ほむらの影〈前〉
「こんな朝早くからなんなの? 営業時間外に来るならアポ取れって口酸っぱく言ったよね俺」
「んもう、せっかく『親友』が訪ねてきてやったというのに無視なんて良くないよ紫苑くん」
「見ての通り店開ける準備してるんだけど。今何時だと思ってんの?」
「えー、もうすぐ朝の七時でしょ? まあいつもなら僕は今からが寝る時間なんだけどさ!」
「いい加減にしろ生活破綻者、普通は起きる時間なんだよバカタレ」
営業開始前の「純喫茶・キマイラ」を訪れたのは、明らかにまともな客ではなさそうな、得体のしれない人間だった。目元をすっかり覆う長い前髪にマスクで口元を隠しており、服装も黒で統一されている。背格好でかろうじて男と分かるが、どう贔屓目に見ても彼の容貌は不審者そのものだった。顔見知りなのか、紫苑は気安い態度で彼に接している。
今日は休日なので早朝からシフトに入ってオープン準備を手伝っていた竜胆は、通報することも一旦は考えたものの、とりあえず様子見しながら作業に戻った。男は店内に入るなりマスクを外し、馴れ馴れしい笑顔で何やら紫苑に話しかけている。どことなく男に見覚えがあるような気がして、竜胆は内心で首を傾げた。
「取材旅行でこの前南米に行ってきたんだよね、ということで今日のお土産はコレ! アステカの少数民族に伝わる呪いの仮面! ひとたび被ればアラ不思議、骨針が飛び出し装着者を不老不死の超人に変えるんだとか! ねえねえモノは試しというしちょっと被ってみてよ」
「嫌だよそんな得体のしれないもん……そもそも呪いの仮面なんか土産にするな。どうせなら酒買ってこい酒。十四代なら手を打ってやってもいい」
「えーやだよ、僕かわゆい見た目してるから酒屋行くと年確されるしさ、もう二十九だよ!? さすがにおかしくないっ? そんな幼いかな!? 高校生くらいのガキにしか見えないってこと!?」
「お前は見た目だけじゃなくて性根もガキそのものだろ。それよりこんな早朝に何の用?」
「まったまたー。隠さなくてもいいって! ネタは上がってんだよネタは。取ったんでしょ、弟子。ああ名目は助手だっけ、まあどっちでもいいけど。一体どういう心境の変化? 終活するにはまだちょっと早くない?」
「人を勝手に死にかけのジジイみたいに言うな。あとそれどこで聞いた? 誰にも話してないはずなんだけど」
「何言ってんのさ、杜若くんと君と三人で呑んだ時にそりゃもう自慢げに惚気けてくれちゃったじゃない。あっそうか君って酔うと記憶飛ぶタイプだったね! メンゴ!」
「えっうそ……この前の俺そんなこと話したの……もうお前らと絶対酒なんか飲まん」
舌打ちし、頭痛が痛いみたいな顔をしながら項垂れる紫苑は珍しく表情豊かだ。普段は悪霊や怪異相手に煽り散らかしたり意地悪く笑う様子ばかり見ているので、素の紫苑というものは案外と目にかかる機会は少ない。
未だ名前を教えてもらっていない彼とは長い付き合いなのだろう。まだ知り合って間もない竜胆は、紫苑の交友関係などほとんど知らない。
「話は変わるけどさ、最近なんかネタにしても良さそうなやつってある? いやーそろそろ新作書いてくれって依頼は来てるんだけどさあ、なんか良さげなアイデアが思いつかなくって。君ならネタに事欠かないんじゃないかと期待したんだけど、どう?」
「どうではないが。そりゃ毎日のように依頼は来るからね、そういう意味ではネタになりそうなものはいくつかあるけど……ていうか杜若の方がお前の作風に合うんじゃないの?」
「うーん彼の持ちネタは面白いんだけど毒気が強いというか。同人や個人的に発表する分にはいいんだけどね、僕的にも刺さる系統のものが多いし。一般ウケを狙うとなるとやっぱり君のところに集まるエピソードかなって、それで例の彼──竜胆くんだっけ? 彼にも話とか聞きたいなって思ってるんだけど」
