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花婿は結婚式に来なかった。捨てられた花嫁は、本当の理由を知りたい

作者: キモウサ
掲載日:2026/06/06


「ねえ、リネット……シリル様、遅いわね。教会に来る途中で事故にでもあったのかしら?」


 セシリアお嬢様が、教会の窓から外を見ながら、ぽつりと呟いた。


 純白のウェディングドレスに身を包んだ、今日のお嬢様は、輝くように美しい。


 豊かな栗色の髪を結い上げたのは、セシリアお嬢様の侍女であるこの私だ。


 今日はあれほど楽しみにされていた結婚式だというのに、お嬢様の少し不安そうなご様子が気にかかる。


「大丈夫でございますよ。シリル様は宰相補佐官であられますから、お付きの方も常に同行されております。すぐに到着されますよ」

「そうかしら……そうね。私ったら、心配しすぎね」


 そう言いながらも、お嬢様は私の手元を見て、小さく眉を寄せた。


「リネット、手が冷えているんじゃない? 色が白くなっているわ。ここは少し肌寒いものね」

「私は大丈夫でございますよ。お嬢様、お寒いのでしたらショールをお持ちいたしましょうか」


 今日は、シリル様とセシリアお嬢様の結婚式だ。


 シリル様はヴァイスハルト公爵家の嫡男で、現在はお父上である公爵閣下のもと、宰相補佐官として政務に携わっておられる。


 将来は宰相となることを有力視されているお方だ。


 そしてセシリアお嬢様は、エルフォード伯爵家の令嬢で、控えめだが優しいお方だ。


 王族の血を引くヴァイスハルト公爵家と、エルフォード伯爵家の婚姻は、身分や家格に差があり過ぎるのではないかと噂になっていると聞く。


 すらりと背が高く、銀髪と端正な顔立ちが印象的なシリル様は、国中の若い令嬢から熱い視線を浴びていた。


 それでも婚約者に選ばれたのは、同じ派閥に属する伯爵家の令嬢、セシリアお嬢様だった。


 王都では、優秀すぎるシリル様を強い家と結びつけないための婚姻だ、などと噂されているらしい。


 そんな政略結婚ではあるけれど、お二人は相性がよいらしく、顔を合わせるたびに楽しそうに話しておられた。


 婚約してからのこの半年、シリル様もお嬢様も本当にお幸せそうで、侍女として間近で見ている私まで、幸せのお裾分けをいただいているようだった。


 ……だからこそ。


 少し不安げなお嬢様の様子が、気にかかる。


 お嬢様を安心させるべく、先ほど教会の司祭様から聞いた話をお伝えしよう。


「ヴァイスハルト公爵閣下と公爵夫人は、すでに控えの間にいらしているそうですよ。シリル様はあとから来られるとおっしゃっていたとか」

「まあ、そうだったのね。なら、すぐにいらっしゃるわね」


 窓の外を見ていたお嬢様は振り返り、ほっとしたように微笑んだ。


 よかった。


 その笑顔を見て、私の胸も軽くなる。


「お嬢様、少しお化粧直しをいたしましょうか」

「リネット、そうね。お願いするわ」


 午後の日差しが柔らかく降り注ぐ教会の控え室は、春になったとはいえ、少しひんやりとしている。


 だからだろうか、お嬢様の頬が白く見える。


 もう少しだけ、お色を足した方がいいかもしれない。


 そう思いながら、刷毛と白粉を手に取り、鏡台の前に座ったお嬢様のもとへ向かおうとした、その時。


 控え室の外が、にわかに騒がしくなった。


 ノックもせずに、エルフォード伯爵夫妻と、セシリアお嬢様の義妹リリアナ様が、なだれ込むように入ってきたのだ。


「セシリア! シリル様はまだなのか!?」


 大きな声で怒鳴っているが、ここは花嫁の控え室だし、結婚式まで花嫁と花婿は顔を合わせないのがしきたりだ。


 だから、お嬢様に聞いてもわかるはずがない。


 鏡台の前に座っていたお嬢様は、慌てて立ち上がると、夫妻へお辞儀をした。


「お父様、お母様、ご機嫌よう。シリル様は少し遅れているようです」

「なにをやってるんだ。もう招待客は聖堂で待ちかねているぞ」

「申し訳ございません」


 お嬢様が静かに頭を下げる。


 お嬢様の伯爵家での立ち位置は微妙なものだ。


 お嬢様のお母様が流行り病で亡くなられたあと、後妻としてこられた現在の奥様と連れ子のリリアナ様が家の中心となった。


 それからお嬢様は、ずっと身を小さくして伯爵家で暮らしてこられたのだ。


「まさか、ウチへの出資金を嫌って逃げたんじゃないだろうな」

「お義姉様と結婚するのが嫌になっちゃったんじゃない? うふふ」


 伯爵は、今回の結婚で公爵家から多額の援助を受けることになっている。


 シリル様が遅れていることで、それがなくならないかと心配しているのだろう。


 花嫁の父として、どうかと思うが、もちろん侍女の身である私はなにも言えない。


 伯爵夫妻は最後まで、リリアナ様をシリル様の婚約者にしようとしていた。


 けれどヴァイスハルト公爵家が選んだのは、お嬢様だった。


 お嬢様がシリル様の婚約者に正式に決まってからというもの、リリアナ様はあからさまな嫌がらせをしてこられていた。


 なんとか義姉を引きずり下ろして、自分がその座に座ろうと考えているのだろうか。


 そう思うと腹立たしいが、シリル様がリリアナ様のような令嬢を選ぶはずがないので私は気にしていなかった。


 リリアナ様がチクチクと嫌味を言っているところへ、ノックの音がした。


 ヴァイスハルト公爵夫妻だ。


 新郎側の家族が、花嫁の控え室になんの用だろう?


「エルフォード伯爵、息子はこちらに来ていないかね?」


 公爵夫妻は、どこか苛立っているようだ。


「まったく、私のもとで何年、宰相の修行をしているんだ。仕事の時間に遅れるなど……」


 結婚式を仕事と呼ばれたことで、お嬢様の顔がさっと青くなり、うつむかれた。


 結婚式を仕事呼ばわりするなんて……。


 しかも花嫁の目の前で。


 こんな方々の中へ、お嬢様は嫁いでいくのだ。


 お嬢様一人で嫁いでくるようにと公爵家から言われているため、私は侍女としてついていくことができない。


 お一人になったお嬢様のことを考えると、本当に心配だ。


 ここは、シリル様を信じるしかないだろう。


 私がそんなことを考えていると、伯爵が先程までの不機嫌な顔を、にっこりと満面の笑顔に変え、公爵と話し始めた。


「シリル様は公爵家を出発されたのでしょうか?」

「私たちのあとに、すぐ来ると言っておった」


 どうやらシリル様は、事情があって遅れていらっしゃるようだ。


 そこへ、公爵家の執事が慌てたように入ってくる。


「旦那様、こちらを」


 手には一通の手紙があった。


 公爵がそれを受け取り、素早く目を通す。


「なんだと!? あいつめっ! 恩知らずが!」


 その声に、お嬢様が「どうしたのです?」と、公爵のもとへ駆け寄ったので私も慌てて後に続く。


「どうもこうもない! あいつは、公爵家を出ていった」

「そんな……」


 執事が「こちらはお嬢様宛です」と言って、お嬢様に手紙を差し出す。


 でも手が震えて、手紙を上手く開けることができない。


「リネット……お願い」


 私は手紙の封を切り、広げてお嬢様に差し出した。


 お嬢様が震える声で、小さく文面を読み上げたので、側に控えていた私にも聞こえた。


「セシリア嬢……あなたと結婚はできない……私の我儘を許してくれ、あなたの幸せを祈っている……」


 お嬢様の手から手紙がひらりと落ちた。


「嘘よ……なぜ……昨日はあんなに……」


 お嬢様は周囲に集まっていた人たちをかき分けて、控え室の外へと駆け出した。


「お嬢様! お待ちください!」


 私も急いで後を追う。


 お嬢様が向かった先は、花婿の控え室だった。


 いつものお嬢様らしくなく、大きな音を立ててドアを開け、花婿の控え室へ飛び込むが、そこには誰もいなかった。


 一目見て、誰もいないと判断するとお嬢様はすぐに廊下へ戻り、また走り出した。


 走りながら髪が乱れるのも気にせず、邪魔な長いベールを外し、ヒールの高い靴も脱ぎ捨て、結婚式が行われるはずだった教会の聖堂へと駆けていく。


 ――バン!


