人類最初の友〈後〉
しばしば混同されがちだが、呪いと祟りは似ているようで少し異なる。その最たる違いというのは対処法だ。呪いの場合、呪った者やその原因を叩けばそれで解決することが多い。なんなら呪詛を行った当人が死ねば解呪は成る。
ところが拡散性を持たせ、不幸の手紙のように対象を選ばず無差別に被害を撒き散らすタイプとなると話は別である。呪われた者が別な人間へ呪いをバトンタッチする関係で、大元自体を探り当てるのが困難だからだ。
それに最初に呪いを広めた人間を奇跡的に見つけたところで無意味でもある。呪詛を行った人間全員──本来は被害者である呪われた側もまとめて殺さないと消せないためだ。そうした感染型はもう呪いの効果を打ち消す別な呪いを広めて相殺する、呪いの上書きでしか対応方法がない。
では、祟りはどうなるかというと祟った相手を殺そうが何しようが祟りそのものはどうにもならない。祟りは根を張る。祟った者の手を離れ、いつまでも禍根として残り続けてしまう。
よく末代までの祟りなどという言い方をするが、文字通り祟りは末代まで続くのだ。家系を祟れば家系が滅ぶまで、土地を祟ればその地は永遠に。しつこいカビのようなものとでも言えばいいのか。
ならば祟りは消せない、解決できないのかといえばそうでもない。一番メジャーなやり方は神として祀り上げ、相手の性質をリセットしてしまうことである。過去に怨霊として恐れられた歴史上の偉人が神として今なお篤い信仰を受けていることからも、その効力は明白だ。
怨霊悪霊から御霊あるいは守護神に。権能や霊威をプラスの方向へと変えてしまうことで祟りを「鎮める」……新居を建てる時に行う地鎮祭もある意味では似たようなものだろうか。許しを得る、という点においては。
しかし今回のケースに当てはめて考えてみると、この方法は使えないと判明した。紫苑と藤が出くわした動物霊、というか祟りの主犯にあたるあの犬は敵意を向けてこなかった。それは祟るべき相手ではないからだ。
おそらく何度足を運んだとしても何も起こらないだろう。それでは現状、祟られている人々は死ぬだけである。
あの犬を退治する、という手もありそうだが実はそれも難しい。犬の姿をした怪異は電話でいう子機だ。あの建物自体が怪異のテリトリーであり、そこへ侵入してきた者を祟るべきか、それとも祟らなくていいのか判別する役目を持っている。
ゆえに二人以外であっても動物に酷いことをする人間でなければ犬は反応しない。ただ無邪気に懐いてくるだけだ。今回の一件が高難度なのは、そもそも祟りの要因を排除不可能だからである。調伏しようにもその前段階に持ち込めないのではお手上げだ。
「竜胆くんさあ、犬嫌いとか動物が苦手な人間に心当たりってある?」
「ないですね。というか交流範囲も狭いし、犬猫の話もあまりしないんで……いたとしても分からないです。そういえば依頼者さんは? さっきの話聞いて、なんか変だなと思ったんですよ。本当に保護犬たちに酷いことしてないのだとしたら、なんでその人も祟られてるんですか?」
「それは……あ、そうか。今回は違う。自動的に祟ってくるタイプじゃない、誰を標的にすればいいか見定めてるんだ、あれは。つまり祟られているイコール、あそこで『何か』したのは確実だ」
「ってことは紫苑さんに嘘をついた……?」
「やられた。クソッ、バトンタッチだ……俺に押しつけようとしたな」
感染型の呪詛と祟りは、一見するとメカニズムがよく似ている。根本を叩いても無意味という点も同じだ。けれどバトンタッチは起こらない。祟られた側がどう頑張っても自分を苦しめているものを他の誰かに押しつけることなどできない。
