表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/8

「それ」は、何処にでも居る

 二週間前から家に、なにか、いる。


 例えば帰宅時きちんと施錠したはずなのにいつの間にか開いている玄関の鍵。例えば最上階の角部屋なのにも関わらず夜中に天井裏から聞こえてくる人間の足音。例えば誰も連れ込んでなどいないのに洗面台一面に散らばる髪の毛。例えば自宅に一人でいると鳴り止まない家鳴り。

 あっ霊障ってやつじゃんホラー映画で見たわ、と竜胆りんどうは即座に察した。察しはしたが、オバケや幽霊なんてものが現代日本に実在するものかよ、とイマドキの若者らしく懐疑的であった。そのため怪奇現象が発生してから既に二週間以上経過していたが放置し続け──さすがに慢性的な睡眠不足に陥ったことで、いよいよ解決しないとまずい、と重たい腰を上げたのである。

 竜胆は眉目秀麗という四字熟語を体現したかのような美貌を除けばごく普通の大学一年生だ。大抵美形はハイスペックと思われがちだが成績や身体能力は並か良くて中の上であるし、特別にお人好しで優しいという訳でもない有り体に言えば凡人である。ただし見た目だけは良かった。見た目だけは。

 そんな竜胆は昔から周りに誤解を受けたり過剰に期待をされやすく、地元では「連れて歩くと女子が寄ってくるから」という理由でスクールカースト上位層に連れ回されたりしがちで、人間関係では色々と面倒を被ってきた。かといい外見以外はパッとしない竜胆はすぐに飽きられ、結局孤立していた。都合のいい男としていいように使われる日々にほとほと疲れ、進学を機に田舎を出て都会でひとり暮らしを始めた、その矢先の悲劇である。

 入居してまだ半年と経たない二階建て木造アパートは、築年数はかなり古いがリノベーション済みで内装はモダンかつオシャレな、初めての自分の城とも言うべき家だったのに。蓋を開ければ事故物件とやらである。本来は契約前に心理的瑕疵物件であると告知すべきではないのか。このような邪智暴虐など許しておけぬ、とメロスのごとく怒り狂い、竜胆は不動産屋へと駆け込んだ。

 が、しかし。担当の営業マンはおかしいですね、と首を捻った。彼曰く、竜胆に紹介した物件にそのような事故事件が起きたことはないという。竜胆の住まうアパートの他にもいくつか条件に合う部屋はリストアップしていたが、そのいずれも入居者が不幸な亡くなり方をしたり、刃傷沙汰が発生したりといったケースはないと。念の為過去に遡って調べてもらったが、やはりどれも事故物件ではなかった。

 じゃあ現在進行形で起きているこの異常現象はなんなんだよ。というのが竜胆の悩みである。更に困ったことに、竜胆には入学から数ヶ月経っても未だに友人と呼べる存在がいなかった。ただ一人、高校時代からの付き合いで、偶然にも同じ大学に通う腐れ縁の女性──菖蒲あやめを除いて。

 大学デビュー組である菖蒲はとにかく派手なルックスの持ち主だ。白に近い金髪を二つに結わえ、つり上がった眼に濃い化粧、そして両耳はピアスまみれで露出の激しい服装と遠目からでもよく目立つ。この日も彼女はひらひらふわふわしたピンクのトップスにミニスカート、ごつい厚底靴という出で立ちであった。俗に言う地雷系というやつだろうか。

 文系学部の竜胆とは違い、理系の彼女は一年のうちから課題にレポートに実習にと日々忙しい。たまたま昼休憩に学生食堂で見かけたところを慌てて捕まえ、相談料として缶コーヒーを貢ぐことでどうにか話を聞いてもらえた。主に顔面が原因で日頃悪目立ちしている竜胆と二人きりという状況のせいか周囲からチラチラ視線が飛んできているというのに、平気そうな面をしている彼女はなかなかに豪胆な人物である。


