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そして夜は明ける〈後〉

 ──空園葵そらぞのあおい:著「地に満ち、増えよと神の宣う」から本文を一部抜粋


(前略)

「……あつい、いたい、くるしい……おなかすいたよ、おとうさん……おかあさん、誰か、誰でもいい、助けて……」

 暗い、陽の射さない、月明かりさえ通さない、あまりにも暗すぎる"おんどう"に少年の今にも消え入りそうな声が響いている。救いを求める幽き声は御堂の外には一切届かないようで、声変わりの時期には程遠い高く抜ける声は、ただ虚ろに御堂の中で消え失せていくだけだ。

 暗闇の中でなければ誰もが見入るほどに美しい見目をした少年は、しかし襤褸にも等しい薄っぺらな肌着一枚だけを着せられ、麻縄で柱に四肢を繋がれた状態で何日も囚われの身になっているのだった。食事は日に一度、出入り口の隙間から重湯らしきものを差し入れられるだけで、食べ盛りだろうにおかずもなければ菓子の類もない。

 湯浴みもできず、暇を持て余す道具もなく、気が狂いそうなほど暗く狭い部屋に何日も、何日も。訪ねてくる者はおらず、ましてや救いの手が差し伸べられることもない。手足の自由をも奪われ、満足な眠りも許されず、ただ無為に一日が過ぎて「お勤め」が終わる瞬間を待つしかない。まさに生き地獄だった。

 戒められた手足にはかすり傷がいくつもこさえられて痛々しく、治りきらないうちに新しい傷がつくせいで化膿し黄色く濁った膿が滲んでいる。風呂にも入れないせいで肌の表面には垢がこびりつき、どこからか沸いた虫が這い回る。それを払い除けることすら拘束されていては不可能だ。

 少年が何か悪事を成したとしても、これほどに非人道的で前時代的な「しつけ」……否、虐待は認められる訳がない。どころか彼は何もしていないのだ。たとえば妾の子であったとか、不具であるとか、少年に害されるに足る理由などは何もなかった。では、なぜ斯様に幼い子供が命を失いかねない状況へ追いやられているのか。

 それは、少年が美しいからである。光を弾いて輝く黒檀の髪に、烟るように大きな瞳は陽光を透かして煌めき、性差を感じさせぬ美貌はまさに白皙の美少年と呼ぶにふさわしく、なよやかな手足や桜色の爪先さえもが優美であった。年を経れば更にその美はより輝かしく磨かれることだろう。

 古来より、魔なるものは美しきを好む。悪しきもの、邪なるもの、人々から時に「ばけもの」と呼ばわれる彼らは、きよらなるもの、美しきものをこの上なく愛し、求める。ゆえに少年は「選ばれた」のだ。この地を守る恐ろしき鬼女にして、豊穣を約束する女神──「無貌の美姫」に。

 美姫は七年に一度、伴侶つがいを一人、村人に要求する。伴侶として選ばれるのはその年に七つを迎える子供だ。選定された子は「女神の愛し子」あるいは「神おくりの子」と呼称され、俗世の穢れから身を守るため七日七夜"おんどう"に籠る。

 元々の意味合いとしては霊性を得るため精進潔斎を行うのが習わしだが、時代が下るにつれ子供は美姫への捧げ物としての側面を持つようになった。それには村を襲う飢饉が関係している。

 東北の雪深き山々、その奥地にひっそりと佇む村は痩せた土地ゆえ稲作には向かず、その上やませが毎年のように吹き荒れ冷害をもたらす。凶作となれば村の人々は食べていけず、必然的に「口減らし」が密かに行われるようになった。愛し子とは、神おくりの子とは、つまり神への贄というお題目のために命を摘まれた子供らを指すのだ。

 ならば、この飽食の時代に……飢えも渇きも無い恵まれたこの国で、口減らしを目的とした儀式を遂行する意義などあるだろうか。否、あるはずがない。悪しき風習は断じて現代に許してはならぬものであり、本来ならば風化し消え去るものでなければならない。しかし依然として儀式は今なお行われ、罪なき幼子が犠牲となり続けている。

 本来なら少年も過去に死んでいった子供らと同じように、その命を散らすはずだった。だが。七日七夜を越え、八日目の朝。少年は命をながらえ、奇跡的に生き延びた。とうにくだばっているものとばかり決めつけていた村人は、瀕死の状態ながらも意識を留めている少年を見て、このように述べたとされる。


「この子は正真正銘『無貌の美姫』の愛し子である、と──」

(後略)