依頼人はそれを知らなかった。だから紫苑に祟りを移し替え、助かろうとしたのだ。こうした事案では祟る相手を選ぶケースもあれば、条件に当てはまる者を自動的に標的にするケースもある。
後者だと勝手に判断したせいで重要な点を見落としてしまったのだ。慌てて依頼人へ連絡しようとする紫苑だが、やはり連絡先はブロックされており、通話はおろかメールも送信できないようにされていた。
もう面倒になって他の同業者に案件を三割引で下請けに出したいくらいだがそうもいかない。彼はあの犬と約束してしまったからだ、必ず「還す」と。言葉は言霊であり、宣誓したならそれは絶対に履行しなければならない。実際に口にしたのは藤だとはいえ、その場に居合わせた紫苑にも言霊は充分に有効だ。違えれば相応の罰が降る。
とはいえ打つ手がないのも事実なのだ。依頼人が本当に保護犬へ危害を加えるような真似をしてたら確定だ、贄として差し出すでもなんでもして怨念を鎮められる。しかし本人を引っ張り出せないなら「代わり」がいる。幸い今回は強力な助っ人がいることだし、きっとなんとかなるはずだ、と彼はさっそく善は急げとばかりに協力を打診してみる。
『ねえ今日行ったところだけどさ』
『わかりました俺にできることならなんでもします。で? 何をすれば?』
『わあ、まだなんも言ってないのに返答はっや。急だけど俺の代打を頼んじゃってもいい感じ? 君、確か配信者として有名なんだって? 動画のネタ提供してあげる。だからちょっと付き合え』
『どこでそれを……さては竜胆がバラしましたか。言っときますが今回の件をネタにするつもりは一切ないですよ、それで詳細について教えてください』
『別にこちらとしては事前チェックだけさせてもらえれば撮ってもらっても構わないんだけどね。作戦について簡単に言うと俺が囮になるから竜胆くんと一緒にあの犬を祓ってほしいんだよね』
『待て待て待て、囮!? は!? 何考えてんですか紫苑さんは! これから今すぐそっちに向かいます、改めて打ち合わせしましょう。逃げるなよ』
『え、ちょ、今から??』
一方的にメッセージのやり取りがぶったぎられてから数十分後。本当に店までやってきた藤を交え、本題へと入った。概要については双方とも既に把握済なので、本案件における具体的な手法について紫苑は説明する。
やり方としてはこうだ。紫苑が挑発行為を行い「祟りの対象者」と錯覚させ、わざと襲わせる。注意を引き付けているうちに藤と竜胆の二人がかりでらで鎮魂の儀式を執り行い、怨念を鎮めて祟りをおさめるというものだ。
だが話し終えた途端、二人の顔色がものすごいことになっているのを見て、彼は自分がやらかしたことを悟る。竜胆は怒髪天という言葉がしっくりくるくらい額に青筋を浮き立たせ、藤は笑顔なのに強烈な重圧をかけてきている。間違っても、また俺なんかやっちゃいました? などと茶化せる状況ではない。
「……それ、本気で言ってます? 本当にやる気なんですか、嘘でしょう、馬鹿なんですか、愚か者ですか、でなければアホです。死ぬ気か?」
「え、いや、さすがにそんなつもりは」
「竜胆の言う通りですよ。今回ばかりは擁護も看過もできません。何考えてるんですか、自殺志願者ですか、本当に馬鹿ですか? いや馬鹿だった。そういえばこの人って昔から馬鹿だった」
「馬鹿馬鹿言いすぎじゃあ……一応俺の方が年上なんだけど」
「黙らっしゃい! 自分が犠牲になるのを前提に作戦を組み立てるようなやつのどこら辺が賢いっていうんですか! ていうか簡単に投げ出すな! 人の命をなんだと思ってんだ!」
「もう怒り通り越して呆れてますよ……俺らにはあれほど『いのちだいじに』を言い聞かせてくるくせに、自分は『ガンガンいこうぜ』なんだもんなあ。それに上手くいく保証だってないでしょう、仮に本体が釣られなければ犬死にですよ」
