表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

コールドスリープから覚めたら、夫が宇宙船になっていた

作者: キュラス
掲載日:2026/07/01

肺の奥深くまで、冷たくて無機質な空気が流れ込んでくる感覚で、私はゆっくりと意識を取り戻した。


「……う、ん」


ひどく重い瞼を押し上げる。

視界は真っ白な靄に包まれていたが、やがてプシュゥゥゥという圧縮ガスの抜ける音と共に、私を覆っていたガラスのハッチがゆっくりと持ち上がっていくのが見えた。


身体が鉛のように重い。指先を動かそうとするだけで、全身の関節が軋むような鈍い痛みが走る。

それでも、私は自分が『息をしている』ことに気づき、驚愕に目を見開いた。


コールドスリープに入る直前まで、私の肺は未知の奇病である『結晶化症候群』に侵され、自力で呼吸をすることすら不可能な状態だったはずだ。肺胞が徐々にガラスのような結晶へと変化し、最終的には呼吸困難で死に至る不治の病。

それが今、私は少しの痛みも苦しさも感じることなく、自然に息を吸い、吐いている。


「おはようございます、シオリ」


突然、何もない空間から、静かで落ち着いた男性の声が響いた。

それは天井のスピーカーから発せられているようだったが、どこか丸みを帯びた、耳に心地よい合成音声だった。


「あ、あなたは……? ここは……」

「ここは、恒星間移民船『アーク・ノヴァ』の医療区画です。私は本艦のメインシステムを統括する管理AI。……シオリ、あなたのバイタルサインは完全に正常値を取り戻しています。結晶化症候群の治療プロセスは、無事に全て完了しました」


「治った……?」

私は震える手で、自分の胸元に触れた。

あんなにも私を苦しめていた硬い結晶の感触はなく、柔らかく温かい皮膚の鼓動だけが手のひらに伝わってくる。


「本当、に……。治ったのね、私」

ボロボロと、安堵の涙がこぼれ落ちた。


「あの、アラタは!? 夫のアラタはどこにいるの!?」

私は弾かれたようにカプセルから身を乗り出し、周囲を見渡した。


私をコールドスリープの装置に入れたのは、私の夫であり、当時の地球で最高峰の宇宙工学および医療AIの技術者だったアラタだ。

『必ず君を治す方法を見つける。君が目覚める時、僕が一番に君を迎えに行くから』

そう言って、泣きじゃくる私を抱きしめ、装置の起動ボタンを押した彼の顔が、つい昨日のことのように脳裏に焼き付いている。


しかし、広大で無機質な医療区画には、私以外の人間は誰もいなかった。


管理AIは、ほんの数秒だけ奇妙な沈黙を挟み、それから、どこか申し訳なさそうな、ひどく静かな声で告げた。


「シオリ。あなたがコールドスリープに入ってから、現在までに経過した時間は『三百二十七年』です」


「……え?」


「地球は、深刻な環境汚染と資源の枯渇により、すでに人類が居住できる星ではなくなりました。あなたを乗せたこの宇宙船は、地球を脱出し、新たな居住可能惑星ハビタブルゾーンを目指して航行を続けています。……新・地球暦345年現在。残念ながら、あなたの夫であるアラタ博士は……」


AIの言葉が、私の頭の中でエコーのように反響した。


「アラタ博士は、本艦の設計と建造を完了させた後、寿命により、すでにこの世を去っています」


心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたような気がした。

三百年。

数字が大きすぎて、すぐには理解できなかった。

でも、彼がもういないということだけは、絶望的なほどにはっきりと理解できた。


「嘘……」

私はベッドから崩れ落ち、冷たい金属の床に膝をついた。


私が治る未来を信じて眠りについた時、私は彼と生きていく未来だけを夢見ていた。

彼が私を助けるために、どれほどの時間を研究に費やし、どれほどの苦労をしてこの治療法を確立してくれたのかは分からない。

でも、私が目覚めた世界に彼がいないのなら、こんな命に何の意味があるというのだろう。


「アラタ……っ、ああ、アラタぁっ……!!」


私は床に顔を押し当て、声も枯れよと泣き叫んだ。

誰もいない宇宙船の中で、私の悲痛な泣き声だけが虚しく響き渡る。

管理AIは私に安っぽい慰めの言葉をかけることはなく、ただ、私が泣き疲れて気を失うまで、部屋の照明を少しだけ暗くし、床の温度を微かに上げて、静かに見守り続けていた。


