王子様は他にいる。
■で視点が変わります。
2014年5月6日、大幅改稿しました。
■■■■■
Side 松本晴香
『王子様は他にいる』
学園の王子様が、前世で添い遂げられなかった恋人を探しているらしい。
「あ~。最近暖かくなってきたもんねぇ」
春になると、ちょっとネジが緩んだ人が現れるものだ。
晴香はつい先日遭遇した露出狂を思い出し、眉をひそめた。
「それがね~、マジらしいよ」
弁当箱を片付けながら、ゴシップ好きの麻里絵がにやりとした。
麻里絵が声をひそめたので、近くに座っていた数人が耳をそばだてる気配がありありと伝わってきた。
麻里絵は人の噂が大好きなので、好意的に思わない人もいるようだ。晴香からしてみれば、麻里絵は人の秘密を暴いたりはしないし、知ったことを無闇に言いふらしたりもしない。
それでも、人の話は聞きたい、自分の話は知られたくないという人は存外多く、勝手なものだと晴香はうんざりしていた。
ちなみに、学園の王子様というのは、一学年上の二年生にいる永野先輩のことだ。
180センチの長身に、甘い顔立ち。成績優秀、スポーツ万能、男女ともに人気があるらしい。
そんな永野先輩が前世を思い出したのは今年の正月らしい。
自分は前世では一国の王子だったこと、好きになった相手は一般の女性で身分違いから結ばれなかったことを思い出した。
他の人がそんなことを言い出したら、まず間違いなく冗談にしては使い古されていて笑えない、と言われる。設定を練り直してこいと、晴香も言うだろう。
でも、冬休みがあけて壮絶な色気を醸し出しながら前世を語る学園の王子様に、誰もが話を信じたらしい。
世の中不公平だが、顔面がいいと得なものだ。
「…まあ、絶対に見つからないと思うけど」
小さくつぶやいた晴香の一言に、麻里絵は不思議そうに瞬きをした。
学園の王子様は正月に思い出したらしいが、松本晴香はその一月前に風呂場で盛大に転倒した折り、自分の前世を思い出していた。
前世で晴香はどこか異国の町娘で、リザと呼ばれていた。
◇◇◇
「リザ! 遊びに来たぞ!」
きらきらした銀髪を靡かせて、今日もあいつはやってきた。
町に馴染むよう、なるべく質素な格好を心がけているようだが、いかんせん生まれ持った高貴な雰囲気は隠せない。美人は顔に泥を塗ったって美人。逆もまた然り。
「…クリフォード様、お仕事はよろしいのですか」
手を離し井戸の中へつるべを落とすと、水がたっぷり入った手元の桶を持ち上げる。
何が面白いのだか、この高貴なお生まれのクリフォード様はほとんど日をおかずリザの顔を見に来る。
「堅苦しいな。クリフと呼べといつも言っているだろう」
リザの手から強引に桶を奪ったクリフォードは、目がつぶれそうな笑顔を浮かべた。
それには返事をせず、リザはそっとため息をついた。
リザは早くに親を亡くし、町にあるパン屋で住み込みで働かせてもらっていた。
朝早くに起き、粉を計り水と合わせ練る、寝かせる、思い思いの形にする。どの作業も大変ながら楽しかった。だが、リザ自身の希望で店に出ることは滅多にない。面倒ごとを極力避けるためだ。
リザはとても目立つ顔立ちをしていた。
浅黒い肌に色素の薄い髪色をした人が多いこの国で、肌は抜けるように白く、黒目がちな大きな瞳。何もせずとも流れるように輝く紅茶色の髪。
若い娘にとって、人々に注目されたり美しいと賞されるのは嬉しいものだ。だが、女一人で生きていかなければならないリザにとっては忌々しいものでしかない。
連れ込まれ、暴行されそうになったことも、拐かされ、売られそうになったことも数知れない。つい先日もレストランで食事をしていたら、見知らぬ男に髪を切られそうになった。
粘つく人々の視線はリザにとって恐怖でしかなく、それらを呼び寄せてしまう自分の外見がとても嫌だった。
