ほむらの影〈後〉
「ダーッハッハッハ! なんだなんだ、お前また呪いもらってきたんか? 会う度毎回死にかけててウケる。よく無事だったなー! 普通なら即死してんぞ、悪運だけはマジで強いな」
「うるさいな。僕の献身のおかげで君ら術師が無駄な犠牲を払わずに済んでるってこと忘れんなよ」
「機嫌わっる。まあいいや、門真御殿は辺鄙な場所にあるから急がないと日没までに間に合わねえ。さっさと行くぞ」
紫苑、竜胆、桔梗の一行が空港に到着した頃には正午を過ぎていた。彼らの来訪を待っていたのか、ロビーで一人の男がコーヒーのテイクアウトカップ片手に佇んでいる。腰近くまである長いストレートヘアに、二メートル近い長身は遠くからでも目立つ。強面に刻まれた、額から顎先にかけて走る大きな刀傷が特徴的だった。
初秋とはいえまだ暑さの残る本州の南端だというのにも関わらず、全身黒で統一したスーツを着込んでいる。見るからに暑苦しい格好だが、紫苑も同じく常時暗色のスーツ姿であるし今は桔梗も厚手のカーディガンで火傷痕を隠している状況だ。季節感のある服装をしているのは竜胆しかいない。
三人を見つけるなりギャハハと大口を開け、腹を抱えて呵呵大笑する男は「杜若」と名乗った。チラチラとこちらにぶつけられる外野の視線に、彼が鬱陶しそうに眉を顰めるのを見て、竜胆は慌てて場所を変えようと提案する。
機内では着いたら食事でもしようか、などと話していたが、東京から遠く離れた九州でも雲行きが怪しいのを見て先に仕事を済ませることになった。現場まではレンタカーでの移動となるが、運転は紫苑担当だ。その間、部外者扱いの竜胆は気まずい気持ちのまま車内で過ごす羽目となった。
空港周辺は付近に市街地もあるものの全体的に寂れており、だだっ広い田園風景が広がるのみだ。何物にも遮られない空は高く広く、見渡す限り平野が続く。生まれ育った北東北の寒村は山間にあり、現在住んでいる東京もビルだらけなので、こんなにも平らな土地を目にするのは初めてのことだ。
見慣れない景色をぼんやり眺めていると自分と同じく後部座席に腰掛けていた杜若から、おい、と話しかけられる。酒に焼けた重低音からはカタギっぽくなさを感じさせた。霊媒師という職業がカタギかというと確かに怪しいのだが。
「お前、あの紫苑の弟子なんだってなぁ。はは、ウケる。あの人間嫌いな紫苑が人間のガキを手元に置くとか、一体どうやって取り入ったんだ?」
「弟子っていうか助手ですね、大したことはできないし、やらされてませんけど。むしろ俺の方がなんで雇われてるのか知りたいくらいで」
「なんで、って……そりゃあ『それ』のせいだろ。もしかして気づいてねえのか?」
「……まさか、紫苑さんは『あれ』が目的で、俺を」
さっと顔を青ざめさせた竜胆が杜若を問い詰めようとしたその時。レンタカーが停車し、運転席の紫苑がくるりと何事もなかったような顔でこちらを向く。いつも通りなんの感情も読み取れない瞳には、怒りも何も浮かんでいない。後部座席での会話など、まるで耳にしていなかったかのような様子に、竜胆は余計に気まずくなった。
「……着いたぞ。一応、傘持ってった方がいいかもな。風が出てきた」
厚い雲が重たく垂れ篭める鉛色の空は、今にも泣き出しそうほど薄暗い。湿気を帯びた風が前髪をそよがせる。肌寒さを覚える風の冷たさに、三人のように厚着してくるべきだったかもしれないと今更ながら竜胆は軽く後悔した。半袖から伸びる両腕を軽くさすっていると、紫苑が羽織っていたスーツのジャケットを脱ぎ、投げて寄越す。
「それ着てな。寒そうで見てられない」
「ありがとうございます……でも紫苑さんが寒いんじゃ」
「そん時はそこで無駄に着込んでる兄弟子から追い剥ぎするからいい。それより急ごう、グダグダしてるとこいつが死ぬ」
出発前のハイテンションさが嘘のように、既にぐったりしている桔梗は空港を出てからほとんど口を開いていない。もはや喋るのも辛いのだろう。とはいえ当事者である以上、車中に放置する訳にもいかず紫苑がおぶって連れていくことになった。見た目は細身でウェイトも軽いのに、よくも成人男性を軽々と背負えるものだと竜胆は驚嘆する。
