記憶を売る町-4-
その朝、リオは宿の簡素なベッドで目を覚ました。
窓の外から射し込む光は、昨日までよりも柔らかく感じられる。
鳥の鳴き声も、子供たちの笑い声も、町の生活音も――どれも心地よいはずなのに、リオの胸には薄い靄のような不安が漂っていた。
「……今日で出る」
声に出してみると、言葉は自分の胸に深く沈んでいった。
クロウが羽を揺らして彼女を見下ろす。
「そう決めたのだな」
リオは頷いた。
「うん。この町に長く居すぎると、きっと私は“忘れる”ことに甘えてしまう」
「それは悪いことなのか?」
「……悪くはないのかもしれない。でも、私は旅を続ける。忘れてしまえば、もう歩けなくなる気がするの」
リオはゆっくりと荷をまとめ、鞄の重さを確かめた。
――この重さは、記憶の重さ。
そう思うと、不思議と背筋が伸びた。
石畳の通りに出ると、朝市の喧噪が広がっていた。
焼きたてのパンの匂い、香草を煮込む湯気、商人たちの威勢のいい声。
旅人である自分にとっては馴染み深いはずの光景だが、この町ではどこか異質に思えた。
人々の笑顔は、昨日も見た笑顔と寸分違わない。
誰もが同じ調子で声を掛け合い、同じように笑い、同じように商品を手に取っては戻す。
リオは立ち止まり、あの親子を探す。
いた。
娘は母の手を引かれ、果物を選んでいた。昨日のような怯えた表情はなく、母も穏やかに笑っている。
だが娘が一瞬こちらを見たとき、その目にかすかな迷いが浮かんだ。
――忘れてしまえば楽になる。
――でも、本当にそれでいいの?
その問いかけは言葉にならず、ただ視線だけがリオに託されているようだった。
リオは小さくうなずいた。声には出さなかったが、娘にはきっと伝わった。
彼女は視線を逸らし、母に微笑みかける。
母は気づかず、ただ陽気に笑っていた。
リオの胸は少し痛んだ。
「……行こう、クロウ」
広場の端――陽に焼けた石畳の上に置かれた木の椅子に、あの老人が腰掛けていた。
リオの足音に気づいたのか、老人は深く刻まれた皺をゆっくりと持ち上げ、旅人を迎えるように顔を上げた。
「おや……もう行くのか」
かすれた声は、どこか安堵の響きを含んでいた。
リオは歩みを止め、深く息を吐いた。
「はい。……やっぱり私は、この町には長く居られません」
老人は小さく頷き、視線を遠い空へと投げる。
青空には淡い雲が漂い、ゆっくりと流れている。
リオは視線を落とす。広場の周囲を行き交う人々は、笑顔を浮かべている。
市場に並ぶ果実は鮮やかに輝き、子どもたちの声は楽しげに響いていた。
「ここで暮らす人たちは……幸せそうに見えます」
「それは“そう見える”だけだ」
老人は低く、しかしはっきりと告げる。
「彼らは苦しみを手放した代わりに、深く笑うことも、心の底から泣くこともできなくなった。薄い膜に覆われたように、穏やかではあるが、決して強くは生きられない」
リオは黙り込んだ。老人の言葉は重く、しかし真実味があった。
「君はまだ若い。痛みを抱えて歩け。重くても、それが君の形になる」
「……きっと、歩けなくなるくらい重くなる日が来るかもしれません」
「その時は立ち止まればいい。だが、捨ててはいけない。記憶を捨てれば、人は“誰でもなくなる”のだ」
リオは深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。忘れません」
「忘れるなよ」
老人は、まるで祈るように目を閉じて言った。
リオが扉を押すと、鈴の音が小さく響いた。
少女は棚に並ぶ小瓶を磨いていた。瓶の中には淡く光を放つものもあれば、沈んだ影のように揺らめくものもある。
「やっぱり……来たのね」
少女は振り返り、微笑んだ。
「出発する前に、どうしても挨拶しておきたくて」
リオはそう言いながら、店内を見回した。瓶の数は昨日よりも増えている気がした。
少女は瓶を一つ手に取り、光を透かして見つめる。
「これはね、昨日の市場で喧嘩した夫婦の記憶。夜には笑って仲直りしてたけど、“怒りの言葉”だけを私に売っていったの。残しても苦しいから」
リオは瓶をじっと見つめた。
「……その人たちは、怒った理由も忘れてしまうの?」
「ええ。でも仲直りの笑顔は残ってる。だから、きっとそれでいいんだと思う」
そう言う少女の声は、穏やかで、しかしどこか寂しげだった。
リオは問いかける。
「あなたは……どうしてここに残っているの?」
少女は少し黙り、視線を瓶に落とした。
「私も、かつては旅をしてたの。でも……痛みが多すぎた。記憶を抱えて歩くには、私は弱すぎたの」
リオの胸がざわついた。少女は続ける。
「だから私はここに残った。記憶を手放す人を見送ることで、逆に自分の痛みを“形”として抱えていられるから」
「形……?」
「忘れたくないの。忘れられなかった。だから私は“記憶を扱う側”でいることを選んだの」
リオは少女を見つめる。その瞳には、揺れる光と影の両方が宿っていた。
「あなたは違う」少女は笑った。
「あなたの瞳は、まだ歩こうとしてる。どんなに痛みが重くても、遠くを見てる」
「……でも怖い。痛みに押し潰されるんじゃないかって」
「それでいいのよ。怖いって思えるうちは、まだ歩けるから」
リオは微笑んだ。
少女は小瓶を一つリオに手渡した。中には、淡い光が静かに漂っている。
「これは……?」
「旅人が置いていった“出発の朝の勇気”の記憶。あなたに渡すわけじゃない。ただ、見せておきたかったの。人は出ていく時、こういう記憶を残していくんだってこと」
リオは瓶を見つめ、やがてそっと少女に返した。
「ありがとう。でも私は、自分の勇気を自分で持っていく」
少女は目を細め、満足そうにうなずいた。
「その方がいい。あなたは、きっとそういう旅人だから」
二人の間に静かな沈黙が流れた。
言葉以上に深いものが、確かに交わされた気がした。
リオは扉に向かい、振り返る。
「……また会えるかな」
少女は微笑んだ。
「旅を続けていれば、きっと。世界は思っているより狭いものだから」
鈴の音が小さく響く。
リオが扉を閉じた時、胸の奥に熱いものがこみ上げていた。
門へ続く石畳の道を歩きながら、リオは何度も後ろを振り返った。
町の白壁は光を浴び、まるで夢の中の風景のように輝いている。
だがその輝きはどこか現実感に欠けていた。
門の前に立ち止まり、深呼吸をする。
「……クロウ」
「うん?」
「私、この痛みを背負って歩く。どれだけ重くても、きっと」
「そうだな。それでこそ旅人だ」
リオは門を一歩、また一歩と越える。
その瞬間、背中に朝日の暖かさが差し込んだ。
胸の奥の痛みが、確かにそこにある。
――それが生きている証だと、リオは思った。
彼女は微笑み、前を向いた。
「行こう。旅はまだ続くんだから」