町を歩くときには、リザはなるべく髪をひっつめ、フードを目深に被って歩いた。
そうすれば、のぞきこまれたりしない限り、人目を引くことはなかったから。
そんな慎ましい生活を送っていたリザがクリフォードに出会ってしまったのは、不運としか言いようがない。
できることならば…寿命を数年くらい削ってもいいから、あのときからやり直したい。
あの日、リザは雨の中帰り道を急いでいた。パン屋の女将に頼まれて、知り合いの店にパンを届けに行った帰りだった。
急に降り始めた雨に憂鬱になったものの、行きでなくて良かった。商品が濡れてしまっては目も当てられない。
ザアザアと降り続ける雨は冷たい。あと数日もすれば雪になるのだろう。
ぶるり、とリザが身を震わせたとき、通りの向こうから怒号が聞こえた。
何事か、と思う間もなく、リザは道端に積まれた木箱の陰に隠れた。
―――面倒ごとの臭いがする。
早くどこかへ行ってしまわないだろうか。あまり戻るのが遅れると女将に心配をかけてしまう。口数が少ない気難しい女将だが、リザが面倒ごとに巻き込まれないようにいつも気遣ってくれる優しい人だ。なるべくなら、心配も迷惑もかけたくはない。
はぁ、と吐いた息は白く濁った。
本格的に気温が下がってきたようだ。
そっと木箱の陰から顔を出したリザの目に飛び込んできたのは、銀色。
ぎょっとして視線を巡らすと、人の頭だった。
リザとは木箱を挟んで反対側にいるので、リザの存在にはまだ気づかれていないようだ。
人は、荒い息をしている。
断続的に吐かれる息が次々と白い塊へ変わっていく。
逃げるなら、今か。
ぐっ、とリザが身体に力を入れたそのとき、木箱にもたれた人が、ずるずると座り込んだ。
―――今でも、あのときのことを思い出すと、リザは自分の頭を蹴飛ばしてやりたくなる。
バカな真似をするな。そいつを助けようなんて思うんじゃない。
そいつは、面倒ごとを連れてくるだけじゃない。
正に面倒ごとの権化。
だが、無情にも時間は巻き戻せない。
リザが冷たい雨の中、肩を貸したのはこの国の第一王子であるクリフォード。
今、まさにリザの隣で水桶をぶら下げている男だ。
◇◇◇
前世、とは言っても、どちらかというと第三者的な視点で考えられる晴香からしても、あれはひどかった。
目立ちたくない一心で清貧に暮らしていたリザは、あれよあれよという間にクリフォードのペースに巻き込まれ、王宮に召し上げられてしまった。
それもこれも、クリフォードが『リザがそばにいないと何もできない』などとふざけたことをぬかしたからだ。根負けした周囲の人間が、リザを召しあげて第一王子のそばへ置くことを認めてしまったのだ。
当然、見た目が珍しいだけの市井の娘がいきなり王宮に上がれば、結果は火を見るより明らかだ。所詮何のとりえもないパン屋の小娘だ。ペットのようにただ飯を食らって部屋でおとなしくしているしかないのだから。
むしろそれが予想できなかったクリフォードはどうかしてる。本当に、心底、馬鹿だ。
リザはあっという間に侍女から陰で嫌がらせを受けるようになり、しまいには下女や下男からも蔑まれるようになった。
それでも、頭が花畑なクリフォードは気づかなかった。
リザが心労からやつれていけば、自分と会えない寂しさからだと解釈し、帰してほしいと泣けば、身を引こうとする慎ましさが美徳だ、とわけのわからないことを言った。
同じ言語を使っているはずなのに、全く意思疏通ができないのだ。
何を言っても、どれだけ懇願しても無駄だった。
そんな歪んだ生活は長く続かなかった。
リザはどこかから入った密告により、クリフォードを惑わす魔女として処刑されたのだ。
クリフォードが隣国へ使節団とともに出掛けているときを狙って。
私は魔女じゃない。
処刑すべきは、頭の中が花畑な王子だろう!!