「シリル様ッ!」


 勢いよく聖堂の扉を開くと、そこには結婚式の招待客が皆、席に座っていた。


 ここにも、シリル様の姿はない。


 皆の視線がお嬢様に集中し、招待客たちは驚いたように、いえ、面白そうにお嬢様を見ている。


「まあ、あれは花嫁ではなくて?」

「花婿も来ていないが、なにがあったんだ?」

「喧嘩でもされたのかしら?」


 お嬢様は、招待客の目も気にせず、シリル様の姿を目で必死に探している。


 ここでようやく公爵家と伯爵家の皆が追いついてきた。


「セシリア、やめなさい! みっともない!」

「恥を晒すな」

「お姉様、花婿に捨てられたのよ。いいざまね」


 リリアナ様のその言葉に、招待客たちがざわめきだす。


「花婿に捨てられただって?」

「それで花婿が来ていないのか」

「なんてことだ!」

「まあ、あまりパッとしないご令嬢ですものね」

「シリル様は素敵な方ですもの。不釣り合いだったのよ」


 涙で崩れた化粧、乱れたドレス、裸足の足元。


 その姿を見て、皆の哀れむような目、好奇心丸出しの目、意地の悪い目がお嬢様に突き刺さる。


「シリル様……なぜ、なぜ……」


 お嬢様は、その場に号泣しながら崩れ落ちた。


 もちろん、結婚式は中止になった。


 そしてその日から、お嬢様は「捨てられた花嫁」と呼ばれるようになったのだ。


◇◇


 中止された結婚式のあと、お嬢様は旦那様から屋敷の自室で謹慎するよう申し渡された。


 表向きは、教会で取り乱したことへの罰だ。


 けれど本当は、伯爵家の恥をこれ以上広げないために、お嬢様を閉じ込めておきたかったのだと私は感じた。


 一晩明けたあと、お嬢様の様子をうかがいにいくと、ウェディングドレスのまま、自室の長椅子に座っている。


 帰ってきてからドレスを着替えるように勧めたが、お嬢様は頑として言うことをお聞きにならなかった。


「お嬢様、お茶をお入れしますね」

「……」


 お嬢様は私の問いかけに答えない。


 長椅子に腰かけたまま、目の前のローテーブルに置かれた手紙をじっとみつめるばかりだ。


 シリル様が残した最後の手紙だ。


 きっと昨夜は一睡もされず、長椅子に座ってじっと手紙を何度も読まれたのだろう。


 シリル様の行方は、まだ分かっていない。


 そんなこともお嬢様の心に重くのしかかっているのだろう。


 いつもなら、少し髪が乱れただけでも気にされる方なのに、今は教会でベールを取ったときに乱れてしまった髪をそのままにされている。


 ――私に近づかないで……放っておいて。


 お嬢様は全身で、そう私に伝えているように感じた。


 けれど、一杯の水も召し上がらないのは、お体に障る。


 私はお嬢様の好みのお茶を淹れ、そっと机の上に置いた。


「お嬢様、お茶でございます」


 返事はない。私もどうしていいか分からない。


 でも、お嬢様を一人にしておくこともできず、黙って側に控えた。


 しばらく経って、もうお茶もすっかり冷めた頃……。


「シリル様……なぜ来なかったのかしら……」


 お嬢様の声は小さくて、かすれていた。


「結婚式の前日……あんなに楽しかったのに……」


 お嬢様の言葉で、私は結婚式の前日のことを思い出した。


 結婚式の前日、お嬢様はシリル様と王都のレストランに併設された庭園でお会いになっていた。


 結婚前の最後のデートだ。


 その庭園は街の高台にあり、春の花と噴水に囲まれた、恋人同士が語らうにはふさわしい場所だった。


 関係のない私ですら、少しうっとりしてしまうほどに。


 お嬢様は淡いラベンダー色のドレスに、薄手の白いショールを羽織っていて、艶やかな栗色の髪にラベンダー色がよく映えていた。


 それを見て、その日のお嬢様は、まるで妖精のようだと私は思ったものだ。


 明日の式を控えて、嬉しさと緊張が入り混じっているようで、お嬢様はいつもより少しだけ頬が赤かったのを覚えている。


 お嬢様とシリル様はお茶を飲みながら、語らい、ときに顔を見合わせ、小さく笑った。


 お二人とも、本当に幸せそうだった。


 政略結婚と呼ばれるお二人だったけれど、ただ家同士に決められた婚姻とはとても見えない。


 本物の愛し合う恋人たちが、そこにいた。


 けれど私は、その日、どうしても気になることがあった。


 いつもとは違うことがあったのだ。


 ――黒い服を着た男たち。


 ヴァイスハルト公爵家の者だという、黒い服を着た男たちが数人、少し離れた場所に立っていた。


 私には、従者というより護衛のようにみえた。


 けれどその態度や表情から、シリル様の味方には見えなかった。


 にこりともせず、まるでシリル様を見張っているかのように私には感じられた。


 お嬢様も、それに気づいていたのだろう。


 ちらりと男たちに視線を向けたあと、小さな声でシリル様に聞いた。


「シリル様……あの方々は?」

「父上は心配性でしてね。結婚式前になにかあってはいけないと、警護の者をつけてくれたのです」


 シリル様はそう言って苦笑された。


 その言い方は穏やかだったが、おかしな話だと私は思った。


 結婚式前に、シリル様に人をつける必要があるのだろうか?