民家が疎らに点在する田園地帯の真ん中にこんもりと木々の生い茂る小高い丘があり、問題の門真御殿はその頂上にあるという。標高はさほどでなく、登山家でなくても余裕で登りきれそうなものだが、私有地なので当然ながら歩道が整備されてなどいない。獣道というほかない道ならぬ道を四人は無言で歩く。
ただでさえ曇りで視界が良好とはいえないのに、ろくに管理されておらず手付かずの森がすっかり空を隠しているため、日の差さない道は先頭を行く紫苑がスマートフォンのバックライトで照らさなければならないほどだ。のたうつような木の根が行く手を邪魔し、足元に気をつけていても転びそうになってしまう。
「ずいぶん歩きにくいですね……これ、再建したっていう子孫の人らも屋敷にほとんど来てないんでしょうか」
「かもねえ。ま、曰く付きの家だし住んでもないんだから放置してんでしょ。なら、なんのために再建したのか、って話だけど」
「おい竜胆つったか。お前、家ってなんで建てると思う?」
「なんでって……そりゃあそれ住むためでしょう。違うんですか?」
「じゃあ神社は? 寺は? なぜそこに『在る』と思う」
「なぜって聞かれても……あ、神様とか仏様がそこに『居る』から?」
「ほお、予想よりは勘がいいな。じゃあ本題だ。あの家には何がいる?」
三白眼を歪め、不敵に笑う杜若がごつごつと骨ばった指先を向けた先に、巨大な邸宅が鎮座していた。お寺の山門によく似た造りの門が音もなくひとりでに開き、その奥に西洋建築と伝統的な日本家屋を足したようなお屋敷が垣間見える。かつては立派な庭園もあったのだろうが、経年により自然に呑まれ、今は雑木林のなり損ないと化していた。
元の建物は明治時代に建てられたというから、当時の建築様式をそのまま再現したのだろう。再建間もない頃は瀟洒と呼ぶにふさわしい威容を誇っていただろうに、今となっては見る影もなく朽ち果てている。風に飛ばされたか穴あきの瓦屋根に無数の罅が入った壁、窓ガラスは全て割れて破片が散らばり、腐食の進んだ柱は今にも折れそうだ。
怪異がどうのというより単純に崩落による命の危険がある、と判断し四人は折り畳み式のヘルメットを被っておそるおそる内部へ侵入を果たす。当然のごとく鍵はかかっていなかったし、それ以前に玄関扉は外れかかっていて役目を果たしていなかった。過去に門真御殿へ忍び込んだ者達が作成した見取り図がネット上にアップされていたので、それを頼りに一行は例の「開かずの間」を目指して進む。
とはいえ、この手の案件は全ての部屋を順繰りに確認しないと本命に辿り着けないと相場が決まっている。いわばホラー映画のお約束みたいなものだ。全員が健康体なら手分けしてチェックしていく手もあったが、死にかけの半病人がいる状況では得策とはいえない。四人は大人しく入ってすぐの客間から順番に見ていくことにした。
客間、あるいは応接間と呼ぶのだろう部屋は庭園に面しており、本来はガラス張りだったのだろうが現在は吹きっさらしの状態だった。革が剥がれて内部の綿や骨組みが丸見えのソファ、薄汚れたアンティーク調のテーブル、原型を留めていない絨毯など、ここだけ洋風のデザインとなっている。
「……思ってたより普通ってか、あんまり怖くないですね。もっとこう、ホラゲーの探索パートみたいな感じでバケモンがわらわら寄ってくるみたいな状況を想像してたんですけど」
「あー、まあそういうパターンもあるっちゃあるけど。ここは屋敷に巣食う怪異が一帯を支配してるから、雑魚が住み着ける環境じゃないんだよ。人間には感じ取れないレベルで薄い瘴気が常に漂ってる。雑鬼みたいな弱い化生じゃ即死するな」
「なんでそれを紫苑さんは感知してるっぽいんですかね……あんたなんなの……」
「さあ? なんでだろうねえ。それより後ろのこいつがくたばる前にサクサク行こう。巻きでいかないとまずいな」
「……しょうがねえな、桔梗貸せ。そいつ祓う」