この国は遠からず滅びる!!!
のちに、魔女の呪いと言われそうな叫びを喉が潰れるまで上げ続けたのが、リザの最期の記憶だ。
「王子がついに一年に探しに来るって」
麻里絵がもらたしたニュースに、クラスの女子が黄色い歓声を上げた。
二年生と三年生の調査結果がふるわなかった王子は、とうとう一年にまで魔の手をのばすようだ。
もちろん、その間、自称前世の恋人が多数現れたことは言うまでもないが、永野先輩は全員違うと言い切った。永野先輩いわく、会えばわかるそうだ。
そんなバカな。
晴香のすべきことは決まっている。
決して、晴香がリザであったことは、気づかせない。晴香の見た目は平凡だ。ボブの茶髪に、平均的な身長と体重。ブスではないが美人でもない。リザのような人目を引く特徴は何もないため、容姿で気づくことは困難だろう。
クリフォードのことは、ぼこぼこに殴打して家畜の餌にしてやりたいほど憎んでいるが、そんなものは微塵も感じさせてはならない。
ではどうするか。
木を隠すなら森、作戦だ。
「きゃあ! 永野先輩!!」
「先輩、明日のお昼ご飯一緒に食べませんか!」
「これ受け取ってください!」
永野先輩が訪れた放課後、教室はまるで芸能人の出待ちの様相を呈した。いつもなら部活へ行っている子も残っているあたり、みんな麻里絵情報で動いているのがわかる。
晴香は目立たないよう、そんな人だかりの最後尾につけて、無理矢理軽薄な笑顔を浮かべていた。
あまりに無関心すぎてもだめ、前に出過ぎてもだめ。
立ち位置を微調整しながら、晴香は腹の中で毒づき続けていた。
―――馬鹿じゃないのか。
お前のせいで善良なうら若い乙女が、惨たらしい死に目をみたというのに。
それを忘れて、添い遂げられなかった恋人を探す、だと?
元々、リザはクリフォードの気持ちを受け入れたことは一度もない。はぁ、とか、えぇ、の曖昧な返事を斜め上方に解釈し続けた結果の恋人(仮)なのだ。
絶対に、絶対に見つけられてはならない。
「ごめんね、このクラスには僕のエリザベートを探しに来たんだ」
私の名前はリザだ。みすぼらしいとかいう阿呆な理由で勝手につけられたエリザベートなんて名前に改名した覚えはない。
「ええ~! エリザベートさんってどんな子なんですかぁ」
「エリザベートは、美しく流れる紅茶色の髪、夜空のように煌めく藍色の瞳、抜けるような白い肌をした、心清らかな子だよ」
こいつの馬鹿は、死んでもなおらなかったらしい。きっとあの国はこいつが継いだ途端傾いたに違いない。
「僕はエリザベートを喪って絶望したんだ。後を追ったのは彼女の死を知った数日後のことだったよ」
馬鹿ーーーー!!!
一国を背負っていかねばならん第一王子が、妻でもない女のために自殺、とかどんな愚行!!