◆◆◆



 ハロウィン当日。この日はちょうど土日と被っていることもあり、イベントが開催される渋谷はどこもコスプレした人達で溢れかえっていた。ワイドショーのリポーターやその他メディア関係の人間、バズ狙いの一般人も野次馬目的に押しかけ、混雑は時間が経つにつれより酷くなる一方だ。

 黒いベルベット風の生地で仕立てたマントを羽織り付け爪ならぬ付け牙を嵌め、ついでにコウモリの羽をイメージしたカチューシャを頭につけた竜胆りんどうは、うんざりするほどの人出に既に帰りたい気持ちでいっぱいになっていた。とはいえ今日はれっきとした仕事で来ているのであり、報酬も発生するとあっては帰りたくても帰れない。

 同級生のふじあざみによる動画配信ユニット「QQQ」の特別企画に出演すると決まったのはつい先日のことだ。どうしてもゲストとして顔を出してくれと頼まれると、ノーと言えない日本人である竜胆は断りきれず結果、了承するしかなかった。一応は藤へのお礼も兼ねている、という理由もあったが。

 せめてもの抵抗として藤の恋人であり腐れ縁の同級生・菖蒲あやめにお願いして、元の顔を誤魔化すためのメイクを施してもらっている。おかげですっぴんの自分とは似ても似つかないヴィジュアル系バンドマンもかくやという凄まじい顔面になったが、周りのコスプレ連中も似たような外見なので、うまく紛れられたようだ。

 その菖蒲、藤、薊の三人とは現地集合する手筈になっていたものの、こうも混みあっていては待ち合わせ場所へ辿り着くことも難しい。通勤ラッシュの山手線かと言いたくなるくらいぎゅうぎゅう詰めで、行きたい方向へ足を向けるのも困難だ。せめて牛歩状態の人混みから抜け出したいが、周囲に空いているスペース自体さっぱり見当たらない。

 臨時で作成したメッセージアプリのグループに遅れそうな旨を伝えてみると、やはり三人も混雑に四苦八苦しているのか、返信どころか既読さえつかないような状況だ。この混み具合ではスマートフォンの画面を見るのも一苦労だろう。連絡を取るのは無理だと判断し、まずは集合予定場所を目指す。

 時刻はそろそろ夕に差し掛かろうとしていた。夏場に比べて日が短くなり、とっくに日没を過ぎた渋谷の上空は藍色に染まり始めている。終日好天だったからか西側はまだほんのりと明るく、夕日の最後の残照が今にも消えようとしていた。ギラギラと輝く看板広告のネオンや高層ビル群の明かりに照らされ、夜間でも真昼のように眩しい東京の街は、まだまだ眠る気配などない。

 けれど、ふと目を眇めれば仮装した人々に紛れて人外のものが、そこかしこを練り歩いているのが視界に入る。一つ目のもの、複眼のもの、手足のどれかが多いもの、逆に少ないもの、鱗の肌を持つもの、尾や角を携えたもの、通常フィクションでしかその姿を見ることのできない異形どもが平然と現代日本の大都市を闊歩している。

 今宵はハロウィン、確かに百鬼夜行にふさわしい一夜と言えるだろう。


「竜胆くん! ……やっと見つけた、ほんっと探すのどんだけ苦労したと思ってんの、連絡しても通じないしさ!」

「え……あれ? 紫苑しおんさん? なんでここに。あ、そういや今日は術師総出で警備するとかって桔梗ききょうさんが言ってたような」

「そうだよ。他にも杜若かきつばたとか色んな連中が君ら一般人に被害が及ばないよう警戒してる。だけど、だからって油断はしないで。今はまだ早い時間帯だから『こちら側』に来ている怪異の数も少ないけど、これからどんどん増えていく。君を気に入って『向こう』へ連れていこうとする輩がいないとも限らない……っていうか、なんでこんな日に限って出歩いてんの!? 俺、前にハロウィンの日は大人しく家でじっとしてろってお願いしたはずだよね!?」


 紫苑から、この日はどこにも出かけず自宅待機しているようにと事前に忠告を受けていたことを忘れた訳ではない。目立ちたがり屋ではないにせよ、にぎやかな都会のハロウィンに憧れる気持ちがないではなかった。田舎ではまだまだ子供の行事という認識だが、東京ではめいめいに仮装した大人が楽しげに騒ぐ姿に興味をくすぐられたのは確かだ。

