八 赤い髪の女
ヤンキー達の中の金髪でも、短髪でも、坊主頭でも、もちろん、さっき助けた少年でもない。というか、今の声の高さの感じだと……
「リョーカさん!」
駐車場の入り口に現れたその人物を見て、坊主頭が歓喜にも似た声をあげる。
今、呼んだのがもしその人物の名前なのだとしたら。
「……女?」
ゴーグルの下の目を細めて、俺はそいつを凝視する。
背はそんなに高くない。俺よりも、いや、赤江よりも小柄なくらいか?
黒のノースリーブにホットパンツといった格好で惜しげもなく肢体をさらし、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。
しかし、そんなスタイルの良さなど比べ物にならないほど強く自己主張をしているのは髪だ。
ライオンのたてがみのように逆立った、真っ赤な髪の毛。
赤毛などという生易しいものではない。
紅とか灼熱とか、そんな表現がしっくりくる、華々しくも毒々しい色だ。
少なくともこれで性格が大和撫子ということは、考えられないだろう。
「りょ、リョーカさん! マジありがてえ! ちょっと手ぇ貸してくださいよ!」
坊主頭の男は、リョーカと呼ぶ女の方に駆け寄り、俺の方を指差す。
「……あんだよ、オイ」
なんだよ、が、あんだよに聞こえるあたり、多分このリョーカさんという女は怖い人な気がする。
あの坊主頭も突然腰が低くなったし。
上下関係でもあるのか?
「あ、アイツがマジヤベーんですよ! あのゴーグルが、調子乗ってて!」
「いや、意味わかんねえよ。もっとわかりやすくしゃべれや」
その点は俺もリョーカさんに同意だ。
赤髪の女は苛立ちを隠そうともせず舌打ちし、バリバリと頭を掻く。
「だから、その、タクミとシュンスケがあいつにやられて……ほら、あそこに倒れてるっしょ! オレもかなりやばかったていうか、そんで、その」
しどろもどろになりながらジェスチャーまで加えて話す坊主頭だが、内容が支離滅裂だ。
「もういいよ、お前」
説明を続けようとする坊主頭を手で制し、リョーカと呼ばれた女は、にこっと清々しく笑った。
「しゃべんな、寝てろ」
「……っ!」
次の瞬間、俺は目を疑った。
リョーカが凄まじい速さで腕を振るったのと同時に、坊主頭の男の顔面が地面に叩きつけられ、ワンバウンドする。
悲鳴すらも聞こえなかった。
男はそのまま沈黙し、動かなくなる。
「死んでないよな、それ」
俺は恐る恐る坊主頭の男を指し、尋ねる。
「知らねえよ……ったくアタシに寄って来る男はどいつもこいつもこんなんばっかだ。嫌んなるわぁ」
男をなぎ倒した右拳をもう片方の手のひらで包み、ばきばきと小気味よい音をたて、リョーカは溜息を吐く。
ギロリと、身もすくみあがるほどに獰猛な光を浮かべた三白眼が俺の方を向いた。
何だろう、俺が関わる女はみんな、こんなんばっかだ。
目が怖いんだよ、赤江といい、この赤髪のお姉さんといい。
「誰だか知らねえけどよ、お前、わかるか? 大の男にやれ助けてくれだの、手を貸せだの言われる女の気持ちをよ。すり減るんだよなぁ、乙女心が」
「いや、俺、男なんでちょっとわかんないです」
「そりゃそうだな、ごもっともだ」
リョーカは腰に両手を当て、肩を揺らしておかしそうに笑う。
もしかして、この怖そうな女の人は話が分かる人なんじゃないか?
めちゃめちゃ強いけど堅気には手を出さないといった、古き良きヤンキーの精神のようなものを持ち合わせている、とか。
そんな俺の一縷の望みは、彼女の次の一言で打ち砕かれる。
「まあ……暇さえあれば喧嘩してるアタシも悪いんだけどな」
そう呟いたリョーカの表情を見て、俺は生まれて初めて戦慄という言葉の意味を実感した。
血も凍るとはこのこと。
猛獣が咆哮する声を聞いた時のような、命の危険を感じる圧力。
やばい、と思った時にはもう、赤い髪の毛が俺の懐に踏み込んできていた。
「遊ぼうぜぇ、お兄チャン」
囁くような声が聞こえた直後、俺の腹で何かが爆発した。
腹筋で弾けた衝撃が、内臓を蹂躙し、背中へと突き抜けていく。
さっきの男たちのパンチなど、これと比べればおままごとじゃねえか!
膝から力が抜け、地面に倒れこむ。
吐き気が、ひどい。
殴られたのか? わからない。
まるで見えなかった。立てるか? 無理だ。立てない。
寝てるしかない。寝てる? 俺はさっき倒れこんだ相手に何をした?
駄目だ、動け殺されるぞ!
「う、ぐぃぃぃいいいいい!」
反射的に体をねじって右に転がった。
口から自分のものとは思えないうめき声があがったが、気にする暇もない。
直後、さっきまで自分の体があった場所を、リョーカが脚で踏み抜いているのが見えた。
ガァンと、土木作業用の機械がたてるような音がして、地面がかすかに揺れる。
俺はそのままごろごろと転がって、その震源地から距離を取った。
「おうおう、ゴーグルの兄ちゃん、服のセンスはイマイチだがいーい腹筋してるねえ。滅茶苦茶鍛えてんだろ。アタシ、そういう男の子大好きよ?」
実に楽し気にリョーカは笑っているが、俺はそりゃどうもと軽口も叩けなかった。
口を開けば胃袋が裏返って出てきそうだったからだ。
立ち上がって、リョーカの足元に目を向けてみれば、その足元のアスファルトにかすかではあるがヒビが入っているのが見えた。
いよいよ、目の前にいる女が人間かどうか怪しくなってきやがった。
鬼か、悪魔か、怪人か。
どれにしたって俺が相手取るには荷が重すぎる。
「アタシに殴られて立ち上がるやつも久々だなあ。いやー、この雑魚っぱちどもにも感謝しなきゃな」
雑魚っぱちというのは倒れている男たちのことだろう。
……俺も許されるならそっちに混ぜて欲しいんですけど!
