水着はパンツじゃない
今日は日曜日、予定もない。
朝の十時。ロロはまだ寝ているみたいだ。ちなみに今日は床で寝ている。
だが別に起こしたりはしない。起こしても、もともと悪い機嫌がさらに悪くなるし、一緒にゲームするとか、デートするとか、いちいちゃするとかそんなことは一切ありえないと思うからだ。
まあ、そうしたいかというと微妙なところだが、したいっていうならしてもいいかな、くらいには思う。ツンデレ的な意味でなく、そのままの意味で。
俺もアクティブな方ではないので、ロロが現れる前は一日中パソコンの前やゲーム機の前にいたことも何度もあるが、ロロがいるとどうにも色々やりにくい。エロ方面ももちろんだけど、それ以外でもいろいろと気を使ってしまうのだ。
テレビを見ていても、キスシーンとかになるとチャンネルを変えるべきかどうかといったような悩みも発生しないこともない。結局、変えたことは一度も無いが。だって見たいじゃない、やっぱり。
ロロは全くリアクションすることも無く、無表情でチラ見し、またパソコンに向かうだけだから、きっと問題ない。そう思うことにした。
今日もなんとなくワイドショー的な番組を漫然と見ているだけだ。ああ、出かけようかなぁ。着替えるのもめんどくさいなあ。食べるもん、まだあったかなあ。買いに行かないとだめかなあ。そんな感じでだらだらと過ごしている。
「おい、貴様」
あれ、起きたみたいだ。体勢は変わっていないが、目を開けている。
「これは、何だ?」
ロロはテレビを指差している。テレビには遊園地のプール開きの映像が映し出されていた。電車で三十分ほどのところに結構昔からある遊園地で、俺も何度か行った事がある。ウォータースライダーや流れるプールなど一通りそろっているので昔は楽しめたが、最近は行っていないな。なんとなく中学生になると気恥ずかしさが先立ってしまうから。
「プールだよ。いよいよ夏真っ盛りって感じだね」
「なぜみな半裸なのだ? しかもこんなに大勢で。祭りか?」
「だって、泳ぐんだから服着てたら泳ぎにくいでしょ」
「ふーむ、バカの説明ではわからぬ」
と言うと、ロロはパソコンをじっと見つめた。五分ほど経って。
「なるほどな。近いではないか、行くぞ! もたもたするな、ノロマが」
「えっ、行きたいの?」
「何をしているのだ、そんな事だから貴様はいつまでもだめ人間から抜けられんのだ。ゴミクズが。トイレに流されて死ぬがいい」
ロロは既に玄関に出て地団太を踏んでいる。
まあ、いいか。暇だし。それに一人分で済むしね。だけど水着あったかなぁ。と探すと、一応あることはあった。小学生のときのやつ? いや中学でも一回くらいははいた。いける。そう思って、急いで準備をして家を出た。
「早くせぬか、なぜ早くせんのだ。貴様のような無能な男でも、急げば今の十倍は早くなるはずではないか。なぜそうせんのだ」
「いや、無理です。せいぜい二倍が限界ですから」
「ならすぐそうせい。いますぐに」
「そんな、プールに着く前に疲れちゃうよ」
「まったく、怠けることしか頭に無いのか。こいつは」
散々言われながらも、電車に乗ってプールの最寄り駅に行き、そこから直行バスに乗り換えた。
ロロはネットで調べて行き方がわかっているらしく、どんどん先に行こうとする。
その間、電車や車に轢かれること数回。といっても当然すり抜けるんだけど、まだいまいち慣れないので心臓に悪い。
そんなこんなで遊園地についた。チケットを買い、プールへと向かう。料金はプール込みで千五百円だ。小学生は八百円。だがそれはかからない、お得だなあ。俺の少ない小遣いにとても優しいよ。
さっそく更衣室に入って、着替え始めた。ってロロも付いてきているんだが。
「だめだよ、女子はあっちだよ」
「着替えなどすぐできる。ちゃんと水着とやらの形も把握しているぞ」
「いや、そういう問題じゃなくて、他の人もいるし」
「なんだというのだ、他のやつには見えんのだ。問題なかろう」
「でも、俺が恥ずかしいんだけど」
「ふん、貴様の体などとうに見飽きたわ」
えーっ。なんてこった、今まで気がつかなかったけどずっと見られていたなんて。風呂に入ってるとき? 部屋で着替えてるとき? トイレに入ってるときぃ~?