忌々しげに舌打ちした杜若が、紫苑の背中で荒い息をついている桔梗を無理やり引き剥がす。ずるりと抵抗もできず男の手に摘みあげられた青年は、血の気の引いた顔に脂汗を滴らせていた。長い前髪の隙間から覗く目は虚ろで、もはや意識がはっきりあるかどうかも疑わしい。
埃っぽい板張りの床の上へと座り込み、ぼんやり虚空を見上げる桔梗に対し、杜若はスーツの内ポケットから何やら小瓶を取り出した。よく見ればそれはウイスキーなどを持ち歩くのに使うスキットルである。洋画では時々目にするが、まさか普通の人間が携帯しているところなど初めて見た。二人が見守る中、杜若はキャップを開けるとスキットルの中身をドバドバと桔梗めがけて振り注ぐ。
「え! ちょ、相手は怪我人ですよ! 何してるんですか!?」
「……呆れた。おい紫苑、テメェこいつに何も説明してやがらねえのか」
「あれ、教えてなかったっけ? ごめんごめん。あのねえ、杜若がやったのは超簡単な浄化だよ。呪いによる穢れが桔梗の心身を蝕んでるから、お酒で一時的に浄めたの。っていっても対象療法だから、時間経過でまたすぐ具合悪くなっちゃうんだけど」
「おい桔梗、気分はどうだ」
「う……、少しマシになった……いてて、まだちょっとふらつくなあ。ごめんね紫苑くん、おんぶさせちゃって」
よたよたと足取りは覚束ないが、自分の足で立って歩く桔梗の顔色には少し赤みも戻ってきている。まさか酒をぶっかけられただけで改善するとは、と非難するのも忘れて目を瞠った。琥珀色の透明な雫が髪の上を滑り落ち、ぱたぱたと床に垂れている。その残滓だけでも室内に溜まっていた厭な気配が薄れるのだから、杜若の持つ浄化の力がどれほど強いかが分かる。
「桔梗さん、ほんとに大丈夫なんですか」
「あはは、さっきよりはね。だいぶラクにはなったけど時間がないのには変わりないし、次の部屋に行こうか」
「……はい。足元、気ィつけてください」
ある程度回復したとはいえ決して本調子ではない桔梗の介添え役として彼の隣を歩き、客間を後にする。次に一行が訪れたのは夥しい数の子供部屋だった。子供部屋とすぐ分かったのは、どの居室にも男女どちらかの玩具や衣服が置きっぱなしにされていたからだ。それが玄関から真っ直ぐ伸びる廊下の左右にズラリと並んでいるのである。異常だった。
当たり前だが各部屋とも使用された形跡はない。しかし後述する厨房や風呂場に厠、あるいは家主が使う私室や執務室と比べても劣化が穏やかだった。黴や埃の酷さは相変わらずだが、壁や床の腐食はさほどではなく、放置された鞠や積み木などの玩具もまだ使えそうなくらいだ。部屋数は十一。右に五、左に五、そして廊下の突き当たりに十一番目の部屋がある。
「……四十四人。十一で割れば一部屋につき四人、寝起きできる計算になる。押し入れにも布団は四組ずつあった。玩具の数、衣紋掛けにあった羽織や浴衣も全て四組。例外はない。玩具の種類も、衣服のデザインも揃えたように……」
「ずいぶん徹底してるな。几帳面な性格だったのか。四十四人に差が出ないよう、全員の待遇が平等になるよう、よっぽど注意してたんだろう」
「大事な大事な捧げ物だもんね。いびつであるより、粒が揃っていた方が見映えもいい。ワケあり品はいらない、全てが正規品である必要があった。だから分け隔てなく扱った……ってとこかな」
「……あの、あんたら一体、なんの話してんですか? よくわかんないんですけど」
三人がそれぞれ口にする言葉がなんのことやら理解できず首を傾げる彼に対し、おやと紫苑が目を瞬かせた。まるで竜胆がなぜ理解できないのか、それこそ理解に苦しむと言いたげに。
「かつて君は『当事者』だったんだから分かるはずでしょ。これは──贄の住処だよ、正しくは檻と言うべきか。まあ鉄格子や鍵はないけどね」
贄。
生贄、人身御供、人柱、捧げ物、生き餌、神の嫁、言い方はなんだっていい。結果として死ぬことが求められるという点は何一つ変わらないのだから。そして竜胆はかつて「それ」だった。くだらない、前時代的な、悪しき風習と呼ぶほかない儀式とやらのせいで幼き彼は命を落としかけた。助かったのは神とやらが気まぐれに与えた偶然でしかない。
