わたしの救世主は悪魔さんでした
目が覚めると、薄暗い部屋だった。
わたしはベットに寝ている。体が鉛のように重く、指先すら上手く動かない。その鉛が酸にでも浸されたように体のあちこちが痛い。
勝手に涙が流れるけど、その涙を拭う気力もない。
頭がハッキリしてくるにつれて、痛みと苦しさも増してくる。
部屋には誰も居ない。
世界の全部から仲間外れにされている。遠い知らない街で迷子になったみたいだ。天井にへばり付く暗さが、空間を満たす静けさが、わたしの体を這い回る孤独がとにかく恐ろしい。
何もなくなって、真っ暗なところへ落ちていっているような、吸い込まれているようなそんな感じがして冷や汗が止まらない。
鼓動が速い。心臓がズキズキする。
「お母さん!お父さん!」
居るはずのない人達を呼ぶ。
呼ばずには居られなかった。
お医者さまは「もう長くない」と言った。わたしはもうすぐ死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。
それでわたしは一人で、暗くて、誰も居なくて、怖い。
「誰か……」
私の声はか細く不気味だった。
声は誰にも届かず、何の返答も返ってこなかった。
嫌だ。
潰されそうだ。
お父さん!お母さん!お医者さま!看護師さん!誰か。神様!誰か!
ベッドから起き上がる力など、とうに無い。
起き上がれてもこの病室からは出られない。
暗がりと静けさはさらに密度を増し、目から、口から、耳から、鼻から、全身の毛穴から、わたしの体に染み込んでくる。蝕んでくる。そしてみるみる体の中で繁殖していく。
震えが止まらなくて身をよじろうとするが無理だった。流れ込むに任せるしかなかった。
誰か!誰でもいいから来てよ!お願い!
枕元の染みが広がっていく。
時間の進みもよく分からない。時間が進んでいるのかすら、わたしが生きているのかすらもう分からない。
わたしはどこ?
※ ※ ※
どれだけの時間が経ったのか。
気づくと、目の前に誰かが立っていた。
誰かが立っていた!
それでわたしの中に巣食っていた黒くてネバネバしたものは全部溶けて無くなってしまった。代わりに何か温かいものがわたしの中を占めた。
その人は、ただそこに立っているだけだった。
その事実だけでその人はわたしを世界に引っ張り戻してくれた。さっきまでの事が悪い夢のようだ。
落ち着いてきた。
わたしは今この国で流行っている恐ろしい病気に罹って病院のベッドで寝ている。父も母も先月この病気で死んだ。わたしも助からない。
この病気に罹ったら助からないのだそうだ。大人達がこの世の終わりだと言ってたっけ。
そんな事はどうでもいい。
この人は誰だろう。お医者さまや看護師さんではない。かといって見舞い客が来るはずもない。誰もわざわざ死の病気をもらって死にたくはないだろう。
決して現れるはずがないのに現れたわたしの救世主さま。どうせすぐ死んじゃう私なんて、助けても何にもならないのに。それでも私を救ってくれた人。
その人はこう言った。
「私は悪魔です。望みを何でも三つ言ってください。どんな望みでも叶えます。その代わり、全ての望みが叶った暁にはあなたの魂は貰い受けます」
普通の人間じゃないとは思っていたけど。
わたしの救世主さまは、悪魔さんだった。
お父さんお母さんや神様は救いに来てくださらなかったけど、代わりに悪魔さんが来てくれた。
昔、お母さんが、怖い悪魔の話をしてくれたのを思い出す。
悪魔は人の魂が欲しくて人の前に現れる。ただ、力尽くで人の魂を奪う事はできなくて、人間の望みを三つ叶える対価として魂を持っていく。望みを悪魔は絶対に叶えるけれど、それで人が幸せになる事は絶対にない。だから悪魔と出会っても望みを言ってはダメ。
そんな話だったはずだ。
多分、悪魔さんにお願いすればお父さんお母さんを生き返らせたり、わたしの病気を治したりする事ができるんだと思う。
でも、それはズルで、よくない結末が待っている。
かと言って、悪魔さんにこのまま帰ってもらうのも少し違う。
悪魔さんは意図せずかも知れないけど私を救ってくれた。だから、悪魔さんにお礼をしなくちゃ。
悪魔さんが来てくれたのがどれだけ嬉しくて、心強かったことか。それこそ魂をあげても惜しくないくらいには——そうか!悪魔さんにわたしの魂をあげたらいいんだ。
わたしはまだ、何もしていない。このまま何もする事なく消えていくのだと思っていた。けれども、悪魔さんにわたしの魂をあげたら、わたしは悪魔さんにお礼をできる上にわたしが生きた意味が残る。
わたしはきっと、今日、悪魔さんに出会うために生まれて来たんだ!そうに違いない。
だから。
「私の魂を……奪って……」
私の魂を奪ってください。そう言ったつもりだったけど、声が上手く出せなかったのは許して欲しい。
「なぜ、そのようなことを?」
悪魔さんは怪訝な表情だ。
無理もない。
普通は魂を悪魔に差し出したりしない。魂を悪魔に奪われたらもう生まれ変わることができないのだから。
「私……もう……」
説明したいのに。喋れないのがもどかしい。
「声が出せないなら念じてください」
言われるままやってみた。
「(こう、ですか?念話は初めてで。上手くできてますか?)」
「はい。聞こえてますよ。それで?魂を奪って欲しいということでよかったですか?悪魔の私が言うのも変ですが、なぜそのような望みを?」
悪魔さんは人のよい悪魔らしい。
お話しで聞いていた悪魔とは随分違う。
「(私はもう長くないってお医者さんに言われてて。死ぬ前に誰かの役に立てたらいいなって……)」
「いいでしょう。魂は貰います。他の二つの望みは?念のためですが、私ならその病を治して寿命まで生きるようにすることも、不老不死の体にすることもできますよ?」
やっぱり悪魔さんは親切な悪魔さんだ。放っておけばすぐにでもわたしの魂が手に入るのに。
でも、今、一言お願いすれば病気が治ってこの苦しいのが無くなる?心が揺れないといえば嘘になる。
でも。
「(……それは大丈夫です)」
「本当に?見たところかなり辛そうですよ」
悪魔さんと話していると温かい気持ちになる。
「(それはまあ。悪魔さん、死ぬのってこんなにしんどいんですね)」
悪魔さんのおかげで、心の方は今までにないくらい晴れやかだけど、体の方はそうはいかない。
「そうですか。不老不死じゃないなら、痛みを麻痺させたり、楽に死なせることもできますよ?」
悪魔の囁きという奴なのかな。
けれど、わたしにはこの言葉が悪魔さんの優しさに感じられた。
この悪魔さん、人が良すぎて人間に騙されたりしてないだろうか?ちょっと心配。実は魂をあまり獲れなくていつもお腹を空かせてたりして。
「(悪魔さん、とっても優しいですね。……すごく魅力的な提案なんですけど、もうちょっとだけこうして悪魔さんとお喋りしてたいです)」
わがままかな?