 シリル様は仕事柄、常に従者たちをつれておられる。


 今日も、その方たちが一緒に来ている。


 その方たちだけでは、足りないとでもいうのだろうか。


「宰相補佐官として働く以上、勝手な行動は慎めということかもしれませんね。私は、信用がないのですよ」

「まあ、そんなこと……」

「……冗談ですよ」


 シリル様はすぐにお嬢様を安心させるように笑った。


 けれど私は、何度もお嬢様に付き添って、シリル様にお会いしているのだ。


 彼の笑顔がいつもと違うように感じられた。


 そんな違和感のある中、シリル様の従者の一人がいらした。


 彼はいつもシリル様に付き添っているので、私も顔見知りの方だ。


「シリル様、急ぎの連絡が入っております」


 そういって手紙をシリル様に手渡した。


 シリル様は手紙を読むと、黒い服を着た男たちの一人を呼び寄せ、その手紙を渡す。


 黒い服を着た男たちのリーダー格なのだろう。


「父上から緊急の連絡が入った。お前たちは全員で、この指示に従え」


 シリル様がそう言うと、黒い服を着た男は納得できないような顔をした。


「しかし、それではシリル様の警護ができません――」

「父上の指示だ。私はこのまま王宮に戻る。そっちで合流すればいい」


 黒い服の男は一瞬だけ顔に反発の色を見せたが、なにも言わずに仲間を引き連れ、庭園から立ち去った。


 その背中を見送ってから、シリル様は小さくため息をついた。


「父上の監視は、少々煩わしいですね」


 お嬢様は驚いたように目を見開いた。


「監視……でございますか?」

「言葉が過ぎました。ただ、今日はあなたときちんと話したかったので、少し細工をしました」

「細工……?」

「ええ。彼らに別件の仕事が回るように細工したんですよ。長くは持ちませんが、少しの間なら落ち着いて話せる」


 シリル様はそう言って、お嬢様を見つめた。


「セシリア、あなたには感謝しています」

「まあ……感謝なんて」

「この半年、あなたは私を公爵家の者としてではなく、私自身として扱ってくれた」

「そんな、大げさですわ」

「いいえ。私にとっては、大きなことでした」


 お嬢様は照れたようにうつむいた。


 けれど私は、シリル様のその言葉に妙な引っかかりを覚えてしまった。


 感謝を告げているのに、どこか物悲しく聞こえたからだ。


 シリル様はふと、庭園の外へ目を向けた。


 その視線は、王都の華やかな街並みの向こう、もっと遠くを見ているようだ。


「国境沿いの町にも、もう春が来ているでしょうか」

「国境沿い、でございますか? 私は訪れたことがありません。シリル様は?」

「昔、少しだけ暮らしていました。春になると、友人と野花を摘みに行ったものです」

「まあ!お花摘みですか。楽しそうです」


 お嬢様の無邪気な反応に、シリル様が苦笑する。


「春の野花は、お茶の材料になるのですよ」


 私はシリル様の話に違和感を覚えた。


 三方を山に囲まれたこのリュゼリア王国で、国境といえば南側になる。


 リュゼリア王国の北方にある王都とは、遠く離れた場所だ。


 それに、シリル様が南の国境沿いで暮らしていたなどと聞いたことがない。


 シリル様は公爵家の嫡男として、この王都で生まれ育ち、貴族学校を出た後に王宮務めをされているはずだ。


 国境沿いで暮らしていたなど、聞いたこともない。


 それに野花を摘んで、お茶にするなど、貴族としてありえない話だ。


 けれど、お嬢様はシリル様の懐かしそうな声に聞き入っていて、その不自然さまでは気づいていないようだった。


「まあ! 国境沿いにお住まいだったとは知りませんでした。それに、そのようなご友人がいらっしゃることも」

「ははっ。あいつは昔から悪知恵が働く男でしてね。デルタというんですが、困った時ほど頼りになる」


 その時のシリル様は、今まで見たことのない自然な表情をしていた。


 公爵家の嫡男でも、宰相補佐官でもない。


 遠い昔を懐かしむ、ただの青年のように見えた。


「いつか、あなたにも見せたいな……あの野花が咲き乱れる草原を……」

「では、いつか連れて行ってくださいませ」


 お嬢様がそう言うと、シリル様はハッとした表情で一瞬黙った。


 昔話のついでに、話さなくてもいい事を話してしまった……そう気づいたような顔だった。


 そして、淋しげに微笑んだ。


「……そうですね。いつか、そんなときが来ればと思います」


 その言葉が、今になって胸に突き刺さる。


 なぜ、あの時すぐに「絶対に行きましょう」と言わなかったのか。


 なぜ、あんなに寂しそうに笑ったのか。


 そのときは、結婚前の緊張のせいだと思った。


 でも今なら分かる。


 あれは、別れを前にした人の顔だったのだ。


 それからシリル様は立ち上がると、その場でひざまずいた。


 お嬢様は突然のことに、頬に両手を当てて驚いていらっしゃる。


「セシリア、あなたには心よりの感謝と、私の愛を捧げます。あなたには幸せになってほしい……」

「シ、シリル様!? 急にどうなされたのです。そのようなこと、おっしゃらなくても私は幸せですわ」


 お嬢様は急な愛の告白に、胸がいっぱいになっている様子だった。


 でも、私には不穏なものしか感じられなかった。


 明日、結婚式で永遠の愛を誓い合うはずなのに、なぜ今、ここで愛を捧げるのだろう?