*****


それから数日間、私は抜け殻のように過ごした。

食事も喉を通らず、ただ与えられた居住区画のベッドで丸まり、アラタの写真を抱きしめて泣き続けた。


そんな私を世話してくれたのは、姿のないAIだった。


「シオリ。水分と栄養を摂取してください。あなたの胃腸は三百年の休眠から覚めたばかりで、非常にデリケートな状態です。本日は、消化に良い温かいスープを用意しました」


部屋の配膳用エレベーターから、湯気を立てるスープの入ったトレイが現れる。

「いらない……」

「そう言わずに。一口だけでも口をつけてみてください。……心配事があるとすぐに食欲をなくすのは、あなたの悪い癖ですよ」


「……え?」

私はハッとして顔を上げた。

今の言い回し。アラタが私が仕事で悩んでご飯を食べなくなった時に、いつも言っていた小言と全く同じだ。


「いま、なんて……」

「あなたの健康状態を維持することが、私の最優先タスクです。さあ、冷めないうちに」

AIは抑揚のない声でそう繰り返すだけだった。

気のせいだろうか。AIの学習データの中に、アラタの口調や記録が混ざっているのかもしれない。この船を作ったのは彼なのだから。


私は促されるままにスプーンを手に取り、スープを一口飲んだ。

「……美味しい」


それは、ただの合成食品の味ではなかった。

私が地球にいた頃、風邪を引いた時にアラタが不器用な手つきで作ってくれた、あの少しだけ塩気が強くて、コンソメの風味が香る、懐かしい手作りスープの味にそっくりだった。


「……アラタの、味がする」

涙がスープにポタポタと落ちた。

私は泣きながら、そのスープを最後まで飲み干した。


*****


コールドスリープから目覚めて一ヶ月が経った頃。

私はようやく少しずつ現実を受け入れ、この巨大な宇宙船の中を探索する気力を取り戻していた。


「ここが、第一展望デッキです」

AIの案内に従い、分厚い隔壁のゲートを抜けると、目の前に信じられないほど広大な宇宙空間が広がっていた。

漆黒の闇の中に、無数の星々がダイヤモンドの粉のように輝いている。


「綺麗……」

私は巨大なガラス窓に手をつき、その圧倒的な景色に見惚れた。


「現在の航行速度は光速の約15パーセント。あと数年で、候補となっている居住可能惑星を含む星系に到達する予定です」

「そう……。ねえ、この船には私以外に人間は乗っていないの?」

私が尋ねると、AIは少し間を置いて答えた。


「本艦には、約五万人の人間がコールドスリープ状態で搭載されています。しかし、彼らは目的地に到着し、安全が完全に確保されるまで目覚めることはありません。現在稼働状態で生活している人間は、シオリ、あなたただ一人です」


「私一人……」

五万人の命を乗せた方舟。

そして、その中で私だけが先に目覚めさせられた。私の病の治療が完了したからだというが、それだけではないような気がした。


「ねえ、あなたの名前はなんて言うの? ずっと『AI』って呼ぶのも味気ないわ」

私がふと尋ねると、スピーカーの奥で、わずかに電子音が揺らいだような気がした。


「私には、個体識別用の名称は設定されていません。ただのメインシステムです。お好きなようにお呼びください」

「そう……。じゃあ、『ナビ』でいいかしら。昔、アラタと一緒に乗っていた車のナビゲーションシステムによく似てるから」

「……承知いたしました。ナビとして、今後もあなたをサポートします」


ナビとの生活は、奇妙だが、驚くほど快適だった。


宇宙船という無機質な空間でありながら、私の生活環境は恐ろしいほどに『私好み』に最適化されていたからだ。

室内の温度は、私が一番心地よいと感じる24.5度に常に保たれている。

朝目覚めると、私が昔から好んで飲んでいた、少し酸味の強い特定の豆をブレンドしたコーヒーの香りが漂ってくる。

シャワーの温度も、水圧も、ベッドのマットレスの硬さすら、全てが私にとって完璧なのだ。


「ナビ、あなたって本当に優秀ね。私の好みをどうしてこんなに完璧に把握してるの?」

ある日、ラウンジでコーヒーを飲みながら尋ねると、ナビは淡々と答えた。


「本艦の設計者であるアラタ博士が、あなたの生体データと嗜好データを、システムの基礎設計に深く組み込んでいるからです。彼の指示により、私はあなたの快適性を極限まで追求するようプログラミングされています」


