9. なんであれ、暗い顔は見たくない
ダニエルはアナスタシアの置かれている状況がよくわからなすぎたため、アナスタシアと彼女の妹の異様な会話を聞いていた知り合いから、あらかたの情報を聞き出し、彼なりに整理をした。どうやら妹さんがアナスタシアの腕輪を無理矢理奪って、返してほしければ土下座しろと命令し、アナスタシアは従ったが、返してもらえなかったという顛末らしい。
アナスタシアは腕輪を盗られるまで妹に何も言わなかったらしく、姉妹関係は良好とは言い難い状況にあるのだろうというところまでダニエルは推察できた。妹はいつから姉に対して横暴なのか、あんな妹を野放しにしている両親はどのような人間か、キャシーの夫でアナスタシアの元婚約者は何をしているのかなどの疑問が生じた。ダニエルはとりあえず、アナスタシアの家族は彼女に優しくない存在だろうとを考えをまとめた。
それから、彼女の研究室に向かった。お昼休みであるため、お手製のミートパイを持って行くことにした。これもまた自信作である。
「アナスタシアさん、こんにちは」
「こんにちは」
アナスタシアはダニエルを出迎えた。いつもダニエルがバリア破りに訪れている時間であるため、気にしていたのだろうか。
「バリアの件ですか?」
ダニエルは違うと首を振り、柔らかな表情になるよう心がけた。
「……あの時、俺の知り合いがね、あそこにいたんだ」
ダニエルは知人からアナスタシアが妹に土下座させられていたことを聞いたと打ち明けた。
「そうでしたか」
アナスタシアはあの時のことや妹の横暴な振る舞いはダニエルのいずれ知るところとなるだろうとわかっていたが、彼が直接妹のことを聞いてくるとは思わなかった。家族間の面倒事に関わりたいと思う人間はほぼいないだろう。
「もしかして、いつもあんな感じなの?」
「……いつもはほしいと言われたらそのまま譲っていましたね」
ダニエルはいつもあの調子ならば譲るというより、奪われるという言葉が適切だと感じた。
「何でも?」
「ええ」
「婚約者も?」
「……ええ」
ダニエルは妹が姉の婚約者を奪ったという下世話な噂に真実味が増し、やはりやばそうな家庭だなとシンプルに思った。ダニエルの家族とドーロン伯爵一家の実態は全く異なり、理解や想像の及ばないところにあるとダニエルは心の中で頭を抱えた。
「妹にほしいと言われるかもしれないと想定するべきでした。それなのに腕輪をずっとつけていたので私の不注意です。研究室に勤めてから会っていなかったので、すっかり忘れていました」
アナスタシアは学校生活を通して自分の家庭の異常さを認識していた。それでも、アナスタシアは何かを変えようとは微塵も思わなかった。両親や妹にあまりいい感情は抱いていないため、彼らのために何かをしようという発想はなく、また、自分があの家から距離を置くことが精一杯だった。
「……あなたの不注意ではないよ」
ダニエルはアナスタシアが悪くないと伝えるだけで精一杯だった。
「……たしかに妹がわがまま過ぎるところもありますが、ずっと許容してきたんです」
それでも、妹がああも傲慢になった一因はあるのではないかと感じ、アナスタシアはどんよりと陰鬱な雰囲気を漂わせた。
「うん、そうかなぁ」
アナスタシアに非はひとつもないんじゃないかと思い、ダニエルは悩んだ。彼には家族を思う彼女の心情について理解が及ばない点が多かった。だから、まずは分かりそうなことから話をしようと考えた。
「ねぇ、あの腕輪、そんなにあげたくなかったの?」
「ええ」
「気に入ってたんだね」
「はい」
ダニエルはちょっと無理やり買わせたところもあるかなぁと少し心配していたため、大事に思ってもらえて嬉しかった。
「じゃあ、俺のをあげるよ」
「……あの腕輪がいいんです」
アナスタシアは首を振った。彼女にとってあの腕輪には、ダニエルと海に行って楽しかった思い出が詰まっていたのだ。
「じゃあ、戻ってくるまで俺のを持っててよ」
「……また盗られます」
アナスタシアは俯いて、ぼそっと呟いた。
「そうしたらまた別のを買いに行こう。また一緒に選ぼうね」
ダニエルは優しく諭すように言って、アナスタシアに寄り添った。
「ごめんなさい」
「んー」
「ありがとうございます」
「うん」
アナスタシアはダニエルの優しさ心のあたたかさを感じ、胸がいっぱいになった。
「そういえば、今日はこれ作ってきたんだ」
ダニエルはミートパイを取り出した。パイのサクサクとした食感には特に自信を持っていた。
「一緒に食べようよ」
「あの、バリア準備しますね」
アナスタシアはいつものようにバリアを張ろうとした。
「それはあとで。一緒に食べよう」
「はぁ」
アナスタシアは今日ダニエルは何をしに来たのだろうと少し疑問に感じた。
「ちょっとおしゃべりしようよ。時間ある?」
「ええ、もちろん」
ダニエルはアナスタシアの家族の話を切り替えようと頭を巡らせた。
「……えっと、俺は弟がいてね。これがほんと生意気なの」
「おいくつですか」
「今、17かなぁ、たしか」
「そうですか」
ダニエルが兄を思う弟の顔をしていた。あたたかい表情でアナスタシアは仲のよい兄弟なのだろうなと微笑ましく感じた。
続けて、ダニエルが俺の家族はね……と、母や父の話しをすると、アナスタシアは興味深そうに聞いた。家族愛が溢れる家庭だとアナスタシアは感じた。自分の家族のことを思う気が進まなそうな暗い表情と打って変わって、アナスタシアは明るい表情を見せた。
このちょっと口角を上げて目を細める優しげな顔が見たかったのだとダニエルは思った。