ちら、と簾のような前髪の隙間から鋭い視線がこちらへ飛んできて思わず竜胆はびくりと肩を震わせた。蛇に睨まれた蛙のような青年の怯えた顔を見遣って、紫苑は男の頭に軽い手刀を見舞いつつたしなめる。
「勘弁してよ。あの子まだ一応未成年だしネタにするのはやめてやって。まあでもお前にねだられると思って、とりあえず使えそうなやつはピックアップしといたから、これでも持ってけ」
「サンキュー! 助かるよ! あとで君好みの大吟醸を贈答品でもらったから送るね。それにしても因習蔓延る寒村の生まれで生贄にされかけたなんてアクの強いエピソード持ちだと聞いたから取材するの楽しみにしてたのに、残念」
ちぇっと唇を尖らせる男だが、あまり残念がっているようには見えなかった。長すぎる前髪を軽く手で梳いて顔面を晒したことで、ようやく彼の素顔が明らかになる。あっと小さく声を上げた竜胆は、どうりで見覚えがある訳だとやっと得心した。
そういえば最近、ある小説家が国内の有名な賞を獲ったとニュースで報道されていた記憶がある。授賞式後の会見にこの男は出ていたはずだ。色素の薄い大きな瞳に甘やかなベビーフェイス、小柄な体格をした彼の名前は確か──。
「はじめまして。君が噂の竜胆くんだね! 僕は桔梗。しがない物書きの端くれさ。彼とは長い付き合いでね、腐れ縁と言ってもいいかもしれないな。今日は君のことを色々と取材しに──それ以外にも彼のもたらすネタはどれも新鮮かつ面白いからね、いいのが手に入ったかどうか伺いに来たのさ。ここまで何か分からないことはあるかな?」
「は、はぁ……紫苑さんの知り合いなんですね」
「やだなー、友達って言っただろう? なんでだか彼には友達と呼んでもらえないんだけどねえ。それより君のことだよ! なんでも神様憑きなんだって? いやはやこれは実に興味深い! 良ければ詳細について教えてもらっても?」
「え、あ、あの……ど、どうしたらいいですか」
「あー……桔梗のそれはもう職業病みたいなものだからスルーしていいよ。言いにくいことだろうし。ほら、いい加減に未成年を困らせるな。いい年した大人だろうが」
「むう。それを指摘されちゃうと弱いなあ。ていうか究極の若作りの君にだけは言われたくないんだけど?」
頬を膨らませる桔梗だが、何度も紫苑に怒られたのでようやく懲りたか、竜胆の話題について深堀りするのは諦めたようだ。ペラペラとよく回る舌で紫苑の話をする桔梗に対し緊張を解いた竜胆を見て、これ以上余計なことを言われてもたまらないとばかりに、紫苑は本題に入るよう促す。
「それで? 結局、ここに来た本当の目的はなんだ? ネタ集めだけなら別に朝方じゃなくてもいいだろ、何があった?」
「アハハ、やっぱり隠し事というのはできないもんなんだなあ。勘のいい君相手なら特に。杜若くんが相手なら騙しきれそうな気がしたんだけどさ、まあそれはともかく──これを見てよ」
ぐい、と桔梗が羽織っていた上着を脱ぐ。もうじき夏も終わるとはいえ残暑厳しい今の時期にどうして厚着などしているのか、と訝しんでいたが、この有様ではとても半袖など着れないだろう。
シャツから伸びる桔梗の両腕は悲惨な状態になっていた。大小無数の赤い斑点が素肌に散らばっており、一見すると根性焼きを更に酷くしたようにもみえる。一部などは焼け爛れ、膿んでじくじくと黄色っぽい体液が滲み出していた。これがただの火傷痕などでないことは明白だった。
「……こんなの一体いつから、この前会った時はなかったよな。さっき言ってた南米旅行の後か?」
「違う。それより更に後だ。僕が君たち術師に先行して霊障が起きている可能性のある場所へ調査しに行くことがあるのは知ってるよね。まさにその調査後うっかり呪いを貰ってきちゃったって訳」