「じゃあアタシの兄貴に掛け合ってみる?」

「え、お前きょうだいいたの? 初耳なんだけど」

「うん、まあ。彼氏にも誰にも言ってないし。竜胆だけだよ、この学校でアタシに兄貴がいること知ったの。それはともかく、アイツなら何かしら知ってると思う……多分」

「多分って。断言できないのかよ……」

「だって最後に顔合わせたの小学校入る前だし。それ以降ずっと音信不通だったし。あのバカが生きてること知ったの最近だし。でもちっちゃい頃から、なんていうのかな……不思議な力みたいなもんはあったよ。その、オバケとか、ユーレイとか? 視える人っつうのかな。なんかそんな感じ」

「曖昧だな……でも今は猫の手も借りたいって状況だし、良かったら紹介してほしいんだけど」

「いいよ。じゃあ明日、午後三時に神保町の『キマイラ』って喫茶店に来て。そこ、兄貴のやってる店だから。ま、アタシも明日初めて行くんだけどね」


 という訳で翌日。

 相変わらず収まる見込みのない霊障に大いに睡眠を邪魔され、寝不足のまま彼は例の店へと向かった。八月も半ばを過ぎ、いよいよ猛暑が本格的に牙を向いてきた東京の夏はあまりにも厳しい。額どころか全身から汗が噴き出し、コンクリートによる照り返しと熱気を孕むビル風に体力を大幅に削られつつ、赴いた先は雑居ビルの地下にある喫茶店だった。

 ビル横の階段から地下へ下っていくと、入口にドアベルのついた今どき珍しい純喫茶風のカフェがある。ブラックボードには乱雑な字体で本日のおすすめが書かれ、ガラスケースの中には年季の入ったオムライスやパフェなどを象った食品サンプルが飾られており、褪色した玄関マットに掠れた文字で「純喫茶・キマイラ」という店名がかろうじて読める。ずいぶん古い店のようだが、本当に菖蒲の兄が店主なのだろうか。訝りつつも入店してみる。


「いらっしゃい。あー……君が菖蒲の言ってた子か。悪いけど看板、クローズにしてもらえる? んで玄関の鍵閉めて。ドアの下にあるから、そうそれ。ありがとう。まあ適当にかけてよ、外暑かったでしょ? 炭酸とかがいいのかな……今時の若い子って何が好きなのかイマイチよくわかんないなあ」


 うーんとカウンターで首を傾げている青年は、なるほど確かに菖蒲とよく似た姿をしている。伏し目がちのつり目など特にそっくりだ。足元まである長いサロンにベストと腕まくりしたシャツ、半端に伸びた髪を後ろで無造作に束ね、さっぱりした顔立ちに見る者を安心させるような柔和な笑みを湛えている。人畜無害で人の良さそうな好青年、という趣だ。


「えーっと……君が竜胆くん、で合ってる? いやあこの歳になると人の顔ってなかなか覚えられなくてさあ。俺は紫苑しおん。よろしく。この店の雇われ店長やってます。もう元々のオーナーは亡くなってるんだけどね」

「どうも。ああ、それで……菖蒲のお兄さんがやってるにしては年季入ってんなと思ってたから」

「前に色々あってビルごと店を譲ってもらったの。だから主な稼ぎは家賃収入で、この店は──まあ先代もなんだけど、趣味みたいなものかな。定休日もないから好きな時に閉めたり開けたりって感じ」

「それだけ聞くと定年後のおじさんが道楽でやってるみたいな感じっすけど……もしかして『本業』もそうなんですか」

「まあね。術師の仕事は趣味というには手広くやりすぎちゃって変に名前が売れちゃったもんだから、今じゃ家賃収入より店の売上より高い時もあるんだけど。あーあ、本当だったら今頃さっさと引退してるはずだったのになあ」


 やれやれとばかりに肩を竦め、紫苑と名乗る青年は手馴れた手つきで自分と竜胆の二人分、アイスコーヒーを淹れてくれた。店内の至る所に置かれたアルコールランプの明かりを受け、プリズムをつくるグラスには透き通った氷とコーヒーが並々と注がれている。チェーン店だがカフェでアルバイトしたこともある竜胆は、透明度の高い氷を作るのは難しいこともよく知っていた。