 それにシリル様の目はとても苦しそうで、とても言葉通りの愛の告白には受け取れなかった。


 ここで黒い服の男たちが、戻ってきた。


 どうやら公爵の仕事を、素早く片付けて戻ってきたらしい。


 婚約者として最後のお茶会は、そこでお開きになった。


 最後はにこやかに挨拶をしたシリル様だったが、先ほどまでの自然な表情は、どこにもなかった。


 おかしなことが多いお茶会だったが、明日は結婚式だ。


 そのような重要な式典が潰れるなど、そのときの私には想像すらできなかった。


 結婚を前にして、シリル様が少し感傷的になっているのかもしれない……。


 そう思い、胸のざわめきを私は記憶の隅に押し込めたのだった。


 お嬢様も今、最後のお茶会を思い出していたのだろう。


 目の前に置かれた、シリル様からの最後の手紙に視線を落としたまま、ぽつりとつぶやかれた。


「リネット……シリル様は、本当に私を捨てたのかしら?」


 私はすぐには答えられなかった。シリル様が結婚式に来なかったのは事実だ。


 結婚できないという手紙を寄越したのも事実だ。


 それでも、最後のお茶会でのシリル様のあの目。


 黒い服を着た男たちの張りつめた空気。


 シリル様が小細工をしてまで、最後にお嬢様と自由に語らいたがった心境。


 それら、ばらばらだった欠片が、私の胸の中で少しずつまとまっていく。


 ひとつの答えにたどり着いた私は、お嬢様のそばに膝をついた。


「お嬢様。昨日のシリル様は、お嬢様を嫌っているようには見えませんでした」

「……ええ。私も……そう思うの」

「ですが、分からないことが多いのも確かです」


 シリル様が、一時、国境沿いで暮らしていたという話。


 デルタという名の友人。


 公爵が付けた黒い服を着た男たちの存在。


 公爵に監視されているというシリル様の言葉。


 これらがなにを意味しているのか、なにも分かっていない。


「お嬢様、シリル様には何か事情が、おありになったのではないでしょうか」


 お嬢様は、ゆっくりと顔を上げた。


「そうね、リネット。あなたの言う通りだわ。ねえ、シリル様がおっしゃっていたデルタという方を、探せないかしら?」


 シリル様が最後に口にした、国境沿いで一緒にいた友人デルタ。


 困った時ほど頼りになる男だと、そう言っていた。


 もし、その方が本当にいるのなら、シリル様が何かを託す相手がいるとしたら、それは、デルタという方なのではないだろうか。


「ええ、探しましょう。お嬢様は謹慎中の身。調査はこのリネットにお任せください」


 そう答えると、お嬢様が私の手をとって、しっかりと私と目を合わせた。


「リネット、私、知りたいの。そしてシリル様を信じたい。あの方を心からお慕いしていますもの……」


 その声は先程までの力のないものではなかった。


 花婿に捨てられた花嫁。


 王都の人々は、きっとそう呼ぶのだろう。


 けれど私の前にいるこの方は、悲しみに身をまかせるのをやめた。


 真実を知ろうとしている。


 その先へ進もうとしている。


 私はその力になりたいと思ったのだ。


 ◇◇


 それから、私はデルタという名の男を、どう探せばよいか考えた。


 彼の手がかりはあまりにも少ない。


 分かっているのは、シリル様が昔、国境沿いの町で一緒に過ごしたということ。


 それだけだった。


 デルタという名前の男性を、王都では見たことも聞いたこともない。


 名前として、とてもめずらしいのだと思う。


 国境沿いでは、よくある名前なのかもしれない。


 ただ、国境沿いといっても、リュゼリア王国の南は広いのだ。


 町も村もいくつもある。


 そこで暮らしていた、あるいは今も暮らしているかもしれないデルタという男を探すなど、雲をつかむような話となる。


 それでも、お嬢様に「探しましょう」と言ったのは私だ。


 諦めるわけにはいかない。


 けれど、エルフォード伯爵家の者に尋ねることはできなかった。


 旦那様や奥様に知られれば、叱責は私だけでは済まないだろう。


 謹慎中のお嬢様がシリル様の行方を探ろうとしていると疑われれば、今よりさらに厳しく閉じ込められてしまうかもしれない。


 だから私は、できるだけ目立たぬように動くしかなかった。


 まず私は、結婚式の招待客のリストを調べてみることにした。


 シリル様のご友人であれば、結婚式に招待されていてもおかしくないと思ったからだ。


 結婚式は中止になったが、関連の書類はまだ残っているはず。


 その中に、きっと招待客のリストもあるだろう。


 そう思って、さりげなく屋敷内で聞き込んだ結果、執事のエドモンドさんが書類を管理していることが分かった。


 だけど、執事室に一介の侍女が立ち入ることはできない。


 正面から頼んでも、見せてもらえるはずがなかった。


 困っていたところ、思いもかけない場所でリストを見つけることができた。


 お嬢様のお茶を準備しようと厨房に行き、料理人が茶器の準備をしている間、ふと壁にかけられたボードを見たのだ。


 そこには、旦那様や奥様が屋敷で開く昼食会や晩餐会の予定や、招待客のリストが貼ってあり、料理長がメモしたであろう各人の好みなどが記されていた。


「あら? これは結婚式のリストだわ」


 ボードに所狭しと貼られた紙の中に、結婚式の参加者のリストも貼ってあったのだ。


 招待客に贈るお礼の品のひとつとして、焼き菓子が配られる予定だったようで、やはり料理長のメモが細かく書かれていた。


 私は料理人たちの動きに気を配りながら、さりげなくリストを読んでみた。


「デルタ……デルタ……リストにないわ」


 ただ、デルタという名が、ニックネームということもありうる。


 私は料理人がこちらを見ていないことを確認してから、注意深く、結婚式のリストを留めているピンをはずそうとした。


「焼き菓子も、持って行くかい?」

「!!」


 心臓が止まりそうだった。


 料理人が奥の調理台で、声をかけてきたのだ。


 ちょうど食器棚が目隠しになっているので、側に来ない限り見つからないと分かっていたのに、驚いてしまった。


「ええ! 焼き菓子もお願いします!」


 私は急いでリストを取り、小さく折りたたんで手の中に隠した。


 急いでお嬢様の元へ行き、リストを見てもらったが、特に新しい発見はなかった。


 招待客リストが不発に終わったあと、私は昔の恩師や、行儀見習いの頃に親しくしていた友人に手紙を書いてみた。


 デルタという名を聞いたことはないかと。


 けれど、そのような名は聞いたことがないという返事ばかりが返ってきた。


 私は男爵家の出身だが、貴族学校に行っていない。


 もし行っていれば、もっと友人も多く、お嬢様のお役に立てたかもしれないのにと少し悔しい思いをしたのは、私の胸の内に収めておこう。


 一通り、知り合いに問い合わせると、私の捜索は行き詰まってしまった。


 デルタという男性を探すどころか、探す手段さえ私には思いつかない。


 そこで私は調査代わりに、屋敷に届く新聞をこっそり読むようになった。


 伯爵家では、旦那様がまず新聞に目を通し、それから奥様や執事のもとへと回る。


 使用人が気軽に読むものではないのだ。


 けれど、読み終わって紙くずとしてまとめられたものなら、私にも手が出せる。


 全部持っていくと不審に思われるので、少しずつ持ち出して、読んだものは返すようにした。


 これならきっと、ばれない。


 探していたのは、南方の国境に関する記事だ。


 シリル様が庭園で話していた、国境沿いの町。


 春の野草や野花をデルタと摘みに行った草原。


 あのときのシリル様の様子からして、ただの架空の話だとは、どうしても思えなかった。


 なにか手がかりがあるかもしれない。


 そう思い、お嬢様にも声をかけて、二人で新聞を読んでいった。


 その頃、新聞には、南方の不穏な噂が小さくではあるが載ることが増えていた。


 隣国の兵が国境付近に集まり演習を始めた。


 隣国からの商人の出入りが減ったせいで、商品の値段が上がっている。


 そんな記事だ。


「ねえ、リネット。もしかして国境沿いで、隣国となにか揉めているのではなくて?」


 お嬢様が可愛らしいお顔をしかめていらっしゃる。


「さようでございますね。ただ、王都では兵も動いておりませんし、大きな争い事にはならないでしょう」

「もしかして、シリル様がいなくなられたのは、このことが原因なのかしら?」


 お嬢様からそう聞かれたが、私には分からなかった。


 仮に国境沿いの不穏な噂が関係しているとしても、なぜ結婚式を捨ててまで姿を消さなければならなかったのか。


 ヴァイスハルト公爵は、シリル様が公爵家を出ていったとおっしゃっていた。


 それは、ただ屋敷を出たという意味ではないのだろう。


 公爵家の嫡男としての立場まで捨てて、シリル様は何をしようとしているのか。


 私には見当もつかなかった。


 ただ、シリル様が国境沿いの不穏な噂を知っていたことだけは、間違いないように思えた。


 シリル様はお父上である宰相閣下の補佐をされていた。この国の情報は、ほとんどすべて耳にしていたはずだ。


 もし本当にシリル様が国境沿いの町で過ごしたことがあり、友人もいるのなら、今の状況をどう思っていたのだろうか。


 あの日、庭園で王都の街並みを越え、遠くを見ていたシリル様の目。


 国境沿いの町にも、もう春が来ているでしょうか、と言ったときの声。


 思い出せば思い出すほどに、胸の奥がざわついた。


 そんな日が続いたある日の午後、侍女長から使いを頼まれた。


 王都の商業区、たくさんの商会や店が集まる地区での買い物を頼まれたのだ。


 商業区は、いつもどおり賑わっていた。


 布地を売る店、香辛料を並べる店。


 通りには人の声があふれ、荷車の音が響いている。


 お嬢様が閉じ込められている屋敷の中とは、まるで別の世界のようだった。


 侍女長の用事を済ませ、お嬢様になにかお土産でも買っていこうと店先を見ながら道を歩いていると、私を追い越していく年配の商人がいた。


 商人の背中には、大きな籠が背負われており、そこから甘い香りが漂っている。


 籠の上から、赤や黄色の鮮やかな色がのぞいており、リュゼリア王国の南方の果物だと分かった。


 リュゼリア王国の南方、とくに国境沿いでは、この王都とは気候が違い、より温暖で鮮やかな色をした果物が採れると聞く。


 南方の果物……!?


 そこに気づいた瞬間、胸が高鳴った。


 デルタという名の男を探し始めて、初めて出会った南方を感じさせるものだ。


 この商人も、国境沿いから来たのかもしれない。


 デルタという名に、聞き覚えがあってもおかしくない。


 見知らぬ人に声をかけるのに気恥ずかしさを感じるが、ここで声をかけなければ、手がかりが消えてしまうかもしれない。


 前に進もうとしているお嬢様のためだ。


 私は勇気を出して、その商人の後を追いかけ、声をかけてみた。


「あの、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」

「ん? なんだい、お嬢さん」


 商人は人のよさそうな顔で振り返った。


「南方の国境沿いで、デルタという名の人をご存じありませんか。昔、お世話になった方を探しておりまして」


 できるだけ自然に聞こえるよう、話を作って問いかけてみた。


 商人は親切にも足を止めてくれ、顎に手を当て、少し考えこんだ。


「デルタ? デルタねえ……ワシが知ってるデルタといえば、デルタ商会くらいだな」

「デルタ商会……?」

「ああ。南方の品を扱ってる商会だ。ほれ、あそこに店がある。この果物もそこで買ってきたんだ」


 商人は顎で通りを示した。


 見ると、少し離れた角に、立派な看板を掲げた店があった。


 ――デルタ商会。


 ようやくデルタという名を見つけた!


 私は商人にお礼を言うと、急いでデルタ商会を目指した。


 デルタ商会の店先には、王都ではあまり見かけない色鮮やかな果物が並んでいた。


 皮が赤く、甘い香りのする丸い実。


 細長く曲がった黄色い実。


 どれも私は見たことのない果物だった。


 きっと、どれも値が張るのだろう。


 店内に入ると、思ったよりも上品に設えてあって落ち着いていた。


 南方の茶葉、香辛料、果物の砂糖漬け、珍しい布地などが置かれている。


 貴族向けの品も多いのだろう。


 店員たちの物腰はとても丁寧だった。


「いらっしゃいませ。本日はどのような品をお探しでしょうか?」


 声をかけてきた若い店員に、私は緊張しながら尋ねた。


「あの……こちらの商会の主様は、デルタ様という方なのでしょうか」

「はい。デルタ・アルヴェイン子爵様でございます」

「子爵……様?」


 思わず聞き返してしまった。


 商会を営む貴族は多いが、まさか自分の探しているデルタという男性が、商会を持つ子爵だとは思っていなかったのだ。


 店員は私の驚いた様子に、誇らしげにうなずく。


「ええ。先代の子爵閣下が亡くなられ、最近、若旦那様が爵位と商会を継がれました。まだお若いのですが、大変優秀なお方です」

「その方は、南方に縁のある方なのですか?」

「アルヴェイン子爵家は、このリュゼリア王国の南方、国境沿いに領地があります。南方に縁があるというより、南方そのものですよ」


 国境沿い……。


 私の胸が高鳴る。これは手がかりかもしれない。


 場所的には合っている。


 若い子爵というなら、シリル様と年齢的に同じくらいだと見ていい。


 それなら友人と呼べる関係でもおかしくない。


 若くして商会と爵位を継いだところから、デルタ様という貴族が優秀なことがうかがえる。


 これはシリル様が言っていた、昔から悪知恵が働く男、困った時ほど頼りになるという人物像に合ってはいないだろうか。


 シリル様の言っていたデルタと、アルヴェイン子爵は同じ人物かもしれない。


 急いで屋敷へ戻ると、私は侍女長に頼まれた買い物の品を渡し、すぐにお嬢様の部屋へと向かった。


「お嬢様、デルタという名の人を見つけましたよ!」


 お嬢様は手にしていた古い新聞から顔を上げた。


「まあ、本当?」

「はい。王都の商業区に、デルタ商会という店がございました。そこの商会長は、デルタ・アルヴェイン子爵という若い方だそうです。アルヴェイン子爵家の領地は、リュゼリア王国の南、国境沿いにあるそうです」

「その方が……シリル様の言っていたデルタ様かもしれないのね」

「確証はありません。けれど、可能性はあります」


 お嬢様は古新聞を机の上に置き、立ち上がるときっぱりと言った。


「私、そのアルヴェイン子爵に手紙を書きます。シリル様のご友人かどうか聞いてみるわ」


 そうして書いた手紙は、とても短いものだった。


 ――突然のお手紙をお許しください。


 あなたは、シリル様のご友人でいらっしゃいますか?