もう埒があかないので、気にせず着替えることにした。俺が丸出しにしても眉ひとつ動かすことは無い。それはそれでなんだかなあ、と思った。
更衣室を出ると、ロロは瞬時に服をスクール水着に変えた。ネットで同年代の水着を調べれば当然そうなるだろう。自然な流れだ、そう思った。
そして、高飛び込みのように複雑な回転の末、プールに飛び込んだ。そのへんは誤った知識を得てしまったようだ。それにしても水には触れるらしい。どうとでもなるんだな、便利なものだ。
俺も、ゆっくりプールに入った。人の迷惑になっちゃいけないからね。
初日とあってかなり混んでいる。だがロロは人をすり抜け自由自在に泳ぎ回ることができるのだ。うらやましすぎるぞ。
「須磨さん、来てたんですね」
振り返ると相良がいた。もはや今にもはみ出しそうな二つの巨大なマシュマロを、真っ赤なビキニで押さえ込んでいる。どうしてもそこに目を奪われがちだが、パレオの中からすらりと伸びた長い足や、くっきりとくびれたウエスト、程よく筋肉のついた二の腕など、どれをとっても非の打ち所がない。だが俺はそんなものに動じない。そんな完璧ボディーなんて、逆に情緒がないじゃないか。
そう思い込むことで、見たい気持ちを抑え、視線を顔に固定した。
「あ、ああ」
「一人ですか?」
一人じゃあないけども、二人と言うわけにもいかないので。
「一人……だよ」
と答えた。
「一人でプールとか、寂しすぎません? 一緒に遊びましょうか? 女の子三人で来てるんですけど」
見ると、後ろにもう二人友達らしき女子がいる。他のクラスなので知らない子だ。
「え、い、いいよ。女の子同士で楽しみなよ」
「そうですか? 私は気にしませんけど。まあ、いつでも言ってくださいね」
「う、うん」
相良は華麗なクロールで去っていった。
「こないだの女か。よく布が破れぬな」
いつの間にかロロが後ろにいた。
「あ、ああ、じょ、丈夫にできているからね」
「丈夫? バカが」
たしかに、そういうことじゃないのかもしれない。じゃあなんて言う? 今すぐ破れて欲しいって? そんな素直な。
言えば叶うのなら言うことを検討しないこともないけどな。
「ところで、わらわはあれをやりたい。貴様も来い」
あれっていうのは、ウォータースライダーだ。日本一とかそういったレベルではないけど、そこそこ曲がりくねった本プール人気のアトラクションである。
「一人で行ってきなよ。俺はまったりと流れるプールで回ってるからさ」
「いいから来い。貴様の恐怖に引きつる顔を見たいのだ」
別に恐怖に引きつったりはしないはずだ。小学校高学年くらいのときに何度も滑ったからね。ロロはそんな事言って自分がちょっと怖いからだろう。
「わかったよ、でも俺は並ばなきゃいけないから」
人気のアトラクションだけあって、かなり行列している。ぱっと見三十分は硬いだろう。ロロ一人ならすぐ滑れるんだが。
「なんだと、待ってなどいられるか、役立たずが――やむをえんな」
ロロが左手を上げると、光の中からステッキが現れた。そして勢いよくそれを振り下ろす。
「キャー!」
そのとたん多くの悲鳴が巻き起こり、あたりがパニックに陥った。
なんとウオータースライダーに並んでいた人たちの水着が、すべて吹っ飛ばされたのである。
ワンピースであろうと関係ない。様々な色の水着が辺りを飛び交い、追いかける人、しゃがみこむ人、呆然とする人、老若男女すべてが全裸となって、さながらヌーディストビーチである。といってもヌーディストビーチのように堂々とはしていないが。
ともかくこれはかなりやばい事態だ。何がやばいって、俺が立っていられない。違う意味では立っているのだが、体勢は前かがみにならざるを得ないじゃないか。
「なにをしている。早く行くぞ」
ロロは何も気にすることなく、当然のように要求してきた。
この状況で滑れるのだろうか、という感じもしていたのだが、係りの人は普通に対応してくれた。ちなみに係りの人は全裸ではない。並んでいた人だけだ。