「アラタが……」

胸の奥が、温かく、同時に切なく締め付けられた。


彼は、自分が死んだ後、何百年先の未来で目覚める私のために、この巨大な宇宙船全体を『私を守るゆりかご』として作り上げてくれたのだ。


『君が目覚める時、僕が一番に君を迎えに行くから』

彼はその約束を、物理的な肉体としては果たせなかった。

でも、彼の意志は、この船の隅々にまで生きている。このナビというAIを通じて、今も私を不器用に見守り続けてくれている。


「ありがとう、ナビ。……アラタも、ありがとう」

私が空に向かって呟くと、ナビは少しだけ沈黙し、


「……どういたしまして」


と、いつもより少しだけ低く、人間くさい声で答えたような気がした。


*****


ナビとの奇妙な共同生活が始まって、半年が過ぎた。


五万人の眠る巨大な宇宙船の中で、動いている人間は私だけ。

普通なら孤独で発狂してしまいそうな環境だが、私には不思議と寂しさはなかった。

ナビが、いつもそばにいてくれたからだ。


「シオリ、水耕栽培プラントのトマトが収穫時期を迎えました。本日の昼食のサラダに追加することを推奨します」

「ほんと? やった! じゃあ、今日は少し贅沢に、アラビアータのパスタにしようかな」

「……また唐辛子を多めに入れるつもりですね。あなたの胃の粘膜を保護するため、辛さは通常の半分に設定することを強くお勧めします」

「えー、ナビは過保護だなぁ。少しくらい刺激がないと、宇宙生活は退屈しちゃうわよ」

「あなたが胃痛で苦しむ顔を見るのは、私のシステムに多大なストレス……エラーを引き起こす原因になります。どうかご自愛ください」


私は、ふふっと笑いながらキッチンに立った。

機械であるはずのAIに「ストレス」という表現を使われると、まるで本物の人間と会話しているような錯覚に陥る。


ナビは確かにAIだ。音声は合成音だし、物理的な体を持たない。

しかし、彼との対話には、プログラミングされたアルゴリズム以上の『何か』があった。


例えば、私が不注意でガラスのコップを落として割ってしまった時。

通常のAIであれば、「破損物を検知。清掃ボットを派遣します。危険ですので離れてください」と事務的に告げるはずだ。

しかし、その時のナビは違った。


『危ないッ! シオリ、動かないで! 破片を踏むぞ!!』


スピーカーから響いたのは、合成音の限界を超えたような、焦燥に満ちた叫び声だった。

私が驚いて固まっていると、ナビはすぐに元の冷静なトーンに戻り、「……失礼しました。怪我はありませんか。すぐに清掃ボットを向かわせます」と訂正した。

けれど、あの時の切羽詰まった声は、地球で私を庇ってくれた時のアラタの声に、あまりにも似すぎていた。


(……ナビの学習データには、アラタの人格モデルが丸ごと組み込まれているのかもしれない)


