに残った、イスラム勢力の支配地「グラナダ王国」も奪回し、「レコンキスタ(国土回復運動)」も完成させる。1492年1月2日に、カスティーリャの軍旗がグラナダのアルハンブラ宮殿に翻った時、800年に及ぶキリスト教世界の悲願が実現した。1496年に、時のローマ教皇・アレクサンデル6世からこの偉業を讃えられたことにより、歴史上この2人は「カトリック両王」と呼ばれることになる。


余談ではあるが、この時イサベル1世は、グラナダ陥落までの期間、願をかけて下着を交換しなかったと言う。その期間は9か月とも3年とも言われているが、どちらにしてもイサベル1世が「女」を捨ててまでして、成し遂げた事業であった。


そしてこの1492年には、どの世界史の教科書にも載っている出来事、イサベル1世の支援を受けたジェノヴァ人・コロンブスによる新大陸「発見」という出来事が起こる。


コロンブス自身は、その「偉業」の割りには、その後の人生はあまり恵まれたものではなかったが、その後のスペイン王国とヨーロッパ、そしてカールにはこの新大陸からもたらされる資源が、その後の覇権獲得への恩恵となると同時に、先住民虐殺などの大きな傷痕も残すことになる。


目を再びヨーロッパ大陸に転じると、カトリック両王時代のスペインは、国内をイサベル1世、外交をフェルナンド2世という役割分担があったようである。


西のポルトガルとは、長女・イサベルをポルトガル王太子・アフォンソに嫁がせ、婚姻関係が成立。だが、スペインにとっての最重要課題もフランスとの関係である。


フランスとカスティーリャ・アラゴンに挟まれた小国・ナバーラは、中立国として両国の「緩衝地帯」となる。


一方、イタリア半島ではナポリ王国の領有権を巡ってフランスと対立し、1494年8月にシャルル8世がイタリアに侵攻。しかしローマ教皇の支持を得られず、逆にローマ教皇・神聖ローマ帝国・スペイン・ミラノ公国・ヴェネツィア共和国による「第一次神聖同盟」、事実上の対フランス包囲網が形成される。


結局この時は、シャルル8世がナポリから撤退する。1500年にはスペイン・フランス間でナポリ尾王国を分割統治する取り決めがなるが、境界性や権益を巡って対立が生じ再度、矛を構える。今度はスペインが勝利、ナポリ王国はスペインの領有となる。


総じてこの時のヨーロッパ大陸の情勢は、その位置関係もあってフランスが各地で火種を抱え、フランスに対して各国が同盟を結んだり、離れたりを繰り返す。イタリアはスペインやフランスにとっての体のいい草刈り場。神聖ローマ帝国は西のフランス、そして東にひたひたと迫るイスラム勢力のオスマン・トルコとの間の板挟み。イングランドにはまだ、情勢を大きく左右する力はない。またここでは触れなかったが、ロシアはまだ主要大国とはなっていない。



そんなヨーロッパ情勢の中で、カールは16歳になるまで、フランドルから一歩も出ることなく、おそらくは彼の人生の中で最も穏やかであったろう少年時代を過ごす。

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