 もしそうであるならば、どうかお返事をいただけませんでしょうか。


 セシリア。


 とても短い文面だが、もしアルヴェイン子爵がシリル様と友人であるならば、お嬢様の名前もご存じだろうし、シリル様の婚約者だと気づくはずだ。


 私はその手紙を、信頼できる使いの者に頼み、デルタ商会へ届けさせた。


 けれど、正直なところ、返事が来るとは思っていなかった。


 たとえその方が本当にシリル様の友人だったとしても、貴族であるのなら、今のお嬢様に関わるのは危険だからだ。


 花婿に捨てられた令嬢。


 失踪した花婿。


 どれもこれも、ヴァイスハルト公爵家とエルフォード伯爵家の大醜聞だ。


 そこに自分から首を突っ込む貴族など、いないだろう。


 それでも、お嬢様は返事を待った。


 古い新聞を広げていても、少し物音がするたびに、ふと扉のほうを見る。


 けれど、アルヴェイン子爵からの返事は来なかった。


 手紙を出してから、一週間後。


 やはり人違いだったのだと、お嬢様と二人で意気消沈していたところへ、執事のエドモンドさんがお嬢様を呼びに来た。


 旦那様が呼んでいるという。


 旦那様の執務室へ呼び出されたお嬢様に、私も侍女として付き添い、後ろに控える。


 執務室には旦那様と奥様、そしてなぜか義妹のリリアナ様がいた。


 リリアナ様は、とても楽しそうに口元を押さえている。


 ……嫌な予感がする。


 旦那様は机の上の書類を指で叩きながら、お嬢様を見て笑顔になった。


 こちらの胸の内など知らないような、晴れ晴れとした笑顔だ。


「セシリア。お前の新しい婚約者が決まったぞ」

「新しい婚約者様……でございますか?」

「そうだ。アルヴェイン子爵だ」


 アルヴェイン子爵……。


 デルタ様!?


 まさかアルヴェイン子爵、つまりデルタ様の名前が出るとは思わず、お嬢様と私はその場で固まってしまった。


 お嬢様と私が驚きのあまり物も言えないことを、旦那様は不服なのだと勘違いしたらしい。


 不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「商人上がりの新興貴族だ。捨てられた花嫁と呼ばれるお前に、婚約を申し込むなど頭がおかしいとしか思えん。気に入らんが、贅沢は言っておれん」


 義妹のリリアナ様は、意地の悪い笑顔を隠そうともしない。


「お姉様、ご婚約おめでとうございます。商人の成り上がりとはいえ、子爵ですもの。うちよりは下ですけれど、貴族には違いありませんわ。格下に嫁ぐなんて、お姉様らしいですわ。ふふふっ」