ウォータースライダーの滑り口に座ると、ロロは俺の体の上に乗ってきた。ペッタリとした水着の感触。でもご心配なく、すでに問題ない状態になっていたので。
「おい、まだ滑るなよ。おい、まだだぞ、まだだ」
そんなこと言われても、俺のタイミングじゃないし。
「ではいきますよ――――――はい!」
「まだだーーーーーっ! バカ者ーーーーーっ! ふざけるなーーーーーっ!」
ロロの絶叫は俺の耳にだけこだましたのだろう。
数秒間の滑走の後、俺達は勢いよくプールへと排出された。
「ぷはあ、ま、まあ、大した事は無いな。子供の遊びだ」
冷静を装うロロ。しかし俺は滑走中はっきりと感じていた。ロロの激しく高鳴る心臓の波動を。
しかし俺は大人なので、
「はは、そうだね」
と言ってお茶を濁すのだった。
周りを見ると、事態はだいぶ収拾しているようだった。水着は係員や周囲の人が拾い、ちゃんと持ち主に届けられたみたいだ。
そんな中、相良が上の方を見ながらかなり困った表情をしているのが見えた。友達も一緒にいる。そしてなにより胸を手で隠している。今にもこぼれ落ちんばかりだ。
上の方に目をやると、電灯のポールに真っ赤な水着が引っかかっている。
「ロロ、何とかしてあげてよ。ロロがやったんでしょ」
「何だと。わらわに命令か、ゴミの分際で。脳味噌から松ぼっくりが湧き出して死ぬがいい」
「そんな事言って、さっきあんなに怖がってたくせに。カオーソに言っちゃおうかな」
「バカな、ぬぅ。これでいいのか」
ロロが左手を動かすと、水着が落ちてきた。簡単なものだ。
と思ったら風に乗ってこっちの方に飛ばされてくる。相良が水着を追ってこっちに走りこんできた。
「どいてくださーい!」
「うわあ!」
俺は水着をつかんでいた。真っ赤なビキニの胸の部分だ。真ん中にリボンがついている。
そして俺は水中にいた。プールに突き落とされたのだ。
そしてそして、相良の真っ白マシュマロが俺の胸に押し当てられていた。果てしなく柔らかくすべすべした感覚の中に、わずかに硬い粒状のものが二つ感じられる。そしてそれらが水の揺らめきに合わせてゆらゆらと揺れ動いているのがわかる。さらにそこから伝わってくる温かい体温。やばい、いろんな意味で意識が飛びそうだ。だが飛んだら死ぬ、これは命の瀬戸際なんだ。ここは天国じゃないんだ。そう強く思った、全力で。
「ぷはぁ」
「ぷはっ」
どうにか理性を取り戻し、水上に出た俺。相良も同時だ。
「え、ええと、これ」
もうとにかく返すしかないと思った。いつまでも持っていてはわざとだと思われかねない。
「あ、ああ、うん」
さすがの相良も、これは伏目がちにもなるよ。そそくさとプールを出て水着を着けた。友達が必死にフォローしている。
ロロがプールサイドから腕組みをして睨み付けている。
いや、おかしいだろう。俺は何も悪くないはずだろう、ロロが原因じゃないか。
「不愉快だ。帰る」
ロロが出入口に向かい始めた。まだ一時間くらいしか経ってないじゃないか。もったいない。
ロロを追って更衣室に近づくと
「豪徳寺さん!」
「あ、須磨くん」
「オルオルじゃないか」
「カオーソ!」
豪徳寺さんが、青と白と水色の柄の入ったパレオつきのワンピースを着てこちらに歩いてきていた。あまり体の線を出したくないのだろう、少しゆったりとしたデザインのものだ。だけどそれでもわずかに女性らしい体の曲線が見て取れる。こんな非日常的な姿を見ると、改めて素敵だなと思ってしまう。
カオーソも、オレンジのサーフパンツをはいてついてきている。かなり機嫌がいいようだ。
「豪徳寺さんも来てたんだ」
「うん、カオーソが行きたいって言うから。いま着いたとこなんだけど」
「オルオル、その水着。ププっ、それは学校のプールで着るやつだよ」
「なにっ、本当か? なぜ教えない? 無能が!」
「いや、こういうとこでも着る人普通にいるし。別に恥ずかしくないよ」
「ぐぬっ」
ロロの水着が、白いビキニに変わった。かなりきわどいデザインだ。大人であれば、いろいろはみ出してしまってもおかしくないほどのものだが、もちろんロロは何もはみ出したりはしない。
