表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/8

のろいあい

 神保町にある古い雑居ビルの地下で、ひっそりと営まれている隠れた名店「純喫茶・キマイラ」──そこで竜胆りんどうがアルバイトとして働くことになったのは、とある偶然がきっかけだった。

 ビルオーナーであり店主の紫苑しおんは霊媒師として怪異や怨霊・悪霊に苦しめられている人々を助けることを生業としている。だが多忙のあまり助手を探していたところ、白羽の矢が立ったのがたまたま依頼人として店を訪れた竜胆だった。

 現状、助手の仕事をするか否かは保留にしている竜胆だが、間の悪いことに金に困っていたのは事実である。授業料、教材費その他を含めた学費にアパートの家賃、水道光熱費、食費、それ以外の生活費など必要な金は挙げればキリがない。

 幼い頃に両親を亡くし、同じ都内に住む親戚の援助で生活している彼はちょうど求職中で、店員としての雇用であればまさに渡りに船だったのである。客入りも少なく適度に暇で、しかも賄いまで出るとあればやらない理由がない。さっそく翌日から出勤することとなり──。


「ちくしょう! 騙された! これのどこが喫茶店の店員の仕事なんだよ!」

「あっはっは。そう簡単に大金稼げる甘い話なんてある訳ないでしょが。これに懲りたら労働契約書はちゃんと隅々まで読んでからサインするんだね」

「詐欺だこんなの……ちくしょう労働基準監督署に訴えてやる……」

「俺あそこの担当さんに顔が効くんだよね。浮気相手の生霊に取り憑かれてたのを助けてあげたから」

「……社会って、怖い」


 時刻は深夜一時半を回っていた。いわゆる草木も眠る丑三つ時、ユーレイの出る時間帯である。

 紫苑の運転する愛車に乗せられ、竜胆が連れてこられたのは国道沿いにある深夜営業のファミリーレストランであった。だだっ広い駐車場は意外にもほとんど埋まっていて、ドライバーが休憩中に食事しに来たのだろうタクシーやトラックなどが何台も停車している。

 結局、助手として働くことが決まった竜胆は紫苑の手伝いとして荷物運びや祭壇の組み立て、場合によっては現場の下見や依頼者へのヒアリング等を今後担当していく流れになった。今回はいわばデビュー戦ということで紫苑いわく簡単な案件をチョイスしたという話だが、そもそもこういう業界が存在すること自体よく知らなかった竜胆にしてみれば、ホントかよというのが本音だ。

 そして今回の現場は都内某所にあるファミレスであり、依頼者はそのオーナーである。数ヶ月前までパートとして勤務していた女性が退職して以降、怪奇現象に悩まされているのだという。

 きちんと閉めたはずのウォークイン冷凍庫がいつの間にか開いている、仕入れたばかりの食材が原因不明の腐敗を起こす、包丁やナイフなどの刃物という刃物が一夜にして全て錆びてしまい使えなくなる、等々。

 主に物理的な被害が発生するせいで既にかなりの額の損害が計上されており、このままでは経営に差し支えるとのことで、早急の解決を望むというのが依頼者からの要望だった。

 当初は他のアルバイトによる迷惑行為と疑われたが監視カメラ等に証拠が記録されなかったこと、またオーナー当人が俗に言う「視える人」だったため霊障と断定されたのだとか。

 紫苑は大々的な営業や宣伝こそしていないが、オーナーのような霊や怪異が視える人間は、彼が「本物」だということを知っている。そのため口コミや噂話などを経由して、時折依頼が舞い込んでくるのだという。

 それでも最近は紫苑の名前が広まりすぎてしまい、喫茶店の仕事もままならないほど忙しくなってしまったそうだが。竜胆が助手にされたのもそうした経緯があってのことだった。


「……怪しいのはその数ヶ月前に辞めたっていうパートの人ですよね。念のため聞きますけど、その人生きてるんですか?」

「残念ながら。彼女は件のファミレスが開店する時オープニングスタッフとして雇われて以来、早朝から三時までのシフトで長いこと厨房業務全般を仕切ってたみたいだね。ベテランとして信頼もされていたし、それが突然辞めるとなって店は結構困ったらしいよ。賃金も値上げするから辞めないでくれって熱心に引き止めていたというし。でも──」