「どうせ死なんし大丈夫かなって……竜胆くんも助手として色々教えこんでる最中だし、なかなか筋もいいから見鬼の藤くんがサポートすればイケるかなと思って。それとも無理?」
「無理な訳ないだろうが! なあ竜胆!」
「え? いや、うん、はい……」
先に激怒したのは竜胆の方であるのに、紫苑の挑発にあっさり釣られた藤の剣幕にすっかり乗せられる彼を見て、なんとなく二人のパワーバランスを紫苑は悟る。彼らは日頃から交流がある訳ではないそうだが、おそらく相性はいいのだろう。その上でどちらもタイプの違う美形なので、彼らに挟まれる菖蒲が周りの人間にやっかまれて肩身の狭い思いをしていないといいが、と少し心配になった。
「……今回、無理を言って紫苑さんの下見に同行したのは個人的に思うところがあったからです。以前、やむを得ない事情とはいえ俺は実家で飼っていた犬を手放さざるを得ませんでした。その子の行先があの施設でした。他に受け入れてくれる施設がなかったんです。……あの時、俺の足元に懐いてきた子は、あの子だった。見間違えるはずがない。確かにあの子だったんです。あの子は俺を敵とみなさなかった。俺が、俺のせいで死んだのに……」
それでやたら積極的に仕事を手伝おうとしてきたのか、とやっと得心がいった。動物好きで犬飼いだったことは訊いてもないのに本人から聞かされていたが、なるほど可愛がっていたペットをあんな形で失っていれば、見て見ぬふりなどできないだろう。
これまで生き物の生き死ににあまり感情が動かず、興味を示さない紫苑は、涙ながらに語る藤の気持ちをあまり理解はできなかった。けれども今なら竜胆という存在がいるので分かる気がするかも、とチラリと彼を見遣る。相変わらず仏頂面の青年は、藤の言葉の真偽を図りかねているようだった。
「ただ単に動画のネタにしたくて付きまとっていた訳じゃない。俺は見鬼だから、ずっと視えていた。俺の近くに祟られている人間がいることを、そのうちの一人が紫苑さんに接触しようとしているところを。あの時、本当は祟りを押しつけようとした依頼者を止めようとしていたんです。でも現場を見て俺は『あの子を還す』と決めたんだ、あんな所に縛りつけられていてほしくないから」
回りくどい言葉の裏に隠されているのは、だからといって紫苑が自己犠牲に走るのは許容できない、という本音だ。御託や忖度抜きに彼は、あの場に取り残されている怪異とそれらに相対することとなる紫苑、双方を本気で案じている。
藤が来店するまでの間にいくつか過去のアーカイブ動画を確認してみたが、確かに見鬼の力を使ってうまく配信を盛り上げている。けれど決定的な危機は回避しており、かつての紫苑が教えた対処法もしっかり身につけているようだった。
だからこそ彼は藤になら作戦の重要な部分を担わせても問題ないと判断した訳だが、藤本人は否定的に捉えてしまったのだろう。彼の横で静かに怒っている竜胆も紫苑のやり方には納得できないようだった。
紫苑にしてみれば一回生しかない生身の人間に危険な役目を背負わせて取り返しのつかない事態に陥るのを嫌がったからなのだが、二人はそんな彼が危ない目に遭うことを嫌がっている。
つくづく人間とは面白い生き物だ、と紫苑はこぼれそうになる笑いを噛み殺す。くつくつと喉奥で笑う彼を怪訝なものを見る目で二人が見つめているが、それも今はどうでもよかった。
「ダイジョーブ。そう心配しなさんな、俺は死なないし君達ならきっとやれる。だからそんな子犬みてえな目で見てこなくていいから」
「……ほんとですか? イマイチこの人の言うことは信用できねえんだよな……前科ありすぎて」
「おー、生意気なこと言うのはこの口か! 相変わらず素直じゃないなあ藤くんは」
