遠回りできない道
七月の中旬、試験期間を控えた大学のキャンパスは、どこか張り詰めたようなざわめきに包まれていた。
朝の通学路、じりじりと照りつける太陽が影を濃く落としている。
共通講義棟の階段教室に入り、後ろから三列目、通路側のいつもの席に座り、ノートを開いた。
黒い長髪を首の後ろで黒いシュシュで束ね直し、ペンケースから青いペンを取り出す。
講義開始の三分前、前扉が開いて四宮このはが入ってきた。
「――あおい、おはよー!」
駆け寄ってきたこのはは、薄手の水色のブラウス姿で、左のこめかみにはあの淡い青紫のヘアピンが留まっている。
隣の席に腰を下ろすと、鞄から分厚いプリントの束を取り出して机の上に置いた。
「おはよう。……勉強、進んでる?」
「全然! 教育史の年表が頭からこぼれ落ちそうだよー」
このはがげっそりとした顔で机に突っ伏した。
「でもね、今日の放課後はちょっと息抜きしたいの! あおい、付き合ってくれる?」
「……息抜き?」
「うん! 駅の裏手の旧市街のほうに、アンティークの輸入雑貨と文房具を置いてる小さなお店があるんだって。友達から聞いてさ、すっごく可愛いレターセットとか栞があるらしいの。あおい、本好きだから栞とか見るの好きでしょ?」
「……うん。ちょっと、興味ある」
「でしょ! 講義が終わったらすぐ行こ! 裏通りの隠れ家みたいなお店らしいから、楽しみだなー」
このはは顔を上げ、ぱっと笑顔を咲かせた。
チャイムが鳴り、講師がマイクを握って講義が始まる。
あおいは板書を書き留めながら、このはが言っていた「駅の裏手、旧市街」という言葉を反芻していた。
駅の北側に広がる古い住宅街。
昭和初期の長屋や入り組んだ路地がそのまま残る、街の最果てに近いエリア。
あおいは手元でペンを握り直した。
あのあたりは――祖父がかつて敷いた、街の「外縁の結界」に最も近い場所だった。
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午後の講義を終え、二人は駅の北口へと向かった。
近代的な駅ビルが立ち並ぶ南口とは対照的に、北口の階段を下りると、そこには時代から取り残されたような静かな路地が広がっていた。
日差しは強いが、建物の軒が深いため、細い小道には涼しい影が落ちている。
「えっとね、スマホのマップだと、この先の煙草屋さんの角を右に曲がって、細い路地をまっすぐ進んだ突き当たりらしいんだけど……」
このはがスマホの画面を見ながら、先を歩く。
赤い丸ポストが立つ煙草屋の角を曲がると、人ひとり通るのがやっとの狭い路地に入った。
左右には黒板塀が続き、頭上には電線が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
「わ、なんかタイムスリップしたみたい! あおい、こっちだよ!」
このはが振り返り、楽しそうに手招きした。
あおいはその後ろについて歩く。
石畳を踏む足音が、静かな路地に低く響いた。
突き当たりを左に折れる。
すると、視界がぱっと開けた。
「……え?」
前を歩いていたこのはが、ぴたりと足を止めた。
あおいもまた、その光景を見て息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、見覚えのあるロータリーだった。
タクシーが客待ちをし、バスが停留所に停まっている。
駅の南口。
あおいがバイトをしている、あの駅前書店の青い看板が、数十メートル先に見えていた。
「……あれ?」
このはが目を瞬かせ、スマホの画面と目の前の景色を交互に見比べた。
「なんで……? ここ、南口だよね? あおいのバイト先の本屋さんの前じゃん」
「……そうだね」
「嘘、なんで!? 私、北口の煙草屋さんの裏の路地を曲がったんだよ? 線路も渡ってないのに、なんで南口に出てくるの!?」
このはが混乱したように髪をかき上げた。
ヘアピンがきらりと西日を反射する。
「私、道間違えたのかな……? ううん、一本道だったよね? もう一回行ってみよ!」
このはは踵を返し、再び駅の構内を通って北口へと戻った。
あおいも無言でその後を追う。
北口の階段を下り、煙草屋の角を曲がる。
さっきと全く同じ黒板塀の路地。電線の影が石畳に落ちている。
「よし、今度は慎重に行くよ。ここを曲がって……」
突き当たりを左に折れる。
角を曲がった瞬間――ふっと、風景の輪郭が微かに揺らめいた。
空気の密度が一瞬だけ軽くなり、景色が滑るような奇妙な浮遊感。
角を抜けると、再び目の前に現れたのは――。
『駅前ブックス 新刊入荷中』
やはり、書店の青い看板だった。
タクシーのエンジン音、行き交う人々の話し声。南口の広場。
