パンツはいつも見えない
見えたっ!
願望はただ念ずれば叶うものではないということは百も承知だ。だがそれでも念じなければ何も実現したりはしないだろう。念じることは叶うことへの第一歩であることは疑いようのない事実、その確信は持っている。
だから俺は念じた。まだ見えていなくても見えたと思えば見える、正夢というか予知能力といえばよいのだろうか、信じれば叶うというドリームカムトゥルーの精神はこの世の中にまだ存在していると思いたいんだ。
しかし現実は想像より二割り増しで過酷だったようだ。スカートのすそは鉄板のように下着をガードしたまま、ピクリとも動きはしなかった。それはまるで全世界が俺の願望をあざ笑い、罵り、つばを吐きかけ、無慈悲に底の見えない谷底に蹴り落とすかのように感じられた。
俺の精神力はこんなものか、努力ではどうにもならない限界が世の中にはあるのか、そう絶望せずにはいられない。
「おいおい、なにぼーっとしてんだよ。そろそろ昼飯いこうぜ」
加藤が話しかけてきた、俺は絶望する気持ちを右の眉にのみ残し、あとの部分では笑顔をつくって「ああ、そうだな。学食、学食」と答えた。
だが学食でも試練は続いていた、学食の女子高生も当然のことながら軒並みミニスカートをはいていたが、誰一人として下着がちらりとも見えている者はいなかったのである。
何ということだ、ここは地獄か、女子高生がいない場所が地獄なのではない、いるのに下着が見えない場所が地獄なのだ、そのことをいまさらながら思い知らされた。
ラーメンの食券を買った俺は、加藤より一足先に空いている席に着いた。学食の隅の方の壁際の席だ。ここからは学食全体がよく見渡せる。
そこで加藤を待つ間、俺は昨日の出来事を思い出していた。
それはいままでの俺の人生の中で、限りなくトップに近い、でも惜しい、かなり惜しいけれども残念ながら二番目に不思議な出来事なのだった。
あれは六時前くらいだっただろうか。まだ日は沈んでおらず、周囲は明るかった。俺は帰宅するため、自宅の近所の住宅街を歩いていたんだ。すると、空から女の子――ならぬ、全裸のおっさんが降ってきたのである。
そしてコンクリートに叩きつけられ――であればさすがに今日は気分が悪くなり、学校を休んでいたかもしれないところだが、生憎、いや、幸い両足できっちりと着地した、まったくの無傷のようだった。
どうやら二階から飛び降りてきたらしく、すぐさま家の中へと入っていった。理由などはまったくわからない、確認できるはずがないだろう、知らない家の恥ずかしい事情だ。
それにしても不思議な出来事だったなあ、そう思っていると、加藤がAランチを持ってやってきた。今日のAランチは特大コロッケである、俺もちょっと迷ったが、あまり腹が減ってなかったので回避した。
しかし加藤もおかしなやつだよ、あれだけイケメンで見上げるような長身、おまけにかなり頭もいいしスポーツもこなすのに口を開けば下ネタばかり、おかげで女子はおろか男子にも若干引かれ気味、それで俺といつも昼食ってわけだ。
まあ俺はといえば、特に人気があるでもなく、かといって嫌われているわけでもない、と俺は信じているが、そんなに親しいやつは多くない。たまたま入学した時に隣の席が加藤だったせいで何となく話し始め、今に至っているわけだ。
とはいえ、俺も下ネタが嫌いってわけじゃあないってことが影響しているとも言える、というより好き好き大好きであり、下ネタだけ聞いていれば幸せでいられる、と言っても過言ではない。
しかし公にはしていない。むしろばれないように細心の注意を払っている。あくまでも心の中に留め、加藤に突っ込みを入れる立場を死守している。いい下ネタを思いついても言わずに我慢している。加藤より俺の下ネタのほうが面白い、そう思うこともしばしばだ。
「いやあ、参ったよ、ここに来るまでブラチラが一回もなかったんだ。信じられないよ、もう夏服だっていうのに」
加藤は胸派なので、常にブラチラに期待している。その長身から見下ろす襟口からちらりと覗く神が与えたもうた奇跡の瞬間を常に待ち望んでいるのだ。だが奇跡は滅多に起こらないからこそ奇跡なのである。
「いや、見えないから、そう簡単に」
そう流した。だが当然俺もパンツが見えなかったことにかなり落胆しており、その意味では俺の気持ちを代弁してくれたのかもしれないとすら思う。だがそれでも、だよな、見えてもいいじゃないか、三分に一回は見えてもいいじゃないか、とは言えない、勇気がないから、チキン野郎だから、仕方ないのだ。
「ところでさ、今度の日曜だけど――」
そこから後は聞いていなかった。なぜなら現れたのだ。彼女が、この学食に。