「あなたが家庭教師やってた頃に受けた仕打ちを忘れた訳じゃないんで。もうコリゴリです、いくら見鬼だから自衛手段は要るって言っても、何も廃ホテルだの廃病院だの、ガチのホラースポットに連れていかなくてもよくないですか!?」
「ははは。おかげで今は君の配信者活動に大いに役立ちまくってるんだから結果オーライじゃん」
「それは……そうなんですが……」
実は有効打になりにくいだけで他にも手法はある。例の幽霊屋敷と同様に建物のある一帯を一種の領域として見立て、封印と浄化の作業を定期的に繰り返すというものだ。ただし費用は莫大になる。
年単位、いや下手をすると数十年とか数百年という途方もない年月を費やして継続しなければいけない。その上、一度でも怠ると暴れ出して今は関係者のみに向いている祟りが、周辺の住民など無関係な人間にも被害が出る可能性がある。
規模が大きければ大きいほど抑え込むのも難しくなるし、万年人手不足でなり手が年々減少している業界なのだ、その頃には手を打てる人材が残ってないとも限らない。
この作戦が有効打とならない、というのは禍根を残すことに他ならないからだ。次世代に負債を押しつけてツケを肩代わりさせるだけだからだ。それでは根本的な解決とはならない。
何より、あの犬は解放を望んでいる。自分を虐げたヒトへの悪意殺意恨みつらみ憎しみがなくなったわけではない、だがそれだけでもない。仮に人間全てが祟りの対象なら縄張りに入った二人に直ちに影響が出ているはずなのだ。
なのにわざわざ選んでいる、見定めている、判別しているのは──人への信頼や好意そのものが完全に消え失せたわけではないから。
「さて。では具体的なやり方を教えるとしようか。今回のカギを握るのは二人だ。君らに全てがかかっている。よろしく頼むよ、竜胆くん、藤くん」
◆◆◆
翌日。竜胆、藤は紫苑の運転するバンに乗って再び例の元保護施設へと足を運んでいた。車移動なのは昨日と違い下見ではなく本番なので、色々と道具を持ち出す必要があるからだ。
一抱えほどもある大きな楽器ケースを一つずつ、それぞれ三人で分担する。一体何がしまわれているのかは知らないが、やたら重量のあるそれを持ち運ぶのだけでもひと仕事だ。
現場に到着した時には額に軽く汗が滲むほどだった。三人の中で一番非力そうな細身の紫苑が平気そうな様子なのに解せない気持ちになりながらも、荷物を抱えて内部へ入る。
まだ保護犬や職員がいた頃から酷い有様だったのが如実に想像できるくらい、荒廃しきった中を進む。うっすら漂う悪臭に顔を顰めつつも目的の部屋──職員用オフィスの前で一行は足を止めた。
「この前、一通り施設全体をチェックしてみたんだけど一番穢れが『濃い』のがこの部屋なんだよね。恨みの対象である人間が特に長く、かつ多人数が滞在していたからなんだろうけど」
「そうですね……俺の『眼』から見ても、ここが特に酷い……」
藤ほどよく視える訳でもない竜胆は今ひとつピンとこない気持ちで彼らの会話を聞きつつ、打ち合わせ通りに淡々と作業に取り掛かる。まず用意するのはお香だ。香木の中でもメジャーな白檀を事前に粉状に加工したものを香炉で温めた灰の上に落とす。これを部屋の四隅全てで行うものだから、さして広くもない室内には、あっという間に白檀の馥郁が噎せ返るほど充満した。
更にデスク等の調度品は全て部屋の脇に避けておき、別な部屋から持ってきた折り畳み式の長テーブルに神棚を模した祭壇を設置する。榊、幣、酒、米、塩など一般的なお供えものの他にドッグフードやおもちゃ、犬用おやつなども飾りつけられているので、いささか奇妙に映った。これで今回の「おもてなし」の準備は完了である。