とにかく、この女を相手にしちゃ駄目だ。
集中しろ。逃げることだけに、集中しろ。
まだ体は動くが、あんなもんそう何度も耐えられない。
俺は痛む腹を押さえ、荒くなった息を無理やり殺す。
「そぉら、もっかいいくぜ!」
掛け声一つ、リョーカが踏み込んでくる。
攻撃する時に宣言してきてくれるのが不幸中の幸いか。
俺は相手の両拳にだけ全意識を注ぎ込み、その挙動を見る。
まずは顔面にフックとストレート、これは何とか躱せた。
だが、まだだ。次に来るのは、左の蹴りだ。避けられない!
「んが、ぁぁあああ」
とっさに右腕を下げて脚を受け止める。
腕の骨がみしみしときしむ感覚の後、痛みが走った。折れたかもしれない? ギリギリセーフ?
とにかくリョーカの動きは止まっている。
とりあえず攻撃は凌いだ。
俺は振り上げられたままのリョーカの左足を両手で掴み、全力を込める。
「いやん、大胆。でも、反撃してきてもいいんだよん」
リョーカは俺をおちょくるように言うが、知った事ではない。
つかんだ左足を力任せに持ち上げ、後ろに倒す……はずだったのだが。
「あれま、強引」
リョーカは倒れる前に背中をしなやかにそらせて手をついて、バク転のような形で後ろに回る。
ついでに俺が持ち上げたのとは逆の右足も跳ね上がり、それが的確に俺の顎を捉えた。
早送りもなしでカンフー映画かよ、こいつ。
体重が載ってないぶん、意識を飛ばされるようなことはなかったが、俺はひりつく顎を押さえようとして、蹴られた右手が上がらないことに気づく。
二の腕の筋肉が、おかしくなってしまってんな、これ。
「いいね、いいねいいねえ! お姉さん楽しくなってきちゃったよ!」
大技を決めてどうやら気持ちよくなってきてしまったらしい。
リョーカはトントンとステップを踏み出している。
やばい、俺もう泣きそう。
いや、もう泣いてるかもしれん。
「そんじゃま、もちっと速くて強いのいってみよっか!」
有言実行、リョーカの次の攻撃は、もはや目で追うことすらできなかった。
一発目の拳を顎に、二発目は腹にもらった。
抵抗する気も失せる、圧倒的な暴力。
俺は消えかけた意識の中、リョーカが三発目を振りかぶっているのを見た。
ああ、死ぬかもな。俺。
こんなとこで、こんなわけのわからんイカレ女に殺されるのか。
赤江のことも、先生のこともわからず、五つの課題も無駄になる。
そんなのは、あんまりだ。
冗談じゃねえ、冗談じゃねえぞ!
「ざっけんなあああああああああああああ!」
腹の底から声を絞り出し、なけなしの力で身を捻る。
リョーカの拳が頬をかすめ、後ろに流れていくのが見えた。
ゆっくりと、時間が引き延ばされ、目の前の出来事が止まって見えるような感覚になる。
「おろ?」
俺が避けたのが意外だったのだろう。
リョーカの表情には驚きが浮かんでいた。
チャンス!
俺はリョーカの前に突き出された腕と、胸倉をつかむ。
形や、後先のことに構うな!
「うあああああああああ!」
ありったけの力を込めて、俺はそのままリョーカを投げ飛ばした。
重さの抵抗があったのは一瞬だ。
ふわりとリョーカの両脚が浮いて、俺の手から離れると同時に緩やかなアーチを描いて飛んでいく。
逆さまになり、宙にうかぶリョーカの見開かれた目と目が合った。
その目には、何か信じられないようなものを見る時の人のそれが浮かんでいた。
リョーカの体はそのまま駐車場の入り口とは逆に位置するフェンスに背中から激突し、やかましい音を立てた。
ほんの少しの静寂の後、けたたましい笑い声がその場に響き渡る。
「あひゃははっははは! 何今の? 何だ今の! すげえなオイ!」
あれだけ派手に吹き飛ばされたのに、どうやらほとんどダメージがないらしい。
リョーカは逆さまになった姿勢のまま、手をたたいて大はしゃぎしている。
「付き合い、きれるかっての」
俺はすぐさま踵を返し、駐車場の入り口に向かって全力で走る。
「ああああああ! こらあ! 何で逃げてんだおまえええええ!」
狭い路地を抜けるまで、怒り狂ったようなリョーカの声が追いかけてきた。
いや、ほんとにしゃれになってない。
次に捕まったら間違いなくやられる。
路地から出た俺はすぐさま人混みに紛れ、足早に進んだ。
繁華街を抜け、何度も何度も振り返り、誰も追ってきていないことを願いながら、俺は走る。
体は悲鳴をあげていたが、赤江の家が見えてくるその時まで、俺は立ち止まることもできなかった。
お話の世界なら、野蛮で攻撃的な女の子も好きなんですけどね。
現実にいたら、流石にちょっと、ねえ? と思います。