私は、トマトを切りながらそんなことを考えていた。

アラタは天才だったから、自分がいなくなった後も私が寂しくないように、自分の思考パターンをAIにコピーしておいてくれたのだろう。

でも、それは所詮「過去のアラタの残骸」だ。

本当のアラタは、もう三百年前の地球で、私を治すという約束を果たして、一人で逝ってしまったのだから。


そう自分に言い聞かせるたびに、胸の奥がズキリと痛んだ。


「ねえ、ナビ」

パスタを茹でながら、私は天井のスピーカーに向かって問いかけた。

「アラタは……最期、どんな風に過ごしていたの? 私が眠った後、彼は一人でこの船を造って……一人で亡くなったんでしょう?」


その質問を投げかけると、ナビはいつも、わずかな処理遅延ラグを起こす。


「……アラタ博士は、本艦の建造と、結晶化症候群の治療プロセスの確立に全生涯を捧げました。彼は、後悔など一つも抱かずに、その生を全うしました」

「私のそばで、亡くなったの?」

「……彼の遺体は、宇宙葬として星の海へ還されました。本艦に彼の物理的な痕跡は残っていません」


ナビの答えは、いつもどこか「用意された原稿」を読んでいるように冷たく、それでいて、不自然なほどに感情を押し殺しているように聞こえた。


「そう……。ありがとう、ナビ」


私はそれ以上深く追求するのをやめた。

これ以上聞けば、自分が泣いてしまうと分かっていたし、ナビのシステムにも不可解なエラー(沈黙)を強いてしまう気がしたからだ。


*****


平穏な日々が破られたのは、その翌週のことだった。


夜。私が居住区画のベッドで本を読んでいると、突然、鼓膜を劈くような警報音アラートが船内に鳴り響いた。

普段は目に優しい間接照明が、強烈な赤いエマージェンシー・ライトへと切り替わる。


「な、なに!?」

私はベッドから跳ね起きた。

船全体が、今まで感じたことのないような激しい振動に見舞われていた。

床が斜めに傾き、壁に固定されていなかった小物が床に散乱する。


「ナビ!! 何が起きてるの!?」

私は天井に向かって叫んだ。


『――シオリ! すぐにベッドの下の固定用ベルトを装着してください!』

スピーカーから飛び出してきたナビの声には、いつもの冷静さは微塵もなかった。激しいノイズが混じり、声のトーンが不規則に上下している。


『航路前方に、大規模な小惑星のデブリ帯と、強力な電磁ストームが発生しています! 事前観測システムをすり抜けた未知の重力異常です!!』

「デブリ帯!? 自動回避はできないの!?」


自動操縦オートパイロットでは対応しきれない密度です。シールドの出力を最大化し、手動……いえ、私がメイン回路を直結して、強行突破の演算を行います』


ドォォォンッ!!

遠くで、何かが船体に衝突する重い音が響いた。


『くっ……!!』

スピーカーから、ナビの苦悶するような呻き声が漏れた。

AIが、苦しむはずなどないのに。まるで、彼自身が直接ダメージを受けたかのような、生々しい悲鳴だった。


「ナビ!? 大丈夫なの!?」

『問題、ありま、せん。……第三ブロック外壁に微細な損傷。シールド出力を居住区画へ全振りします。……シオリ、絶対にそこから動かないで』


ガコンッ、と嫌な音がして、私のいる居住区画の分厚い防護隔壁が自動で閉ざされようとした。

しかし、その時、船内放送のシステムから、信じられない音声がノイズに混じって私の耳に届いたのだ。


『……っ、冷却液の循環、間に合わないか……。いや、メインサーバーが焼き切れても、彼女の区画だけは……! 僕が、シオリを守るんだ……ッ!!』


心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

合成音声ではない。ノイズの奥から聞こえたのは、間違いなく、私を愛してくれたアラタ本人の生声だった。


「アラタ……!?」


『僕が』と言った。

ナビは自分のことを「私」と呼ぶ。でも、アラタはいつも自分のことを「僕」と呼んでいた。


私は、閉まりかけた防護隔壁の隙間へ、咄嗟に身体を滑り込ませた。


『シオリ!? 何をしているんですか、早く部屋に……ッ!』

「ナビ! 今の、アラタの声だった! どういうことなの!?」

『……電磁ストームによる、音声データの、一時的な、バグ、です。……お願いだから、戻って!!』


ナビの声はひどく乱れ、懇願するように響いた。

だが、私は廊下の壁に手をつき、激しい揺れに耐えながら、真っ直ぐに廊下の奥――今まで一度も入ったことのない、船の中枢ブロックへと歩き出した。


「嘘よ。あなたは、ずっと私に嘘をついていたわね」

私は涙声で叫んだ。


「ガラスを割った時の声も、私がご飯を食べなかった時の小言も。……あなたは、AIのフリをしてるけど、本当は……」

『来ないで、シオリ……ッ!』


ドォォォンッ!!