 道楽だとか趣味の一環だとか言う割に、紫苑はそれなりにこだわりを持って店を切り盛りしているのだろう。実際、店内にあるビンテージ物であろう革張りのソファはよく手入れされているし、洒落たデザインのテーブルは一つ一つ拵えが違う。板張りの床は埃ひとつなく磨かれていて、提供されたアイスコーヒーだって苦味と酸味のバランスがちょうどよく美味しかった。ブラックが苦手な竜胆でもガムシロップやミルクを入れずとも飲めたほどだ。

 思わずこのところ頭を悩ませ続けている事案も忘れてコーヒーの味に舌鼓を打っていると、いきなり店のドアが激しく叩かれた。そういえば菖蒲も来店すると言っていたのを今更思い出す。怒り狂った彼女が無理やり入ってくる前に慌てて紫苑がドアを開けてやり、足音荒く入ってきたふくれっ面の菖蒲が一言、アイスティーとだけ口にする。


「ったく信じらんない! 妹を締め出すとかありえないでしょ、このクソバカ兄貴! ただでさえ十年以上も音信不通でしかも行方不明になった挙句に入店拒否ィ? マジふざけてんのか!」

「ごめんて。お前がうちに来るの聞いてなくて、無関係のお客さんが急に来ても困るから竜胆くんにドア閉めさせたんだよ」

「ふーんつまりお前が悪いってことか。竜胆、今日の支払いお前持ちな」

「こら。いくら友達って言っても奢らすのはナシだ。大体、身内とそのお友達から金は取らないよ」

「えーっ、なになに奢ってくれんのお兄ちゃん! サンキューありがと愛してる! 今だけ!」

「安っぽい愛だなあ。まあいいけど」


 言いつつ彼はテキパキとアイスティーを用意し、グラスの淵に八分の一にカットしたオレンジを添えて妹に差し出す。嬉しそうにドリンクを受け取る菖蒲は無邪気そのもので、荒っぽい口調や刺々しい態度とは裏腹に兄を慕っているのが見てとれた。菖蒲の彼氏がこの様子を見たらどんな顔をするか見ものだな、と思いつつ竜胆は自身の受けている被害について掻い摘んで説明し、本題を切り出す。


「それで、俺の頼みは引き受けてもらえますか」

「……ハア。仕方ないなあ、他ならぬ妹の友達からの依頼だし、引き受けない訳にもいかないでしょ」

「ありがとうございます! これでゆっくり眠れる……!」

「ええ……そこで怖がるとかビビるってことないんだ。変わってんね君」

「いやだって安眠妨害されんのが一番ムカつくし……正直、寝てるとこ邪魔さえしなきゃ別にどうでもよかったんですけど、夜に限って足音立てたりとか耳元でなんか喋りかけてくるとか、もう本当うるさくてうるさくて」

「ああそりゃイラつくわ。俺ならその場でぶん殴って叩き出すけど、素人さんじゃそうもいかないしなあ。おっけー、なら今晩にでもさっそく君の家に伺わせてもらおっかな、事故物件じゃないならオバケの正体も概ね予想つくし」

「えっ今日!? そんなすぐ!? 俺から相談持ちかけておいてなんですけど大丈夫なんですか……? その、紫苑さんにも予定とか、」


 竜胆の頭を過ぎったのは彼にも恋人など親しい相手との用事があるのではないか、ということである。兄妹揃って人目を引く姿をしているのだ、仲のいい女性の一人や二人、居てもおかしくないと思ったのだが、あははと笑い声をあげたのは菖蒲である。小馬鹿にしたような顔で兄を指し、あっさり否定した。


「んな訳ないでしょ、女心もろくに分かんねー朴念仁の鈍感野郎なんか女の子がまともに相手してくれると思う? 兄貴に恋人なんか百パーありえないって。兄貴の貞操を賭けてもいいね」