その目元は視線を合わせた全ての人間に癒しを与えるような慈愛にあふれ、鼻筋はこじんまりとして軽い愛嬌を感じさせながらも、どことなく気品があり、薄い口元は桜の花びらのように緩く閉じられている。スタイルも太すぎず細すぎずの絶妙なラインを描き、弾ける若さと淑やかな女性らしさを感じさせる。愛と美の女神アフロディーテも、彼女には一目置くだろう。うむ、文句なしだ、今日も完璧だよ、豪徳寺さん。
同じクラスなので実のところさっき見たばかりだが、それでも全身がはっきりと見えるこの角度で確認できたのは収穫である。
普段は手作りの弁当を持参しているのだが、最近ちょくちょく学食に来ているようだ。まあ、誰だって作るのが面倒なときもあるだろう。
「……おい、聞いてる? スマホン? なあ、スマホン」
スマホン、それは俺のことだ。名前から来ている。加藤が勝手に呼んでおり、他にはそう呼ぶやつはいない。みんな苗字に君付けだ。そういった意味では、俺はあまり目立たない方なのかもしれない。
ちなみに俺はスマホは持っていない。母親が言うには、スマホは二十歳になってからだそうで、一人暮らし用に通話とメールのみの携帯を持たされている。校則の関係で学校には持ってこれないが。
「ああ、聞いてるよ。日曜だろ、駅前でも行くか?」
「いや、その話は開始二秒で終わったよ、日曜は雨みたいだってね。で、そこから延々とロリ巨乳の素晴らしさについて語っていただろ、聞いてなかったのか? いかに巨乳とロリを両立させ、なおかつ全体のバランスを崩さないでいるか、その微妙なさじ加減が大事なんだって」
ああ、ああ、そうだったか、俺もそれは同意見ではあるが、どうしても聞いておきたかったという話でないことはわかった、なぜなら昨日も聞いたし先週も聞いた、いままで幾度となく聞いた話だからだ。
ちなみにその概略を言うと、加藤はロリ巨乳というのはあくまでもおっぱいの大きい大人なのに童顔、というギャップがいいのであって、断じてロリコンでありかつ巨乳好きなのではないとのことである。そしてそのバランスとはつまりそのギャップが開きすぎず、かといって縮まり過ぎない絶妙のポイントがある、とのことだ。そのポイントを探るべく、様々な巨乳アイドルを例に挙げてあれこれと述べるのがいつものパターンである。
そんな加藤の趣味はともかく、その後も俺は豪徳寺さんの全身からふんわりと溢れ出している春の暖かさのような優しい雰囲気を強力に意識しながらも、それは全く表には出さず、加藤の話に適当な相槌をうった「ああ」「おいおい」「ああ」「おいおい」といった感じで。
午後のことは忘れた、だがここまでは単なる前振りであり、ここからがこの話の本題なのだ。自宅についた俺を、お汁粉の白玉が転がるようなそんなキュートな声が出迎える。
「ん、帰ったのか、このゴミ溜め人間が。臭いと思ったわ。けつの穴から大木が生えて死ぬがいい」
大丈夫、もう慣れた。だが何を隠そう、これが一週間ほど前に現れた、今までの短い人生の中で最も不思議な出来事の主人公なのである。
名前は不明、正体不明、なぜここにいるのかも不明。そして俺にしか見えないし声も聞こえないし触れない、ついでに言うと匂いもわからないようだ、このチョコレート工場のような甘くてほろ苦い香りも、他の人にはわからないらしい。
そう、つまり俺の妄想なのだ。とも思えなくもないのだが、それにしては俺の願望に応えるわけでもないし、常に俺の家にいて、じっとパソコンを見つめている、なんとも奇妙な存在なのである。
ちなみに俺は六畳一間のアパートで一人暮らしをしている。高校からは一人暮らしだろ、常識的に考えて、と母親が言うと、なるほど確かにな、と父も同意、妹も無言でうなずき、有無を言わさず強制的にそうなった、そんな家なのだ。
「もうそろそろ、名前くらい教えてくれてもいいんじゃないかな、減るもんじゃなし」
「能無しに教える名前など無いと言っているだろう、役立たずが。ネットをしているのだ、邪魔をするな」
パソコンはパソコン用のデスクではなく、低いテーブルに置いてあるのだが、電源は入っていない。だが、電源を入れなくてもネットは見れるらしい、直接的なアクセス的な何か超常的な力によってできているとのことだ。よくわからないが、できているんだから仕方ない。実際ネットで仕入れたと思える情報を口走ることもある。
見た目は銀髪の少女である。美少女と言ってもいいだろう。ただ表情はかなり険しいので愛嬌は無い。笑うと可愛いのかもしれないが、笑ったのを見たことは無く、常に怒ったような表情をしている。
背は一m二十くらいだろうか、多分小一くらいだと思われる、あくまでぱっと見にだが。しかし落ち着き払った雰囲気はとてもそうは思えない、還暦過ぎの貫禄すらある。服装は普段外を歩いていて見かけるようなものではなく、かなりゴージャスなフリルと刺繍をあしらったドレスである。たまにドレスのデザインが変わっているが、着替えるところを見たことはない。ともかく全てが謎なのだ。