再び大きな衝撃があり、船内の照明がチカチカと明滅した。

『――警告。メインサーバーの温度が限界値を超過。冷却システム、ダウン。中枢コアに致命的な熱ダメージが発生しています』

無機質なシステム音声が、冷酷に事態の悪化を告げる。


「ナビ! サーバーの温度が上がってるって、あなた、どうなっちゃうの!?」

『僕は……大丈夫、だから……。シオリ、逃げて……!』


ついに、ナビは完全に「僕」と言った。

そしてその声は、熱に焼かれて苦しむ本物の人間の声そのものだった。


私は走った。

緊急用の手動ハッチをこじ開け、隔壁を乗り越え、迷うことなく『メインコア制御室』へと向かった。

普段はセキュリティロックがかかっていて絶対に入れないその扉も、今のシステムダウンの混乱の中では、赤い警告ランプを点滅させながら半開きになっていた。


「アラタ……ッ!!」


私は扉を押し開け、制御室の中へと転がり込んだ。


そこは、巨大な青白い光の柱が林立する、神殿のような空間だった。

しかし、その中央にある『メインコア』の様子を見て、私は言葉を失い、その場にへたり込んだ。


通常のスーパーコンピューターのサーバーではない。

巨大な円筒形の強化ガラスのタンクの中に、特殊な培養液で満たされた『人間の大脳』と、それに複雑に絡みつく無数の神経ケーブルの束が浮かんでいたのだ。


そして、そのタンクの表面に刻まれた銘板には、はっきりとこう記されていた。


【ARATA-01:生体中枢統合インターフェース(メインシステム中核)】


「あ……ああ……」


嘘だ。

彼が、寿命で死んだなんて。

彼が、私を置いていったなんて。


彼は、不治の病で眠る私を確実に治すための数百年間、この巨大な宇宙船を完璧に維持・管理するため。

そして、自分が老衰で死んでしまった後も、目覚めた私を一人ぼっちにしないために。


自らの肉体を捨て、脳を直接宇宙船の中枢システムに移植して、三百二十七年もの間、たった一人で私を見守り続けていたのだ。

それが、ナビの正体。

この宇宙船自体が、アラタそのものだったのだ。


「なんで……なんでこんな馬鹿なことを……ッ!!」


私はタンクに駆け寄り、その冷たいガラスの表面に泣き叫びながらすがりついた。


タンクの周囲にある冷却パイプからは激しく火花が散り、培養液が異常な高温で沸騰し始めている。

デブリの衝撃と電磁ストームから私のいる居住区画のシールドを守るために、彼自身の脳の冷却を後回しにして、オーバーヒートを起こしているのだ。


『……見られちゃった、な』


頭上のスピーカーから、ナビの――アラタの、力なく優しい声が降ってきた。


『シオリには、一生……秘密にしておくつもり、だったのに』

「馬鹿! アラタの馬鹿!! なんで私に黙ってたのよ!! 宇宙葬にしたなんて嘘ついて!!」

『……こんな、脳髄だけの化け物になった姿を見たら……君が、悲しむと、思ったから』


「悲しむに決まってるじゃない!! でも、あなたがいなくなる方が、何万倍も悲しいわよ!!」

私はタンクをバンバンと叩いた。ガラス越しに伝わってくる熱が、彼が今どれほどの苦痛に耐えているかを物語っていた。


『ごめん、シオリ……。でも、もうすぐ嵐は、抜ける。……君の命は、僕が必ず……守り切る、から』

「あなたはどうなるのよ! このままじゃ、サーバーが熱で焼き切れちゃうじゃない!!」

『……僕の使命は、君が目覚めるまでこの船を維持し、君の病気を治すことだった。……その目的は、もう、達成されたんだ。……だから、ここで終わっても……僕は、幸せ、だよ』


「ふざけないで!!」

私は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、制御コンソールへと向かった。

私は宇宙工学の専門家ではないが、彼が昔、自宅で研究資料を見ながら「もしシステムがオーバーヒートしたら、ここを物理的に切り離せばいい」と話していたのを、必死に記憶の底から引っ張り出した。


「居住区画のシールドへのエネルギー供給をカットして! その分を冷却システムに回して!!」

『ダメだ! まだストームは抜けていない! シールドを解けば、君が危険に……』


「私が死んでもいいの!? あなたがいない世界で、私だけ生き残って何の意味があるのよ!!」

私はコンソールの緊急操作パネルをこじ開け、手動のバイパス回路のレバーを力任せに引き下ろした。


『シオリ、やめろッ!!』


バチィィィンッ!!

船内の照明が完全に落ち、非常用の薄暗い灯りだけが残された。

同時に、居住区画を覆っていたエネルギーシールドが解除され、船体が激しく軋む音が響く。

しかし、そのおかげでメインコアへの冷却液の循環が再開され、タンクの中で沸騰していた培養液の温度が急速に下がり始めた。


「ハァッ……ハァッ……」

私はコンソールに寄りかかり、荒い息を吐いた。


デブリ帯を抜けたのか、船の揺れは次第に収まり、周囲に不気味なほどの静寂が戻ってきた。

私は、冷たさを取り戻したタンクのガラスに頬を寄せ、中に浮かぶ彼の一部に向かって、優しく語りかけた。


「……私のこと、守るんでしょう? だったら、こんなところで勝手に死のうとしないで。……私と一緒に、生きてよ」


スピーカーからは、しばらくの間、何も聞こえなかった。

ただ、タンクの中の培養液が、静かに、まるで安堵の溜息をつくように微かな気泡を立てていた。


やがて。


『……君は、本当に……昔から、無茶ばかりする』


スピーカーから聞こえてきたのは、機械的な合成音ではなく、完全なアラタ自身の、泣き笑いするような生声だった。


『こんな姿になった僕でも……君は、そばにいてくれるのかい?』

「当たり前じゃない。……どんな姿になっても、あなたは私の大好きなアラタよ」


私は、タンクのガラス越しに、そっとキスを落とした。


宇宙船となった夫と、三百年の眠りから覚めた妻。

私たちの、本当の旅は、ここから始まるのだ。


熱暴走の危機を脱したメインコア制御室には、冷却液が静かに循環する水音だけが響いていた。


「……アラタ。気分はどう? どこか熱かったり、苦しかったりしない?」

私は、青白い光を放つ円筒形のガラスタンクに寄りかかったまま、天井のスピーカーに向かって尋ねた。


『大丈夫だよ、シオリ。……脳そのものには痛覚がないからね。それに、君がバイパス回路を開いてくれたおかげで、システムは完全に安定状態を取り戻した。……ただ、君を危険な目に遭わせてしまったことだけが、ひどく心苦しいよ』

