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遠い外国の出来事

作者: 沢 一人
掲載日:2025/11/01

凡人の人生と偉人の人生、その違いは何処にある。貴方に贈る紙一重の短い一生。



第一幕:清流町の日常と、遠い世界

1. 深夜の静寂

深夜の病院の中、当直室からテレビの音が微かに漏れていた。その音は、まるで病院の深いため息のように、静かな廊下に吸い込まれていく。夜勤が作り出す独特の冷たい静寂を破るのは、電子機器の作動音と、このテレビの無機質な人の声だけだ。


当直室は、病院の最上階の片隅にある。殺風景な六畳ほどのスペースに、簡易ベッドが二つと、小さなテーブル、そして古いブラウン管テレビが鎮座している。私は医療事務職として、この深夜の静けさが好きだった。ここでは、日中の喧騒や、患者の切実な訴えから一時的に隔離される。 


「はい、どうぞ、熱いうちに」


ベテランの看護師が差し出したインスタントの味噌汁は、白い湯気を立てていた。私は「ありがとうございます」と受け取り、テーブルに置いたコンビニの冷たい弁当の横に並べた。時刻は午前二時前。夜勤の折り返しだ。この時間に食べるものは、特別なごちそうではなく、ただの燃料にすぎない。

私は一口、味噌汁をすすった。塩気と熱が、夜通し張り詰めていた神経をわずかに緩める。


テレビは全国ネットのニュースを流していた。安定した社会の出来事が淡々と報じられる中、画面のテロップが私の目に留まった。


【速報】アフガニスタン 日本人NGO職員 銃撃され死亡


私は箸を置いた。アフガニスタン。中東の、治安の悪いと報じられる地域。遠い、報道の中の国。武装勢力。胸が冷える単語が並ぶ。被害者は日本のNGO職員。人道支援を行っていたのだろう。


アナウンサーの声が、沈痛な面持ちで報じる。


「……被害者の男性は、清流町の出身で、長年にわたり現地での支援活動に尽力されていました。現地名は『サリフ』(恵みを与える者、の意)として親しまれ……」

「あら、清流町の方だったのね」と、看護師が静かに言った。彼女の声には、驚きと、かすかな哀悼の念が混じっていた。


私が住む清流町。背後に清流川が流れ、山を控え、穏やかな日常が何十年も続いている、平和で小さな町だ。その町名が、ニュースのテロップ、それも「銃撃され死亡」という最も暴力的な言葉と結びつくことに、私は一瞬、現実感を失った。


もちろん、お気の毒な事件だ。心からの敬意を払うべき人物だろう。だが、それはあまりにも遠い異国の、私には想像もつかない場所での、偉大な人物の悲劇だ。私は再び箸を取った。自分とは隔絶された世界の出来事だという意識が、すぐに私の感情に冷静な蓋をした。私の関心は、常に手の届く範囲の、自分の日常の中にあった。夜勤が終われば、明日はゆっくり眠れる。そのことの方が、遠い国の悲劇よりもずっと重要だった。


2. 英雄の人生観

翌日からも、ニュースはこの事件を集中的に取り上げた。地元出身の彼の功績は、連日、美談として報じられ続けた。


特に時間を割かれたのは、彼の活動とその根底にある人生観だった。テレビは、現地での彼の映像を繰り返した。砂漠に近い荒れた土地で、彼は汗だくになりながら、現地の人々と共に土を掘り、石を積み上げている。その顔には、一点の曇りもない、強い意志が宿っていた。


「私がここにいるのは、水がないからです。水は命の源です。命があれば、争いは生まれない。私は、争いを終わらせるために、水を運んでいるのです」


若き日の彼が、日本の大学で語ったとされる映像も公開された。彼は、豊かな国に生まれた自分たちの「義務」について淡々と語っていた。


「私たちには、手元一つで水を止められる自由がある。彼らには、蛇口そのものがありません。私が持っているこの自由を、彼らが持っていない『水』に変えるのが、私の人生です。そうでなければ、私が持つこの自由は、ただの傲慢になってしまう」


病院の職員たちは皆、尊敬の念を持ってその話題を口にした。休憩室では、誰かが持ってきた地元紙の切り抜きが回覧され、彼の高校時代の話や、海外へ旅立つ決意をした頃のエピソードが、職員たちの間で静かに交わされた。彼の行いは、間違いなく崇高なものであり、私のような平凡な日常を送る人間には、眩しいほどの献身と勇気だった。


私にとって彼は、テレビを通して知る「尊敬すべき偉大な人物」であり続けた。そしてその偉大さが、私と彼との間に、越えられない距離を生んでいた。彼の悲劇はあまりにも壮絶で、私の日常とは切り離された、手の届かない物語だった。「自分とは違う世界の人だ」と線を引くことで、私は自分の平凡さと、彼の偉大さの両方を、意識の底に隠しておいた。