「うっかりどころじゃないだろ……潔斎は? 禊はやったのか」
「ぜーんぜんダメ。考えつく限りの対処法を片っ端から試してみたけど、さっぱり効き目がないんで最終手段として君のところに駆け込んできたんだよ。いやあ、いきなりで悪かったねえ」
「本当にな。せめて事前に連絡くらい寄越せ……ていうかこんなに進行するまで我慢するな。痛みでまともに寝れなかっただろう」
たはは、と苦笑する桔梗の顔は、よく見れば血色が悪くじっとりと脂汗が滲んでいる。相当の苦痛を感じているのは違いなく、元通り上着を羽織り直した腕は微かに震えていた。
火傷が広範囲に渡ると、破壊された皮膚組織が体温を保持できず寒気を覚えると聞く。慌てて竜胆は湯を沸かし、熱めのお茶を淹れる。包帯やガーゼによる応急処置も提案したが断られてしまった。
「いやー助かるよ、お茶ありがとう。竜胆くんって性格悪い君にはもったいないほど良い子じゃーん、大切にしなよ」
「その言い方やめてくれる? 別に助手として便利だから雇ってるだけに過ぎないから。それより、どうしてこんなに重い呪いを身に受けたんだ。お前ほんと何したんだよ」
竜胆から手渡されたカップを受け取った桔梗は、猫舌なのかふうふうと息を吹きかけて冷ましてから口をつける。重傷を負っているとは全く思えないほど、やけにはしゃいだ様子の彼は立て板に水とばかりに説明し始めた。
「九州にあるデカい幽霊屋敷って知ってる? 絶対に近づくなって作家連中の間で噂になってたとこなんだけど、事前調査した方が良さそうだなと思ってこっそり潜入したのが確か十日前。その日は何事もなかったけど翌日からこのザマでさ、もう両腕の感覚ほとんどなくなってるんだよね」
「九州の幽霊屋敷……ってもしかして『門真御殿』か!? あんなとこに、しかも一人で!? バカか、なんでそんな無茶した!」
「いやあ、無茶というほどのことでは。あの辺り一帯を再開発したいから噂が事実かどうか確認してきてほしいって自治体からも要請されてさあ……仕方なく、つい」
「つい、じゃないし……仮に行くにしても、せめて杜若くらいは連れてけよ……」
肺の中の酸素全てを吐き出すかのごとく盛大にため息をついた紫苑は、カウンターの上に突っ伏してしまった。ディスプレイを一切見ることなくスマートフォンを操作し、誰かにメッセージを送っているようだ。二人から少し離れたところに座る竜胆の位置からではさすがに、文面までは読み取れない。
しかし、先ほどから会話の中に何度も出てくる「杜若」なる人物に何か用事を頼んでいるらしく、しばしメッセージのやり取りが続いている。その間、手持ち無沙汰になった竜胆は自分でも「門真御殿」なるものを検索してみた。どうやら有名なホラースポットらしく、次から次へと心霊体験に遭遇したレポート記事やSNS上でのつぶやきがズラリと並ぶ。
「おっ、君も『こういうの』に興味ある感じ? ならば説明しよう! 門真御殿っていうのはあくまでも通称でね。明治時代に九州で炭鉱を経営していた、ある一族が住んでいたという御屋敷のことなんだ。かつて火事で焼失し、当主とその家族、更に使用人など含む計四十四人が犠牲になったとされる大変痛ましい凶事なんだけど──話はここで終わらない」
確かに検索ページの上位にサジェストされていた全国の有名なホラースポットを一覧で紹介しているサイトにも桔梗の解説と似たような文章が綴られていた。現在は生き残った子孫の手により再建されているそうだが、住む者がおらず廃屋同然と化しているらしい。火事、というワードで桔梗が現在進行形で受けている呪いがまさに火傷そのものであることに思い至る。