悪魔さんは良いともダメとも言わない。
「(あっ。いい事思いついた。悪魔さんとお喋りしてたいってのを二つ目にします!私が死ぬまでそこに居てお話し相手になって欲しいです。迷惑じゃないですか?)」
「いいでしょう。ただし死んだ後には魂を……っと。それは一つ目でしたね。つい癖で」
嬉しかった。嬉しいなんて気持ち、随分久しぶりだ。
何より安心した。
安心するとどっと疲れと眠気が。
「あり…がとう……」
なんとかそれだけは言えた。
※ ※ ※
目が覚めると最初に悪魔さんが目に入る。
悪魔さんは絶対にわたしの側にいて、話しかければ応えてくれる。
それが幸せだった。
悪魔さんとの話は楽しい。疲れて少し眠るときにも、目が覚めたら必ずそこに悪魔さんがいて、また面白いお話しわたし聞かせてくれると思えば満たされた気持ちで眠りに就ける。
こんな事はいつ以来だろう。
ずっと、眠るのが恐ろしかった。かと言って、起きている時間は苦痛を味わうだけの時間だった。
悪魔さんは、わたしに幸せな全部をくれる。
※ ※ ※
いよいよ最期が近い気がする。
なんと言ったらいいか、全てが曖昧に、わたしという存在が溶け始めた感じがする。
体の方はとうに限界を超えている。
「今からでも痛みを取りましょうか?まだもう一つ望みは残ってますよ?」
「(……いい)」
そんなことより、悪魔さんとお喋りできる時間があと少しなのが寂しい。
「(悪魔さんってずっと昔から生きてるんでしょ?伝説の勇者様って本当に居たの?)」
「ああ、勇者。居ましたよ。彼はとても手強かった。私や他の悪魔が束になってかかっても歯が立ちませんでしたね」
こんな話、誰も聞いたことないだろう。わたしはつくづくラッキーだ。
「(すごい!!悪魔さん、あの勇者様と戦ったことあるの?!)」
「(悪魔さん!勇者様のお話!…聞かせ…て…」
悪魔さんのお話しをもっと聞きたい。
わたしは悪魔さんと旅をした。
長い長い旅。
恐ろしい敵に出くわしても、危ない目に遭っても、すぐに悪魔さんが助けてくれる。
時々、寝る前に悪魔さんとお話しする。今日の冒険の話とか、悪魔さんの昔の話とか、わたしの話も少し。
広い世界の色んな景色を悪魔さんが見せてくれた。いつも側に悪魔さんがいた。
ああ、幸せだ。
いつまでもずっと悪魔さんと一緒に旅を続けたいな。
※ ※ ※
朝、だと思う。
そしてなんとなく、でも、はっきりと分かった。
これでお終いなのだ。
わたしは悪魔さんの姿を焼き付けたくて重い瞼を必死にこじ開けた。
側にはやっぱり悪魔さんがいる。
好き、なんて言ったら困らせてしまうだろう。わたしは人間で悪魔さんは悪魔なのだから。
そういえば、お願い、最後の一つが残ってたっけ?
じゃあ、それを言わない代わりに、ちょっと意地悪なお願いしてもいいかな。悪魔さんがいつまでもわたしのことを覚えていてくれるように。
悪魔さんは優しすぎるから、悪い人間のわたしに付け込まれるんだよ。
「(悪魔さん。……これ、最後。元気でね。ありがとう……)」
※ ※ ※
わたしはどんどん溶けていく。
わたしだったものはぼやけて、感覚は遠くどこか他人事みたいな感じだ。
悪魔さんが側にいてくれている事はまだ分かる。
悪魔さん?
大切な人。大切だった人。
記憶もあやふやだ。
でも、温かいものが残っている。
重たくて冷たいものとの糸が一本ずつ千切れ、その度に軽くなっていく。糸からは「アクマサン」への何かが流れ込んでくる。
「アクマサン」?
その最後の一本がプツリと切れるとゆっくり上り始めた。
この感覚を識っている。
一度登り切った後、別の重い物に入り込み、また切り離されて登ってを繰り返すのだ。
永劫にわたって続けてきた。
だが、今回は違った。
何かが触れた。
本来の工程にないものだ。逃げなくては。
いや、逃げなくていい。これは、〓〓〓〓〓だ。
そうか、永い永い旅が終わるのだ。
ゴールだ。
その温かいものに取り込まれていくのを感じる。
もう、重くて冷たいものに閉じ込められなくていい。
ああ、温かい。