3. 現地の人々の慟哭

ニュースは、彼の功績だけでなく、現地での愛され方を深く掘り下げた。

画面に映る、荒れた土の村。そこには、大勢の現地の人々が集まっていた。彼らは、顔を覆い、地面にひれ伏し、激しく泣いていた。その涙の奥底には、単なる支援者への感謝以上の、深い愛情と信頼が見て取れた。


「サリフは、私の家族の命です。この水がなければ、私の娘は死んでいた。武装勢力など、恐れていなかった。彼は、ただ私たちを愛してくれた」


年老いた男性が、ひび割れた手で水路の壁を叩きながら、途切れ途切れに語る。彼の言葉は、アラビア語から日本語に翻訳されていたが、その悲しみの深さは言語を超えて伝わってきた。


また別の映像では、彼が建設したという小さな学校で、子供たちが彼の似顔絵を描いている姿が映し出された。


「先生は、私に鉛筆の使い方を教えてくれた。文字は、私の未来だと教えてくれた」


子供たちの瞳は純粋で、その中に映る彼の存在の大きさを物語っていた。


この現地の人々の真摯な悲しみを見るたび、私は胸を締め付けられた。それは、単なる報道の視聴者としての感情ではなく、自分が日頃、どれほど「命」と「水」と「平和」を当たり前のものとして消費しているのか、という倫理的な問いかけを伴うものだった。彼の死は、この清流町に住む私たちの、無関心という罪を静かに問うていた。


第二幕:日常の侵食と、噂の波紋

4. 噂の発生と職員の観察

事件から四日目。病院の廊下で、ささやき声が聞こえてきた。その声は、ニュースの内容ではなく、病院内の人間関係に触れるもので、すぐに私の関心を引きつけた。


「ねえ、亡くなったNGOの方、どうもウチの職員の親戚らしいわよ」

「え、そうなの? 誰の?」


噂は一瞬で病院中に広まった。噂の職員――小児科の事務を担当している、若い男性、大西さんだった。大西さんは、病院内では典型的な「地味な存在」だった。小柄で、いつも無口。業務は正確だが、人付き合いは苦手なようで、休憩時間もいつも一人で過ごしていた。そんな彼が、突然、全国のニュースの中心にある事件と繋がった。


私は、大西さんと何度か廊下ですれ違ったことを思い出す。特に会話を交わしたことはない。私の世界と、彼の世界は、病院の建物の中で交差することはあっても、混ざり合うことはなかった。


真偽は定かではない。しかし、その日の新聞の一面には、被害者の大きな顔写真が載っていた。柔和だが芯の強そうな、少し日焼けした顔。穏やかな目元。当直室でその写真を見た時、私は思わず息を飲んだ。


「……似てる」


彼の目元、口角のわずかな癖。大西さんの、普段は気づかなかった細部に、被害者の面影が重なるような気がした。確証はない。だが、遠い異国で亡くなった「尊敬すべき人」が、急に「誰かの親族」という生々しいリアリティを帯びてきた。


5. 大西さんの孤独

噂が広まってから、病院の空気は明確に変わった。大西さんは、以前にも増して無口になり、俯き加減で早足で廊下を歩くようになった。彼の周囲には、目に見えない人々の視線が集まっていた。好奇、哀れみ、詮索、そして畏敬。

職員たちは、誰もが彼を気遣っているふりをしながらも、内心では事件との繋がりを確認したいという欲求に駆られていた。しかし、彼に直接尋ねる勇気のある者はいなかった。彼の放つ、静かな悲しみのオーラが、人々を遠ざけていた。


私は、彼の気持ちを考えると胸が詰まった。世界が英雄として報じる人物の死を、誰よりも近く、個人的な喪失として受け止めているはずなのに、職場ではその感情を押し殺さなければならない。そして、その悲劇の大きさが、彼の平凡な日常を壊し始めている。


ある日、私は事務室へ行く用事があり、大西さんが一人で机に向かっているのを目にした。彼は、パソコンの画面ではなく、手元の小さな写真立てをじっと見つめていた。その表情は、深い疲労と、言葉にできない悲哀に満ちていた。私は思わず立ち止まったが、彼に声をかけることはできなかった。

「お疲れ様」という当たり前の言葉すら、今の彼には重荷になる気がした。私は書類だけを静かに置いて、事務室を後にした。彼の存在が、私と「遠い国の出来事」の間に、細く、しかし断ち切れない糸を張り巡らせた。遠く隔てられていた意識の壁に、見えないひびが入り始めたのを感じる。


6. 遠さを測る

私自身の内面でも、報道を見る目が決定的に変わっていった。以前は偉業を淡々と捉えていたが、今はその裏側にある「個人的な喪失」を想像せずにはいられなかった。

テレビは、再び現地の人々の声を取り上げた。


「サリフは言った。この水は、我々と清流町との絆だ、と。彼は、自分の故郷を一度も忘れていなかった」


その言葉を聞いた瞬間、私は自分の住む「清流町」という地名が、アフガニスタンの人々の間で、平和と希望の象徴として語られていることに、強い衝撃を受けた。

 私にとって清流町は、単なる生活の基盤であり、当たり前の日常を過ごす場所でしかなかった。だが、彼はその平凡な故郷を、遠い地で命を懸けた活動の根源としていたのだ。


私は、彼の活動の映像と、窓の外に見える清流町の夜の風景を交互に見た。彼の人生観が、私の日常に静かに侵食してきた。彼の死は、私に「平和とは何か」「自分の日常とは何か」を静かに問いかけていた。彼の偉大さは、距離を遠ざけるものではなく、むしろ一気に縮めてくるものだと、その時初めて悟った。