 お嬢様は、リリアナ様の煽るような嫌味に、何の反応も示さない。


 そんなお嬢様を見て、リリアナ様は不満げに更に嫌味を言い募っている。


 だがお嬢様には聞こえていないだろう。


 だって、それどころではない。


 デルタ様は、返事を手紙で寄越さなかった。


 代わりに、婚約の申し込みという形で、こちらへ手を伸ばしてきたのだ。


 こんなことになるとは、お嬢様も思ってもいなかったに違いない。


「明日、アルヴェイン子爵と会う手配になっている。せいぜい失礼のないようにしろ。二度も婚約が破談になるなど、伯爵家の恥だからな」

「……かしこまりました」


 アルヴェイン子爵が婚約を申し込んできたからと言って、シリル様のご友人だとはまだ言い切れない。


 単なる興味本位ということもありえる。


 伯爵家と繋がりを持ちたいと思っていたので、お嬢様からの手紙を利用したということだって考えられるのだ。


 でも、それもすべて、明日になれば分かる。


 アルヴェイン子爵が、お嬢様の探していたデルタ様であることを、私は願った。


 ◇◇


 翌日、お嬢様と私は王都の商業区へ向かった。


 アルヴェイン子爵が、小ぶりだがお洒落な馬車で迎えを寄越してくれたので快適だった。


 いかにも若い令嬢が喜びそうなその馬車を見て、義妹のリリアナ様が悔しげにしていたので、内心スッとしたのはお嬢様には内緒にしておこう。


 使者に導かれ、たどり着いたのは、大通りから少し入った細い路地にある、小さなカフェだった。


 白い壁に、深い緑色の屋根。窓辺には小さな花鉢が並んでいる。


 色使いに南方の趣がある。


「まあ……なんて可愛らしいお店なのかしら」


 お嬢様が、思わず声を漏らして微笑んだ。


 お嬢様は喜んでいるが、新しい婚約者との初対面の場所としては、少し変わっている。


 貴族同士の面会なら、もっと格式のあるカフェや、名の知れたレストランの個室を使うものだ。


 けれど、この店を見たお嬢様が楽しげにされているのを見ると、これもアルヴェイン子爵の心遣いのひとつなのかもしれないと感じた。


 捨てられた花嫁と呼ばれているお嬢様が、人目の多いところに行けば、陰口を叩かれることは必至だ。


 貴族があまり来ないであろう小さな店のほうが、かえってお嬢様も気楽だろうと私は思った。


 アルヴェイン子爵の使者に案内され、奥の個室へと通される。


 そこには、一人の若い男性がいた。


 窓の外を見ていたその人は、私たちに気づくと振り返り、にこりと笑った。


「ようやくお会いできましたね、セシリア・エルフォード伯爵令嬢。私がデルタ・アルヴェインです」


 アルヴェイン子爵は、シリル様とはまるで違う雰囲気の方だった。


 シリル様は銀髪で背が高く、端正な顔立ちと落ち着いた物腰の、まさに理想の貴公子のような方だった。


 デルタ様は、その真逆のような方だった。


 カールした蜂蜜色の髪に、人懐こい笑顔。


 シリル様よりは小柄で、ほっそりしている。


「セシリア・エルフォードでございます。本日はお招きいただき、ありがとうございます」


「こちらこそ。お越しいただけて嬉しいです。どうぞ私のことは、デルタとお呼びください」


 すぐにお茶と茶菓子が運ばれてくる。


 少し丸みを帯びたカラフルなティーカップに入った、薄い黄金色のお茶。


 小皿には、赤い果物の砂糖漬けを乗せた焼き菓子などが並んでいた。


 やはりすべてが南方風の色使いで華やかだ。


「まずは、少しお茶でも。ここは私の店なんですよ。店の雰囲気や菓子について、ぜひご意見を聞かせていただきたくて」


 デルタ様は、にこやかにお嬢様に話しかける。


 お嬢様も礼儀正しく茶菓子の感想などを返していたが、その指先は、膝の上で固く握られたままだ。


 お嬢様が知りたいのは、この店のことなどではない。


 シリル様のことが知りたいのだ。


 とうとう、しびれを切らしたお嬢様が、会話の流れを切ってしまう。


 それは令嬢としては明らかなマナー違反だ。


 でも私は心の中で、お嬢様に喝采を浴びせかけた。


「デルタ様。あなたは、シリル様のお友達でいらっしゃるのですか?」


 急に話題を変えられ、しかも核心をつくような質問をされたデルタ様。


 小さく口を開けたまま、驚いたようにお嬢様を見ている。


 お嬢様をそのへんの貴族令嬢だと、なめていたのかもしれない。


「……ええ、友達です。いえ……親友と言ってもいいかもしれません」


 お嬢様の指先が、膝の上でぎゅっと握られる。


「では、教えてください。シリル様は、なぜ結婚式に来なかったのですか」


 この質問がお嬢様からされるだろうと予想していたのだと思う。


 少し間を置いてから、デルタ様は答えた。


「あなたを守るためです」


「私を……守るため?」


 お嬢様の声に、戸惑いが混ざっている。


 でも、それはそうだろう。


 花婿が結婚式に来なかったのは、花嫁を守るためだなんて……。


 言い訳にしてもあまりにひどいし、意味が分からない。


 他に好きな女性がいると聞かされる方が、まだ自然だ。


「結婚式に来なかったことが、どうして私を守ることになるのですか」


「それは……」


 デルタ様がためらっている。言い難いことなのだろうか。


「デルタ様、私はどうしても知りたいのです。前日まであれほど優しかったシリル様が、なぜ私を結婚式で一人にしたのか……あの日から、そのことばかり考えています……」


 お嬢様が苦しい胸の内を打ち明けたことで、デルタ様の顔にも苦悩が浮かんだ。


「私がシリルの事情を話しても、セシリア様は信じてくださらないと思いますよ……」


 そのとき、お嬢様は令嬢らしい慎みも忘れたように、テーブルに両手をついた。


 そして、真実を逃がすまいとするように、デルタ様へと身を乗り出す。


「信じられるかどうかは、聞いてから私が決めます。なにも知らないまま苦しみ続けるのは、もう嫌なのです」


 お嬢様の迫力に、デルタ様は一瞬、言葉に詰まった。


 おそらく、ここまで踏み込んでくるとは想像していなかったのだろう。


 しばらく、お嬢様の顔を見つめていたデルタ様は、覚悟を決めたようにうなずいた。


「……分かりました。そこまでおっしゃるのなら」


 デルタ様は、言葉を選ぶように少し間を置いてから話し始めた。


「……シリルは、リュゼリア王国から罪に問われかねない行動を、取ろうとしていました」


 お嬢様の顔から血の気が引いていく。


「罪に……? それはいったい、どんな?」


「反逆罪……そういった類の罪です。王国の方針に背く行動をしているということです」


 反逆罪!


 デルタ様の話を聞いて、私は震え上がった。


 確か反逆罪は死罪だったはずだ。


 シリル様が、そんな罪に問われて処刑されるとしたら……。


 考えただけで体が凍りつく。


「もしシリルが予定通り、あなたと結婚していれば、あなたは反逆者の妻になる。最悪の場合、あなた自身も同じ罪に問われる可能性がありました」


「私が……?」


 お嬢様は、デルタ様の言葉をうまく受け止めきれないようだった。


 私も血の気が引いた。


 知らぬ間に、お嬢様まで重い罪に巻き込まれるところだったなんて。


「ええ。だから、あいつは結婚式に行かなかったのです。いえ、結婚式というより、あいつ自身が悪者になる形で結婚を壊したのです」


「そんな……それならば、一言、言ってくださればよかったのに……」


 心の悲鳴を絞り出したかのようなお嬢様の言葉に、デルタ様は顔を強ばらせた。


 結婚式が台無しになったあと、お嬢様が幾夜も悲しい気持ちで過ごされたことを思うと、シリル様は、一言くらいなにか言ってくださってもよかったのにと、私でさえ思ってしまう。


 なぜお嬢様を信頼して、シリル様は話をしてくださらなかったのだろう。


「話せば、あなたを巻き込むことになるからですよ」


 デルタ様は、お嬢様を傷つけない言葉を探しているようだった。


 この先の話がお嬢様を傷つけると、分かっているのだろう。


「あなたがシリルの計画を知れば、たとえ何も手伝っていなくても、計画を知りながら黙っていた者と見なされかねません」


「黙っていた、だけで……?」


「ええ。王国の危機を知りながら、報告しなかったことになります。きっとあなたは、シリルの話を聞いても、それを胸の内に留めて、他の者には話さなかったでしょう」


 デルタ様のおっしゃるとおりだ。


 きっと、お嬢様なら、シリル様を信じる。


 そして、シリル様を守るために黙ってしまうだろう。


「だから、シリルはあなたには何も言わなかった。何も知らなければ、罪には問われませんから」


 お嬢様は、しばらく窓の外を見たまま、動かなかった。


 たぶん、デルタ様の話を何度も心の中で繰り返していたのだと思う。


 捨てられたのだと思っていた。


 嫌われたのだと思っていた。


 けれど、違った。


 シリル様は、お嬢様を捨てたのではなかったのだ。


 何も告げず、自分だけが悪者になることで、お嬢様を守ろうとしたのだ。


 今、ようやくシリル様の思いが届いたのだと思う。


 一粒の涙が頬を伝って落ちた。


 それきり、お嬢様は両手で顔を覆い、泣き出した。


 私はお嬢様の側に寄り、ハンカチを差し出しながら、ただ背中をさすることしかできなかった。


 ようやく、お嬢様が泣き止んだところで、デルタ様が口を開いた。


「あなたもお聞き及びでしょう。最近、国境沿いの地が不穏であることを。隣国のガルデア帝国が軍隊を集め、攻め込む準備をしているのです」


 国境沿いの話は、お嬢様も私も知っている。


 デルタ様を探す過程で、南方の手がかりがないかと新聞を読んでいたからだ。


「シリルは国境沿いの地へ向かいました。ガルデア帝国に対抗するため、賛同者を募り、防衛のための兵を集めています」


「なぜ……シリル様がそんなことを……」


 シリル様が国境沿いの地で一時暮らしていたという話は聞いた。


 だけれども、一時、その場に暮らしたからといって、自分の地位や仕事、そして婚約者まで捨て、なぜその土地に行かねばならないのだろうか。


 しかも兵を集めて、帝国に対抗するという。


 そんなことは、リュゼリア王国がすることではないか。


 シリル様は宰相補佐官とはいえ、一人の文官に過ぎない。


 なぜ、シリル様がそんなだいそれたことをなさるのか、私には理解できなかった。


 それはお嬢様も同じだったようだ。


「シリル様が国境沿いで暮らしていたことがあるとは、お聞きしました。デルタ様、あなたと野花を摘みに行ったことも。でも、兵を募ってガルデア帝国に対抗するなんて、そこまでなさる理由が分かりません」


 デルタ様は、お嬢様の問いにすぐには答えなかった。


 けれど次に口にした言葉は、それまで私が知っていたシリル様の姿を、根元から変えるものだった。


「シリルと私は、国境沿いの孤児院で育った幼なじみです」


 ……孤児院?


 すぐには、その言葉を飲み込めなかった。


 シリル様が、孤児院で育った。


 あのヴァイスハルト公爵家の嫡男で、次期宰相とも言われるシリル様が。


 銀髪の美貌で、王都中の若い令嬢たちの憧れを集めていた、あのシリル様が。


 私は思わず息を飲んだ。


 お嬢様も口に両手を当て、声を出せないでいる。


 公爵家の嫡男として王都に立っていたあの方と、孤児院という言葉が、私の中でどうしても結びつかなかった。


「シリルは、もともと公爵家を出奔した嫡男の子です。父親は身分の低い女性と恋に落ち、王都を離れました。二人は国境沿いの町で暮らしていましたが、病で亡くなったそうです」


「それでシリル様は……孤児院に?」


「ええ。シリルはしばらく、私と同じ孤児院にいました。そこで彼は、多くの人に助けられた。孤児院の者だけではありません。町の人たちも、貧しいなりに子どもたちを気にかけてくれた」


 デルタ様の声は、懐かしさよりも、恩を返せなかった悔しさを含んでいるように聞こえた。


「シリルはその後、公爵家に存在を知られ、引き取られました。現在の公爵は実父ではなく、シリルの叔父です。今になっても、私たちはあの土地の人々に生かされたのだと感謝しています。実際、私もシリルも幼くして亡くなってもおかしくなかった」


 南方の人たちは情に厚いと聞く。


 親のいない子どもたちを、守り、育ててくれたのだろう。


 シリル様の心情は分かった。


 ただ、他国から土地を守るというのは、国がすることではないだろうか。


 なぜ、シリル様といい、デルタ様といい、一介の個人が隣国に立ち向かおうとしているのだろう。


 リュゼリア王国は、なにをしているのだ?