別室で煌びやかな浄衣に着替えてきた藤がまず先に床の上へ直接正座し、つっかえることなくスラスラとなめらかな滑舌で祭文を読み上げ始めた。この仕事に携わるようになってから、何度か紫苑が謡っているのを竜胆も聞いている。それが藤の声で唱えられているのになんだか違和感を覚えていた。
祭文の役目は「勧請」だ。この場にいる怪異をまるで神様のように恭しく丁重に扱い、もてなし、いい気分にさせてからお出ましを願う。このお供えものをあなたに捧げますからこちらの要求を聞いてくれませんか、とお願いするわけだ。取引先の重役に絶対するのと変わらない。お供えものも本質はお土産であり贈り物である。
流暢かつ低く艶やかな声音で祭文が二度、三度繰り返されるうち、やがて少しずつ室内の空気が重たく湿っぽいものに変化してきた。風もなく窓も締め切っているのに祭壇に立てた蝋燭の火が揺れ、榊がざわざわと音を立てる。冷房など点けていないのに室温がガクッと下がり、昼間にも関わらずやけに部屋全体が薄暗く感じた。いよいよ「お出まし」だ。
オーン、オオーンと狼の遠吠えが聞こえる。それも一頭、二頭ではきかない数だ。合唱のように咆哮がいくつもいくつも重なり、視界にはまだ何も映らず建物のあちこちから鳴き声が増えていくばかりだ。遠吠えだけではない。柴犬、レトリバー、チワワ、ポメラニアン、コーギー……全ての犬の鳴き声を知っているわけではないが、大型犬から小型犬まで様々な犬の吠え声が響き続ける。
そのどれもが苦痛や苦悶を訴えるものだ。餌や水を貰えず飢えて死にゆく犬の悲痛な叫び、殴られ蹴られて痛みに呻く犬の唸り声、この場に残る死んでいった犬の記憶が音という形で再生されている。祭文を読み上げる声は止めないまでも、藤も不安そうに周囲を見渡していた。昨日の時点で見たという犬の怪異がまだ現れていないからだ。
ガラリ、とオフィスの引き戸が開く。水干や狩衣と誂えと似た純白の衣装をまとい、麻の葉をあしらった冠を頭に飾り、料紙で顔を隠した紫苑が祭壇の前に腰を下ろす。その瞬間だった。ピタリと水を打ったように建物のあちこちで聞こえていた声がやむ。何かを恐れるように、あるいは何かを迎え入れるかのように。絶え間なく続いていた祭文が、止まった。
「……藤、『あれ』はちゃんと持ってきてる?」
「ああ。でも、これで本当に上手くいくのか……?」
「それは分からない。俺達次第、ってとこかな」
怜悧な美貌に冷や汗を浮かべ、藤は口端を上げる。明らかに作り笑いとわかる引き攣った笑顔だった。手筈通り二人は祭壇から距離を取る。視線の先、さっきまで藤が座っていたところに坐す青年は、着物の懐から何かを取り出す。
手のひらにおさまるサイズのちいさな小瓶には、どす黒い粘性のある液体が詰まっている。それが動物の生き血であると遅れて気づく。固唾を飲んで見守る彼らの前で紫苑は小瓶の蓋を開け、中のものを空の杯へと注ぐ。あまいような酸っぱいような、鉄錆くさい匂いが微かに香って、思わず竜胆は眉を顰めた。
お、おお、お……おおおん
おおおお、お、お……おーーーーん
あの「声」が再び、はじまった。怒りだ、とすぐにわかった。煮え滾るような憤怒、憎悪、怨嗟、ヒトへの敵意が場を支配している。繰り返される遠吠えの音色は次第に濁り始め、怒号が空気をも震わせる。何に対して怒っているのか。それは祭壇に置かれた杯を並々と満たすあれのせいだ。
あんなものをどこで彼は手に入れたのか。犬だけではない、猫、鳥、豚、牛、他にも様々な動物の血液を混ぜてある。それ自体が無惨に殺された生き物の無念を凝縮させた呪物だ。あんなものをお供えものとして捧げられては怒るのも当然だろう。いくら祟りの本体を顕現させるためとはいえ、なんてものを紫苑は用意したのか。
ぴちゃ……びちゃ、べちゃり……
ぺた ぺた
かり、かりかり……