水もなく、食事もなく、光の差さない暗い部屋に閉じ込められ、ただ死ぬ時を待つしかなかった。飢え、渇き、暗闇に何度となく気を違えそうになり、それでも辛くも生き延びた。あの地獄のような七日間を竜胆は決して忘れはしない。忘れることなどできない。それは、おぞましく苦しみと恐怖に満ち満ちた時間として精神と肉体に刻まれている。
「……まさか、この家は、ここに囚われてた子供達は、じゃあ火事で死んだ四十四人って」
「やっと気づいたのか、つくづく鈍いやつだな。そうだよ、死んだのは大人じゃない──この家で生活してたガキどもだ。不自然に感じなかったか? どうして火災で全焼したというのに、子孫が生き残ったとされているのか。死んでねえからだよ、門真家の人間は誰一人として」
「でも……でも、当主含む四十四人が、死んだって」
「当主が『大人』だってどこに書いてあった?」
「えっ。それなら、もしかして死んだのは」
「そう。死んだ子供らの中には幼くして当主の座を継いだ者もいた、ってことさ」
杜若は説明しながら折り畳まれたコピー用紙を広げて三人に見せた。それはある古い名簿をカメラで撮影しモノクロ印刷したものだ。名簿のタイトルは旧字体が使われているので簡単に要約すれば「門真家使用人一覧」となっている。
コピー用紙は二枚綴りになっており、ホチキスで留められたもう一枚は犠牲者一覧となっていた。こちらは一枚目の名簿にプラスして、更に数人の名前とおおよその享年が記載されている。おおよそ、とつくのは犠牲者の年齢が幼すぎるのと遺体の損壊が激しく、断定できなかったからなのだろう。
「全員、最長でも七歳を迎える前に死んでる……ひでえ、生まれたばかりの赤子まで……そうか、七歳を過ぎたらダメなんだ。贄の資格を失うから」
「そういうこった。ガキじゃなきゃダメだ、大人じゃ神さんは喜ばねえ。と当時の馬鹿どもは考えたんだろうな。まあ間違っちゃいねえ。なんせ『座敷童子』ってなァ、ガキの成れの果ての怪異だかんな」
「座敷童子……って、あの? 家に幸運をもたらすとかっていう」
「若いのによく知ってんねえ。まあ最近のアニメとか漫画にもちょくちょく登場するからかな、じゃあこれは知ってる? なんで座敷童子という化け物が生まれたのか」
「さすがにそこまでは……でも子供の姿のおばけって多いし……ていうか、化け物じゃなくて福の神なんじゃないんですか?」
竜胆の知る座敷童子といえば、赤いちゃんちゃんこに着物姿の、童女のなりをした神様である。妖怪モノのアニメや漫画、ゲームでもおなじみの存在だ。岩手には座敷童子が出る旅館もあるという。商家などにご利益があり、座敷童子の出た家は繁栄するとかなんとかという解説を見た覚えがあった。
「門真家も商家だろう? なんせ炭鉱を経営してたんだから。当時の日本は遅れてやってきた産業革命真っ只中だ、さぞ儲かったろうなァ……それも石炭が採掘できるまでの間だが」
「でも次第に石炭は枯れ、鉱山は閉じざるを得なくなった。さて、ここで問題だ。見てわかる通り、これほど立派な家を建てるほど栄華を極めた門真家がそんな簡単に──炭鉱経営なんて儲かる仕事を捨てて、新しい事業をスタートできるか?」
「それは……やっぱり無理だったんじゃないですか。養蚕とか他にも仕事はあっただろうけど」
「ぴんぽーん、大正解! 竜胆くんの言う通り、門真家は忘れらんなかったのさ。あの頃は珍しい自動車が買えて、牛鍋が毎日食えて、社交界では連日連夜ドレス着て踊って、なんつう享楽の日々が。額に汗して働く日々に逆戻りなんて絶対に嫌だったんだよ彼らは」
今にも笑い出したくてたまらない、と言うかのように口角を吊り上げ、紫苑は皮肉と嘲りを込めて言い放つ。いや笑っていた。ケタケタと、けらけらと、悪意をたっぷり込めた哄笑を高らかに響かせている。いつの間にか、母屋にある全ての部屋を見回り終えていたことを今更になってようやく竜胆は思い出していた。
「……紫苑、さん?」
「本ッ当にさあ、馬鹿だよねえ! できると思ったの、そんな稚拙な方法で! 福の神が! 人工的に神様を創る、なんつう所業をマジで考えやがったんだよこの愚か者達は! マヌケだとは思わない? だって無理に決まってんだろそんなの、ましてや生きた人間を間引いてなんてさ!」