「その場合勝っても負けても俺だけが損するじゃん……賭けになってないだろ……」

「問題そこですか? ええとじゃあ本当に今日、うちに来るんですか。えっどうしよう、部屋の片付けってしたかな……」

「そっか、いきなり訪ねるのも良くないよね。ごめんごめん、生きてる誰かの家に行くなんて仕事でも滅多にないから久しぶりで、つい」

「存命でない人の家に伺うことはよくあるんですね……」


 時刻は午後四時をそろそろ過ぎるかといった頃合いだった。夏場なのでまだ日が落ちるには早いが、怪異と出くわしやすい時間帯である逢魔が時はなるべく避けたいという紫苑の意向で、早めに出発することになった。菖蒲はこのあと彼氏とデートだというので店先で別れ、ビル横の駐車場に停めてある紫苑の愛車へ乗り込む。結局、菖蒲は単に兄会いたさに用事もないのに店までわざわざ来ただけのようだった。

 先に車内で待機しているよう言われ、一度ビルへと戻った紫苑を待っていると、彼は浄衣に着替えてから運転席に乗り込んできた。しかも何やらやたらと大きなアタッシュケースまで持参している。先ほどのギャルソンスタイルも似合っていたが、深紫の浄衣は更に着慣れているように竜胆の目に映った。


「いやー遅れてごめんごめん、おまたせー。それじゃ出発しよっか」

「え!? 格好についての説明なし!?」

「そっか普通はびっくりするよね。これね浄衣っていって神主さんが着る正装で、」

「いやそこじゃなくて! なんでわざわざ着替え!?」

「うーん、だってこれから挨拶しに行く訳でしょ、君んちにいるひとのところに。なら相応の服装とかお土産とか用意すべきじゃない? 最近はTPOっていうんだっけこういうの」

「なるほど……それならスーツでもいいんじゃ……」

「『普通の人間』相手ならね。まあいいや、時間ないしそろそろ行こう。案内ナビお願い」

「あ、はい。わかりました」


 おそらくファミリー向けであろう六人乗りのミニバンが紫苑の愛車だった。てっきり既婚者なのかと勘違いしそうになるが、後部座席は楽器ケースやら何やら荷物で溢れており余分に座れるスペースがないので、基本的に一人で使っているようだ。今も竜胆は自宅までの道順を教えるためもあるが、助手席に座らされていた。

 紫苑の店からは車で約一時間ほどの距離に竜胆の暮らす部屋はある。途中で夕食のおかずを買うためスーパーに立ち寄り、ついでに榊を買ってきてほしいと紫苑に頼まれたので、店内併設の花屋で榊も購入した。紫苑本人は大変悪目立ちする服装なので車から降りられないせいである。こうしてなんだかんだと時間がかかり、無事にアパートへ着いた時にはもう時刻は夕方五時を指していた。

 建物自体は昭和後期に建てられているので築年数はそこそこ経過しているものの、近年リノベーションされたばかりなので内装はなかなかにシャレている。ロフト付きのワンルームに風呂トイレ別の水周り、更にコンロも二口とくれば都内の学生向けアパートとしてはかなり上等な部類に入るだろう。陽当たりも悪くないし、キャンパスからも徒歩圏内なので竜胆としてはできれば引越しは避けたいところだ。

 入室するなり間取り全体をきょろきょろ眺める紫苑の目には何が映っているのだろうか。不安になりつつ竜胆は買ってきたものを冷蔵庫にしまい、干しっぱなしの洗濯物を取り込む。すぐに解決するからいつも通り過ごしていていい、と事前に紫苑からは言われていたのでその言葉に従う。普段であればそろそろ夕飯の支度に取り掛かるところだが、さてどうしようかと竜胆が頭を悩ませていたその時。