「『門真邸に存在する"開かずの間"は決して入ってはならないとされている。それがどこにあるかは分かっていないが、侵入した者は生きて帰れないと言われている』……でも桔梗さんは現に今、生きてここにいますよね」
「それがねー、僕にもどうして生き長らえたのかは分からないんだよ。まあ所詮はネットに転がってる時点で眉唾物だからね、間違った情報が書かれてることはあるさ」
「いや、おそらく何か条件があるんだ。それを満たさなかったから桔梗を即死させられなかった。あるいは他の目的があって生きて帰したのかもしれない、だからタイムリミットとして呪詛を付与したのかも」
大きなものでは握り拳くらい、小さなものでも一円玉サイズはある、皮膚の表面に点在する傷口は、門真邸を焼き尽くした火事で死んだ人々の受けた痛みそのものなのだと。紫苑は淡々と考察を口にしながらも、どこか痛ましいものを見るかのような眼差しを桔梗の両腕へと向けている。
常々彼を人でなしと思っている竜胆にしてみれば、それは少し意外な姿として目に映った。この、時として外道極まりない発言が次から次へと飛び出てくる男にも人並みの情めいたものがあったのか、と。哀れんでいるのは調査の結果として呪いに罹った青年ではない。想像を絶する苦痛を味わいながら死んでいったであろう、過去の死者たちだ。
「……なんつーか、紫苑さんにも普通の人らしい感性ってあったんですね」
「おっ、生意気を言うのはこの口かー? いいだろう今日の賄いは胡瓜のサンドイッチにしてやろう。あーあ、美味しいベーコンが手に入ったからナポリタンでも作ってやろうかなと思ってたのに」
「え! 今の取り消すからナポリタンにしてくださいお願いします! 俺、紫苑さんの作るメシめっちゃ好きだなー!」
「めっちゃ必死に媚び売るじゃん。確かに紫苑くんって料理上手いよね。いや喫茶店のオーナーなんだから当たり前なんだろうけどさあ、宅飲みの時もよくササッとツマミ作ってくれるし」
やだな褒めてもなんも出ねえぞー、などと言いながらも満面の笑みでキッチンに向かった紫苑は手早く人数分の朝食を用意する。蜂蜜とバターを大量に塗って焼いたトーストに、ラズベリーのジャムをトッピングしたヨーグルト、それとサラダにコーヒーという組み合わせだが、メニューにはない一品なので今は竜胆と桔梗しか食べられない。
いつもなら既に店を開けている時間に差し掛かっているが、桔梗の問題を解決するのが先なので臨時でクローズドにしておき、朝食にありつきながらも対策を練る。検索して得た情報だけでは呪いに関する具体的な内容は分からず、ひとまず現地に行ってみるということになった。
さっそく三人分の飛行機のチケットを取る紫苑の横で、桔梗がスマートフォンで撮影したと思しき写真を竜胆に見せる。窓も照明もない、光源のない室内に大量の仏壇がズラリと並び、それぞれにおびただしい数の位牌が置かれている。ひどく不気味な一枚だった。
「……なんすか、これ」
「例の開かずの間。やっぱり解像度粗いねコレ。撮った時はもっとくっきり見えてたはずなんだけど、日増しに画質悪くなるな……」
「急に怖い写真見せてこないでくださいよ、せめて一言なんか言えって! てか入ったんすか、開かずの間に!? 入っちゃダメなのになんで……」
「だってぇ、ちゃんと開かずの間も含めて全てチェックしないと調査したとは言えないじゃん。でもこれで確定した。門真御殿は本物だし、開かずの間さえ入らなければ問題はない。正確には──『あれ』と遭遇しなければ無事に帰ってこれる。僕はたまたま呪詛を食らうだけで済んだけど、警告通り死人が出てもおかしくないよ」
そもそも呪いにかかった「だけ」とは言えないのでは、と思いつつも竜胆は頷く。写真からでも禍々しさがはっきりと伝わってくるのだから、とても中に入ってみる気にはなれない。よく桔梗は実際に内部へ侵入できたものだ、とつい感心してしまう。