「――っ!?」
このはが息を呑み、後ずさりした。
その顔から、血の気がさっと引いていく。
「な、なんで……!? どうしてまたここに出るの!? 私、絶対に北口の路地を歩いてたのに……! なんで線路を越えて南口に出てきちゃうの!?」
このはがあおいの腕にすがりついた。その指先が、先日の雨の日と同じように激しく震えている。
「あおい……これ、なに? 私たち、変なところに迷い込んじゃったの……? 出られないの……?」
周囲の通行人たちは、怯えるこのはに目もくれず、平然と南口の改札へと吸い込まれていく。
「駅前で買い物して帰ろ」「今日も暑かったね」。
誰も、北口から南口へとワープしてきた異常に気づいていない。あるいは、気づかないように意識が滑り落ちている。
あおいはこのはの肩を抱き寄せ、静かに路地の角を見つめた。
(……空間の、折りたたみ)
あおいは奥歯を噛み締めた。
街の外縁部――旧市街の先は、この世界を閉じ込めている「結界の壁」がある場所だ。
維持システムの処理能力が限界に達し、外縁部の空間演算を維持できなくなった結果、世界は境界付近の路地を強制的にループさせ、人々を安全な「街の中心部(南口)」へと送り返していたのだ。
これ以上、外側へ行かせないために。
街の外に「何もない」ことを、住人に悟らせないために。
「……このは。落ち着いて」
「でも……! あそこ、角を曲がったら絶対に雑貨屋さんがあるはずなのに……なんで何回行っても本屋さんの前に戻ってきちゃうの……?」
このはの大きな瞳に、涙が滲んでいた。
空間そのものが歪み、逃げ場のない迷路に閉じ込められたような恐怖。
それは、どれほど鈍感な人間であっても、本能的な恐怖を呼び起こす。
祖父――九条玄真が、かつて庭の生垣の手入れをしながら語った言葉が蘇る。
――あおい。世界の外側に行っちゃいけないよ。
祖父はハサミを置き、街の北側の山並みを寂しげに見つめていた。
――外側にはな、何もないんだ。冷たい虚無と、世界を壊そうとする嵐が吹き荒れてるだけだ。だから俺は、この街の周りに見えない壁を作った。誰も外へ落ちてしまわないようにな。
『おじいちゃん、壁の近くに行ったらどうなるの?』
幼いあおいが尋ねると、祖父はあおいの頬を優しく撫でた。
『道が曲がって、お家に帰りたくなっちまうのさ。……迷子になりそうになったらな、あおい。足元の影を見なさい。影は嘘をつかない。光のある方へ、結界の継ぎ目を解いてやるんだ』
(……影は、嘘をつかない)
あおいは足元を見下ろした。
夕暮れの強い西日が、二人の長い影をアスファルトに落としている。
書店の看板の影、ビルの影。
けれど――あの路地の角の影だけが、太陽の位置とは微妙に異なる方角へと伸びていた。
空間の歪みが、影の角度にだけ偽りを隠しきれずにいた。
あおいはこのはの手を強く握った。
「……このは。大丈夫。私が前を歩くから」
「あおい……?」
「あの路地、建て替え工事のフェンスのせいで、目の錯覚が起きてるだけ。……もう一回だけ、行こう。私がちゃんと案内するから」
あおいの静かで揺るぎない声に、このはは縋るように頷いた。
「……うん。あおいと一緒なら……」
二人は三度、北口へと戻った。
薄暗い路地に入る。
このはがあおいの服の裾をぎゅっと握りしめて離さない。
煙草屋の角を曲がり、細い石畳を進む。
突き当たりの角。
ここを曲がれば、またあの偽りの南口へ送り返される。
あおいは立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
(……継ぎ目を、解く)
ポケットの中で、右手を開く。
指先から、針のような鋭い魔力を紡ぎ出す。
空間の折り目を力づくで引き裂くのではない。祖父が教えた通り、影の歪みに意識を滑り込ませ、不自然に糊付けされた二つの座標の継ぎ目を、そっと剥がす。
足元の影が、ぐらりと揺れた。
あおいの額に、冷たい汗が一筋流れる。
脳の奥がギリギリと痛むような、空間の軋轢。
けれど、あおいは足を止めず、右手の指先を虚空に向けて静かに払った。
サワッ、と古い障子紙が風に撫でられたような音がした。
「……行くよ」
あおいはこのはの手を引き、突き当たりの角を曲がった。
角を抜けた瞬間――。
広場には出なかった。タクシーの音も聞こえなかった。
目の前に広がっていたのは、夕暮れの赤茶色の光に染まった、静かな袋小路だった。
古い木造家屋の玄関先に、小さな木製の看板が控えめに下がっている。
真鍮のベル、ガラス越しに見える色とりどりの絵葉書や古い万年筆。
『雑貨と文具 風見堂』
「――あ」
このはが小さく息を呑んだ。