「本題に戻ろっか。座敷童子の生まれた理由って知ってる? 東北は吹き降ろすやませによって冷害が酷くってねえ、しかも当時は今ほど農業技術も発達してない時代だ。飢饉によって大勢の人間が死んだよ。何十何百って数じゃきかない、もっとたくさん。もっと多くの人間が。その多くは子供や年寄だった。働けない、あるいは働けなくなった人間を間引いたのさ。自ら腹を痛めて産んだのに、息の根を止めなきゃいけなかった親の気持ちってのはどんなだろうねえ。僕にはちっとも理解できないけど──座敷童子は、そんな間引かれた子供らの成れの果て、なんだよ」
「もうわかったろ、座敷童子《福の神》を創ろうとしたんだよ。子供を間引いて、人為的に──炭鉱が枯渇し経営に行き詰まり、にっちもさっちもいかなくなって。座敷童子とかいう神様がうちに来てくれれば、また石炭が採れるようになる、とか考えたんだろうよ。……なあ本当に火事で死んだ四十四人だけだと思うか? 犠牲者の総数が。そんな訳ねえだろ。もっと死んでんだよ、この家じゃあな!」
想像する。幻視してみる。「儀式」のための部屋に小さな小さな子供達の亡骸がうずたかく積もり、室内が子供達の血で真っ赤に汚れるその様子を。大人どもはこれも門真の繁栄のためだと、恨むなら我らではなく天命を恨めと言い聞かせながら、血脂に染まる刃を振り下ろす。悲鳴、絶叫、怒号──それらが折り重なる惨劇の夜を。
あの部屋は確かに檻だった。鍵もかかっていない、鉄格子が嵌め込まれている訳でもない、けれど子供らはどこへも行けぬよう常に監視されていた。相互に監視できるよう、しかし相談などさせぬよう廊下を挟んで向かい合わせに。わざわざ大人達の居住区と分けなかったのも、環境が決して劣悪ではなかったのも、全ては逃がさぬために。
「……来たな、本命が」
この上なく楽しげに笑みを湛え、紫苑が指し示すその先に。廊下の突き当たり、十一番目の子供部屋から「それ」はのそりと這い出てくる。べちゃ、べちゃと半透明に濁った羊水を垂らし、へその緒を引きずりながら。手のひらが床を這う度、赤い血が廊下にドス黒い痕を残す。おぎゃあ、と幾重にも襲ねた鳴き声が、いや泣き声がけたたましく鳴り響き、邸内全体を揺らした。
「なんだ……なんだよあれ!」
「決まってんだろ、座敷童子だよ。ただし福の神ではなく──俺達を憎み、焼き殺すただの怪物だけどな!」
おぎゃあ、おぎゃあ、というおぞましい咆哮が鼓膜を引っかく。天井を突き破らんばかりの巨躯を誇る、体液にまみれた赤子が凄まじい速さで突進してくる。慌てて四人は左右の部屋へ逃げて避けるが、巨大な身体に不似合いな俊敏さで赤子は急制動をかけ、一番動きの遅い桔梗へ狙いを定めた。
顔面いっぱいに焦燥を浮かべ、彼は慌てて逃げようとするが、血に濡れた手のひらがむんずと青年を掴んで持ち上げる。ぎゅう、と加減を知らない赤子の力が桔梗を今にも握り潰ぶそうとする。たまらず彼が痛みのあまり金切り声を上げた途端、気に障ったのか赤子が火のついたように泣き始めた。
「どうする!? このままじゃ死ぬぞあいつ!」
「クソッ、こうデケェと生半可な攻撃じゃ通らねえし、どうにか気を逸らして桔梗を手放すよう仕向けるしか……」
「ガキのあやし方なんか知るもんか! 何年独り身だと思ってんの!?」
「そりゃこっちの台詞だバカ! 俺だって恋人なんか居たことねえよ!」
「あんたらなんの言い争いしてんの!? この非常時に! いい加減にしろ、いい大人だろうが!」
ぎゃあああ、と赤ん坊の泣き声と桔梗の絶叫と二人の口喧嘩が廊下全体に響き渡り、凄まじい音量が竜胆を襲った。攻撃はそれだけに終わらない。赤子が泣き出したのと同時、屋敷のあちこちに火がつき始めたのだ。これが本物の炎か、それとも怪異による異能かは不明だが、どちらにせよ火に巻かれれば助からないのは確実だ。
真っ赤な炎は建物だけに留まらない。赤子本体にも着火し、脂肪と肉の焼ける匂いが辺りに充満する。あっという間に水脹れ、ケロイドと化し、黒く炭化していく皮膚に合わせて赤子の咆哮もより凄まじさを増していく。これが単なる自滅行為ではなく、この家で焼死した子供らの死に様を「再現」しているのは明白だった。