ええっ、かわいそう、と取り囲んだ女子から悲鳴が上がるが、私はそんな愚かな王子を持ってしまった国民がかわいそうだよ。
こいつの他には、王の子どもは王女殿下しかいなかった。あとを継いだのは野心家の王弟殿下か、下半身のユルい王兄殿下か。
いずれにしても、国は長くなかったろう。願わくは、あのパン屋の夫婦が幸せな人生を全うしていますように。
毒を吐き続けていた晴香はふと、ポケットの中に入れた携帯が震えたことに気づいた。
そっと人だかりから離れて、通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『あ、はるちゃん。今日委員会なくなったから一緒に帰ろ』
いつでもふんわりした癒し系の声に、晴香の中の毒が洗い流されていく。
「ほんと? じゃあ亮介の教室に行くね」
『ふふ~。実はもうはるちゃんのクラスの前にいたりしてー』
晴香が携帯を片手に扉を開けると、同じく携帯を耳に当てた亮介がにこにこと立っていた。
大好きな亮介。
中学からずっと片想いしていて、最近ようやく付き合うことができた。
「亮介、帰ろう」
晴香が手を出すと、少し頬を染めて亮介が手を繋いでくれる。
亮介が晴香の視界に入ったから、教室の喧騒はもう聞こえない。
―――手をつないだ二人を射殺さんばかりに睨む者がいたことも、当然気づくはずはなかった。
■■■■■
Side 及川沙穂
『王子様はここにいる』
菅原亮介は、私の幼馴染みだ。
二軒隣に住んでいて、同い年。偶然にも母親たちも同い年だったため、家族ぐるみの付き合いで幼稚園のときからずっと一緒だった。
小さい頃の亮介は天真爛漫でイタズラ好き。笑顔のかわいい男の子だった。
一緒に川へザリガニを釣りに行ったり、サッカーをしたりした。担任の先生にイタズラを仕掛けて、一緒に罰掃除もした。私はどちらかというと男の子との遊びの方が楽しかったから、泥だらけになって日が暮れるまで毎日亮介と遊んだ。
中学校にあがってからは、それぞれ同性の友達の目もあってあまり頻繁には遊ばなくなったが、学校から帰ると互いの家を行き来しながら仲良くしていた。
だが、中学一年の冬に流行したインフルエンザにかかったことで、亮介は別人のようになってしまった。
「おばちゃん、亮介まだ治らないの?」
スーパーで偶然会った亮介の母に訊くと、困ったように眉を下げる。
「それがね。熱は下がったんだけど、変なことを言い出して毎日唸ってるの」
二週間近く休んでからようやく登校してきた亮介は、頬もこけてしまい目元にも深い憂いを刻んでいた。
「亮介、大丈夫? マジで病人ぽいけど」
軽口とともに肩を叩いたが、亮介は何も言わずゆるゆると首を振るばかりだった。
変わったのは、見た目だけではなかった。
バカ騒ぎをしていたクラスの友達とあまり騒がなくなった。いい加減にやっていた勉強に真剣に取り組むようになった。ほとんど笑わなくなり、強ばった顔でいつもどこか遠くを見るようになった。
私は、亮介が好きだった。
幼馴染みだから、なかなか素直には言えなかったけど、本当に亮介が好きだった。
今は言うことはできないけれど、いつかきっと亮介に想いを告げて恋人同士になれたら、と毎日のように願っていた。
だから、急な亮介の変化にとても戸惑った。
一体、亮介はどうしてしまったのか?
もう元の亮介には戻らないのか?
私にできることは何かないのか?