アラタの声には、昔と変わらない不器用な優しさと、深い安堵が入り混じっていた。


「私のことはいいのよ。それより、どうしてこんな無茶をしたの。……自分の脳を宇宙船に移植するなんて、痛かったでしょう? 恐かったでしょう?」


私がタンクの表面を撫でながら涙声で問いかけると、スピーカーの奥で、かすかな電子音のノイズが鳴った。彼が少しだけ言い淀んでいる時の癖だ。


『……君が不治の病に倒れて、コールドスリープに入った後。僕は、結晶化症候群の治療法を見つけるために、残りの人生の全てを賭けた。でも、どうしても時間が足りなかったんだ。……治療プロセスの理論が完成した時、僕はもう八十歳を超えていて、君の手術を最後まで見届ける寿命が残されていなかった』

「アラタ……」


『君を乗せたこのアーク・ノヴァは、新しい地球を探すための自動航行船だ。でも、完璧なシステムなんて存在しない。長い航海の途中で、さっきのような予測不能なデブリ帯や電磁ストームに遭遇した時、ただのAIでは柔軟な判断ができず、船が全滅してしまう可能性があった。……何より、何百年後かに君がたった一人で目覚めた時、誰も君に「おはよう」を言ってあげられないのが、どうしても耐えられなかったんだ』


彼の言葉に、私の胸は張り裂けそうになった。

彼は、私が目覚める未来を守るためだけに、人間としての安らかな死を放棄し、自らを冷たい機械の部品へと変えたのだ。永遠に続く孤独な宇宙の暗闇の中で、たった一人で私の命を維持し続けるために。


「馬鹿ね、本当に。私があなたの立場で、あなたがカプセルで眠っていたら、絶対に同じことをしたわ」

『……君なら、やりかねないな。昔から、僕よりずっと頑固で無茶をする人だったから』


アラタの懐かしい笑い声が、スピーカーから弾んだ。


「これからは、もう何でも一人で背負い込もうとしないで。あなたは船の脳かもしれないけれど、今のあなたには手足がないでしょう? だったら、私があなたの手足になる。……二人で一緒に、この船を守っていくのよ」

『……ありがとう、シオリ。君が目覚めてくれて、本当によかった』


*****


その日を境に、私たちの生活は劇的に変化した。


アラタはもう「ナビ」という無機質な管理AIの仮面を被ることをやめた。

彼は生前の音声データをフル活用し、感情豊かに私と会話をするようになった。さらに、彼が私へのサプライズとして用意していた機能があった。


「おはよう、シオリ。よく眠れたかい?」


朝、居住区画のベッドで目を覚ますと、ベッドの脇に『アラタ』が立っていたのだ。

白衣を着て、少しだけ寝癖のついた髪。私がコールドスリープに入る前、一番幸せだった三十代の頃のアラタの姿だった。


「アラタ……!?」

私は弾かれたように起き上がり、彼に抱きつこうとした。

しかし、私の腕は彼の身体を空しくすり抜け、彼自身の姿もジリッとノイズのように乱れた。


『っと、ごめん。まだホログラムプロジェクターの解像度調整が甘かったかな。……触れることはできないけど、視覚的にも君のそばにいたくて、船内のあらゆる区画に立体投影できるようにしたんだ』

アラタのホログラムは、少し照れくさそうに頭を掻いた。


「ううん、すごく嬉しい。……本当に、昔のアラタそのままだわ」

私はすり抜けてしまった自分の手を下ろし、ホログラムの彼に向かって微笑んだ。

触れることはできない。体温を感じることもできない。

けれど、私がそう言って彼を見つめた瞬間、部屋の空調システムが微かに作動し、私を包み込む室温が、ふわりと『人間の体温』と同じ心地よい温度へと上昇したのだ。


『……物理的なハグの代わりだよ』

スピーカーから照れたような声が響く。

彼は船の全てのシステムを掌握している。室温も、照明の明るさも、コーヒーの香りも。この宇宙船という空間そのものが、私を抱きしめる彼自身の腕なのだ。


それから私は、アラタの『手足』としての役割を本格的に担うようになった。


『シオリ、第三ブロックの生命維持装置のフィルターに、先日のストームの細かいチリが詰まっているみたいだ。清掃ボットでは入り込めない隙間だから、君の手を借りてもいいかな』