燃え盛る炎に取り囲まれる赤子の手の中で、圧死に加えて焼死の可能性まで出てきた桔梗がじたばた暴れているが、次第に手足の動きが弱まっていく。もう時間がない、一秒だって無駄にできない。ここで動かなければ、桔梗は死ぬ。
火の勢いが強すぎて近づけない大人達を尻目に、竜胆は意を決して一歩、また一歩と赤子の元へ向かう。
「……っ、竜胆くん!? ダメだ、危ない、戻ってこい! 君には無理……ッ」
「おいガキ! そっちに行くな、死にてえのか!」
「うるさい。ふざけんなよ、死にたくねえに決まってるだろ。でも──死ぬんだよ! このままじゃ、俺も、あんたらも、あの人も!」
真紅を通り越して青く輝く炎に舐められ、ごうごうと床も屋根も壁も黒ずみ焼け落ちていく中で、ぎゃあぎゃあと赤子は目尻から大粒の涙を零して短い両手を振り乱していた。あつい、いたい、くるしい、しにたくない、そんな殺されていた子供達の今際の叫びが聞こえてくるようだった。
ついに桔梗を握り続けることも難しくなったのか、火に溶けて癒着した手のひらから青年の身体がするりと抜け落ちる。慌ててキャッチするが、かろうじて服に引火して燃えることはなかったものの、熱気によるダメージが深刻なのか意識がない。何度か横っ面に張り手を食らわせると、痛みによってか彼はゆっくりと目を開けた。
「桔梗さん! 桔梗さんッ!? おい、聞こえるか! 死ぬんじゃねえ、まだ助かる、だから目え覚ませ!」
「ゔ……うっ、あ、あれ……りんどー、くん……?」
「よかった……息はある、誰か! 誰でもいい、桔梗さん連れてここから脱出しないと!」
「ハア!? 竜胆くんはどうするつもり!?」
「俺は……この子を泣き止ませないと」
「……やれやれ。しょうがねえな、おい紫苑、お前がついててやれ。俺はこいつと先に外で待ってる。だから必ず竜胆連れて戻ってこい。いいか、絶対だぞ」
脱力した桔梗を荷物でも持ち歩くかのようにヒョイと肩に担ぎ、離脱する杜若は行きがけに何かを投げて寄越した。思わずキャッチした紫苑は、受け取ったのがいつも自分が愛用している煙草なのを見てとり、にやりと笑う。
幸い火には事欠かないので、封を開けて中から一本取り出しと火をつけ、ふうっと煙を肺に送る。青白い白炎が建物全体を燃やし尽くそうとする中、白檀の濃い香りがふわりと辺りに広がった。
「……ずいぶん余裕っすね。まあ紫苑さんらしいか」
「まーね。この程度じゃ俺は殺せないし。それより竜胆くんは平気? だいぶ煙とか吸っちゃったんじゃない?」
「それが不思議なことに、なんか分からんけど平気みたいで。座敷童子のご利益かな」
「ハッ、言うねえ。それでこそウチの従業員だ」
まるで恐ろしいものを本能的に避けているかのように、炎は二人に近寄らない。着衣も髪も全て、火が炙ることはない。ごうごうと建物が軋み、焼き尽くされていく音が不気味に轟く中、竜胆はすうっと深呼吸する。火災時には決してやってはいけないことのはずだが、ほとんど空気中の酸素が残ってないにも関わらず青年が酸欠を起こすことはない。
息を吸って、吐いて、再び吸い込み、深呼吸を三度繰り返し──青年は静かに子守唄を口ずさみ始める。なんてことのない寝かしつけによく使われる、子守唄としてはありふれた。なぜなら竜胆には、母親に寝かしつけてもらった記憶など、もうどこにも残っていないから。知らないものは歌えない、けれど聞きかじったものを思い出しながら懸命に歌い続ける。
ねんねんころりよおころりよ、から始まる微かな歌声が轟音に混じる。あやふやな歌詞を脳内で補完し、うろ覚えのメロディーを必死に辿りながらも、彼は喉を嗄らして歌う。喘鳴をこぼし、口の端から血が垂れても。
やがて泣き声が止まった。同時に炎も。
「ごほっ、げほ……お、終わっ……た……?」
「お疲れ様。よくやった。さすが俺が見込んだだけのことはあるね、竜胆くん」
「あれ、紫苑さん……なんで、逃げなかったの」