 実のところ竜胆が二人の頼みを受け入れたのも渋谷のハロウィンに参加する口実が欲しかったから、という理由があった。とはいえ、これほどまでに人外のものが跋扈しているとは予想外ではあったが。同じ「ばけもの」である紫苑はもちろん知っていたからこそ竜胆へ忠告したのだろう。

 それが分からない。紫苑は一体どんな理由や目的があって竜胆を守ろうとしているのだろうか。助手だから、店の従業員だから、それだけなら簡単に納得できた。だが彼はもっと何か大事なことを竜胆に伏せたままでいる気がしてならない。そもそも人外が人間を護ろうとする、というのがずっと理解できなかった。何か思惑があるとしか思えなかった。


「紫苑さん。最近バタバタしてて切り出せなかったけど、俺はずっとあんたに訊きたかったことがあります。あんたと菖蒲の関係についてです。あんた、本当は何者なんだ? ……なんで、あいつの兄貴のフリなんかしてる? 何が目的で俺に近づいたんだ。どうして助手なんていう『名目』を使ってまで俺を手元に置いた? なあ、あんたは肝心なことに限って、いつもいつもいつも俺に話してくれないよな」


 つい詰問するような口調となってしまい、追い詰めたい訳じゃなかったのにと竜胆は口を閉ざす。普段と違い、問い詰められた側の紫苑は、いつになく困り果てた様子で言い淀んでいた。話したがっているかのような、話すことを禁じられているかのような、微妙な表情は人外だというのにひどく人間くさい。


「ごめん。……言い過ぎた。でも、なんで紫苑さんは大事なことを俺に隠すの。そんなに俺が信用できない?」

「違う。巻き込みたくないだけ。こっちの事情に首を突っ込もうとするのはよしなよ。君のためにならない……それとも、死んでもいいの?」

「そんなつもりは……正直、死にたくはねえよ。でも紫苑さんにこれ以上隠し事されんのは、もう嫌だ。蚊帳の外にされるのも」

「あっそう。なら言うけど、君は自分に憑いてるモノが何かは理解してる? そいつが君に何を求め、何を欲し、何を成そうとしているのか──」


 どこか投げやりな態度で説明しようとした紫苑がふいに口を噤む。限界まで見開かれた瞳は竜胆の頭上より少し上へと向いていた。つられて自身の後方へ目をやり、竜胆もまた瞠目する。


『それいじょうはなしたら、わかっているな、ひととあやかしのまざりもの。それともよほど、わたくしにころされたいとみえる』

「うるさい、そのお喋りな口を閉じろ、化け物が」

『きゃはは! おまえも、その"ばけもの"のくせに! よくほえるいぬだこと!』

「なんだこいつ……いや、でも確かどこかで」

『おや。わたくしはかなしい。ずうっと、ずーっと、わたくしはおまえのそばにいたのに。きづかなかったとはいわせぬよ、おまえはみてみぬふりをしていただけ。つごうのわるいことから、いやなことから、いつもおまえはめをそらしていたね』


 空中に女が一人、浮かんでいる。かろうじて女だとわかったのは、お太鼓にした帯と身に纏う正絹の着物が女物だからだ。

 袖を通さず肩に羽織った打掛けにも着物にも、金糸銀糸で牡丹に蝶に月夜が刺繍された様は、まるで深窓の令嬢のようでもある。結いもせず背へ流れる足首を超えるほど長い黒絹の髪は、風もないのにふわりとたなびいている。

 けれど──貌が、ない。のっぺらぼうともまた異なり、顔があるべき場所だけが、まるで霞で覆われたかのようにはっきりしない。顔のない化け物、おもてを持たぬ姫君の名を竜胆はかつて、どこかで耳にしたはずだった。そう、もう二度と帰らぬと決めた故郷の地で。


「『無貌の美姫』……お前こそが竜胆の故郷で太古の昔、神へと祀られた異形のものであろう。なぜ、この者に構う? これはお前のような高位の化生が気にかけるほどの逸材か?」

『ふふ。それを"よそもの"のおまえなどに、なぜおしえてあげなければならないの?』

「テメェを祓うためだよ、この性格ブスのクソババアめ! いい加減にガキにつきまとってんじゃねえ、このショタコン女のサイコクズが!」

『……うふふ、ふふ、あははっ、おもしろい……ほんとうに、おまえはおもしろいあやかしね! そのどきょうにめんじて"げえむ"をしてあげよう。きょうがおわるまでわたくしから、このまちのひとのこらを──のこらずまもってみせなさい。わたくしはやさしいから、ひとつだけ"はんで"をあげる。いちじかんだけ、じゅんびするきかいをあげよう。けれど、もしひとりでもとりこぼしたら……わたくしは"これ"をつれていく』