何度も何度も問い詰め、泣き落とし、一月近くかかってようやく亮介の口を割らせることができた。
前世の記憶を思い出したという―――突拍子もないことを。
「信じてほしいとは言わないよ。僕だって、半信半疑だから」
自嘲するように言う亮介は、とても苦しそうだった。
私と同じ中学一年のはずなのに、疲れた大人のような顔をしている。
その顔を見たら、私まで苦しくなって、疑う気持ちはどこかへ行ってしまった。
「亮介が信じてるなら…信じるよ」
私の答えを聞いた亮介は、ありがとう、と少しだけ微笑んでくれた。
「僕は前世で、クリフォードという名前だった」
見目が麗しい、皆の期待を一身に受けた第一王子。
「僕自身には大して価値がないのに、周囲は僕を持て囃していた」
そんな視線や期待が重くて、息苦しくて、クリフォードはいつも逃げていた。
放蕩、とまでは言わないが、自分にかかる責任と向き合いたくなくて町におりて遊び歩くことも多かった。
そんな折、町でごろつきに絡まれて怪我をしたところをリザという女性に助けられたそうだ。
リザは両親を早くに亡くし、パン屋で働いている美しい女性だった。
「彼女の髪も瞳も肌の色も、見たことがないほど美しかった。でも、一番惹かれたのは直向きに生きる彼女の姿そのものだった」
リザに会いたくて、何度も城下へ忍んでいった。戸惑いながらもリザがことばを交わしてくれることが幸せだった。
穏やかな日々を重ねるうち、クリフォードの欲はとどまることを忘れてしまったようだ。
いつもリザの姿を目に入れていたい。彼女に触れたい。目を覚ますときも眠るときも彼女といたい。彼女を自分だけのものにしたい。
―――だが、クリフォードはやり方を間違えた。
冷静に考えれば、一国の王子がいきなり庶民の娘をそばにおいても、側妃にすら据えることは難しい。得体の知れない娘でも、万が一王子の子を生んでしまえば将来的に国母となりうる。政治的に利用されることもあり得た。
ほんの少し、考えればわかったことだ。
だが、クリフォードの瞳は恋に曇り、欲に溺れていた。
リザが明確にことばにして拒まなかったことを理由に――それは王子のことばに逆らえなかっただけだったが――強引にリザを王宮へ召し上げてしまった。
結果、リザは周囲に虐め抜かれ、クリフォードの留守中に魔女として処刑された。
真実をクリフォードが知ったのは、すべてが終わってから。
リザが下男や下女にまで蔑まれていたこと。
何もしていない自分が国税で賄われる食事をとるのはつらい、と最近ではほとんど何も口にしなかったこと。
―――最後のことばが、自分とこの国への怨嗟だったこと。
知らなかった、とはいえ許されることではなかった。
だが、リザを召し上げてから少しでも良いところを見せたいとクリフォードは政務に励んでいたため、気づかなかったのだ。
リザが奥ゆかしさからではなく、心底帰りたいと願っていたことを。
リザがクリフォードのことを、最期まで恨んでいたことを。
クリフォードは愛する人に憎まれていた現実を受け止められずにさっさと命を絶ったが、そのことも亮介に影を落としていた。
「あの国には、王子は僕しかいなかった。例えリザを喪ったのが己の愚かさからだったとしても、どんなに生きているのがつらくても、王の子としての役目を果さなければならなかったのに」
「でも、亮介は亮介で、そのクリフォードって人は別の人でしょう。今さらごちゃごちゃ考えたってやり直せるわけでもないんだから」
私のことばに亮介は苦く笑った。
例え、亮介がクリフォードという人の記憶に食い潰されそうになっても、私がそばにいる。
私が亮介を繋ぎ止めていなければ、どこか遠く亮介は流れていってしまいそうだった。
クリフォードとしての記憶は強烈で、たかが十四歳になったばかりの亮介は今にもクリフォードに塗りつぶされてしまいそうだった。
それでも私たちは、何とか、亮介としての人生を生きようと必死だった。
前世の話は、極力しないようにした。
部活や勉強に時間を費やして、なるべくたくさんの人と話をした。
一人になる時間が、何もしない時間が、前世を引き寄せる気がしたから。
一年が過ぎる頃には少しずつ、もとの亮介が見られるようになってきた。友達ともバカ騒ぎをして笑いあうようになった。厭世的な陰鬱な雰囲気は鳴りをひそめていった矢先に。
―――あの女が現れた。
それは、亮介の所属するバスケ部が隣の市の中学校と交流試合をしたときのことだった。
亮介が、あの女を視界に入れたときの驚きを思い出すと、今でも私の胸はぎりぎりと悲鳴をあげる。
亮介とあの女の世界だけが、切り取られたように時が止まって見えた。
亮介の顔が驚愕と歓喜と絶望に染まっているのに対し、女の方は亮介の視線にきょとんとして…やがて頬を染めた。
亮介は熱に浮かされたように、あの女を求めた。
女と同じ中学に通う知り合いに情報をもらい、偶然を装って再会した。女が塾に通い始めたと聞けば、亮介も同じ塾へ通い始めた。
「亮介、あの人はリザさんじゃないでしょ」
私は、真っ黒な毒をどうしようもなくお腹の中に溜め込んで、ようやくそれだけ絞り出した。
亮介のその想いは、クリフォードに影響されているだけじゃないの?