「ねー竜胆くん、君はさ穏便に済むけど月単位で時間のかかるやり方と、速攻で終わるけどその代わり荒療治になるやり方だったらどっちがいい?」

「は? なんですかその質問。えっもしかして怪奇現象の件について言ってます?」

「それ以外にある訳ないじゃん。で、どっち?」

「どっちって言われても……そりゃできればさっさと終わらせてほしいですけど」

「よっしゃ分かった後者ね! じゃあさっそく準備するから手伝ってくれる?」


 にこにこと胡散臭い笑顔の紫苑につい釣られる形で頷き、竜胆は青年の指示に渋々従うこととなった。あまり部屋に物を置かない主義なのでリビングには座卓と座椅子にラグくらいしかないが、車から持ってきたアタッシュケースや楽器ケースの中身を次々に取り出してセッティングしていくと、さして広くない室内がいっそう狭苦しく感じる。

 出来上がったのは神棚を模した紫苑曰くお迎え基本セットだ。お社、紙垂、注連縄、御神酒、盛り塩、米といったものが座卓を埋め尽くすような形で飾られている。今から怪しげな儀式でも始まりそうな気がして竜胆は落ち着かない気持ちになった。ただ夏頃によくやる心霊番組でも似たようなセットは見た覚えがあるし、確かに「らしい」といえば「らしい」のだ。


「よし。そろそろ始めるか。竜胆くんは俺の隣でただ座ってるだけでいいから」

「はあ……これで本当に上手くいくんですか?」

「まあまあ、大舟に乗ったつもりで任せてよ。ちょーっと苦しい思いをするかもしれないけど我慢ね」


 にっこり。

 胡散臭いという言葉をこれでもかと煮詰めて濃縮したような、まるで本心が見透かせそうにない笑顔を貼り付け、お迎え基本セットの前で竜胆と向かい合うようにして座る青年は玲瓏たる声で祭文を読み上げ始める。もしかして人選間違えたかも、と顔を引き攣らせた竜胆だったが既に遅い。祝詞のような真言のような、謎の言語が部屋に響き渡った瞬間、突然身体の自由が奪われる。


(え、なに、なんで急に身体が……)


 戸惑う竜胆だがもはや声を出すこともできなければ指一本動かすことも不可能だ。まるで誰かに肉体を乗っ取られたかのようで、視界すら見え方がなんだかおかしい。モニター越しに誰かの視点を見せられているみたいだった。もう確信できる。今の自分は、自分じゃない。もう一人、誰かがいる。この肉体の中に。


『くるしい……くるしい……どうして彼は私を見てくれないの……いつもひとりぼっちで、誰かと仲良くする様子もなくて、だからせめて私が彼の孤独を癒してあげたかったのに……なんで、なんで私を見てくれないの、私を見てよ、どうして……ねえ、どうして?』


 自分じゃない何者かが、自分の声で何かを喋っている。声質までもが変化した訳ではないので、それが女性のものであると気づくのに少し時間がかかった。この身体に乗り移っているのは、竜胆の知らない女の子だ。


「君がどこの誰かは存じ上げないけど、彼はすごく困ってるみたいだよ?」

『だってこうでもしなきゃ、彼は私に気づいてくれないじゃない!』

「だから足音を鳴らしてみたり勝手に鍵を開け閉めしたり、些細な嫌がらせをしたの? でも彼、まだ君の正体に思い当たってないみたいだけど」

『そんな……嘘、嘘だ、あんなにいっぱいアピールしたのに! 無言電話とかメールとか夜中にたくさん送ったし、彼のアカウントだってフォローしたし、いつも物陰から見守ってたし、そうそう夏休み前には匿名で誕生日プレゼントだって……』

「……へえ、そう。それで君から話しかけに行った? 授業で一緒になった時にさりげなく隣に座ってみるとか、直接彼の自宅に投函するのではなくて普通にラブレター送るとか、そういうのは?」

『馬鹿なこと言わないで! そんなの彼の迷惑になっちゃうじゃない! そんな恥知らずな振る舞いできる訳ないでしょう!? 大人のくせにそんなのもわかんないの!?』

「そ、そっかあ……俺の手には負えそうにないな……で、結局のところ君はアピールだのアプローチだのとほざいて迷惑行為に勤しんだばかりか、こうして生き霊飛ばして好いた相手の安眠妨害してる訳だけど、その点についてはどうお考えで?」