第三幕:日常への帰着と、物理的な衝撃

7. 英雄の帰郷

事件から一週間が過ぎた夜。

私は当直室で、いつものように夜勤をこなしていた。疲労感が体中に広がり始める深夜、ニュース速報が流れた。


「ご遺体、まもなく日本へ輸送」


ご遺体が政府の特別機で日本へ帰国するというニュースだった。私はこの一週間、毎晩のように当直室のテレビで、事件の進展を追っていた。それは、もはや自分の内面の変化を追体験する時間になっていた。


「これで、故郷に帰れるわね」と、同僚が静かに言った。彼女の目には、安堵と寂しさが混じっていた。


私も、これで事件は一つの区切りを迎えると感じていた。偉大な人物の悲劇は、遠い物語として完結し、私たちの日常が再び戻るだろう。大西さんも、静かに哀悼の時を過ごせるかもしれない。そう思っていた。 


その夜、私は当直室で、弁当を食べながらニュースを見ていた。テレビの報道は、この清流町での告別式へと移っていた。

画面に映るのは、遺体安置場の建物前から外での中継だった。


「……彼の志は、間違いなく次世代に受け継がれていくでしょう」


テレビでよく見かける国会議員が、神妙な顔つきでインタビューに答えていた。周囲には、黒塗りの車列。遺体が安置されている館内は撮影出来ないため、中継は建物の外からだった。


8. 距離の崩壊

私は、この清流町の、一体どこにご遺体が安置されているのだろう、という漠然とした関心を持った。遠い異国で亡くなった「尊敬すべき人」が、今、自分と同じ町にいる。その物理的な距離の近さが、奇妙なリアリティを伴って迫ってきた。

私は、無意識のうちに、国会議員がインタビューに答えている背景に注目した。夜の暗さの中、中継の照明に照らされて、わずかに浮かび上がる建物のディテール。


白い壁に、赤と青のストライプの、横長の看板。

そのロゴマーク。その建物の形状。それは、スーパーマーケットのようだ。


「……もしかして、この近くかも知れない……」


私の心臓が、微かに速く鼓動を打つのを感じた。遠い外国の出来事、と切り離していた意識に、突然現実が割り込んでくる。

私はおもむろに立ち上がり、簡易ベッドの前の窓に近づいた。


ギーッ


古びたアルミサッシを押し開ける。冷たい夜の空気が顔を撫でた。窓から見下ろす景色。病院の裏手の、静まり返った通り。

そして、照明の先に、それはあった。


数台の照明に白く照らされ、黒い服を着た人々が集まり、幾つものハイヤーが静かに待機している建物。その隣には、まさしくテレビで見た、赤と青のストライプの看板を持つスーパーが佇んでいた。

それは、つい最近新しくできた、清流町の葬儀会館だった。


彼は、今、そこにいる。


遠い中東の地で、銃弾に倒れたはずの人が。連日、ニュースが遠い出来事として報じていた、偉大な人物の遺体が。


私の目の前、窓を開ければ声が届きそうな、この病院の窓の下。

遠い国の出来事、と、何度も、何度も、自分に言い聞かせ、切り離していたあの悲劇。

その終着点が、今、私の日常のど真ん中に、物理的な衝撃として存在していた。


私はただ、冷たい夜の空気の中で、立ち尽くした。距離の認識が崩壊し、遠くにあるはずの悲劇と、私の平凡な日常が、皮膚一枚を隔てて重なり合った。


遠い国の出来事では、なかった。


私の手の届く、この町で起きた、現実だった。

私は窓を閉め、再びテレビのニュースを見つめた。画面の中の国会議員の言葉は、もう以前のように、遠い国の出来事の解説としては聞けなかった。その言葉の一つ一つが、窓の外の夜の闇と結びつき、重く、私の日常にのしかかってきた。

そして、私の視線は、当直室の隅にある、あの古びたテレビに釘付けになった。そのテレビが、今日まで私に届けてきた遠い情報が、一夜にしてこれほどまでに近い現実になったことに、私は深い動揺を覚えた。


私は知った。世界は、私たちが思うよりもずっと、薄い壁で隔てられているだけなのだと。そして、その壁を突き破って現実に侵入してきたこの悲劇は、清流町の、そして私の日常を、永遠に変えてしまうだろう。

(了)



数ある小説の中でこの小説を読んでいただき本当に嬉しく思います。

人の一生は、意外に短い。日々、仕事に追われて、たまの休日は気分転換で遊んで良しとしていないだろうか?気がつけば人生の終わりに近づいている私です。貴方の未来が明るく切り開く事を信じています。有難うございました。

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