本当の亮介の姿を覚えているのは私だけ。
クリフォードが好きなのはリザだけど、亮介が好きなのは誰なの?
どうしてただいるだけのあの女にそんな顔を見せるの?
亮介は静かに微笑んだ。
「はるちゃんはリザじゃない。でも、僕の一番大切な女の子なんだ。今度は絶対に間違えたりしない」
一番大切な女の子。
殴られたような強い衝撃に、目の前が真っ暗になった。
遠くない将来、私が言われるはずだった台詞。
私が座るはずだった椅子。
まだ何か話し続ける亮介の声がとても遠い。砂嵐のような耳鳴りがして、聞き取れない。
そう、頑張ってね、と返した私の声は、ひどく空々しいものだった。
亮介が何より恐れているのは、あの女を失うこと。
そして、亮介がクリフォードの生まれ変わりだと知られてしまうこと。
亮介がクリフォードとしての記憶をほとんど思い出したのに対して、あの女は前世の記憶は一切思い出していなかった。
だが、亮介は念には念を入れ保険をかけることにした。
私と亮介の幼馴染みに、『王子様』と呼ばれている男がいる。学年は一つ上だが、家が近所で亮介と同じバスケ部だったので親しくしていた。
見た目は確かに整っていて成績もよくスポーツ万能なのだが、やけに芝居がかった仕草やナルシストの雰囲気から、中学では揶揄されて『王子様』と呼ばれていた残念な男だ。
亮介は、『王子様』が高校に上がる頃から、保険をかけはじめた。
僕は最近夢を見る。
君がドレーシアという国の第一王子だった夢を。
君は市井のエリザベートという美しい娘に恋をした。
片時も離れたくなくて、娘を王宮に召し上げた。
娘がいてくれれば、第一王子という重圧にも堪えられた。
だが、周囲の反発は強く、君が王宮をあけている間に娘は魔女として処刑されてしまった。
生きることに絶望した君は命を絶ってしまった。
…なんて悲しい話なんだろうね。
でも僕は、同じ夢の中で、君がエリザベートの生まれ変わりと再び出会えたのも見たんだ。
前世の記憶を持った二人が、今世でようやく結ばれる。
すごく、素敵なことだと思わない?
