最後のパンツ
「貴様……ゴキブリに食われて死ぬがいい」
なんだろう、今日はまだ何もしてないんだけど。珍しく学校に行く前に起きたと思ったら、この台詞。
「今日は、どうかしたの?」
「ふん。貴様……よだれが止まらなくなり、息が詰まって死ぬがいい」
どういうことだろう、ちょっと気になるがもう時間がない。
「とにかく、もう行くよ」
「愚か者が。どこへなりと行くがいい」
いったいどうしたっていうんだろう。いつも機嫌は悪いけど、今日は特別に、というかいつもとは違う感じなんだよなあ。帰ったらもう一度聞いてみるか。
「おはよう、豪徳寺さん」
「須磨君……」
なんかずいぶん元気がないようだ。顔色も悪いし、涙目になっている。
「どうかしたの? 具合でも悪いの?」
「聞いてないの?」
「何のこと?」
豪徳寺さんはすっと立ち上がり、俺の耳元でこうささやいた。
「今日、帰っちゃうんだよ、二人とも」
帰る? 誰が? いや、わかる。でもなんで、お母さんにも認められたんじゃ。
「え、どうして……」
「詳しいことは、放課後ね」
なんか耳元でささやかれると、クラスのみんなに内緒で付き合っているかのようだ。でもそんなうれしさより二人がいなくなるショックが大きい。あんなに苦難を乗り越えてきたのに。そんな、急すぎるよ。でもそう考えると、この前のことも説明が付く。もう帰る寸前だからあんなに焦っていたんだなって。ってことは本当なのか、残念だけど本当なんだ。
その日は一日上の空だった。ロロと出会ってからの記憶が繰り返しよみがえり、授業どころではなかった。思えば俺はパンツの事ばかり言っていた。パンツをはけ、パンツが見たい、パンツが欲しい、パンツをかぶりたい、パンツに包まれて眠りたい。そんな俺でも楽しかったんだ。結局は楽しかった。それなのに。
「スマホン。なんか今日おかしいぞ」
「あ、いや、なんでもないよ」
「そうか? いまあそこでパンチラあったぞ。転んだ瞬間見えたんだ。お前も見ただろ」
「え、いや、気づかなかった」
加藤はかなり心配そうな表情に変わった。俺のパンチラに対する嗅覚に気が付いていたのだろうか。そしてその俺がパンチラに気が付かないことに衝撃を受けているのだろうか。そうだとしたら、俺はいったいどうしたら。なんて言ったらいいんだろう。
「そうだな、こんなときはおっぱいの話をしようじゃないか。おっぱい、それはこの世に生を受けたとき最初に口にするものだ。そしてその喜びを忘れられず、一生口にしたい、そして見たい、触りたい、もみもみしたいと無意識に心の底で願い続ける、そんな人類最高の夢なんだよ。わかるか、大きければいいってものじゃあないぞ、形だって大事だし、張りや柔らかさも大事だ。色や香りや味。さらにはおっぱい以外のすべてを含めた上でのおっぱいなんだよ。そう、何事も最後はおっぱいにたどり着くんだ。では、おまえはおっぱいに何を挟む? 自分の体以外でだ。もちろん体ならどこでも挟みたいさ。だが敢えて別の何かを挟むことで、見えてくる真理もあると思うんだ。そこで提案なんだが俺は、おっぱいにイチゴ大福を挟んではどうかと思うんだ。つぶしてしまうかもしれない、でもなんとか持ちこたえられれば、その甘さとフルーティーな感じがおっぱいとマッチして、絶妙なハーモニーを奏でると思う。どうだ、スマホンもそう思うか?」
加藤……なんてお前はいいやつなんだ。俺は涙がとめどなく溢れるのを止めることができなかった。だから走った、昼休みの校庭を何週も走ったんだ。前がよく見えなくなっても、拭うことなく走り続けた。そして疲れ果て、芝生に倒れ込んだんだ。
「ほら、まだ何も食ってないだろ」
加藤がパンと和菓子をくれた。正確にはメロンパン二個とイチゴ大福だ。突っ込むより先に貪り食った。そして牛乳もくれたんだ。もうここまでされれば十分だった。笑うより泣けた。加藤は「おっぱいかよ」って言って欲しかったんだろうか、わからない。だがおれは「ありがとう」としか言えなかった。
「もう、大丈夫」
「そうか、まあいろいろあるさ」
いくらか元気を取り戻した俺は、放課後校門の外で豪徳寺さんと待ち合わせた。さすがに教室から二人一緒に、というのは気が引けた。いや、あくまで豪徳寺さんを気遣ってだ。というか正直、小心者なもので。
「カオーソが言うにはね、パロの契約は二十九日しかもたないんだって。それで今日がその日らしくて」
「もっと早く言ってくれれば。いや、仕方ないか」
「あと、契約が切れたら……」
豪徳寺さんはそう言うと涙目になった。俺は自分のことでいっぱいいっぱいだったけど、豪徳寺さんも今日一日つらい気持ちだったんだろう。必死にこらえていたのかもしれない。そう考えると自分が情けない。
「全部……忘れちゃうって……」
忘れる……。思い出も持ってられないんだ。そうだよな、だってこんなことがあるって知らなかったし。この世の中に情報がないってことは、そういうことだったんだな。これまでもずっとそうやってきたんだろう。
「さみしいね」
「うん」
しばらく二人とも無言だった。何か言うような感じでもない。ただ、一緒に寂しさを噛みしめていた。
「何時ごろなのかな、聞いてる?」
「五時過ぎにはもう厳しいみたい、あんまり時間ないね」
「そっか。じゃあ、一緒にお別れ会しよう、うちでいいかな」
「うん、カオーソと一緒に行くね」
そして俺は豪徳寺さんと別れ、自宅へと戻った。
「ただいまー」
いつも通り返事はない。だが、なんかいつもと違う雰囲気なんだが――パソコンの前のロロの姿が無い!