 ゾッ、と背筋に冷たいものが滑り落ちた。指先まで完璧に整った美しい手のひらが、そっと竜胆の頬を撫であげる。それだけで心臓を鷲掴みにされたかのような心地となった。緊張と恐怖で痛いくらいに心臓がドクドクと脈動する。

 今のは「いつでもお前を殺せる」という宣言に他ならない。脅しではない、ただ事実を伝えてきただけだとわかって、竜胆は声も出せないほどの畏怖を精神に叩き込まれる。呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうな恐ろしさの中、ふと肩にあたたかな感触が伝わった。女のものと違う、ごつごつと硬く骨ばった掌は紛れもない、紫苑のものだった。


「いいだろう。くだらない余興だが、この俺の前に堂々と姿を晒した度胸に免じて乗ってやる。せいぜい足掻いてみせろ、俺が勝つ」

『たのしみね、おまえがわたくしにくっぷくし、ぜつぼうするのが……ではまたあいましょう、にえのこ。つぎはわたくしとともに、かくりよへとまいりましょうね』


 少女のようにも老婆のようにも聞こえる、鼓膜を引っ掻くような笑い声を喉奥で鳴らして「それ」はあっという間に見えなくなった。周囲には先程と変わらないざわめきが戻ってきており、あの女を中心とした結界の中に閉じ込められていたことを遅れて悟る。


「ちっ、面倒なことになっちゃったな……! 悪いけど楽しいハロウィンはひとまずお預けってことで。ごめんね。さっそくだけど仕事の時間だ」

「紫苑さんが挑発するからでしょ、全くもう。ていうかどこであの女のことを知ったんですか? 美姫については村の人間くらいしか知らないはずなのに」

「だから聞きに行ったんだよ、直接。わざわざ君の地元まで足を運んでね。いやー、電波もろくに通じないような土地だったから骨が折れたよ」

「……え!? マジで!? ほんとにあんな秘境にまで行ったんですか!? それで収穫はありました?」

「まーね。でなきゃあの女のゲームとやらになんか乗っからないって。まずは渋谷中の百均を全部巡るぞ、そんで合羽橋で買い物」

「了解です。……あ! そういや、あいつらとの予定が……どうしよう、こっち側のことを知らないやつもいるし、なんて説明すれば」


 あたふたとスマートフォン片手に慌てる竜胆だが、紫苑は少し考え込むとおもむろに彼の携帯を横合いから取り上げた。さっとグループ内のトーク履歴を遡り話の流れを確認するや、凄まじく早い打鍵でメッセージ欄に何事かを打ち込み始める。


「あのう……紫苑さん? 何してらっしゃるんです、人のケータイで」

「ちょうどいい。藤がいるんなら話は早い。待ち合わせ場所ってハチ公前? じゃあ杜若あいつと合流できるな。あのバカに誘導してもらいつつ、例の配信動画だっけ? あれ始めさせちゃって。暗示かけて外に逃がす」

「は? そんなことできるんですか!?」

「安心しな。術師の言葉は言霊だ。必ず効く。それに──藤と薊が始めた動画は渋谷中の人間が見るよ、見てみなよ街中にある大量のデジタルサイネージをさ! それ全てジャックすれば、同時に全員に暗示を仕込めるって寸法さ」

「いや、それいいの……? てかどうやってそんなことを」

「忘れたの? 俺は化け物だよ」


 時刻が夕から夜へと移り変わる中、夜空を照らす月の光を受けて、青年は酷薄に微笑んでいる。無造作に束ねた髪も、伏し目がちの三白眼も、線の細い体躯も全て普段と何も変わらないはずなのに──纏う雰囲気だけが完全に異なっている。

 こんなにも胸の奥がざわつくような、まるで《《ばけものを目にした時のような》》、厭な気配を感じさせたことなど果たして今まであっただろうか。


「……行こっか。時間が無い。早く準備を済ませないと本当に負けちまう」

「わかりました。あの、俺は何をすればいいですか」

「そうだなあ、とりあえず杜若と三人組に合流して。あいつらについててやってくれる? ……菖蒲をよろしく頼むよ」

「もちろんです。だけど全部終わったら、ですよね。もちろん紫苑さんも一緒ですよ。今更仲間外れなんて許さないですからね」


 いつの間に杜若宛の連絡や段取りを終えたのか、各ビルに設えられたサイネージが突如として切り替わる。竜胆と紫苑が問答している僅かこの短時間で、本当に藤と薊は配信の準備を整え、異例の電波ジャックに成功したのだ。もっともジャック自体は紫苑が細工を施したのだろうが。