他の人よりも才能に溢れ、スポットライトを浴びるべくして生まれた。
他人にはないものが、自分にはある。
そんなものは思い上がった、子どもの妄想だ。
だが、地に足がついていない『王子様』は、まんまとそれに取り込まれた。
繰り返し、繰り返し、ありもしない自分の前世に思いを馳せるうち、とうとう自分も夢で見てしまったらしい。
「エリザベートが夢に出てきた! やはり僕はクリフォードなのだな」
「…そう。じゃあ早くエリザベートを探さないとね。そろそろ彼女も思い出しているだろうから、会えばきっとすぐにわかるよ」
にっこりと笑って『王子様』に告げる亮介は、本当に嬉しそうだった。
亮介は、『王子様』に偏った情報しか与えなかった。軽薄な、頭の悪い、リザの想いになんて一切気づかなかったクリフォードになりきってもらうため。
亮介なら、リザの苦しみがわかった。自分の名前を勝手に変えられる理不尽さ。働くことも許されず一日中部屋に閉じ込められる苦痛。権力者に逆らうことができないもどかしさ。
クリフォードは、そのどれもに気づかなかった。だから、『王子様』も知らなくていい。
本格的に偽王子が動き出す少し前、あの女が前世を思い出したらしい、と亮介から打ち明けられた。高校一年の冬のことだった。
「はるちゃんが最近思い悩んでるんだ。周りに探りを入れたけど、『夢見が悪い』『嫌なことを思い出した』としか言わないらしくて」
私としては、それは踊り出さんばかりに喜ばしいことだった。
だって今は亮介の隣ででれでれしているあの女は、亮介がクリフォードだと知ったら絶対に今までと同じではいられないだろう。いくら改心して過去の所業を悔いたとしても、リザが惨い目に遭ったことは変えられない。
―――でも亮介とクリフォードは違う、私は今の亮介を好きなのだから、などとあの女なら言うかもしれない。
それは、私にとってとてもまずい展開。苦難を乗り越え誤解を解いた二人が結ばれるルートなど、選ばせる訳にはいかない。
「あ、及川さん。亮介いるかな?」
にこにこと何も知らない女が私の教室に来た。どこにでもいる、平凡で愚鈍な女。
「亮介なら先生に呼ばれて行ったよ。…あ、そうそう。私、松本さんにちょっと話があるんだけど、いいかな」
口の中がカラカラで、舌が張りついてうまく動かない。
無理矢理唾液を流し込み、私は精一杯微笑む。
私のことばが亮介を苦しめたとしても。この女が亮介を失うとしても。
私にも、言う権利はあるよね?
リザが最期の怨嗟を叫んだように。
私が、ここにいる王子様への思いを叫んでも。
―――いいよね。
■■■■■
Side 菅原亮介
『王子様はもういらない』
夢の中で、いつも無力だった。
声が枯れるほど叫んでいるのに、誰にも届かない。
千切れるほど手を伸ばしても、必死に足を動かしても、たどり着けはしない。
―――また、夢を見ていた。
体中が軋むように痛み、泣き明かしたかのように目の奥が重い。
「………」
ぜいぜいと大きく上下する胸に手を当てて、亮介はきつく目を閉じた。
『私を町に帰してください』
夢で繰り返し聞いたリザの悲痛な声が、耳について離れない。
それに“亮介”はなんと答えたのだったか。
『奥ゆかしい君の姿も魅力だが、どうか僕のそばで咲いていてほしい。ここは安全だ。飢えることも凍えることも不躾な視線に晒されることもない』
夜空に輝く月に例えられることもある銀の髪をなびかせて、“亮介”は微笑む。
ばかな、と大きな声で罵倒するが、“亮介”には届かない。
恋に目が曇り、欲に耳を塞がれた“亮介”には何も何も見えない、何も聞こえない。
『……あなたには、わからないんですね』
絶望の涙が藍色の星から流れるのさえ、“亮介”には違う意味に映った。
―――本当に、愚かな。
その愚かさが、来世まで自分を苦しめるとは、思いもしなかっただろう。
「亮介、ひどい顔してる」
通学途中に会った及川沙穂に肩を叩かれた。
沙穂はこの世で唯一、亮介の前世を知っている、幼馴染だ。