 まるで、私の心の声が聞こえたように、デルタ様が答えをくれた。


「リュゼリア王国は、国境沿いの地を事実上、見捨てる方針を固めました」


 まさか、王国がそんなことを決めるなんて!


 国境沿いに暮らす人々を、民ではないとでも言うのだろうか。


「ガルデアの兵は、すでに国境付近に集まり始めている。あとは、いつ動くかという段階です」


「では、シリル様が守ろうとしているのは……」


「自分を育てた土地です。孤児院も、そこにあります」


 デルタ様の声の奥には、押し殺した怒りのようなものがあった。


「ガルデア帝国に襲われた町や村がどうなるか、私たちはよく知っています。金も、食料も、人も奪われる。暮らしは壊され、二度と元には戻らない」


 お嬢様は青ざめた顔で、言葉もなく聞いている。


「でも、リュゼリア王国の王宮では真剣に考えられていません。南方の国境は、彼らにとっては地図の端でしかないのでしょう。国全体が戦に巻き込まれるくらいなら、国境沿いの土地を差し出してでも、ガルデアとの衝突を避けたい。そう考える者が増えたのです」


「それで、国境沿いの地を見捨てることにしたと?」


「そういうことです」


 王国が自らの領土を差し出すことにしたなんて。


 そんなことをしても、時間稼ぎにしかならないのが、なぜ偉い人たちには分からないのだろう。


「あなたとシリルが婚約した半年前、国境沿いはまだ平和でした。少なくとも、ここまで切迫してはいなかった。あの頃のシリルは、本気であなたと結婚するつもりだったはずです」


 お嬢様は、胸元に添えていた手を握りしめた。


「本気で……私と……」


 その声には、隠しきれない喜びがにじんでいた。


 デルタ様は、お嬢様がその言葉を受け止めるのを待ってから、話を続けた。


「ですが、ガルデア帝国は動き始めたのです。シリルは宰相補佐官として、その情報をつかんでいました。義父である宰相閣下に、国境沿いの地を守るべきだと何度も訴えました」


 シリル様らしい。


 真面目で優しい方だとは、分かっていた。


 だからこそ、お嬢様とも気が合ったのだろう。


「でも、シリル様の声は聞き入れられなかった……そうなんですね?」


「ええ……それどころか、危険視されました。王宮の方針に逆らって国境を守ろうとしていると見なされ、ヴァイスハルト公爵家から監視がつけられたんですよ」


 私は、あの庭園にいた黒い服の男たちを思い出した。


 やはり、あのとき感じた違和感は本物だったのだ。


 シリル様の護衛や従者のようなふりをしても、あの不穏な雰囲気は消せなかった。


「そして結婚式の前日、事態が急変しました。ガルデア帝国がすぐにも動く様子を見せたのです。そこでシリルはもう、王宮を待っていられないと判断しました」


「それで……結婚式に来なかったのですか?」


 確かに、結婚式前日のシリル様は、いつもと様子が違っていた。


「ええ。あいつは公爵家の嫡男としての立場も、宰相補佐官としての未来も、あなたとの結婚も、すべて捨てる決断をしたのです。自分の命を救ってくれた土地が、蹂躙されるのを見ていられなかったのでしょう」


 お嬢様は、何も言えずにうつむいている。


「シリルは、あなたを巻き込めないと言っていました。結婚式に一人残すことになると分かっていて、それでも罪人の妻にはできない、とね」


「勝手……ですわ」


 お嬢様の頬に、再び涙が落ちた。


「私に何も言わずに、私のためだなんて……そんなの、勝手です」


「ええ……本当に勝手な男です」


 デルタ様はお嬢様の言葉を否定しなかった。


「あなたを陰ながら見守ってほしいと、あいつは頼んできましたよ。危険が迫るようなら、助けてあげてほしいと」


「危険……?」


「シリルの行動への加担を疑われること。戦火が王都にまで広がること。そして、伯爵家があなたを都合よく利用すること……そんなところです」


 デルタ様は、そこで苦みのある笑みを浮かべた。


「最初は陰から見守るつもりだったんですよ。ですが、あなたと侍女殿が私を探し当て、手紙まで送ってきた。思った以上に真相に近づいていると分かったんです」


 デルタ様の視線が、私にも向けられる。


「王国側は、シリルの過去も私の存在も把握しています。その私に、シリルの元婚約者が近づこうとしている。そう知られれば、あなたまでシリルの件に関わっていると疑われかねません。陰から見守るだけでは、もう危ういと判断しました」


 ああ、なんということだろう。


 お嬢様を助けたい一心で動いたことが、かえってお嬢様を危険に近づけていたなんて。


 けれど、あの時の私たちに、他の道など見えていなかったのだ。


「それで私に婚約を?」


「そういうことです。婚約者として、私はあなたを安全な場所へ逃がすつもりでいます」


 安全な場所。


 それはおそらく、国外なのだろうという予感が私にはあった。


 お嬢様はうつむいたままだ。


 まだ涙が止まらないのだろうか。


 安全な場所へ連れ出したいというデルタ様の思いに、お嬢様はどう返事をするのかと、その横顔を私は見つめていた。


 デルタ様も何も言わず、お嬢様の返事を待っている。


 しばらくして、お嬢様は顔を上げた。


「私は……国境沿いへ向かいます」


◇◇


「私は……国境沿いへ向かいます」


「お嬢様!?」


 侍女の立場も忘れて、思わず声を出してしまった。


「いけません。国境沿いは危険です。戦になるかもしれない場所へ、お嬢様を行かせるわけにはまいりません」


 お嬢様は虐げられた生活をしていたとはいえ、伯爵令嬢なのだ。

 安全な王都の屋敷で守られて生きてきた方だ。

 戦の気配が近づく土地へ行って、無事に済むはずがない。


 私が救いを求めるようにデルタ様を見ると、彼も首を横に振っている。


「私もおすすめしません。シリルにあなたを守れと頼まれた以上、危険な場所へ行かせるわけにはいかない。道中も安全ではありません。たどり着いた先は、危険な戦場だ」


 お嬢様も当然、反対されると予想していたのだろう。

 苦しげな表情をみせた。


「心配してくださっているのは……分かっています。でも、事情を知った今、私はもう屋敷で泣いてなんかいられません。シリル様が何を見て、何を守ろうとして、すべてを捨てたのか……この目で確かめたいのです」


「お嬢様……」


「もちろん、シリル様に会いたい。なぜ私を置いていったのか、会ってちゃんと怒りたい。でも、それだけではありません」


 お嬢様は、まっすぐデルタ様を見た。


「私は、捨てられた花嫁のまま終わりたくないのです。あの方が自分の意思で進んだのなら、私も自分の意思で進みます。今度は、私が選びたいのです」


 それを聞いた瞬間、私はもう止められないと思った。


 教会で泣きながらシリル様を探していたお嬢様。

 ウェディングドレスのまま、手紙を見つめていたお嬢様。

 あの頃のお嬢様は、もういない。


 デルタ様は、答えを決めかねているようだった。


 シリル様との約束と、お嬢様の覚悟を、胸の内で量っているように見える。


「行けば、もう伯爵令嬢としての暮らしには戻れませんよ。名誉も、家も、命さえ失うかもしれない。それでもですか?」


「はい。それでも行きます」


 デルタ様の表情が、少しだけやわらいだ。

 それは先ほどまでの貴族としての笑みではなく、覚悟を決めた者に向ける、敬意のこもった表情だった。


「分かりました。そこまでの覚悟があるなら、私が準備をお手伝いしましょう。残念ですが私が同行することはできません。この王都で、私はやらなくてはならないことがある。ですから信頼できる護衛たちを紹介します。そこから先は、あなた次第です」


「はい! ありがとうございます」


 お嬢様は淑女の礼をとり、デルタ様に深く頭を下げた。

 それから――。


「リネット……」


 お嬢様が、振り返って私を真っ直ぐに見つめてきた。


 私にはその目を見ただけで、次に何を言われるか分かってしまった。

 お嬢様は私を置いていくつもりだ……。


「ごめんなさい。あなたを連れてはいけない」


「嫌です……お嬢様をお一人になんてできません」


 声が震えているのが自分でも分かる。


 毅然としていたいのに、涙が勝手にこぼれてくる。


 みっともない!