血に濡れた足音が、かさついた肉球が床を擦る音が、爪がケージを引っ掻く音が、あらゆる「音」が室内に流れ込む。怪異そのものの姿は未だ捉えられないのに、いくつもの音だけが溢れかえっていた。ふいに日差しが湧き出た雲によって遮られ、部屋全体が薄暗くなる。それを待っていたかのように、ついに「あれ」が現れた。
「なんだあれ……本当に、あんなものを倒せるのか……?」
「それをやるのが仕事だ。ていうかやらないと、この場の全員が死ぬ。間違いなく」
巨大な犬が屹立していた。小ぶりな熊と変わらないほどの巨躯に、ざわりと波打つ体毛は艶のない黒、真紅の燐光を放つ双眸からはパタパタと真っ赤な血が滴って床に落ち、唾液でぬめったように光る牙が口元から覗く。毛を逆立てながらぐるぐると腹の底に響く低音で哭く、犬のようにも狼のようにも見える「それ」がまっすぐに彼を見つめた。
あ、と小さく声を上げた竜胆が駆けつけるよりも早く魔狼が動く。祭壇の前で僅かにも身動ぎすることなく座っていた青年の喉元に噛みついた。ぱしゃりと鮮紅の血しぶきが白装束を汚し、返り血が魔狼の毛に付着する。スローモーションのごとく映る信じがたい光景に、我知らず竜胆の口から絶叫が迸った。
「あ、あ……ああ、あ、どうして、クソッ!」
「落ち着け! やるなら……今しかない」
「ふざけるなよ、こんな状況で俺に一体何ができるって!? アア!?」
「だから冷静になれって! 言ってたろ、彼は死なない。あの人は……死ねないんだって」
魔狼に首元を噛みちぎられそうになりながらも、青年が自身を今にも食い殺そうとする怪異を指し示す。自分ごと狙え、と合図するかのように。もう幾許の猶予もない。彼が死ぬか、それとも藤か竜胆が祓うかの二つに一つだ。このままではどちらも死ぬ。
竜胆が肩に背負ったままの楽器ケースを床めがけて叩きつけた途端、はずみでロックが外れて蓋が開く。緩衝材と共にしまいこまれていた「それ」は、全長一メートルにも満たない両刃の直剣だ。刃こぼれもなく陽光を弾いてきらめく刀身は美しいが、一般的な日本刀と違い鍔や柄巻はない。代わりに布を巻いて少しでも握りやすくしてあった。
はがね色の刀剣を手に、獲物に食らいついたままで警戒心が散漫な魔狼へと一気に間合いを詰める。頭から腹までを自身の血で赤く染めた紫苑が、この上なく嬉しそうに口元だけで笑ったのが、彼の目に入った。けれど踏み込みは止めない。魔狼がこちらへ反撃するより前に剣先を振り下ろした。
ギャオォ、と凄まじい悲鳴が鼓膜を劈く。誤たず剣は狼の首を切り裂き、赤黒い液体が竜胆の顔面から腹までを汚す。腐肉のように生臭い血を撒き散らしながら魔狼は激痛のあまり吠えたて、口から紫苑を離してその場で暴れ狂い始めた。慌てて投げ飛ばされた青年をキャッチし、安全圏へ退避しようとするものの先に魔狼が動く方が早かった。
首元を深く斬られ、生あたたかい血液を大量に垂らしながらも殺意は衰える兆しを見せない。ガウ、グオゥ、と吼え、こちらへまっすぐ突進してくるそれを躱すだけの余裕はない。受けるしかないか、と彼が逃げ出したくなるのを堪えて踏みとどまったそのとき、真横で紫苑が身じろぐ気配があった。
あれだけの傷を負わされて動けるはずがない、と思い込んでいた竜胆の初動が僅かに遅れた隙を逃さず、青年が上体をふらつかせながらも立ち上がる。覚束ない足取りで自分たちを狙う魔狼の元へと近づていき、そして、
「約束しただろう。お前を必ず『還す』と」
今まさに自身の肩口へ牙を突き立てている「それ」を無事な方の腕で抱え込んだ。魔狼の攻撃が止んだのを見計らい、藤は玲瓏たる響きの声で、ある詩を謡う。竜胆にも聞き覚えのあるそれは悪夢避けの祭文だ。見し夢を、から始まるその文句は悪夢を食わせ、忘却するためのもの。