余談だが、世の中には小さい子供だからきわどい水着を着ても問題ないという考え方と、小さい子供だからきわどい水着を着せてはいけないという考え方の二つがあり、前者の人はこのような水着を着せていることが往々にしてあるものだ。
「それよりさ、あれ行こうよ。オルオル。ウォータースライダーってやつ」
「残念だな。わらわはもう卒業したぞ、あんな子供だまし」
「えーっ、とか言って怖かったんじゃないの? もらしちゃったとか?」
「バカな! そんなわけ……貴様! ここで殺す!」
すぐさまロロの鉄拳がカオーソを襲った。しかしすんなり右にかわすカオーソ。
そこからは激しい応酬だ。互いに一歩も引かない力と力のぶつかり合い。だけど俺はわかっていた。問題ないだろう、いつものことだ、と。
「二人はほっといて、食事しない? 腹減っちゃったよ」
「うーん、大丈夫? 私もまだ食べてないんだけど」
「いつものことでしょ。いつも怪我しないし」
「そうだね。カオーソ、やりすぎちゃだめだからね」
豪徳寺さんも、もう慣れたみたいだ。
食事は腕輪のICタグで購入し後で清算するシステムになっている。
名物の特大フランクフルトなど、適当に買って空いてる席に着いた。
それにしても豪徳寺さんとこんな親しい間柄になるとは、一ヶ月前は思ってもみなかった。これは二人のおかげであることは間違いない。
「結構いけるね」
「うん」
特大フランクフルトをほおばる豪徳寺さんのほっぺたの膨らんだ顔も、いつもと変わらず素敵だな、と思った。
二人の方を見ると、今日はかなりエスカレートしているようだった。いつもと違って、広い場所でテンションが上がっているのかもしれない。いつも以上に派手な、七色の閃光が飛び交っている。でもこれを見ているのは俺と豪徳寺さんの二人だけなんだなあ、と思うと何か特別な関係なのではないかと勘違いせずにはいられない。
なんて事を考えていたら、二人が猛スピードでこちらにやってきた。
「おい、貴様。もう一度だ」
「カスミ、ウォータースライダー行こう、早くっ」
どうやら戦闘は終結を迎えたらしい。そしてウォータースライダーが全く怖くないことを証明することになったようだ。
「でも、もうあんなことしちゃだめだよ。ちゃんと並ぶから」
「あんなことって?」
「いや、ちょっといろいろあってね、はは」
「えーっ、なんなの?」
「まあいいから、早く行こう」
なんとかごまかして行列に並んだ。昼時だが相変わらず三十分待ちだ。
「ねえ、何があったの?」
意外と粘ってくる。うーん、どうしよう。
「こやつが、乳のでかい女に抱きつかれたのだ。半裸でな」
ちょちょちょっ、ちょっとおぉーっ
「えっ、どういうこと?」
「いや、それはつまりロロが……ええと、事故っていうか、なんていうか」
「なになに? 僕も聞きたいなその話」
これは……これはやばい。この行列に並んで逃げられない状況下で完全に進退窮まった。滑るにはまだまだはるかに遠い、階段を上り始めてもいないのだ。ああどうすれば、何かいい言い方が、考えるんだ。俺は何もやましいことはしていないし、言い方の問題だ、そうだ言い方なんだ。どう言えば。
「え、ええと。ロ、ロロが……力を使って」
豪徳寺さんもカオーソもガン見している。ロロは横目でこちらを伺っている。ああ、なんでこんなことに。
「ロロが力を使ってね、並んでる人を全部どかしてしまったんだ。うん、大変だったんだよ。それでね、ええと相良さんって知ってるかな? 同級生なんだけど、その人がねちょっと困った状況になっていてね。だから助けてあげてよって。そしたら」
「そしたら?」
「ええと、だから、つまり」
いや、やはりこれは言ってはいけないのではないか? 俺のためでなく相良の名誉のためだ。そうだ、これはやはり言ってはならないことなんだ。
「ごごっ、ごめんっ」
俺は走った、焼けたプールサイドを。全力で更衣室に走りこみ、着替えを済ませ、会計を済ませ、バスに飛び乗ったのだ。
ああ、もうだめかも、嫌われてしまったかもしれない。だがこうするしかなかった。俺は失意の中、自宅へと舞い戻ったのだった。