「その人は退職した……そして亡くなってしまったんですか。でもなんで? ていうか死因は?」

「そこまでは教えてもらえなかったけど。まあ十中八九自殺だろうねえ。だとしたら店の、それも自分が一切を取り仕切っていて厨房にばかり現れて霊障を引き起こすのも頷けるんだけど……ま、そんな簡単な話でもなさそうだ」


 昨今では二十四時間営業の飲食店というのは減りつつあるが、深夜でも客入りの見込めるロードサイドの店舗とあって、遅い時間でも店内はそこそこに賑わっている。大学生の集団からタクシードライバーやトラックの運転手、サラリーマン風の客などで席の大半は埋まっており、あちこちから笑い声や歓声が聞こえてきた。

 入店すると、やや疲れた顔をしたホールスタッフにフロアではなくスタッフオンリーと書かれたドアの向こうに案内される。従業員の休憩室と事務所を兼ねた室内は雑然としており、キャビネットには乱雑にファイルが突っ込まれ、デスクの上も大量の書類やチラシにパンフレットが積み重なっている。スタッフ用のテーブルも私物が放置され、あまり整頓が行き届いていない印象を受けた。

 適当な席にかけてくれと店員に促され、二人は手近なパイプ椅子に腰掛ける。そのまま退出した店員と入れ違いに依頼者──店のオーナーである三木みきという男が入室してくる。年齢は三十代半ばくらいだろうか。小太りな体格に闊達とした雰囲気の男はこの場にそぐわない、やけに陽気な笑顔を浮かべていた。


「どうも。紫苑といいます。こっちは助手の竜胆。さっそくですが料金について改めて軽くですが説明しますね、初回ということで成功失敗に限らず三万、成功の場合はプラス一万五千円いただくことはご依頼していただいた際、説明したかと思いますが──異存はありませんか?」

「……はい。この霊障が収束するのであれば、いくらかかっても構いません」

「そうですか。では経緯についてお聞かせください」

「たぶん笑子えみこは俺のこと恨んでるんじゃないか、って思うんです……まるで当てつけみたいに、わざわざ繁忙期を選んでトんだあたり、きっと……」


 ため息まじりに言いつつ、男はあらぬ方向を睨みつけている。つられて竜胆が同じ方向へ視線を向けても何もいないので、騒ぎを引き起こしている悪霊はこのスタッフルームへ近づく様子はないようだ。では一体何を見つめているのだろう。


「笑子さん、というのは亡くなった元従業員の女性ですよね。何か彼女に恨まれる心当たりでもあるんですか?」

「……付き合ってたんです。俺には彼女がいたし、あいつに旦那がいることは知ってたけど、向こうから迫られて、仕方なく……そんなとき他店舗で働いてる女の子と仲良くなって、その子に乗り換えるつもりなのかと問い質されて、つい面倒くさくなって、その気もないのにそのつもりだって。そしたら翌日から仕事に来なくなって……あいつの旦那から死んだ、って連絡があって」


 だんだん声を震わせながら吐露した男は、まるで紫苑に対し懺悔しているようにも見えた。やはり最初のあの取り繕ったような笑みは演技だったのだろう。三木は相当に悔やんでいる様子だったが、果たして何に後悔しているのか。胃の腑がムカムカしてくるような不快感を覚えながらも竜胆は口を挟まない。

 依頼者にヒアリングしていく紫苑の顔つきは至って冷静そのもので、思わず憮然とした表情になってしまいがちな竜胆と違い、感情らしきものは欠片も見受けられなかった。彼の質問に答え続けていた三木は、やがて深く項垂れながら絞り出すような声で告げた。


「お願いします。あれを早くどうにかしてください。このままじゃ赤字になっちまう。スタッフにも迷惑がかかりっぱなしだし、これ以上損害がデカくなれば本社からも処分が下る。さっさとあれを片付けてください、頼みます、ほんと」