 きぃん、とマイクがハウリングを起こした直後、見慣れた友人らと相変わらず厳つい無表情の杜若がカメラに向かっており、大音声で絶叫するさまが視界に飛び込む。術師の発した一言は端的で、明瞭だった。逃げろ、というただ一単語をきっかけに、雑踏が規則的に動き始める。

 パニックを起こすでもなく冷静に、機械的な足取りで各々バラバラの方角へと歩き出す仮装行列を尻目に、二人は近くの百円均一の店へ入る。暗示が効いたのか既に店員も退避済で、店中から集めた大量の鏡をセルフレジで会計しながら、竜胆は日頃何気なく使っている最先端技術に感謝した。

 その足で次は合羽橋まで向かう。タクシーを飛ばし、できる限り時間の短縮を試みるが、この時点で彼女が設定したタイムリミットまで猶予はほとんど残っていなかった。さすがにこの辺りは暗示の効果が及んでいないからか、買い物客や仕事帰りのサラリーマンなどが行き交っている。


「ところで、なんでこんな切羽詰まった状況なのに俺らは買い物なんかしてるんですか」

「昔から魔物は鏡と刃を嫌う。本当は銅鏡とつるぎと勾玉の三点セットがあればちょうどよかったんだけど、さすがに急場で用意できるもんじゃないからね。鏡は質より量作戦でどうにかなるけど、刃だけは良いものが要るから」


 などと分かるような分からないようなことをのたまいつつ、どうやら紫苑とは顔なじみらしい刃物屋の店主から、ポン刀と見紛うほど刃渡りの大きな包丁を彼は受け取る。鞘にも納められていない、刀身が剥き身のそれは果たして料理道具なのかも怪しい。本来は鮪などを解体するのに使うようだ。


「よし! 準備は整った。あの女を呼び出すぞ」

「え!? ここで!? 周りにたくさん人いますけど大丈夫なんですか?」

「だいじょーぶ。美姫はさっき『あの街の人の子』と言った。あの街ってのは渋谷だ。浅草の人間は含まれない、つまり彼女は手を出せない」

『そのとおり。うふ、ばれちゃった。まさか"あんなて"をつかってくるなんて。ほんとうに、おもしろいあやかしね。おまえは』

「小賢しいって言いてえんだろ、力技しかやり方を知らないお前のような脳筋と一緒にすんなよ」


 歯を見せて笑う紫苑は、買ったばかりの包丁をまっすぐ美姫へと突きつける。苦手なはずの刃を己の心臓目掛けて切っ先が向けられてもなお、彼女は余裕そうな態度を崩さない。それだけ自信があるということだろうか、となんの力も持たない竜胆は、彼らのやり取りをヒヤヒヤしながら見守るしかなかった。


『ふふ、ふ、ふふふ、してやられちゃった。わたくしのまけね。おまえのこうじた"さく"のせいで、だあれもころせなかった。おかげであちこちさまようはめになったのだもの、てきながらあっぱれ、というしかない……でも、しょうぶはここから』

「ああ。そうだな。ここからが──本番だ」



◆◆◆



 結界に閉じ込められるのは先刻と今とで本日二回目だった。気がつくと周囲の景色は、静寂に包まれた深い山の中に切り替わっている。ミミズクの鳴き声が遠くから聞こえ、吹き荒ぶ風にそよぐ葉擦れの音が響き、月の光も枝葉に遮られて届かない暗闇に飲み込まれた森の奥。

 今にも崩れてしまいそうな、朽ち果てた社が目の前にあった。元は朱色に塗られていたのだろう鳥居はとうに根元から折れて地に転がり、風雨に晒され続けた御堂は手で軽く押しただけでも倒壊しそうなほど脆くみえる。手を合わせにくる者もなく、ただ廃れるのを待つだけの、それは神の墓標だ。

 竜胆にはその全てに見覚えがある。当然だった。ここに七日七夜もの間、囚われていたのは他ならぬ竜胆本人なのだから。正絹の着物を身に纏い、頭には麻の葉の冠を、襟の合わせは左前に、手足は縄できつく結ばれて。神へと捧げられる「贄」となり、この祠の前へ捨てられたのだ。

 あれが廃棄でなくてなんだというのか。結局は「要らなかった」から、「よそ者の子供」だったから、ただそれだけの実にくだらない理由で竜胆は死を乞われた。死を願われ、葬られたのだ。あの日、竜胆という人間は確かに一度、死んだのだろう。今、ここに息をしているのは竜胆という子供の亡骸だ。