使った道具や食器などの洗い物を済ませた紫苑が、なんだなんだとばかりに横合いから覗き、ゲッと嫌そうに顔を顰めた。術師の仕事関係では何事にも滅多に表情を変えず、平然としている彼が露骨に顔に出すのは珍しい。よほど撮影された風景に厭なものを感じたのだろう。
「……普通、仏間に仏壇を何個も置いたりしない。仮に犠牲者の弔いだとしても、こんな縁起の悪いことをわざわざする必要はないだろう。亡くなった者の中には門真一族とは無関係な使用人もいる以上、彼ら彼女らの分まで門真一族が祀っているというのも変だ。それに元々の屋敷が焼失し今ある建物が後に再建されたものであるというなら──現状、廃屋と化していること自体おかしい。なぜ再建した人間はここに住まなかったんだ?」
スマートフォンに映し出されたままの画像から、なんとなく覚えていた違和感の正体について言及され、竜胆と桔梗は二人して押し黙る。ぼろぼろに朽ちた床の間に腐りかけた畳敷きの室内には、確認できるだけでも四基もの仏壇が隙間なく設えられていた。どれだけ拡大してみても位牌に書かれているはずの戒名は読めない。
なぜ焼け落ちた屋敷は再建されたのか。どうして再建したのに住むでもなく手付かずのまま放置されているのか。発端となった火災の原因はなんだったのか。そしてもう一つ、位牌の数が四十四ではない理由はなんなのか。この写真からだけでは、次々に浮かんでくる疑問への解答は導き出せない。
「そういえば、このこと杜若くんにもメールで相談したら彼も来るってさっき連絡あったよ」
「は? 嘘だろあいつも来んの? え、やだ……悪いけど断っといて」
「朝イチで現地入り予定だってよ」
「じゃあ拒否できねえじゃん! 頼むからそれもっと早く言ってくんない?」
「なんでそんなに杜若くんのこと嫌がるのさ。彼、口も悪けりゃ性格態度も最悪だし横暴な俺様野郎だけど腕はいいよ? 君の方が実力についてはご存知だろうけど」
「だからだよ……あいつのそういうところが俺は本当に嫌いなんだよ。あれで雑魚なら可愛げあんのに、そうじゃないし……」
紫苑が他者に関して心底嫌そうに眉根を寄せ、悪態をつく姿など竜胆は初めて見る。今日は彼の新しい一面ばかり目にしているな、となんだかむず痒い気持ちになりつつ、食べ終わったあとの食器を桔梗のものと合わせて手早く洗って片付けた。
泊まりがけの大仕事になる以上、今から支度をしなければ飛行機の時間に間に合わない。さっそく一泊二日の着替えを二人分、それと簡易的なお祓いやお清めに使う道具もまとめて旅行用のキャリーケースに詰める。ついでに今日から数日間ほど休業する旨をいつもおすすめメニューを書いているブラックボードに記しておけば準備完了だ。
諸々の作業を終え、紫苑の運転する車で空港まで向かう。出発時は平気そうにしていたものの、店でのハイテンションさが嘘のように桔梗はぐったりと後部座席にもたれかかっている。やはり火傷の痛みがかなり堪えるらしく、気休め程度に市販の痛み止めを飲ませたが効き目は薄いようだ。もう時間があまり残されていないのは明らかだった。
「桔梗さん、すごい辛そうですけど、本当に大丈夫なんでしょうか……」
「これまでにも何度か修羅場はくぐってきてるし、しぶとい奴だから、そう心配しなくてもいいよ。ただ、なるべく今日中に解決しないとまずいかもね」
「そうなんだよねえ。リミットは多分、今日の深夜か明日にかけてだろう。ねえ、四十四を割り切れる数っていくつだと思う?」
「えっと十一……桔梗さん、最初に現地に入ったのって十日前って確か言ってましたよね」
「……予想だけど、この呪いは十一日かけて相手を蝕むものだ。一日につき四人ずつ、ひとを傷つけ痛みを加える。そうして最終日、つまり明日、同じ苦しみを与えて殺す」