「私も参ります! どうか、最後までおそばに置いてください」


 お嬢様は、悲しげに私を見つめた。

 その目はやはり、連れていけないと告げていた。


 お嬢様にすれば、危険な場所に私を連れていきたくないのだろう。

 その気持ちは分かる。

 分かるけれど、素直にうなずくことなどできなかった。


 そのとき、デルタ様が口を開いた。


「侍女殿、あなたには王都に残っていただきたい。セシリア嬢が突然姿を消したと証言する人間が必要です。追跡を遅らせるためにも、伯爵家と王宮の目をそらすためにもです」


 分かっている。そんなことは分かっているのだ。

 でも、嫌だ。

 お嬢様を一人で危険な目に遭わせるなんて、私にはできない。


「リネット。お願いよ」


 お嬢様が駆け寄り、私の手を取った。


「あなたには助けてもらってばかりよね。でもこれが最後なの。どうか私を助けてください」


 そういうと、お嬢様は私の前で腰を低く落とし、深々と頭を下げた。


 通常の淑女の礼ではない。

 これは、この国で女性がとる最高の礼とされる貴婦人の礼だ。


 普通は王族や位の高い貴族にしかとらない礼を、今、お嬢様は私に向かってされている。


 もう涙が止まらなかった。


 それに、これが最後の頼みだと言われてしまえば、断ることなどできはしない。


「……かしこまりました」


 私もお嬢様に向かって貴婦人の礼をとり、深々と頭を下げた。


「お嬢様がご自分の足で進まれるというのなら、私がその背中を後押しいたします」


「リネット……ありがとう……ありがとう」


◇◇


 数日後、計画は実行された。

 国境沿いに行くのなら、なるべく早く行ったほうが安全だというデルタ様の判断からだ。


 デルタ様との二度目の面会の日。

 面会場所に選ばれたのは、人気のある街中のレストランだった。

 ここは貴族もよく使う場所で、デルタ様の友人が営んでいる場所らしい。

 今回は個室ではなく、多くの人の目がある広い店内の席だ。


 席について、しばらく歓談してから、お嬢様は自分の好きな店の焼き菓子を、デルタ様にも食べていただきたいとわがままを言った。


 私は、その店は近くにあるので買ってまいりましょうと申し出た。


「じゃあ、お願いしていいかしら? リネット、ありがとう……大好きよ」


 それがお嬢様が私にかけた最後の言葉だった。


 私は涙をこらえながら店を出た。

 こんなところで泣きだしたら、計画が台無しだ。

 お嬢様が最後に見せてくださった優しい笑顔を思い出しながら、私は計画通り、道を歩いた。


 ここから先を、私は直接見ていない。


 事前に打ち合わせた計画は、こうだった。


 お嬢様は化粧直しがしたいと言って、化粧室へ向かう。


 侍女である私はいないので、お嬢様がひとりで化粧室へ向かうことになる。


 化粧室では、デルタ様の配下の女性が待機している。


 お嬢様はそこで町娘風の衣装に着替え、その女性と一緒にレストランの裏口から姿を消す。


 けれど、そこからどこへ向かわれるのかまでは、私には知らされていない。


 私の安全のためだと、デルタ様はおっしゃっていた。


 だから私は、私に与えられた役目を果たすしかない。


 焼き菓子を買い求め、レストランへ戻るまでの道を歩いた。


 賑やかな街の中で、お嬢様の無事を祈り続けていたことしか覚えていない。


 そして私は、何も知らない顔でレストランに戻った。


 戻ってすぐ、お嬢様が化粧室に行ったままだと知らされ、様子を見に行った。


 お嬢様はいるだろうか?


 計画の成功を祈りながらも、お嬢様にいて欲しい気持ちが湧き上がる。


 ――もちろん、お嬢様はいなかった。


 うまくいったのだ。

 お嬢様は、もうここにはいない。


 私はほんの少しだけ、泣くことを自分に許した。

 手の甲で涙を拭い、お嬢様の無事を祈る。


 あとは、何も知らないふりで騒ぎを引き起こすだけだ。


「お嬢様が……お嬢様がいらっしゃいません!」


 レストランは店中、捜索されたが、誰も貴族の令嬢が外へ出ていくのを見ていない。

 もちろん、見ているはずがない。

 お嬢様は、町娘の姿になっているのだから。


 連絡がもたらされた伯爵家は大騒ぎになった。

 旦那様は怒鳴り、奥様は倒れかけ、リリアナ様は呆然としていた。

 私は涙をこぼしながら、一世一代の演技をし、何度も同じことを言った。


 焼き菓子を買ってくるように言われました。

 でも帰ってきたら、お嬢様はいなくなっていたのです!

 ああ、お嬢様! いったいどこへ行かれてしまったのですか!


 もちろん、全部、嘘だ。


 けれど、この嘘が、お嬢様の進む道を少しでも遠くへ伸ばすのなら、私はいくらでも嘘をつくし、涙が枯れはてても泣いてみせる。


 結局、お嬢様の行方は分からず、捜索も打ち切りとなった。


 捜索が打ち切られても、デルタ様はお嬢様との婚約を解消しなかった。


 婚約者として捜索を続けると伯爵に告げ、表向きはお嬢様を探すふりをしながら、王都に残って王宮の動きを探っているようだ。


 なにかあったときには、デルタ様の婚約者という立場が、お嬢様を守る盾になるかもしれないと思った。


 私は伯爵夫妻から厳しく叱責されたが、ただそれだけだった。

 そして、お嬢様の捜索が打ち切られたあと、私は伯爵家の侍女を辞めた。


 そして毎晩、祈りを捧げた。

 どうぞ、お嬢様が御無事でありますように。

 シリル様と再び、会えますように。


◇◇


 それからしばらくして、新しい職場で働く私のもとへ手紙が届いた。


 差出人の名はない。

 でも、懐かしい筆跡だ。

 便箋には、たった一言だけ。


 ――会えました。


 見た瞬間、力が抜けてしまって私は近くにあった椅子へ、座り込んでしまった。


 涙が勝手にこぼれてきた。


 お嬢様は、とうとう、たどり着いたのだ!


 私は涙を拭いながら、何度も一言だけの手紙を読んだ。


 今の私は、デルタ様のアルヴェイン子爵家で侍女として働いている。

 お嬢様の行方を知るには、そうするのが一番だと思ったからだ。


 あとで、手紙が届いたことをデルタ様にもお知らせしよう。


 そう思いながら封筒を閉じようとしたとき、中で小さなものが動く音がした。


「なにかしら?」


 私は封筒の口を広げ、手のひらの上に傾けた。


「まあ! これは……花?」


 小さな色とりどりの花が、私の手のひらにこぼれ落ちる。


 可愛らしいピンクに、鮮やかな黄色。

 そして、爽やかなブルー。


「お嬢様……シリル様と、あの草原へ行かれたのですね」


 シリル様が幼い頃、春の野花をデルタ様と摘みに行ったという草原。


 私の脳裏に、お嬢様とシリル様が手をつなぎ、草原に立っている姿が浮かんだ。


 そこにはあの日、教会で泣き崩れたお嬢様は、もういない。


 王都の人々は、これからもお嬢様を「捨てられた花嫁」と呼ぶかもしれない。

 けれど私は知っている。


 お嬢様は捨てられたのではない。

 自分の意思で、愛する人のもとへ向かった。

 お嬢様は、自分の足で未来へ歩いていかれたのだ。


「セシリアお嬢様、私はお役に立てたでしょうか?」


 手のひらの小さな野花を見つめながら、私は心の中で問いかけた。


 ――ええ、リネット。あなたは私を助けてくれたわ。ありがとう。


 そんな声が聞こえたような気がした。


 草原でシリル様と並んでいるお嬢様が、こちらを見て微笑んでいる。

 その姿が、たしかに見える気がした。


 私も、お嬢様に向かって微笑んでみる。


 ああ、私はようやく、心から微笑むことができた。



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