『安眠妨害? なんのことか分からないけど寝ている彼をおはようからおやすみまで見守るのってとっても素晴らしいと思うけど?』

「……こりゃダメだ。地雷女の話なんか大人しく聞いてやるんじゃなかった」


 これってオバケが怖いんじゃなくて人が怖いオチのホラーじゃねえか! というツッコミが喉まで出かかった。出なかったのは肉体の主導権を奪い取られているからだ。人より少々鈍感な自覚のある竜胆だが、まさか現在進行形でストーカー被害にまで遭っているとは夢にも思っていなかった。しかもストーカーはストーキングでは飽き足らず生き霊を飛ばして自分の睡眠を邪魔していたらしい。無自覚に。

 キーキーと金切り声を上げる生き霊もといストーカー女は今にも紫苑に掴みかかりそうな勢いだ。どうにかして身体を取り戻したいが、彼女の自我があまりに強すぎて竜胆の意識はずっと引っ込んだままである。気持ちばかりが焦る中、紫苑がふとこちらへ向けて視線をよこした。案ずるな、と言われているかのようでからまわっていた精神が少し落ち着きを取り戻す。


「君の言い分はわかった。でもアプローチとしては大いに間違っているし、君は明確に彼に迷惑をかけている。そこは自覚した方がいい。俺から言えることはただ一つ。付きまとうな、これ以上この子に」

『やだ……やだ、だって、見てくれないもの、私が何をしたって彼は全然ッ、私のことなんか、私のことなんて、ちっとも見てくれやしないんだから! だったら、それなら、こうして傍にいることくらい許してくれてもいいじゃない!』

「……君は、好きな子にそうやっていつまでも我儘を押しつけ続ける気でいるの? 彼の望まないことをずっと。彼の嫌がることばかりを延々と。それってさ、ずいぶん独りよがりな『愛』だよね?」

『私は……でも、別に彼に迷惑かけたりなんか、』

「もういい。言い訳は聞き飽きた。説得でどうにかなるならその方が安く済むからと思って呼び出してみたけど、案の定無意味だったな。くだらない時間を浪費した。──消そう」


 酷く冷ややかな物言いだった。遥か高みから竜胆を、いや竜胆の中にいる「彼女」を見下ろす青年は浄衣の袂から霊符を取り出す。達筆すぎてなんて書いてあるのかは読めないが、それが彼女に致命的な一撃をもたらすことを咄嗟に竜胆は悟った。このままでは言葉通り、彼女は消える。否、消される。確かに早期解決を望んだのは竜胆だが、それは加害者の消滅を許容してのことではない。


「待って! 待って……紫苑さん、もう少しだけこの人に時間を……あれ? 喋れる」

『あ! り、竜胆くん、ああそんな……私に会いに来てくれたの? 嬉しい! ねえお願い助けて、この人酷いの、私に酷いことばかり言うの、ねえ私を助けてよ、お願い……』

「往生際の悪い……これだから人間ってのはろくでもないな。言い分なんか本当に聞いてやるんじゃなかった。ああ失敗した。もういいや、全部めんどくさい、消しちゃおうか。竜胆くん、悪いけど──君には少し痛い思いをしてもらうよ」

「いやあの、待って俺の話を、」


 温度のない声と凍てつく眼差しが、竜胆とその横にいる彼女へと注がれる。いつの間に肉体から飛び出してきたのか、ゆらゆらと半透明に揺らぐシルエットが彼の隣にいた。

 緩く巻いた髪に化粧っ気のない素朴な顔立ち、綿シャツとスカート姿の女性をおそらく竜胆は一度だけ見た記憶がある。とはいえ入学間もない頃オリエンテーションでたまたま席が隣だった、ただそれだけだ。それだけのことで彼女は竜胆に付きまとい、あまつさえ霊障まで引き起こしたのか。生き霊を飛ばしてまで。


