くだらない物語に終止符を
彼は自分のデスクで手元にある大学ノートにびっしりと文字を書き込んでいた。狂ったように手を動かしていた彼だったが、ふと熱が冷めたようにピタリと書くのを止めた。
そして大きく深呼吸をしたあと、今度は四百字詰め原稿用紙に向かって黙々と鉛筆を走らせ始めた。
◆
暑い。家の庭にある縁側に腰かけて俺は真夏の午後を過ごしている。うなだれるような暑さに意識も朦朧としていた時だった。
「縁側は日焼けサロンじゃないよ」
おもむろに顔を上げると、麦わら帽子を浅目にかぶった妹が俺を見下ろしていた。
「買い物行くんじゃなかったのか?」
今日は日曜日であり、妹は朝から友達とのショッピングを楽しみにしていたのを思い出す。
「靴を買いに行きたかったんだけどね。結局止めたんだ」
こうなると妹は俺から離れない。さすがに自分で言うとちょっと恥ずかしいが、妹は俺のことをかなり慕っている。「死んでも離れないから」とは妹の口癖だ。素直で純粋な自慢の妹なのだが、十六歳にもなって兄離れができていないことに心配が募る。
「背中、真っ赤だね」
そう言うと、妹は白い歯を見せながら笑う。端整な顔立ちは母に似たのだとすぐに連想できた。ちょこんと隣にしゃがみこんで俺の顔を覗き込んでくる妹に疑問を投げる。
「つーかさ、家の中なのになんで麦わら帽子?」
「天真爛漫な純白少女って感じを出してみました!」
とりあえず俺は無視した。ナチュラルなモーションで顔を正面に向けて軽く溜息をつく。
「に、兄さんひどい! 縫って直したんだよこの帽子」
熱気が伝わり、ことさら暑くなる。喉を潤すものが欲しくなり、我が妹に指令を下す。
「はいはい、よく頑張りました。氷結、一緒に食べようぜ」
ふっと妹は顔をほころばせ、「はーい!」と元気よく返事をして台所へ跳ねていく。
塀の上の空間が歪んでいるのが見える。ほわほわと揺れていて、今にも何かがワープしてきそうな感じといえば伝わるだろうか。真っ赤に熟れた柿が太陽の光を浴びて輝いていた。見惚れはするものの、今の胃はきっと何も受けつけないだろう。
無理して笑ってみた。目尻に汗が伝うだけで、爽やかさなどみじんも感じない。もう限界は近いぞ妹よ。
止まない熱光線を上空から浴び続ける俺の身体は、日焼けどころか、軽いやけど状態になっていた。有言実行が俺の信条だが、これはいささかやり過ぎた様子。よろよろと上半身がふらつく。
「ラッキー、ラッキーだよ兄さん!」
凛とした声は、暑苦しい空気を吹き飛ばすようだったが、ドタドタと駆けてくる妹はさらなる熱気を携えてきた。
「ルーレット!」
レトロな雰囲気を纏った大きなルーレット板を俺の隣に置いて、キラキラした目で俺を見ている。
「ロックアイスはどうしたんだよ……氷結の意味わかってるはずだろ……」
「私どこにあるかわからなくて……でもラッキーなことにほら、懐かしのルーレット見つけちゃった!」
◆
そこまで書き終えると、彼の手はまたピタリと静止した。
鉛筆を持つ右手が震えている。
「無理だ……俺にはこれ以上書き続けることができない……」
彼の右目にはみるみる水が溜まり、そして滴となって四百字詰め原稿用紙を濡らした。
彼はこの物語の先をどうしても書くことができなかった。
それは、自分の実体験を思い出し感傷に浸っているわけでもなく、オチが見えないという類のものでもない。
どうしようもなかったのだ。
彼は机の上の大学ノートと四百字詰め原稿用紙を置き去りにして、部屋の隅にあるベッドへうつぶせになり、泣いた。
「ただいまー……って、こんな昼間っから何寝てんのさ」
自分の手のひらをうちわ代わりに「暑い暑い」とぼやきながら、彼の同居人が買い物から帰宅した。
「俺にはどうしても書けなかったよ……」
「……ぷっ! まだ書いてたの? あのくだらない話」
くだらない、その言葉に彼は飛び起きて彼女を睨みつけた。
「何よ、くだらない作品にくだらないって言ってるだけでしょ」