亮介が前世を思い出し押しつぶされそうだった幼く脆い時期に、ともに過去を背負ってくれたことにはとても感謝している。
―――だが、今となっては沙穂の存在が亮介を脅かしているのも事実だ。
亮介は、自分の前世を晴香に知られるわけにはいかない。
晴香がどう思っているかは確かにはわからないが、リザはクリフォードを憎んでいた。自分の平和を壊し、思いを理解しようとせず、惨い死に目に遭わせた。
偽王子である永野への冷ややかな眼差しを見たら、晴香がクリフォードに好感を持っていないことくらいはわかる。
「ありがとう。大丈夫だよ」
少し口角を上げて微笑んでやれば、沙穂は相好を崩した。
沙穂から向けられる思いに亮介が気づいたのはいつだっただろうか。
始めこそ幼い思慕だったはずが、いつしか執着へと変わったのは何がきっかけだったのか。
「沙穂は、いつも心配してくれるね」
「…うん。いつも亮介の味方でいるよ」
それを、僕も願っているよ。
君が晴香に牙をむいたら、僕は君を壊すから。
―――もう決して、晴香を奪われるわけにはいかないのだから。
「あれ、はるちゃん知らない?」
「あれー? 亮介君を迎えに行くって出てったけど」
放課後、晴香のクラスへ迎えに行くと、麻里絵が不思議そうに首をかしげてきた。
すれ違ってしまったのだろうか。礼を言い立ち去ろうとしたところを、軽く袖を引かれる。
「……ねえ、及川さんには気を付けてよ。晴香を泣かせたら許さないんだから」
「わかってる。…ありがとう」
周囲には聞こえない程度の小声。
麻里絵はたくさんの人脈を持っていて、噂に詳しいらしい。亮介と沙穂の関係も知っているのだろう。もしかしたら、親しい人には見え見えの沙穂の好意にも気づいているのかもしれない。
自分の教室への最短距離を選んで、足早に廊下を行く。
前世で麗しい美しいと言われた美貌は、亮介にはない。人懐こい笑顔くらいが取り柄の平凡な容姿が、亮介には何よりうれしかった。
こうしてせかせかと歩いていても人目を引くこともないのだから。
階段を下りたら教室がある、というところまで来て、人声に気づいた亮介は足を止めた。
「及川さん、話ってなに?」
一つ下の踊り場を覗き込めば、そこには二人の女生徒がいた。
背を向けているボブカットの女生徒は、晴香だ。後ろからでもすぐにわかる。
晴香と向き合う女生徒はこちらに顔を向けていたので、踊り場にいる亮介にすぐ気づいた。
そこに浮かぶのは、驚愕と恐れ。
彼女が何をしようとしていたかを正確に読み取り、亮介はスッと目を細める。
亮介は冷ややかな眼差しを目の前の女子生徒に向けながら、とっておきの晴香用の声を出した。
「はるちゃん、帰ろう」
「! 亮介。用事はもう終わったの?」
呼びかけに気づいた晴香が嬉しそうに振り返った。
そのときにはもう亮介の眼差しは暖かいものに戻っている。
「…うん。はるちゃんと沙穂の用事は?」
「あ、そうだ。なんだったっけ?」
どうやら、沙穂が晴香を呼び出したらしい。亮介とすれ違うようにしたのも策略か。
―――やってくれる。
音もなく口を開け閉めしている沙穂に、亮介はにっこりと微笑んだ。
「僕も聞きたいな。僕のいないときに二人が仲がいいと、嫉妬しちゃいそうだよ」
「……っ、なんでもない。もう忘れた」
亮介の意図は、沙穂に正確に伝わったようだ。
真っ青な顔を見れば、わかる。
「もう。亮介が嫉妬することないでしょ」
少し顔を赤くした晴香にも、伝えたかった亮介の意図は正確に伝わったようだ。
「そう? 僕結構嫉妬深いんだよ。病んじゃうかも」
おどけて肩をすくめると、まさかぁ、と晴香が笑う。
かつての僕が傷つけた晴香を、僕はもう二度と傷つけない。
晴香を傷つけるものは許さない。
僕から晴香を奪うものを許さない。
例えそれが長年僕を支えてくれた沙穂であっても。
どんなにこの手を汚したって、晴香にはそれを知られないよう立ち回ろう。
晴香には幸せなものを見せ続けよう。
決意を込めて沙穂を見れば、聡い幼馴染は哀しげな微笑みを浮かべた。