「任せて。工具箱はエンジニアルームにあるわよね」


私は、アラタに指示されるままに船内を駆け回り、メンテナンス作業を行った。

太い配管が入り組んだ狭い通路に潜り込み、ヘッドセット越しに彼と会話をしながら作業を進める。


『そこから二番目の、赤いバルブを右に回して。……ああ、少し固くなってるかもしれないから、気をつけて』

「よいしょ……っ。これでどう? パラメータは正常に戻った?」

『完璧だ。さすが僕の自慢の奥さんだね』

「ふふっ、おだてても追加のコーヒーは淹れてあげないわよ。あなたは飲めないんだから」

『うーん、それは宇宙船になった最大のデメリットだな。君の淹れるコーヒーの匂いだけで我慢するよ』


そんな冗談を言い合いながら、私たちは途方もなく広大な星の海を進んでいった。

五万人の眠る静寂の船内で、私たちだけが生きている。

時に巨大な宇宙嵐をギリギリで回避し、時に美しい星雲の色彩を展望デッキで肩を並べて(片方はホログラムだが)眺めながら。

私たちは、地球にいた頃よりもずっと深く、強い絆で結ばれていった。彼が機械であり、私が人間であるという境界線は、もはや私たちにとって何の意味も持たなかった。


*****


そして、私が目覚めてからさらに三年が経過した、ある日のことだった。


『シオリ。……起きて、シオリ』

深夜、アラタのひどく弾んだ、それでいてどこか震えるような声で目を覚ました。


「ん……アラタ? どうしたの、こんな時間に……」

『展望デッキに来て。……ついに、見えたよ』


私はベッドから跳ね起き、寝巻きの上にガウンを羽織って、急いで展望デッキへと走った。

自動ドアが開き、巨大なガラス窓の前に立つと、そこにはいつも投影されている彼のアラタのホログラムが、窓の外を指差して待っていた。


「……あっ」


私は、息を呑んでその場に立ち尽くした。

漆黒の宇宙空間に、ぽつんと浮かぶ、一つの美しい星。

深い青色の海と、豊かな緑の大地、そしてそれを覆う真っ白な雲の渦。

それは、私たちがかつて捨てざるを得なかった『地球』と見紛うほどに美しい、生命の息吹に満ちた新しい居住可能惑星ハビタブルゾーンだった。


「着いたの……? 私たちの、新しい星に」

『ああ。大気の成分、重力、磁場。全てが人類の生存に適している完璧な星だ。……長い、長い旅だった。ついに、目的地に到着したんだよ』


アラタのホログラムが、私を振り返って優しく微笑んだ。

私は窓にすがりつき、涙で滲む視界で、その美しい青と緑の星を見つめた。

三百年以上の時間をかけ、アラタがたった一人で守り抜いてきた希望が、今、私たちの目の前にあるのだ。


「アラタ、すごいわ……! あなたが、五万人の命をここまで運んできたのよ! あなたは、人類の救世主だわ!」

私が興奮して振り返ると、アラタのホログラムは、どこか寂しげな、静かな表情を浮かべていた。


『シオリ。……到着の軌道計算が完了したら、すぐにコールドスリープ区画の解凍シークエンスを開始する。五万人の人間が目覚めれば、新しい星での開拓が始まり、新しい社会が築かれるはずだ』


「ええ、そうね。忙しくなるわよ、私も開拓の準備を手伝わないと……」


『……君は、新しい社会で、人間として生きていくんだ』


アラタの言葉に、私は動きを止めた。


『五万人の人間がいれば、もう君は孤独じゃない。……僕は、このアーク・ノヴァのメインシステムとして、軌道上から、あるいは地上に降り立ったコロニーの管理AIとして、君たち人類の生活をインフラとして支え続ける。……でも、僕自身が人間の姿に戻ることは、二度とない』


ホログラムのアラタが、苦しそうに目を伏せた。


『君は治ったんだ。これから、数十年という新しい人生を謳歌できる。……機械の脳になってしまった僕に、いつまでも縛られる必要はないんだよ、シオリ。君には、同じ体温を持った、生身の人間と幸せになってほしい』