「あ、あった……! あおい、ここだよ……! 風見堂!」
このはがあおいの腕から手を離し、看板に駆け寄った。
恐る恐るガラス越しに店内を覗き込み、それから弾かれたようにあおいを振り返る。
「本当にあった……! 南口に出なかった……! よかったぁ……!」
このはの顔に、いつもの眩しい笑顔が戻った。
胸を押さえ、へたり込むように息を吐き出す。
「もう、本当にどうしようかと思ったよ……! やっぱり私の勘違いだったんだね。さっきは曲がる角を間違えて、駅の連絡通路に入っちゃってたのかな……」
このはは自分で自分を納得させるように、早口で言った。
北口の路地から南口のロータリーへ直通する連絡通路など、あるはずもないのに。
それでも、世界が差し出した「勘違い」という毛布に、このはは安堵して身を包んだのだ。
「……見つかって、よかったね」
あおいが言うと、このはは嬉しそうに頷き、前髪のヘアピンをきゅっと直した。
「うん! あおいがいてくれて本当によかった! さ、入ろ! 可愛い栞、一緒に選ぼう!」
チリン、と澄んだドアベルを鳴らして、このはが店の中へと入っていく。
あおいはその背中を見送りながら、自分の右手をそっと握りしめた。
指先には、空間を剥がしたときの冷たい摩擦の熱が、まだ残っていた。
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雑貨屋の店内は、古い紙とインクの落ち着く匂いに満ちていた。
このはは時間を忘れたように楽しそうにレターセットを選び、あおいには薄い真鍮で作られた、天球儀のレリーフが施された栞をプレゼントしてくれた。
『これ、あおいのおじいちゃんが好きだった本に似合いそう!』
無邪気に笑うこのはの顔を見て、あおいは胸の奥の痛みを堪えながら「ありがとう」と受け取った。
店を出ると、街はすっかり夜の帳に包まれていた。
駅のホームで電車を待ちながら、このはが紙袋を大事そうに抱えて呟いた。
「今日、あの路地で迷ったときさ……なんか、すっごく変なこと考えちゃったんだよね」
「……変なこと?」
「うん。なんかね……この街の周りには、実は大きな壁があって、私たちはその中から一歩も出られないんじゃないか、って」
あおいは息を止め、夜の線路を見つめた。
このはは空を見上げ、独り言のように続ける。
「だって、私、生まれてからずっとこの街にいるでしょ? 旅行とかは行ったことあるはずなのに……街の外の景色って、写真やパンフレットでしか思い出せないんだよね。不思議だよね」
このははふふっと自嘲気味に笑った。
「まあ、考えすぎだよね! こんな住みやすい街、外に出る必要もないし! あおいもいるしね!」
「……うん」
あおいは短く答えた。
電車の前照灯が、暗い線路の向こうから近づいてくる。
風が吹き抜け、このはの明るい茶髪を揺らした。
住みやすい街。
外に出る必要のない街。
それは、祖父がこのはのために、あおいのために、そしてこの街の人々のために作り上げた、完璧な鳥籠だった。
けれど、その鳥籠の止まり木は、今、確実に折れかけている。
「あ、電車来た! あおい、乗ろ!」
「うん」
二人は並んで電車の扉をくぐった。
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夜。
アパートの自室で、あおいは机の上にプレゼントされた真鍮の栞を置いた。
精緻に彫られた天球儀の模様。
地球の周りを、太陽と月と無数の星々が回っている、かつての古い宇宙観。
あおいは椅子に深く腰掛け、暗い窓の外を見つめた。
街の北側に連なる、黒々とした山並みのシルエット。
あの山の向こうには、本当は何があるのだろう。
祖父が言っていた「冷たい虚無と、世界を壊そうとする嵐」
今日、空間の継ぎ目を解いたとき、あおいの指先を一瞬だけ掠めた、あの底知れぬ絶対零度の冷気。
世界の外側からの干渉は、もう街の境界にまで押し寄せてきている。
祖父が遺した結界は、いつまで持つのか。
そして――あおいのこの小さな手で、いつまでこのはの日常を繋ぎ止められるのか。
スマホが机の上で震えた。
『栞、気に入ってくれたら嬉しいな! 明日は一限からテスト勉強付き合ってね(笑)おやすみ!』
このはからのメッセージ。
あおいは画面を見つめ、静かに息を吐いた。
『気に入った。おやすみ』
画面を伏せ、部屋の明かりを消す。
暗闇の中、真鍮の栞が星明かりを受けて、冷たく微かに光っていた。
遠回りの許されない街。
外へ出ることのできない箱庭。
あおいだけが、この平穏な街を取り囲む見えない壁の冷たさと、そこに押し寄せる世界の終わりの気配を、夜の静寂の中に感じ取っていた。