その日、ロロは帰ってこなかった。
帰り道はわかっているはずだし、帰ってこれないことはないと思う。きっと俺と顔を合わせずらいのだろう。
ううん、でもちょっと心配にもなる。食べなくても問題ないけど、どこで寝てるんだろう。暴漢に襲われたり誘拐されたりとかはありえないとはいえ、それでも何かあるんじゃないかという気がしてしまう。ああなんで、こうなったのも全部ロロが原因なのに。でも俺のせいでもあるのだろうか、いったいどうしたらよかったっていうのか、わからない、わからないよ。
翌日、俺は寝不足の目をこすりながら、学校へと向かった。
憂鬱だ、豪徳寺さんになんて言おう、というか話をしてくれるだろうか。目を合わせてもらえないかもしれない。なんてこった、おっぱいを押し付けられていい気になっていたら、こんな地獄が待っていたなんて。
教室に入ると、豪徳寺さんは一人で教科書を開いていた。一瞬こちらを見て、すぐまた目を戻した。
ああ、やっぱり、やっぱりだめなのかも。いや、ここは俺の方から……何て? 何ていうんだ? 何ていうんだぁあああ。おはよう、って? その後は? ううむ。
「なんだよ、なんか今日元気ないな」
加藤か。加藤は今日も元気そうだ。きっと悩みなんて無いんだろう。
「うん、まあ、ちょっとね」
「なんだよ、具合悪いのか?」
「いや、大丈夫。ちょっと寝不足なだけだから」
「そうか? まあほどほどにしとけよ、あんまりやりすぎるとよくないぞ」
何のことか、いやわかるけれども。いまはそんなことに突っ込む余裕も無い。
寝てたか起きてたかわからない間に放課後になっていた。
加藤とは何か話したが、豪徳寺さんとは話せていない。
だけどせめて、ロロがあの後どうしたかは聞いておかないと。探すこともできないし。もうなるようになれだ。俺は豪徳寺さんの席に小走りで近づいた。
「ご、豪徳寺さん、あの……」
豪徳寺さんはうつむいている。
「あ、あの後……」
「ごめん……なさい」
豪徳寺さんは蚊の鳴くような声でその一言を発した後、すぐに鞄を取り早足で教室を飛び出していった。
え、ちょっと待って。この時点で俺のガラスのハートはもはや限界に達していた。もうほんのちょっぴりでも触れただけで砕け散るだろう。でも追うしかない。ここまできたらやるだけのことをやるしかない。おそらくだが、俺はちょっと泣いていたんじゃないだろうか。周りの景色がよく見えなくなっていた。
「ま、待って、うわぁ」
しばらく追いかけ、もうすぐ追いつくというところで、教室から出てきた人にぶつかった。首の辺りにぽよんという感触がして、俺とその相手は廊下に倒れこんだ。
「ごご、ごめん」
と見ると相良だった。相良はこちらに気がつくと顔を赤らめ、
「だ、大丈夫ですから」
と目を逸らして言うと、早足で立ち去った。
もう俺、明日から不登校かも。引きこもりの仲間入りかもしれない。ロロもいない部屋で一人ぼっちで死んでいくのかも。そうなったら遺体は誰が発見してくれるんだろう。腐っていなければいいけど。そういう気持ちでノロノロと歩き、ようやく校門までたどり着いた。
「いやー、昨日はごめんね。ちょっと意地悪しすぎちゃったよね」
誰? カオーソ? そんな感じの美少年ボイスだ。
「ほら、オルオルもあやまんなよ」
ん、ロロ? いるのか? どこだ? 見当たらないんだが。
「うわ、やばいよ。見えてないみたいだよ。早くあやまんなよ、パロが解除されちゃうよ」
「う……うむ」
パロ? なんのことだろう。右の方からロロの声がかすかに聞こえた気がした。
「す……すま……ない……」
ロロ……、そうか、反省してくれてたんだ。あのロロが謝るなんて。俺、まだちょっとは生きてていいのかも、そんなわずかな希望がじわじわと胸の奥から湧き上がってくるのを感じ始めた。すると、目の前にぼんやりと真っ黒なドレスのロロの姿と、灰色のタキシードのカオーソの姿が見えてきた。
「カスミもすごい落ち込んじゃってさ、大変だったよ、あの後すぐ帰るって言い出して。僕は大丈夫だって言ったんだけど。オルオルも昨日から一言もしゃべってないし」