「……分かりました。とはいえ必ずしも穏便に済むとは限りませんから、お約束はできませんが。ま、最善は尽くしますよ」


 飄々と答え、席を立つ紫苑に続いて慌てて竜胆も着いていく。二人が向かった先はスタッフルームの隣にある厨房だ。臨時で急遽店じまいすることになったため、数人のキッチンスタッフが閉店作業に追われている。だが、


「あー……見ろ、またやられてる。ほらこれ、明日のランチに出す予定の具材。全部ダメになっちまってるよ……どうすんだこれ」

「こっちも。ほら、また冷蔵庫の中身がやられてる。しまってたもの全部ひっくり返されてぐっちゃぐちゃだよ……片付け面倒だなあ」

「食洗機もずっと調子悪いまんまだし、水道からはたまに錆まみれの水が出てくるし、洗い場もダメだ。もうこの店ダメなんじゃないか? 営業続けられるとは思えないんだけど」


 口々にぼやきながらも作業の手は止めない彼らの顔はすっかり疲れきっている。この霊障騒ぎで皺寄せを食らっているのはオーナーではない、働いている普通の従業員たちだ。彼ら彼女らはもちろん騒ぎの原因が幽霊であるとは知らされていないし、ましてや幽霊の正体が元スタッフだとも明かされていない。ただ原因不明のアクシデントに悩まされているだけだ。

 しかし、だからといって現状を説明したところで信じてもらえるとも思えないし、ただいたずらに混乱を招くだけなのも彼は理解できていた。

 チラリと忙しそうな厨房の様子を見やってから、煙草吸ってくる、と言葉少なに裏口から一度店を出た紫苑についていく。喫煙者のスタッフもいるため従業員用入口付近が喫煙スペースになっており、申し訳程度に灰皿と吸殻入れも置かれている。

 スーツの内ポケットから見たことのない銘柄の煙草を取り出し、一本口に咥えてライターで火をつける彼は、特に美味くも不味くもなさそうな顔で紫煙をくゆらせていた。平静を装っている、というより心底どうでもよさそうな顔といえばいいのか。

 訳の分からない出来事に仕事を増やされるアルバイトたちや身勝手なことをのたまうオーナーに対し、大した感慨を抱いているようには見えない。冷淡といえば確かにそうだが、いちいち感情移入もしていられないのだろう。


「……俺の目には特に悪霊っぽいものって視えなかったですけど。本当にあの騒ぎって悪霊の仕業なんですかね」

「狂言かもしれない……って言いたいの? たぶんだけどそれはないよ。巧妙に姿を隠してはいるし、今のところ確かに人的被害は起きてない。でも時間の問題だろうね。『効いてない』とわかれば即座に次の手を打ってくるだろうよ、あの手の霊はしつこい。執念深いんだ、恨みの対象がハッキリしてるから」

「恨みっていうとあのオーナーですかね。なんかずいぶん発言が、その……」

「君くらい若いとまあ確かに不愉快に感じるだろうなあ。俺はもう慣れちゃったから今更どうとも思わないけどさ、まあ酷い言いようかもね。仮にも不倫関係にあった女が死んでるって言うのに、悲しんでる様子もなかったし。そりゃ恨んだって仕方ないだろう。ということでガス抜きさせるとしよう」

「……ガス抜き? 根本的解決には繋がらなさそうですけど」

「うん。そう。ガス抜き。あの男を死なない程度に苦しめりゃ少しは溜飲も下がるでしょ、彼女がスッキリしたところで交渉する。無関係の他人に危害を加える前なら強制除霊なんて乱暴な真似をせずとも、あの世にお帰りいただくようお願いすればいい」


 にんまり悪どい笑みを湛え、紫苑が言い放ったその時だった。開きっぱなしのドアの向こう、店の奥から鼓膜を劈く絶叫が突然響き渡る。それが三木の声であると一瞬遅れて竜胆が気づく間に、既に紫苑は店内へと走り去っていた。