彼は四百字詰め原稿用紙を乱暴につかみ取ると、彼女の目の前に掲げた。
「読んでくれ。そして、続きをなんとか考えてくれ。頼む」
彼はいつの間にかまた涙目になっている。
聞き分けのない子供を見るような眼で彼女は仕方なくそれを手に取る。
彼女はソファーにもたれて長い脚を組んだあと、黙々と目を上下させる。彼は悔しそうな表情を崩さずに彼女を凝視する。
「頑張ったじゃない」
「え……」
数分後、彼女の口から出た意外な言葉に動揺を隠せない彼。
「……でもさ、やっぱりあたしが言ったとおりになってるよね」
「う……」
彼女は、また泣きそうな顔に戻る彼に追い打ちをかける。
「ラストはどう足掻いたって無理があるってば」
「……ちくしょう……情けねぇ……」
本気で悔しがる彼を、ほとほと呆れた顔で観察する彼女。
「もういいじゃん。せっかくの休みなんだからさ、散歩でも行こうよ」
「駄目だ! 俺はこの作品を書ききらないと死んでも死にきれない……」
そう言いながらガクッと膝をつき、四つん這いになって床をぼこぼこと叩く彼に、彼女はソファーの上から冷めた視線を浴びせる。
彼女は四百字詰め原稿用紙に視線を戻すと、少しだけ真剣な顔になり、彼に言った。
「これ、あたしが続き書いちゃっていいの?」
「無理だよ……書けたら人間とは認めない……」
「じゃあ、あなたが書ききったら人間じゃなくなるの? あたしそんな人と一緒に居たくないんですけど」
ふぅと一息つくと、彼女は続きを書き始めた。
チッ……チッ……と壁に掛けられたシンプルな時計が静寂を独り占めしている。
「はいよ、これでいいんじゃない?」
彼女は四百字詰め原稿用紙を彼の前でひらひらと見せると、彼は床を叩きすぎて真っ赤になった右手でそれを受け取り、泣きすぎて真っ赤に充血した目で最後の方を読んでみる。
「……!」
ぽかんと口を開け、大きく目を見開き、彼は感動していた。
「す……すげぇ……文章が繋がってる」
「強引っていうか、正直落ちてないけどさ。熱中症で倒れたってことでどう?」
彼女は頬を少しだけつりあげ、人差し指を立ててそう言った。
「ありがとう……」
そう言うと彼は、糸が切れた操り人形のようにその場にへたり込み、また泣いた。
彼女は相変わらず呆れた顔をしていたが、彼の姿を見ていると自然に口元が緩んだ。
(あなたのそのバカで一生懸命なところ、好きなんだよね)
彼女は心の中でそう呟くと、両腕を上に伸ばして「うーん」と背伸びをしたあとに、もう一度四百字詰め原稿用紙に目をやる。
◆
――彼女が改稿した四百字詰め原稿用紙のラストシーン――
レトロな雰囲気を持った大きなルーレット板を俺の隣に置いて、キラキラした目で俺を見ている。
「ロックアイスはどうしたんだよ……氷結の意味わかってるはずだろ……」
「私どこにあるかわからなくて……でもラッキーなことにほら、懐かしのルーレット見つけちゃった! ……を思い出すよね、兄さ……」
ん……後半聞き取れなかったんだけど……と思った瞬間、暑さにのぼせきった俺の記憶はプツリと切れた。
◆
「ひどいオチ。やっぱ落ちてないわ……」
改めて読んだ彼女は、彼のくだらない試みとそれに加担した自分に、両手で腹を抱えて笑い転げた。
彼の机の上には、実はもう一枚大きな紙が置いてある。
そこには、「ごじゅうおんいちらんひょう」というタイトルと、すべてのひらがなが五十音順に書かれていた。さらにそのタイトルの右には、彼の力強い筆跡でこう書かれている。
一つ、冒頭は「あ」で始めること!
一つ、句点後の文頭の文字は次の五十音で始めること!
一つ、「ゐ」、「ゑ」は使わなくてよい!
一つ、「……」や「――」で繋いだ場合は前文の続きとみなしてよい!
一つ、文頭に濁音、半濁音は使用禁止!
一つ、絶対に妥協しないこと!
以上!
今読むとこれまたヒドイ!
作中作が物語になっていない!
でもこのチャレンジ精神は忘れたくないです。