『私……私っ、そんな、迷惑かけるつもりは、ただ見てほしくて、あなたに私を見てもらいたくて、でも私をあなたは見てくれないから、だから』

「うるさいなあ。ごちゃごちゃと惨めったらしく囀るなよ。だから嫌いなんだよ……愛だの恋だの、ぎゃあぎゃあ騒ぐ人間なんて生き物が……」


 嫌悪感を隠しもせず、もはや憎悪に近い感情を滾らせて紫苑が霊符をかざす。あれを使わせたらまずい、と慌てて竜胆は横からタックルをしかけて霊符を取り上げた。拍子抜けするほど青年は身が軽く、浄衣で誤魔化されているが相当に線が細い。思わずちゃんと食事しているのか疑わしくなるくらいに。


「……は? 何、急に。解決してほしいんじゃなかったの。それ返して」

「解決はしてほしいですよ。でもこんな、無理やり消すとか、その……そんなのは望んでません。確かにさっきから何言ってんだこいつって呆れたし正直キモイなとも思いましたけど」

『竜胆くん……! 私のことたすけてくれた! ありがとう竜胆くん、ねえ私を見てくれる? ずっと見てくれる? ねえ、ねえったら!』

「……あのさ、そういうの、もうやめてほしいんだけど。あんたと俺は別に仲良くもないし、もちろん友達でもない。だから……その、普通に話しかけてよ。それでよくない?」

『竜胆くん……? 私を見てくれないの、ああ、そう。ならいい。もういい。知らない。私を見てくれないなら、もう、どうだっていい』


 彼女の瞳が今にも泣きそうに潤み、やがて朧げだったシルエットがどんどん薄れて消えていく。それまではっきりと滲んでいた好意の色が完全に失われたのを見てとり、竜胆は思わずその場に膝から崩れ落ちた。身を呈して庇ったのになんだその言い草は、と徒労感が全身を包む。やっぱり紫苑に逆らわない方がよかったか、と後悔していたその時だった。

 あはは、と軽やかな笑い声が聞こえる。声の主は当然ながら紫苑その人であったが、さっきまでの威圧感はどこへやら、妙に上機嫌そうに微笑んでいた。


「いやー、おもしろいもん見せてもらったわ。君ほんっと度胸あんねえ。その霊符、霊だけじゃなくて人にも効果あるから、下手したら消えてたのは君の方かもしれないのに」

「……え!? うっそ、それもっと早く言ってくれません!? ていうか……もしかして俺のこと試してました?」

「試したつもりはないけど。君はどうするかな、って様子は窺ってた。割って入るならそれでよし、静観するようなら……まあ、それもそれでよしってことで。とりあえず合格かな」

「は、はあ……ってなんの!?」

「いやー、そろそろ業務拡大の時期かなぁと考えていてね、いい感じの助手が欲しかったんだよ。でもこの仕事って特殊だろ? 物怖じせず度胸のある馬鹿ってのがなかなか見つかんなくてね。でも君が来てくれた。うち給料はいいよ、その辺のサラリーマンより稼げる。うちの店で賄いも出してあげる。もちろんタダで。──で、どう?」

「ど、どうって言われても……その……」


 返答にまごつく竜胆に対し、あらぬ方向を見やって紫苑がダメ押しのように告げた。


「君に憑いてる『それ』も俺がなんとかしてやる、って言ったら?」

「……ッ! それ、本気で言ってます? マジで可能なんですか!? こいつを『祓う』ことが」

「もちろん。術師だからね、嘘はつかない。できないことをできるとは言わないよ」

「……っ、じゃあ、ほんとに……本当の本当に『できる』んですね?」

「ああ。ただし代償は支払ってもらう。それでもいいなら。ま、返事は急がないから、いつでもまたうちの店に来てよ。歓迎するからさ」


 あえかな笑みを浮かべ、お迎え基本セットをそそくさと元のケースにしまうと紫苑は荷物を片手に部屋を出ていく。慌てて見送ろうとしたが拒否されてしまった。お代はまたの今度に、と台詞を残して彼は去っていく。華奢な後ろ姿がミニバンの中に消えていき、しばらくして住宅街を走り抜ける車を玄関先からぼんやり眺めながらも、もう竜胆の腹は決まっていた。