「どうしたんですか! ……っ、クソ、やられた!」

「紫苑さん! いきなり走り出したりして一体……ってこれ、依頼者さん?」

「ああ。……どうやら無事みたいだな。おい、しっかりしろ! 三木さん起きれますか!?」

「ヴ……ッ、あ、し、紫苑さん……お願いします助け、あの女が……あの女が俺を!」

「彼女にやられたんですね。他に痛いところは?」

「と、特には……さっき閉店作業を手伝おうと厨房入ったら、いきなり突き飛ばされて転んでしまって」

「そうですか。現場を見た人は?」

「それが……その、みんな自分の仕事に夢中で、誰もオーナーが転んだところを見てなくて。あの、一体何が起きてるんですか……?」

「……悪いけどそれは言えない。とりあえず全員もう今日は帰りな。あとはオーナーがなんとかしてくれるだろう。三木さん立てますか」


 言いながら紫苑はまだ床に倒れたままの三木を無理やり立たせる。少々ふらついてはいるものの、自分の足でしっかり起立できているので、捻挫や打撲などの怪我は幸い避けられたようだ。慌ててスタッフが厨房を離れていき、竜胆・紫苑・三木の三人だけが空間内に取り残される。

 それを見計らったようにパチパチと不穏なラップ音が不規則に鳴り始めた。ピシッ、パシ、パキンと厨房のあちこちから聞こえてくる乾いた音と共に、蛍光灯の明かりも不自然に明滅し始める。

 作業台に置かれたままの調理道具が地震でもないのに小刻みに揺れ、掃除したばかりの床に点々と血の跡が浮いている。大してオカルトに詳しくない竜胆でも、これがポルターガイストだというのはわかっていた。


「紫苑さん……これマズくないですか。なんか彼女、すごい怒ってるみたいに見えるんですけど」

「まあそうだろうね。俺の煙草の匂いがよっぽど気に食わないんじゃない? これ、怪異が嫌う香木を刻んで詰めた特別製だから」


 言いつつふぅっ、と煙を帯びた呼気を吐き出す紫苑。ふわりと香る独特の馥郁が厨房全体に広がった途端、「それ」はとうとう姿を現した。

 他の厨房スタッフと同じエプロンに店の制服を身につけ、長い黒髪が顔面を覆うようにだらりと垂れ下がっている。重たげな髪の隙間から覗く血走った目は、前に立ち塞がる紫苑や竜胆を素通りし、最奥にいる三木をまっすぐに睨めつけていた。


『呪ってやる……呪ってやる……お前も、あいつらも、この店のやつら、全員……呪ってやる!』

「ヒッ……く、来んな! こっちに来るな! てか、なんで、みんなを狙う? 他の人たちは関係ないだろ!?」

『うるさい……うるさい……死ね……殺す……』


 一歩、また一歩と彼女──笑子が近づく度にベチャベチャと床上に血の足跡がこびりつく。よく見れば手足のあちこちに、まるで大型の獣か何かに噛みつかれたような咬傷が残ったままだ。開きっぱなしの傷口からは絶えず赤黒い血が吹きこぼれ、女の腕や足を汚している。


「これ……なんか変じゃないですか? もしかしてこの女の死因は自殺ではない……?」

「呪いだよ。いやはや女ってのは怖いねえ。たとえ自分が呪い殺されようとも、憎いかたきを苦しめるためならば、いかなる代償も厭わない。俺には全く理解できないな」

「いや俺だって理解とか無理ですけど……じゃあ笑子さんは自ら命を絶った訳じゃなくて、別な怪異に殺されたってことですか」

「簡単に言うとそう。どうせコックリさん的な儀式でも試して逆に殺されたんでしょ、手順を間違えて本来召喚される低級霊ではなく、マジモンの化け物を引き当てちゃったみたいなとこかな。ほら、俗に言うSSRってやつ」

「SSRの代償あまりにデカくない? むしろ大ハズレじゃない?」

「まあまあ。とりあえず三木さんを苦しめるだけ苦しめたら満足するでしょ。そしたら俺らの仕事だ」


 二人が呑気に雑談している間にも、彼女は万力のような力で男の首を絞めあげている。だんだんと顔が青紫に変色していく三木が縋るような目で紫苑を捉え、彼は盛大にため息を吐いた。

 更にもう一本、火のついた煙草を咥え、紫煙を漂わせたまま血の滴る女の手を振りほどく。大して力を込めているようには見えないのに、するりと彼女の両手は男の首から離れた。解放された三木は床上に倒れ込み、ゲホゲホと汚らしい音を立てて咳き込む。