えっ、ひょっとしてもう? そんな……ひどいよ……まだお別れもしてないってのに……。
いてもたってもいられず、俺は外に飛び出した。ロロ、まだどこかにいるのか、まだどこかに。
とにかく近所を走り回った。まったくあてなんかないけど、走るしかできなかったから、走ることでしか気持ちを静めることができなかったから、とにかく走り回った。
公園を横切り、裏路地を抜け、大通りをひた走った。でもこんなに走りたくても疲れるなんて、肉体は理不尽なもの。とぼとぼと歩いていると、俺はいつの間にか家の前に戻ってきていた。
すると、豪徳寺さんが息を切らせて走ってきた。
「カオーソが、はぁはぁ、いないの、はぁはぁ」
「ロロも……いないんだ……」
「ひょっとしてもう?」
「そんなことないと思うけど……さよならも言ってないのに」
「そうだよね。それにまだ二人の事覚えてるし」
「そうか。覚えてるってことはまだ契約は切れてないって事だもんね」
「でも、どこに行ったんだろう」
「うーん」
家の中に入る気にならず、二人で家の前にしゃがみこんでいた。
すると、十字路を曲がってロロとカオーソが走ってきた。カオーソは相良の、ロロは真実の手を引いている。
「ロロ!」
「カオーソ!」
俺と豪徳寺さんは立ち上がり、二人の名を呼んだ。正直ほっとした。もう会えないのかもと思い始めていたから。
「家にいなかったから探しちゃったよ。こっちにいたんだね」
「貴様、こんなところで何をしている。なぜ家に入らんのだ、浮浪者が。ドブに足が挟まったまま死ぬがいい」
なんかそう言われても嬉しい感じがする。これも聞き納めなのだろうか。
「ロロちゃんとカオーソちゃん、今日帰っちゃうんですね。せっかく知り合ったばかりなのに」
「豊さん。先ほど巨人の方が一瞬だけ現れまして、奥様が迎えに行きたがるのを止めてるから、こちらには来られない、お世話になったね、とおっしゃっていました」
「せっかくだからね、みんなにお別れを言おうと思ってさ。ね」
「う、うむ」
そうか。二人が見えるのはこの四人だけだもんな。だからみんなを集めたってわけか。でも、一言連絡してくれればいいのにな。こんなに心配させて。
「ちょっとそこの川原まで行こう。この人数じゃ部屋は狭いしね」
確かに俺の部屋は狭い。だけどそんなはっきり言ってくれなくてもいいじゃないか、とも思ったが、この状況下では些細なことだ。
俺達は連れ立って川原に歩いていった。俺の部屋から川原までは徒歩十分ほどだ。そんなに大きな川ではないが、土でできた土手とちょっとした草地がある。釣りをする人がたまにいるくらいで、だいたいいつも人はいない。
川原に着くと、カオーソとロロが土手をちょっと上がったところに立ち、残りの四人が下の草地に立った。
「では、ええと」
カオーソが話し始めた。いつも通りの笑顔で、寂しさは感じない。
「僕らのパロ契約は今日で期限切れになります。契約が切れたら、みんな僕らのことが見えなくなって、僕らのことを忘れちゃう。でも僕らはいなくなるわけじゃない。住んでる世界は違うけど、すぐ近くにいる。だから全然寂しくないと思うんだ。僕らはちょっと早く契約しちゃったけど、カスミは思ってたよりももっと素敵だった。優しいし、厳しいところもあるし、可愛いし、おっぱいも柔らかいしね。それに料理も上手だ。何度もお弁当食べちゃってごめんね、すごくおいしかったからさ。それとみんな、オヤジとオフクロのことで迷惑かけちゃったけど、正直結構楽しかったんだ。あのときは必死だったけどさ、結局最後までいられることになってほんとによかったよ。おかげでここに四人も来てくれたし。普通は一人だけだから。もっと一緒にいたかったけど、契約の期限は変えられないから……」