◆◆◆



 竜胆が生まれ育ったのは、東北でもかなり辺鄙なところにある、山間の寒村である。人口は百人にも満たず、痩せた土地ではろくな作物も育たず古い時代には幾度も飢饉に見舞われてきたような、行政と人々に見捨てられてきたかのごとき小さな集落。冬の寒さは厳しく春はあまりに短い。そんな土地であったから、村全体が閉鎖的で排他的な気質なのも無理からぬことだったのだろう。

 村には奇妙な風習があった。七年に一度、七月七日から始まり七日七夜ぶっ通しで行われる祝祭にて、その年に七つを迎える子供をその間ずっと御堂で生活させるというものだ。「神おくりの子」と呼ばれる、選ばれた子供は村を守る女神へ捧げられる花婿なのだという。祝祭の年、七つの子は竜胆だけだった。というか竜胆以外に子供と呼べる年頃の人間はいなかったのだが。

 神おくりの子に選出された竜胆は、めいいっぱい着飾らされて御堂で一週間暮らすことになった。当然親はいない。身内どころか他の大人も、神おくりの子以外は誰も御堂の中に入れないしきたりなのだ。もちろん期間中、外出も禁じられている。電気もガスも風呂もない、トイレしかない六畳ばかりの小さな部屋に閉じ込められ──七日七晩。

 きっと死んでいてもおかしくなかった。いやおそらくはそれが狙いで目的だったのだ。今ならわかる、元は口減らしの儀式だったのだろうと。何度も飢えに苦しめられてきたこの土地で、ただ飯を食うだけで労働力にもならぬ子供など邪魔なだけだ。だから神様への「捧げ物」ということにして間接的に殺した。

 本来なら形骸化してもいいはずの、まったくもって時代遅れという他ない、恐ろしき因習が蔓延り続けたのも「余所者」が長きに渡りやってこなかったからだ。今はもう居ない、竜胆の両親を除いては誰も。儀式に反対し、我が子が殺されるのを阻止しようとした二人のことを今でも彼は忘れることができない。そして無惨に命を奪われ、理不尽に死んでいった両親は最期まで案じていた。竜胆が生き延びることを。

 水も食料も充分に与えられず、七日間もじわじわと真綿で首を絞めるかのように苦しめられ続けた彼はそれでも死なず命を繋いだ。皮肉にも竜胆が死にかける要因となった、ある者が──彼の故郷を護る女神が竜胆少年の生命を守った。七日七夜経ち、様子を見に来た村の大人たちは息のある神おくりの子を見てこう叫んだという。「この子供こそは『無貌の美姫』の愛し子だ」、と。

 そうして竜胆は今度こそ村の一員として迎えられ、義務教育が終わるまでを村長や大人たちに囲まれて……というより監視されながら過ごした。なにせ彼は儀式という名の殺人未遂の生き証人だ、当然ながら村にとって野放しにできる人間ではない。竜胆は高校入学をきっかけに村を出て仙台で一人暮らしを始め、そして大学進学に合わせて上京した。もう二度とあの村に捕まらないために。

 けれど誤算はあった。基本的に村から離れられないはずの彼女──守り神であるはずの無貌の美姫を連れてきてしまったのだ。顔の無い女神はいつだって竜胆の背後に控えている。今なおずっと、これからも永遠に。竜胆に危機が迫った時、助けてくれる代わりに彼女はあるものを奪う。命の代価となりうる「それ」を未だ、竜胆は知らないままに生きている。

 ただ、何かとても大切なものを失ったという、途方もない喪失感だけを抱えて。


 けれど青年は、あの男は言った。自分なら「それ」を引き剥がせると。彼女をこの身から解放してやれると。竜胆を自由にできるのだ、と。ならばそれに縋るしかない、今は。

 ──たとえ、代償に何を失うとしても。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