『あ……あ……』

「もういいでしょ。さんざん痛めつけて満足した? なら、そろそろ君は君のいくべきところへいく時間だ」

『いやだ……こいつだけは、私を裏切ったこの男を道連れにしてやる、でないと気が済まない!』

「ふうん、でもこいつを殺せば君は堕ちる。そして、その代価を支払わされるのは──次の君だ」


 いやに抽象的な物言いで、傍で聞いているだけの竜胆には紫苑の言葉の真意は分からない。だが「堕ちる」というワードに滲む不穏さに、背筋が泡立つ感触がした。彼とは逆に放たれた台詞の意味を正確に読み取ったのだろう、彼女はびくりと肩を震わせ、怯えたように後退る。


「俺としちゃ別に君がどうなろうと構わない。どうでもいいからね。けど当事者である君はどう? そんなに責め苦を味合わされたいの? たかが人間一匹を殺した程度の咎で、畜生にも劣る扱いを受けて尊厳を踏み躙られて。挙句、来世はとんでもない不幸と不運が襲う。外道へ堕ちるとは、そういうことだ。君のように身勝手で我が身かわいい生き物が、そんな理不尽を甘んじて受け入れられるとは思えないけどなあ」


 ニヤニヤと意地の悪い笑みを口元に刻み、紫苑がゆっくりと女の方へと近づいていく。黙したまま彼女は凍りついたように動かない。そろそろ潮時だろう、とうっかり竜胆が緊張を解いたその時。力をなくしたかに見えた両手がそろりと再び動き、今度は紫苑の首めがけて伸びる。


「紫苑さん!」

「来るな! ソイツ連れてあっち行ってろ!」

「で、でも……」

「いいから! 俺のことはいいから、早く!」

「……っ、わかりました」


 腰が抜けたのか上手く歩けない男の襟首を掴んで無理やり引きずりつつ厨房から出ようとする竜胆の目の前で、ものすごい力で絞められている紫苑の首がみるみるうちに青黒く鬱血していく。だが彼の瞳にはなぜか変わらず余裕が垣間見えた。

 黒髪を振り乱しながら紫苑を引き倒そうとする女に足払いをかけ、逆に仰向けに転倒させると、彼女が起き上がる前に片足で下腹部を踏みつける。全体重を思いっきりかけられ、うぐ、と悲鳴を微かにあげる女へ笑いかける青年の横顔はいっそ穏やかだった。


『クソ、クソっ、ころす、殺してやる! お前も、あいつも、全部全部みんな殺してやる……!』

「はは、お前ごときが俺を殺す、だって? ナマ言ってんじゃねえよ、戯れ言も大概にしろ。もう聞き飽きたわ」

『うるさい、うるさい、うるさぁぁぁぁい! お前みたいなガキに何が分かる、私の、何が!』

「知るかよ。知る気もないね。とっとと失せろ。目障りだ」


 カチリとライターのフリントが回る音が深夜のキッチンにリバーブし、青い火がたちのぼる。紫苑はケースに入っていた残りの煙草全てに着火すると、勢い良く煙を撒き散らすそれらを女の顔へと叩きつけた。

 ギャッ、とたちまち聞くに耐えない怒号が彼女の口から漏れ出す。じたばたと手足をばたつかせ、もんどり打ってもがき苦しむ女は、やがて全身が黒い泡と化して溶けるように消えてしまった。あっという間の出来事に、三木の襟首に手をかけたまま竜胆は思わず目を瞬かせる。


「チッ、どいつもこいつも要らん手間かけさせやがって。あーめんどくさ、これだから痴情のもつれ絡みの仕事って受けたくないんだよなあ」

「えと、終わった……んですか?」

「うん。もう終わり。解決。もう二度とこの店には現れないよ。ていうか霊魂そのものを消滅させたから生まれ変わることもできないんだけど」

「それってあんまり良いこととは言えないような……まあ解決したからいい、のかな?」

「そ、そんな……笑子、ああ、笑子……っ」


 その場に膝から崩れ落ち、もはや残骸すら一切残っていないさっきまで彼女が倒れていた箇所を震える手で撫で、三木は嗚咽する。何度も何度も床に拳を叩きつけて涙をこぼしながら慟哭する様子には、ある種の滑稽さがあった。