「そっか。今度こそ、もう俺のことなんて誰も『要らない』のか」


 淡々と感情の乗らない声で呟き、竜胆は御堂の中へと入ろうとする。だが後ろから肩を掴まれて強引に後ろへ下がらせられ、それ以上先に進めなくなった。


「……離せよ。誰だか知らないけど、俺なんかもうどうでもいいんだろ」

「んな訳あるか、ばかたれ。目を覚ませ、意識を開け、思考を止めるな。お前は何者だ? 思い出せ、自分がなんなのかを」


 聞き覚えなどないはずなのに、聞き慣れた声が、風の音にも木々のざわめきにも掻き消されることなく耳朶を打った。徐々に意識も、視界もクリアになる。たった今、自分が何をしようとしていたのかを悟って、彼はその場に膝をついた。


「え……あ、ああ、あれ……俺、なんで、今ッ」

「そこに入ったら終わりだった。よかったね、間に合って。御堂おんどうは美姫の領域だ、そこに踏み入るっていうのは死と同義だよ。君は誘われたんだ。全く卑怯な真似しやがって、あのクソ女め」

「今更ですけど、あんなおっかないのに対してよくそんな物言いできますね。怖くないんですか?」

「そりゃ自分と同種のモノに怖いもクソもある訳ないじゃん。君ってちっちゃい子供にビビるの?」

「さすに年下のガキ相手に怯えたりは……え、待って今あの女を子供扱いした?」

「だってあいつ、せいぜい五百か六百ってところでしょ。俺らの世界じゃまだまだ鼻水垂らしたクソガキだよ。クソババア呼ばわりしたのは、ほら女の人ってババア扱いしたら怒るでしょ、だから」

「だから……だから!? 何!? そのせいで俺らはこんな目に遭ってるんですが!?」


 恐怖も忘れて地団駄を踏みながら怒りを露わにする竜胆へ、けろっとした顔で紫苑は告げる。


「君を助手にする時、確かに言っただろう。『君に憑いてる"それ"も俺がなんとかしてやる』──ってね。術師の言葉は言霊だ。だから決して約束は違えない。履行の時がきたんだ……代償は、しっかり支払ってもらうけどね」


 言い終えた瞬間、青年の肩から指先にかけて「なにか」に切り落とされた。ゴトリ、と鈍い音を立てて服ごと切断された片腕が地面に転がり落ちる。


「……え?」

「ありゃ、来ちゃった。ったくも、ガキは空気のひとつも読めやしねえんだから」


 吐き捨て、紫苑は残ったもう片方の手で包丁を構えた。夜陰に紛れてこちらを狙う美姫を気配だけで探り当て、的確に一撃を見舞わなければならない、あまりに鬼畜難易度のゲームを強いられてもなお普段通りのゆるい笑みを浮かべている。


「大変、手当てしないと」

「大丈夫。それより……『来る』」


 言葉通りだった。音もなく、今度もまた死角から、彼女は「顔より大きな口」を限界まで開き、紫苑を頭から喰らおうと迫りくる。生き物のように蠢く舌が、血に汚れた乱杭歯が、唇から滴る唾液が、竜胆の目にはスローモーションとなって映る。

 そうだ、鏡。あれを使えば紫苑のサポートができるかもしれない、と慌てて「たまたま」ポケットにしまい込んでいた手のひらサイズの手鏡を美姫に向けてかざした、その時だった。


『……っ、ぎぃ、ぁあああああああ!! この、愚かで醜い小僧の分際で! わたくしを謀ったな! よくも、よくもおのれ、吾を映すなど戯けた真似を……!』


 夜気そのものを震わすような大絶叫が轟き、森全体を揺るがした。金切り声を迸らせながら、のたうち回る女を見逃すような紫苑ではない。食いちぎられた傷口から大量の血を噴き出させつつも、全力を込めて包丁を振りかぶり──女の首を一刀両断する。まっすぐ切り裂かれた頭部が中空へと舞い上がった。


『おのれ……おのれ、ゆるさない、貴様ら絶対、地獄の底へ叩き落としてやる……!』

「やってみろよ生首風情が。テメェのしょうもない遺言のろいなんざ、鼻で笑って蹴飛ばしてやるわ」


 紫苑が天へ向かって中指を突き立てた途端、美姫の肉体は黒い塵と化し、たちまち消え失せた。あとには着物と打掛けだけが残されており、それすらも結界の崩壊と共に消え去っていく。