藤は繰り返し、何度も唱える。忘れてしまえ、これは悪い夢だからと。悪夢など覚えていなくてもいいのだと。子守歌のように優しく、鎮魂歌のように静かに歌は紡がれ続ける。少しずつ魔狼の四肢から力が抜けていき、やがて完全に大人しくなる。
「……ごめんね。ゆっくりお眠り」
いつの間にか魔狼は姿を消していた。まともに立っていられず、ついに気絶し横たわった青年に懐くのはふわふわした真っ白な毛並みの和犬だ。未だその首からは血が噴き出し続けており、あれと同一存在であるとすぐにわかった。くぅんと嗄れた声で鳴きながら、まるで毛繕いでもしているかのように、瞼を閉ざしたままの彼の顔を舐めている。
かひゅう、ぜひゅうという聞くに耐えない今にも止まってしまいそうな呼吸音が耳朶を打った。大して激しい運動をしてもいないのに心臓がうるさく騒ぎ、手足の末端が急激に冷えきっていく。おそるおそる倒れたままの彼へと近寄り、竜胆は息を呑む。あまりにも出血が多すぎる、さっきまで動けていたのが不思議なくらいに。
「ど、どうしよ、藤、ほんとに紫苑さん助かるかな、俺どうしたらいい!?」
「これは……どうしようもないね……」
「は、はあ? お前、なんでそんな冷静でいられんだよ、し、死ぬかも、しれないのにっ」
「言ったろ、死なないよ。紫苑さんが死ぬ訳がない。これしきのことで」
「でも、……でも!」
「いいから。いいから、黙って見てろ」
浄衣が汚れるのも構わず血溜まりに膝をつき、藤がそっと青年を抱える。再び彼が口にしたのは勧請の祭文だ。二度、三度と同じ言葉を繰り返すうちに和犬がぽすり、と青年の胸の上に覆いかぶさった。一体こいつは何をするつもりなのか、と竜胆が見守る中、犬はきゅうん、くーんと鳴きつつその姿を透明にかすませていく。それだけではなかった。
なんと見る間に傷が塞がっていくではないか。部屋中に飛び散っていた血液が吸引器か何かに引き寄せられていくように、青年の傷口へと集まっていく。映像を逆再生したように、みるみるうちに食いつかれていた肩と首が治癒されていき、そのうち死人のごとく青白かった肌も血色を取り戻し始めた。
「う……あ、あれ、二人とも、どうしたの。泣きそうな顔して」
「馬鹿! ほんとに、もう、この馬鹿野郎……っ、二度とこんなこと絶対、絶対すんな馬鹿……っ」
「あはは、バカバカ言いすぎじゃん……あの犬は?」
「還りましたよ。あなたを癒して」
「……はあ、そっか……それ聞いて安心した。二人ともお疲れ様。悪い、ちょっと、休む……あとは、ごめん任せた……」
今度こそ穏やかな顔つきで瞼を下ろし、そのまま意識を落とした紫苑をよいしょと背負った竜胆は、藤にことわって先に車へと戻ることにした。撤収作業は彼に任せ、今回の立役者を休ませるのが先決だと判断する。完全に正体をなくし静かに寝息を立て、あどけない寝顔を晒している青年は、こうしてみると竜胆や藤とほとんど歳が変わらないようにみえた。
ずいぶん長い時間をあの廃屋で過ごしたように感じていたのに、スマートフォンのロック画面に映し出された時刻は作戦決行から一時間ほどしか経っていなかった。
カラフルに色づきはじめた枝葉を透かして射し込む日の光はあたたかく、吹き渡る風は涼しい。季節の移ろいとも無縁な青年は、これからも同じ春夏秋冬を幾度となく繰り返すのだろう。身の回りの人間がみんな消えたもしても変わらずに。
「なあ紫苑さん、あんたは何が目的で俺を助手なんかにしたんだ……?」
竜胆には未だ、どうしても思い出せない記憶がある。どれほど脳内を浚っても、決して見つけ出せない大切な思い出が。ほとんど形を成さない記憶達は言う、思い出せと。それは忘れてはいけないものだと。きっとどこかで彼を知っているはずなのに。
『おろかなこ。とっくにきづいてるくせに。ほんとうに、あなたはみてみぬふりがおすきなのね』