ちょっとカオーソの表情が変わった。目を瞑り、何度も腕でこすっている。やっぱり寂しいんだろうな。
「僕からはおしまい、ほらオルオルも」
「う、うむ」
ロロは俯いたまま動かない。挨拶なんてできるのだろうか、なんか心配だ。何も言葉がなくても俺は構わないけど……。
「わ、わらわも……」
10秒後。
「そ、その……」
20秒後。
「た、楽し……かった……」
ロロの目にはうっすらと涙が浮かんでいるように見える。なんだか俺も目の周りが水っぽくなってきた。ふと見ると、豪徳寺さんは既にぼろぼろと涙を流し、鼻をかんでいる。相良と真実も寂しげな表情だ。
「あ、あと……」
なんだかロロとカオーソの姿が薄くなってきたような気がする。これってひょっとして。
「もうそろそろみたいだ、みんな……さよならだね」
「ロッ、ロロッ!」
俺は思わず声を出した。なんかこのままお別れなんて、もう少し、という気持ちがこみ上げて。
「貴様!」
急にロロが声を上げた。
「ロッ、ロロではない。本当の名を呼べ、最後のときくらい」
「オッ、オール(L寄り)ド」
「違うっ、バカ者! バカ者が! オール(L)ドではないオール(R)ドだ」
「オール(ややR)ド!」
「違うっ! パンツを口に詰め込んで死ぬがいい!」
「オール(微妙にR)ド!」
「違うっ! パンツの山に埋まって死ぬがいい!」
「オール(そこそこR)ド!」
「違うっ! パンツで逆さ吊りにされて死ぬがいい!」
なんか、もうかなり薄い、そんな。こんなんで。こんなんで終わりなんて。
「カオーソ! 私。忘れたくない!」
カオーソはにっこり微笑んだ。
「オーーーーール(R)ドォオオオ!」
そのとき、ロロの顔が笑顔に変わった――気がした。
俺は川原に立っていた。豪徳寺さんと相良と真実と一緒に。
なんでだろう、思い出せない。ここで何をしていたんだっけ。この四人に何か共通点があったっけ。なんか大事なことがあったような、少し悲しいことがあったようなそんな気がするんだけど何も思い出せない。みんなもなんだか戸惑っているような感じだ。
「何、してたんだっけ?」
「私もわからない」
「私にも解りません」
「私もです」
「まあ、もう晩飯時だし、帰ろうか」
「私、真美ちゃんを送っていきますね」
「あ、ああ頼むよ相良」
「一人で平気ですよ」
「どうせ方向一緒だし、いいだろ」
そんな感じで、その場は解散となった。
家に帰ると、いつも通りの俺の部屋があった。でもなんだか物足りない、そんな感じがしたけれど、その原因が何なのかはわからなかった。まあ、一人暮らしってこんなもんなんだろう。
ある日、俺はいつものように目覚まし時計を止めた。
なんか最近だらけちまってるなあ。昨日も遅くまでネットでパンチラサイトめぐりをしていたし。洗濯物も溜まってて、履くパンツがもうないよ。
そう思い、引き出しの奥を探っていると、俺がいつもはいているパンツとは異なる感触が指先に感じられた。
「こっ、これはっ!」
それは紛れもなく女物のパンツであった。白くて綿で厚手のものだ。
―――― !!!!! ――――
その瞬間、俺の脳内に雷に打たれたような激しい記憶の電流が駆け巡った。その衝撃は俺の膝を震えさせ、涙と鼻水を止め処なく流れ出させた。まるでひどいパンツアレルギーのように。
「ロロ……」
そう、俺は全てを思い出したんだ。どんな契約も俺のパンツメモリーを凌駕することはできない。パンツに刻まれた思い出はたとえ脳みそを吹っ飛ばされても消えることなどありえないんだ。俺にとってはね。だから君の事はもう永遠に忘れないよ、パンツがある限り。
なあ、ロロ――いや――オールド――。