「終わった……? え、ほんとに?」

「本当。マジで。リアルリアル。よかったじゃん、もう竜胆くんはあの女に殺されることはないよ。これからは長生きできるね。本当ならあいつに喰われて二十歳前に死ぬ天命だったんだよ?」

「なにそれ知らん……聞いてない……」

「あっはっは。そりゃ言ってないからね。ちなみに杜若は知ってたよ、君を慮って告げずにいたんだろうけど。あいつって年下には優しいもんね、弟弟子の俺には容赦ないくせに」


 幻影のような本州の北端にある山奥から、首都の喧騒へと戻ってくる。立ち並ぶ店の明かり、街灯の光、車のテールランプに溢れた、輝くような都会の街並みは、闇に慣れた瞳には眩しい。あまりの眩さに、勝手に両目から涙が溢れてくるほどに。


「いっけね、杜若から連絡きてた。あっちはとっくに撤収してるってさ。暗示も解いてるから、今頃の渋谷は乱痴気騒ぎ状態だろうねえ。どうする、君は向こうに合流する?」

「……それ、俺が『そうする』って言ったら、あんたはどうするんですか。俺さっき言いました。紫苑さんも一緒ですよ、って。言葉は言霊、なんですよね?」


 噛みちぎられたはずの片腕は、切断された名残りもなく見事にくっついていた。そもそも服すら綺麗に元通りだなんて、魔法じみた光景などありえない。仮に結界の中の出来事だから現実に反映されないのだとしても、四肢をもがれて苦痛ひとつ浮かべず反撃に転じること自体、化け物でなくてなんだというのだろう。ああ本当に、この青年は「ひと」ではないのだ。


「さよなら、竜胆くん。もう『お支払い』の時間が来ちゃった。俺が君に要求する代償はただ一つ──俺に関する全ての記憶だ。忘れてもらう。この二ヶ月あまり、一緒に仕事した経験も何もかも」

「嫌です。お断りします。それ以外にしてください」

「……え? ……は? 今、なんて」

「嫌だつったんだよこの馬鹿。一度で聞けないんですかこの馬鹿」

「二回も雇い主に向かって馬鹿って」

「突っ込むとこそこですか? ともかく他にないんですか、他に。いやあるでしょ。たとえばこの眼とか」


 元より竜胆には視える力など必要ないものだ。そんなものがなくても普通に生活できることは周りを見ていれば分かる。それに助手として共に働けなくても、視えないことで紫苑との繋がりまでも断たれるとは思わなかった。


「……視える目がなかったら自衛できなくなるよ。また変な生霊とか怪異に取り憑かれちゃうかも」

「見えなきゃ居ないのと同じですよ」

「いや、まあ、そりゃそうかもしれないけど! ていうか俺とサヨナラしたところで別にどうってことなくない!? たった数ヶ月の記憶くらい、別にッ」

「じゃあ紫苑さんは──楽しかった思い出を全て消されるとしたら、どう思いますか?」


 問い返され、彼は大量の苦虫を噛み潰したような顔で歯噛みした。二の句が継げなくなった紫苑へ、竜胆は淡々と畳み掛ける。


「この何ヶ月か、俺はそりゃ怖い思いもいっぱいしましたけど……楽しかったですよ。紫苑さんと一緒に働くの。時間にしたら短いけど、でも楽しい時間ってあっという間にすぎるものじゃないですか。俺は失いたくないです。ほんの僅かなものであっても。もう二度と、何も忘れたくない」


 正面からまっすぐに視線を合わせて言い切られ、紫苑は黙りこくったまま地面へと顔を背ける。沈黙は肯定しているのと同じだった。自分との時間を惜しんでくれているんだな、というのが分かって、こんな時なのにも関わらず竜胆は少し嬉しくなる。


「ねえ紫苑さん、あんた意外と分かりやすいですね」

「うっさいな。……ほんとにいいの?」

「二言はないですよ」

「あっそう。後悔すんなよ」

「する訳ないでしょ。俺達まだまだ『これから』なんだから」


 泣き笑いの表情で、紫苑は竜胆の目元へ指先を添える。笑った顔も怒った顔もこれまで何度か目にしたけれど、そういえば泣き顔は初めてだな、と思いながら青年は静かに瞼を下ろした。