「満足だろ? もうこの店が霊障に遭うことはない。良かったじゃないか。あんたにとっては大団円、ハッピーエンドのはずだろ? 何をそんなに後悔してるんだ。大体、往々にして後悔するのが遅いんじゃないか? もっと前に──彼女が生きているうちに、やり直すチャンスはあっただろう。自業自得のくせに、一丁前に悔やんでるんじゃないよ」


 紫苑の情け容赦ない一言に対しても男は無反応を貫いている。無言でひたすら拳を床へ向かって振るう彼を強引に立たせ、紫苑は片手のひらを差し出した。にっこりと笑顔を形作っているが明らかに演技と分かる嘘臭い笑みに、三木が歯を軋ませながら舌打ちする。


「成功料金、四万五千円になりまーす。毎度あり」

「……ッ、クソ! この人でなしが……! さっさとこれ持って消え失せろ、二度とその面を見せるんじゃねえ!」

「あら酷い。俺がいなかったら今頃死んでるのはお前なのに。まあいいや、貰うもんは貰ったしお暇しよっか竜胆くん」

「ここで俺に話振らんでくださいよ……すみません、お邪魔しました。では俺たちはこれで」


 こちらを射殺さんばかりに睨んでくる男から、そそくさと立ち去り二人は駐車場に停めてある車へと乗り込む。手渡された茶封筒には提示した金額よりも多い枚数の紙幣が入っており、少しばかりイロをつけてくれたらしい。ある意味口止め料の意味も込められているのだろう、本部にこの騒ぎを知られればオーナーの首が飛ぶのは間違いない。


「仕事も終わったし帰るかー。それともどっか寄って食べてく? 腹減ったでしょ」

「いや今何時だと思ってんですか。俺もう眠いし帰りましょうよ」

「えー。最近の若い子って夜型って聞いたけどそうでもないんだな、じゃあ家まで送るよ」

「助かります……ちょっと仮眠取ってもいいすか……」

「いいよー。君んちまで遠いし寝ときな」

「はい……おやすみなさい……」

「おや、もう寝ちゃった。まあ今日が初仕事だし疲れるよねえ。やれやれ仕方ないな、安全運転でいきますか」


 助手席ですっかり寝入ってしまっている竜胆を横目に、紫苑はエンジンをスタートさせゆっくりと車を走らせる。暁降あかときくたちの空は最も暗く、濃い夜の色をしていた。バイパスを走行する車の姿もほとんどなく、彼の運転する車体だけが滑るように走り抜けていく。車内は絶えず吐き出される冷房の風の音と青年の静かな呼吸音だけが聞こえる。


「……どうにも、ひとに優しくするって難しいねえ。君には俺のああいうところ、あんまり見せたくなかったんだけど。……嫌われちゃうのは、いやだな」


 どうにも口寂しくなって内ポケットの中を探ったが、先程煙草を全て使い切ってしまったのを思い出して、彼は小さく嘆息した。破邪退魔に効く様々な香木を使用した特別製の煙草は、あらゆる怪異や悪霊に効力を発揮するアイテムだ。だが、それは紫苑にとって諸刃の剣でもあった。

 すうすうと穏やかな寝息を立て、真横で深く眠りについている青年は、見た目だけなら充分に美しいと言えるだろう。長身に見合う均整の取れた肢体に肩にまで届く無造作に伸びた艶やかな髪、冷たげな美貌は艶美さと精悍さの双方を備えている。

 これほどに完成された見た目だからこそ「あれ」が取り憑いているのだと、どうにも率直に綺麗だと思い難いものがあった。

 紫苑には変わらずに「視えて」いる。青年にまとわりつく不穏と不吉の影を。この世のものではない、異形の姿を。なぜならば。紫苑もまた、ひとではないものだからだ。


「お前はこの手で、俺が必ず祓ってやる」

『おすきにどうぞ? できるものなら、やってみるがいい』


 くすくすと嘲るように放たれた、人ならぬ笑声が耳朶をくすぐる。不快感に眉を顰め、紫苑はアクセルを軽く踏み込んだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