「そりゃ君を置いてトンズラこく訳ないでしょ。ほら行くよ、あと一つだけ行かなきゃいけないところが、まだ残ってる」
◆◆◆
仏間──「開かずの間」は地下にあった。なぜならこの屋敷で起きた惨劇の舞台こそが地下室であり、再建された際に仏間として改築されたからだ。記録によれば、生き残った子孫のうちの一人が地下室を仏間とすることを提案したという。
異形の赤子が起こした地上階の火事による被害を免れたこの部屋だけは静謐に包まれている。スマートフォンのバックライトで照らすと、とても四十四ではきかない数の大量の位牌が、いくつもの仏壇に飾られているのが視認できた。位牌に刻まれているのは戒名ではなく、おそらく死んだ子供らの本名と思しき名前だった。
窓のない、上階へ繋がる階段以外に出入口もない、仏間とするには不似合いな一室だ。なぜ再建に関わった者はあえてこの部屋を仏間にするよう言ったのか。ましてや、ここは「儀式」の中心だったとされているにも関わらず。
「腹を痛めて産んだ我が子がむざむざ殺されるのを許す母親なんてさ、いると思う?」
「……思いません。俺が仮に母親なら絶対に抵抗するだろうし、たとえそれが叶わなくても何かしらの形で復讐を企むと思う」
「君と同じだよ。『彼女』は決して許さなかった、我が子を取り上げられ、座敷童子の材料にされることを。そのために呪詛を執り行った。門真の者全てに災いあれと、この部屋に立ち入った者全てに禍あれと──だから桔梗は呪われた」
二本目の煙草に火をつけ、紫苑は淡々と告げる。吐き出される紫煙が一瞬、暗い部屋に揺らめいて消えた。四方にそれぞれ仏壇は設置されているが、そのどれも位牌を乗せるのに精一杯でお供え物を置くスペースはない。それだけ多くの子供が儀式に「使われた」ことを示している。
子供は無から生まれてくるのではない。彼ら彼女らには必ず親がいる。門真家に生を受けた子も亡くなっているが、ほとんどは使用人や屋敷周辺に住む者達の子供が犠牲者の多くを占めていた。なんの罪もない幼い子が無為にその命を奪われたのだ。親が門真家で働きていたというだけで、あるいは門真家の近くに暮らしていたというだけで。
戒名すら与えられることもなく、縁起が悪いのにも関わらず一つの仏間に位牌も仏壇もまとめて寄せ集められ、まともに弔われることもなかった命の集合体があの赤子だとするなら。そんな子供達を守れなかった親の無念もまた、この部屋に吹き溜まっている。
「……桔梗はホラー作家だ。この地に起きた悲劇を作品という形で後世に伝え、書き残すことができる。だから見逃された、ただしリミットとして呪詛を与える形で。それはなぜか。桔梗の周りには、俺や杜若のような存在がいるからだ」
「術師を必要としていた、ってことですか」
「誰だってさ、こんなジメジメした暗い部屋で何年も何十年も過ごしたいって思う? 嫌でしょ? 解放されたいんだよ、無念も恨みも全ては魂を摩耗させ、やがて記憶と共に朽ち絶える。そんなのはさ、迎える必要のないエンディングじゃないか?」
煙草の煙をくゆらせながら、ある仏壇の前に紫苑は正座する。線香の代わりに咥えていた煙草を供え、お鈴を鳴らし、手を合わせる──それはごく普通の「挨拶」にほかならない。一つ目が終わると次に、更に三つ目、と全ての仏壇に順繰りに挨拶を済ませたその時だった。
いつの間にか仏間の隅で、一人の女がこちらを見つめている。高島田に結い上げた髪に白絹の婚礼装束、そして大きく前にせり出した腹が着物越しでも目立ってみえた。白粉をはたいた顔は美しく、気品ある花嫁といえる姿はとても人外のばけものには見えない。
「こんにちは。あなたは晴子さんですね、この家を再建すること、そして地下室を仏間とすることを決めた門真最後の当主は」
『……ええ、そう、わたしがきめたの。わたしのこども、だいじなこども……ころされちゃったのだもの、くるしい、つらい、かなしい……にくい。にくかった。みんなも、わたしも』
「だから、あなたは呪った。家に火をつけ、何もかも燃やした。村から集められた子供も、あなたが産んだのではない門真の子供も全て。薮入りで他の使用人が里帰りし、他の家族が出払った隙を見計らって」