◆◆◆



「ねえ、本当に消さなくて良かったの? 彼、きっとこれから紫苑くんのせいでいーっぱい苦労するんだろうなあ、これから」

「……うるさいですよ師匠せんせい。肝心な時に来てくれないくせに、一丁前に説教ですか。あなた、あのバカに余計なこと吹き込んだでしょう」

「失礼だなぁー、助言だよ、助言。ちょっと生意気な口を利かれたから、人生の先輩として世間の厳しさを教えてあげただけ。でも結果的にうまくいったでしょう?」

「はっ、どうだか。それよりほんとに何しに来たんです?」


 とうにハロウィンの夜は終わりを迎えていた。日付は変わり、現在は零時を過ぎている。渋谷の街はまだまだ眠りにつく気配を見せず、酒の入った若者による暴挙があちこちで起き始めていた。

 騒がしい中心部から離れ、人通りの途絶えた路地裏ですら生ゴミが散乱し、微かに悪臭も漂っている。不衛生極まりない状態だが気にした風もなく、紫苑は大の字で寝転がっていた。表情も顔色もいつもと変わりないが、付き合いの長いすみれだけは青年のなりをした異形の疲労を見逃さない。

 夜の闇よりもなお黒く、暗い格好をした女だった。背を覆う黒髪に黒い双眸、甘やかな美貌に差し色のないダークスーツという佇まいは、仮装している訳でもないのに死神のような印象を与える。あるいは魔女であろうか。口元の艶ぼくろが特徴的な、その女は地に伏せる愛弟子をどこか軽蔑するような眼差しで見つめている。否、観察していた。


「カワイイねえ、紫苑くんのわんちゃん。一体どうやって手懐けたの? 今度わたしにも教えてよ」

「ハッ、やなこった。犬が欲しいんなら店にでも行けばいいんじゃないですか?」

「やだなあ、もうヒトを売り買いできる時代じゃないでしょ? ああでも外つ国なら売っているところもあるか……そのうち買い付けに行こうかな」

「相変わらず倫理がねえな……」

「ふふふ、お若い頃にさんざん都で暴れ散らかしてたイキリ野郎の紫苑くんが何か言えた口かな? 竜胆くんにチクッちゃおっと」

「頼むマジでやめてくださいよ! 黒歴史なんだよ!」

「やーだ。もう決めたもん。あ、いっけなーい! 危うく忘れるところだった。今日はお知らせしに来たの。近々、都内の術師を集めて大きな会合を開くそうだからキミも必ず参加してね。絶対だから。もしサボったら──」

「……分かってますよ。その場で打首でしょ。術師あいつらの人外差別には困ったもんだ。身内には激甘なくせに……」


 ぶつくさ言いつつジト目で師匠を睨んでみるが、彼女はどこ吹く風といった調子で音階のずれた「きらきら星」を鼻歌で奏でている。泣く子も黙る最強術師、鬼より鬼、その他悪魔だの鬼神だのと数々の異名を頂戴する女術師は大抵なんでもできるが、なぜか音楽の才能だけには恵まれなかった。

 もはやきらきら星なのかどうかも怪しいそれにうんざりしつつ、紫苑はスーツの胸ポケットから潰れた煙草ケースを取り出す。定期的に仕入れている、怪異が嫌がる香木をいくつかブレンドした煙草もどきは、雑魚はもちろん紫苑当人にも覿面に効く。

 それに火をつけ、白檀や伽羅などの入り混じる煙を吸い、呼気と共に吐き出した。くゆる紫煙の向こうで彼女は感情の読めない笑顔を湛えている。


「それじゃあ確かに伝えたから。日付は追って知らせるよ、たぶん杜若くんが。わたしはそろそろ帰るとするよ。──またね、紫苑くん」

「できれば二度と会いたくないです。あんたが生きてるうちは」


 ひらひらと手を振って、華奢なシルエットが喧騒の中へと掻き消えていく。化け物よりも化け物らしいと讃えられる女の後ろ姿を見送り、甘さと苦さの混じり合う馥郁を吸い込んで、紫苑はふと天上へ視線をやった。ビルとビルの谷間からでは、都会の光にかすんで星は一粒たりとて見えない。かつては満天の星空が、この街が江戸と呼ばれていた時分にはおがめたのにと苦笑して、すぐに笑みを消す。

 スラックスのポケットに突っ込んでいたスマートフォンが着信を知らせていた。今はもう仕事の依頼だけではないことを、喜べばいいのか困惑すればいいのか分からなくなりながらも──まあいいか、と脳内で呟く。まさか己が友達からの連絡なんてものを楽しみにする日がくるなんて、と我知らず自嘲気味の笑みがこぼれた。


「……あいつと俺との関係に今更、名前なんて要らないか」


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