「いや、俺が逃げたりしたから」
「まあ事情はよくわからないけどさ、仕方ないよ。あ、ちなみにカスミはそこにいるよ」
えっ、と脇の街路樹を見ると、豪徳寺さんが弟を影から見守る姉のように隠れて見ていた。
じゃあ、俺、また仲良くしてもらえるのかも、そう思い一歩を踏み出したとき
「須磨さん」
と大きな声がし、校門の外から相良が走ってきた。
「やっぱり、このままじゃいけないと思いまして」
今度は俺の目をじっと見つめてきた。相良にこんな目で見つめられたのは初めてじゃないか。二つの大きな瞳が黒真珠のように光って見える。どんどん吸い込まれていくようだ。
「ごめんなさい、私。なんか取り乱してしまって。須磨さんは何も悪くないのに、つい話し辛くて……」
「あ、ああ、いや。俺もなんか、悪いことしたんじゃないかって」
「忘れてください。あのことは」
相良は俺の手を握って、顔を近づけてきた。ほんのりとシャンプーの香りと汗の匂いが鼻腔をつき、自然に血の巡りがよくなってしまう。なんか短時間で急激にテンションが乱高下して、頭がおかしくなりそうだ。
「う、うん、わかった」
でもきっと一生忘れることはできないだろう、あのおっぱいの感触は。俺の胸にフィルムのようにくっきりと焼き付けられてしまっているから。でも約束する。忘れたことにすることを約束する、そう心に誓った。
「ありがとう、じゃあ、明日からはいつも通りでお願いしますね」
「うん」
「それでは、また明日」
と相良は手を振って去っていった。
「あの人が……相良……さん?」
すぐ左から声がして、思わずビクッとなってしまった。豪徳寺さんがすぐ傍まで来ていたのだ。
「ああ、そうだよ」
「ふうん、すごく綺麗な人だね」
豪徳寺さんは、去っていく相良をじっと見つめている。
ええと、ここは……。そんなことないよ、豪徳寺さんのほうがかわいいよ。だろうか? いや言えない、まだ言えない、そこまでは言えない。俺、チキン野郎なんで……。
「ま、まあ、ね」
豪徳寺さんは、一度俺の方を見、また相良の行った方を見た。相良はもう見えない。
どうなんだろうか、これはどういうことだろう。ちょっとした修羅場的な何かなんだろうか。彼女でも幼馴染でもないはずなのに、修羅場的なことが起きているんだろうか。いや考えすぎだ、ちょっと感想を言っただけ、そうなんだ。
「あ、ああ、ええと、ロロッ、ロロは、あの」
動揺する必要ないのに動揺している、ああ、俺はなんてだめなやつなんだ。
「うん、ロロちゃんね。昨日はうちに泊まったんだ。ぜんぜん話してくれなかったんだけど」
「ああ、そうなんだ。実はちょっと心配してて」
「そうだよね、ごめんね連絡しなくて。なんか私……悪いことしちゃったって、思って……」
「いやそんなことないよ、大丈夫。面倒見てくれたんでしょ。感謝してるよ」
「うん」
豪徳寺さんは黙り込んでしまった。
でも俺はこんなとき、笑いの一つでもとってリラックスさせることすらできない。だめなやつなんだよ。
「ほら、もう帰ろう。ロロもカオーソもきなよ」
豪徳寺さんの家と俺の家はかなり方向が違うので、一緒に帰るのはほんのちょっとだけだ。
カオーソは元気に手を振っていたけど、豪徳寺さんはまだ完全には元気を取り戻していないみたいだった。
でも俺は十分だった。俺の心の闇はすっかり晴れていたんだ。もはや俺はスキップで自宅まで帰りたくなるほどテンションが上がってしまっていた。
「ロロ、ほら」
調子に乗ってロロの手をとり、スキップまではしなかったが上機嫌で自宅に戻った。
ロロはいつも通りの仏頂面だったけど、嫌がるそぶりは見せなかった。それだけでも、ちょっと距離が縮まったような気がする。
部屋に入ると、いつもの通りロロはパソコンの前に座った。
でも昨日は座ってなかったんだ、それが今は座ってる。まだ出会ってからそんなに時間が経っているわけじゃあないけど、もう座ってるのが当たり前になっていたってことに改めて気づかされる。不思議なものだ。
その日は布団に入るとすぐにぐっすり寝てしまった。