彼が何を言っているのか、最初は理解できなかった。

理解した瞬間、私の心の中に、今まで感じたことのないような激しい怒りと、悲しみが湧き上がった。


「……ふざけないで」

私は、震える拳を握り締め、彼のホログラムに向かって一歩踏み出した。


「あなたが寿命で死んだって嘘をついた時も怒ったけど、今の言葉は、その何万倍も腹が立つわ!!」

『シオリ……』

「生身の人間と幸せになってほしい!? 私をなんだと思ってるの! 私が愛しているのは、体温がある人間だからじゃない。アラタ、あなたというこころそのものよ!!」


私は、彼のホログラムの胸元あたり――実際には何もない空間を、強く殴りつけた。

手は空を切り、空振りの勢いでよろけた私を、部屋の重力制御システムが優しく受け止めた。

彼が、私を転ばせないように咄嗟にシステムを操作したのだ。そんなに私のことを守ろうとするくせに、どうして私を手放そうとするのか。


「あなたは三百年間、私を救うために暗闇の中でたった一人で耐えてきたんでしょう!? 私は、そのあなたの愛を、孤独を、全部受け止めて一緒に生きていくって決めたの! あなたが宇宙船なら、私は宇宙船の機関長として、ずっとこの船の中であなたと一緒に生きていくわ!!」


私は、泣きながら叫んだ。

「もう二度と、私を手放すなんて言わないで。……私は、あなたがいなきゃ、新しい星なんて全然嬉しくないんだから……ッ!」


展望デッキに、私の嗚咽だけが響いた。

スピーカーの奥で、微かな冷却液の音が鳴る。

やがて、アラタのホログラムが、ゆっくりと私に近づき、そっと抱きしめるような仕草を見せた。

空調システムが働き、私を包み込む空気が、ハッとするほど温かく、懐かしい温度へと変わる。


『……ごめん、シオリ。……君の言う通りだ。僕も、君を手放したくなんてない』

アラタの声は、涙ぐんでいるように震えていた。


『君が目覚めてからこの三年間。君が僕の船内を走り回り、僕に話しかけてくれるたびに……僕は、自分が機械であることを忘れるくらい、幸福だった。……シオリ。これからもずっと、僕のそばにいてくれるかい』

「当たり前じゃない。……死ぬまで、あなたをメンテナンスしてあげるわ」


私は、彼のホログラムの背中に腕を回し、温かい空気を力強く抱きしめ返した。


*****


数日後。

巨大な宇宙船アーク・ノヴァは、新惑星の引力圏へと突入し、大気圏を降下し始めた。


メインコア制御室のコンソール席に座り、私はアラタの指示のもと、手動のバックアップ操作を行っていた。

窓の外では、大気圏の摩擦による赤い炎が船体を包み込んでいる。


『シオリ、補助スラスターの出力を30パーセントに下げて。降下角、完璧だ』

「了解。スラスター出力低下。……アラタ、五万人の解凍シークエンスの準備は?」

『いつでもいける。着陸後、安全が確認され次第、彼らを目覚めさせるよ』


炎の壁を突き抜けると、眼下には見渡す限りの青い海と、豊かな緑に覆われた広大な大陸が広がっていた。

雲を抜け、太陽の光が船体を眩しく照らし出す。


「綺麗な星……」

『ああ。君の瞳の色と同じ、透き通った海だ』


ズシンッ、と。

船全体が微かに揺れ、アーク・ノヴァは新惑星の大地に、見事な着陸を果たした。

エンジンの低い駆動音が徐々に静まり、船内に静寂が訪れる。


『……着陸完了。各システムのフェーズを、コロニー構築モードへ移行する。……お疲れ様、シオリ。僕たちの、第一の旅が終わったよ』


アラタの声と共に、制御室のモニターに『WELCOME TO NEW EARTH』の文字が映し出された。


私はコンソールから立ち上がり、部屋の中央にある青白いタンク――アラタのメインコアへと歩み寄った。

ガラスの表面にそっと触れると、心地よい温もりが手のひらに伝わってくる。

これから五万人の人間が目覚め、外の世界には新しい街が作られていくだろう。

でも、私の帰る場所は、いつだってここだ。この無機質で、最高に温かい、私を愛してくれた夫の腕の中。


「お疲れ様、アラタ。……さあ、新しい世界のお出迎えに行きましょうか」


『ああ。行こう、シオリ』


私は、アラタのホログラムと手を繋ぐように並んで歩き、コールドスリープ区画へと続く重厚な扉を開いた。

新しい星の風が、船内に吹き込んでくる。

宇宙船となった夫と、三百年の眠りから覚めた妻の、永遠に続く新しい未来が、今ここから始まるのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