「なんでそんな……だって桔梗さんは、その『開かずの間』とやらに入っただけじゃないですか」
「相手は化け物だよ? 僕たちと同じ理屈や常識なんか通用する訳がない。それに『見るなの禁忌』や『入らずの禁忌』を犯した者に罰が下る、というのは当然だ。どれほど理不尽に思えても、決して破ってはならないルールを踏み越えたのは僕なんだから、これは自業自得でしかないんだよ。君が憤る必要はない……でも優しいね、竜胆くんは」
思わず声を荒らげて反論する竜胆だが、隣の席で背もたれに全身を預けたままの桔梗が諫めた。苦痛を押し殺して穏やかに笑いかける顔は青ざめ、荒く呼吸する様子は今にも死にそうな重病人にしか見えない。
「俺は……桔梗さんにそう言ってもらえるような人間じゃないです。だけど桔梗さんが死ぬとこは見たくない。そんだけ」
桔梗──「空園葵」という筆名で活躍する気鋭のホラー作家が過去に発表した作品に、それほど興味がある訳ではなかった。話のネタに、周りの本好きが絶賛しているのを見かけたから、そんな軽い気持ちで彼が賞を取ったという代表作を試しに読んでみただけ。
だが、惹かれた。竜胆はさほどホラー小説に詳しくないし好んで読むタイプでもない。それ以前に読書家でもない。たまに友達から勧められたものを借りて読むくらいだ。自分で書店で本を買うことも年に数度ある程度か。そんな彼でさえ、手放しで面白いと素直に思えた。
ホラーというジャンルに抱いていたイメージを粉砕する、躍動感に満ちた軽やかな筆致。それとは対照的な、登場人物たちの生々しく仄暗い情念。そして何より目を引いたのは、濁流のごとく進む起伏の激しいストーリーの中で、キャラクターを恐怖に突き落とす怪異たちのリアリティに溢れた描写だ。
空園葵の代表作「地に満ち、増えよと神の宣う」は古の時代、飢餓に苦しむ寒村で繰り広げられる土着信仰と奇祭をテーマにした怪異譚である。そして腹を痛めて産んだ我が子を生贄として神に捧げねばならなくなった母親である主人公によるグランギニョルでもあった。
その筋立てに竜胆は己の半生を重ねずにはいられなかった。なぜなら作中の舞台はどう読んでみても、彼の生まれ育った故郷そのものでしかなかったから。きっとこれを書いた著者は「知る側の人間」だと、あの村で起きた惨劇も災禍もその全てを知っていると。ゆえにさして本読みでもない竜胆は、空園葵というペンネームを覚え続けていたのだ。
彼は理由を語るつもりはない。けれど桔梗という人間に死んでほしくない理由がある。いつか、あの作品を書くことになったきっかけを稀代のホラー作家が自らの口で語り出すまでは。
「……おい、お前らもう着いたから降りろ。これから二時間ちょいフライトだから、機内ではしっかり休んでおけ。現着したら忙しくなるからな」
空港内の駐車場に愛車を停め、三人はターミナルへと入る。黒山の人だかりというに相応しい、旅行客やビジネスマンでごった返す中をすいすい進む紫苑にくっついて歩く。予約した航空券を引き換えてから、待機ロビーや保安検査場をスルーし、彼らは離陸を待つ旅客機へと向かう。
本来の手順をすっ飛ばせるのは社会的地位のある桔梗が、自治体から非公式とはいえ要請を受けて門真御殿に関する調査を引き受けているからだ。コトは一刻を争う事態なのだから少しは融通を効かせろ、と紫苑が脅しかけたせいでもあるが。
三人がたまたま空いたエコノミー席に腰を下ろした瞬間、彼らの到着を待っていたかのように機体が微かに振動しながら滑走路を走り出し、分厚い雲に閉ざされた曇天へと舞い上がる。時折、遠くで雷鳴が雲間にひらめく様は、道行きの不吉さを暗示しているかのようだった。