「あ、そう言えば昨日……」
「知っている、おっさんだろう、裸の」
「え、なんで」
「ネットでな、あれは最悪だ。関わるべきではないな、目が腐る。まあ貴様がどうなろうと知ったことではないが」
「あ、ああ、そうなんだ」
ネットにアップされていたのだろうか、一瞬の出来事だったがそれでもアップされてしまうとは恐ろしい世の中になったものだ。自分も万一全裸で街を走り回らなければならなくなったとしたら、もう終わりだな、人生。
数日後の放課後、俺は加藤と共にしばらく街をぶらつき、さんざんパンチラのチャンスを逃した後、一人家路についていた。
加藤はブラチラが一度だけあったらしい、全くそういった意味でも今日はついてないと思った。
とぼとぼと歩いていると、ふと、そういえばこの辺だったな、と記憶がよみがえってきた。この路地、このブロック塀のひび割れ具合。向かいの生垣の荒れ具合。間違いない。
もちろん、他ならぬ全裸のおっさんである。
顔はよく見なかったが、あそこはまじまじと見てしまった。あそことはどこかは、はっきりとは言わないので察してほしい、真っ先に思いつくはずだから。
まあ、もう二度と見ることはないだろうけどな、と不意に何気なく上のほうを見てみると。
あった。
それがだ、ともかく察してほしい。
そして何事かを認識する間もなく、それは俺の顔面へと直撃した。柔らかく、そして温かい。そんな優しさに包まれた俺は、そのまま地面へと叩きつけられたのだった。
前の柔らさと後ろの硬さ。俺には後ろの方が何百倍もましに感じられた。その絶望感、俺は俺自身の魂が漆黒の奈落へと急降下していくのをはっきりと感じることができたのだ。
おっさんはすぐさま立ち去ろうとしている。俺はどうしても一言言わずにいられない気持ちを抑えることができなかった。だってそうだろう、このような地獄を味わされたのだから、謝罪の一つも必要だろう。謝罪で収まるかどうかも定かではないが、まずそこからだろう。それが人間として当然のことだろう。そんな激しい気持ちがとめどなく溢れ出し、俺は咄嗟に声をかけてしまった。
「ちょ、待って」
「なんだ、てめぇ。文句あんのか?」
よく見たら、かなり怖かった。表情が険しいし、なによりかなり目が逝っている。口元も緩く、とても正気とは思えない。薬物中毒か何かだろうか。顔をよく見ていたら、間違いなく声をかけてはいないだろう。だがもうかけてしまった後だ。時は戻らない。
「あ、ああ、すいません、つい」
目を逸らす俺、だが許してもらえそうにない。やばい、俺もうだめかも。ダッシュで逃げるか。足の速さに自信はないが、このおっさんも速そうじゃないし、それしかない。そう思った、そのとき。
「ゴミめ、こんなところで何をしている」
銀髪の美少女がそこにいた。出歩いているとは珍しい。いつもは家から出ようとしないのに。
「あ、いま、ちょっと」
「む、やはりそういうことか」
美少女はニヤリと微笑むと、猛スピードでおっさんに突っ込んでいった。その速さは一瞬姿が見えなくなるほどだ。そしてあっという間におっさんをすり抜け、何かを激しく殴りつけた。蹴りつけ、踏みつけ、ボコボコに痛めつけた。全く見えないが、そこにある何かに激しい暴力を振るったのだった。顔は常にほんのり笑っていた。彼女の笑顔はこのとき初めて目にしたわけだが、笑顔がかわいいね、という状況でないことは間違いない。
「ううっ」
すると、突然おっさんが前のめりに倒れた。受身も取らず、顔面をコンクリートに強打したのだ。おい、やばくないか? 死んだんじゃ。だがすっくと立ち上がり、自分の姿を確認すると、
「ひぃっ、すいません、すいません」
と泣きそうな声で喚きながら、ダッシュで家の中へと入っていった。その表情はさっきまでとはまるで別人で、気の弱そうな中年サラリーマンという印象だ。何なんだいったい。
「おい、帰るぞ、ノロマ」
美少女がスタスタとこちらに歩いてきて、目を合わせようともせずに言う。息も切れていない、平然としている。
「あの、どういうこと?」
「たちの悪いのが憑いていただけだ、まあもう二度とこちらには現れまい」
「ふうん」
彼女と同じようなものということだろうか。他人には見えない何かか。まあでもこれだけは言える。
俺じゃなくてよかった。
「でも助けてくれるなんてね。驚いたよ」
「はあ? バカが。貴様を助けたわけではない。わらわがぶちのめしたくなっただけだ。満員電車で全裸のおっさんにぎゅうぎゅう詰めにされて死ぬがいい」
「そっか……でも……」
「何だ」
「ありがと」
「ふん」