『にくかった。にくかったの。あまたのこどもがころされてくのをみてみぬふりをして、あのこがしぬのをうけいれたわたしも。でも、しねなかった。わたしはいきのこってしまった。だから、せめてのろいをのこすことにした』
殺された怨念と恨みが、行くべきところに行けず留まるしかなかった子供の魂を異形の赤子に変え。そして憎悪を募らせた母の魂が呪いを残し、ばらまき続けている。母の呪いと子の呪いが混ざり合い、絡まりあって生まれたのが幽霊屋敷の「門真御殿」だ。
なぜ屋敷に火をつけたとき、邸内に囚われていた子供達をも巻き込んだのかを女は黙して語らない。仮に自死を図るだけなら、罪なき子供らまで死に至らしめる必要はなかったはずだ。仮に理不尽な犠牲を強いられる子供を悼んでの行いだったとしても、殺した事実は覆らない。
怨嗟の果てに家も子も灰燼に帰した挙句、死ねずに生き残った女は自ら焼き放った家を建て直し、呪いを残して今度こそ死んだ。病に倒れ、天命と共に。
「あんたのやったことは許されない。けれど、あんたはもう死者だ。死した者に罪は問えない。それができるのは、あの世の裁定者だけだからな。よって──お前は地獄に送る」
『……すきにするといい。だってもう、わたしはじゅうぶんのろって、のろって、たくさんのろったのだから』
生前の美しさそのままに、穏やかに笑う彼女は一見すると恐ろしい呪詛を仕掛けた怨霊には見えない。それでも確かにこの女は元凶なのだ。この土地に穢れをもたらし、長きに渡りこの家を訪ねる者全員に呪いを振りまき続けてきた。
般若のごとき女の前で、紫苑は平素と変わらぬ声で祭文を唱える。祝詞のような、真言のような、複雑な響きを持つ音色が室内に反響する。綺麗だ、と素直に感じられるのに、どこか恐ろしくも思えるのは紫苑の喉が奏でるその呪歌が魂を地の底へと突き落とす意味を持つからか。
謡い終わりと同時に、女のシルエットはだんだんと空気に溶けて消えていく。痕跡はなく、あとには何も残らない。つい、はじめからそこには誰もいなかったのだと錯覚してしまいそうになる。屋敷に入ってからずっと感じ続けていた、厭な気配がなくなったのに竜胆はやっと気づいた。
「……終わったんでしょうか」
「とりあえずはね。元凶は消えた。消えたっていうか文字通り地獄に叩き落としたんだけど。あとは地獄で罰を受けるだけだよ、俺らの仕事はもう終わり」
「えっでも確か上は大火事……消防とか呼ばないとまずくないですか?」
「さっきまではね。元凶が消えたから赤子も呪いから解放されて輪廻の輪に戻るし、火事は一種の幻覚みたいなものっていうか……呪いが発動してる間、異空間に俺達が取り込まれてただけだから、もう大丈夫」
紫苑の言葉通り、階段を上がると先程と同じ廃屋があった。火災の形跡などどこにもなく、ただ荒れ放題に荒れ果て、今にも倒れそうなほど朽ちた建物が静かに佇んでいる。建物の外に出た記憶はないが、気がつくと二人とも玄関扉の前で立ち尽くしていた。
とうとう堪えきれなくなったように、鈍色の曇天からポツポツと雨粒が降り出した。雨音はあっという間に激しくなり、天泣の雫が強くあばら家を打ちつける。燃えてなどいないのに、まるで炎をかき消そうとするかのような、いやに強い降り方だった。
「……帰ろっか。あーあ疲れたー! 帰りがけになんか美味いもん食べていこ、甘いもんとしょっぱいもん、どっちが好き?」
「ええと別にどっちでも……そういえば今日はどこに泊まるんですか?」
「……あ。やべっ、ホテル予約してないや、しくった。まあ杜若か桔梗がなんとかしてくれてると信じるしかないね! いやー普段は気ままに一人で車中泊だもんなあ」
「そんなことだろうと思った。ビジホの部屋とってて正解でしたよ……」
「お! さすが助手、頼りになるぅ! そうと決まれば荷物置いてさっそくメシ食いに行くとするか! 俺長崎ちゃんぽん食べたーい!」
喜び勇んでたったか走って下山する紫苑をよくもまあ転ばないものだ、と感心しつつ後に続き、一度だけ竜胆は背後を振り返る。降りしきる雨にかすむ幽霊屋敷は、二度目の死を待っていた。