五 投薬
学校が終わった後すぐに、俺は制服からトレーニングウェアに着替えて赤江の家へ向かった。
特に何かを準備して来いということも言われなかったので、いつも通りの格好だ。
到着して、トレーニング器具が置かれている作業場の方に向かうと、赤江が立っているのが見えた。
今日はジャージ姿ではない。
白いシャツに黒のパンツルック姿で、長い黒髪もおろしてある。
元から大人びている赤江には似合っていると思った。
しかし、運動するには向いていない格好だ。
「今日はずいぶんとかたっ苦しい恰好なんだな。就活にでもいくのか?」
「茶化すんじゃない。まあ、心構えの問題だ」
なんだそれは。
はぐらかされたような気がするが、話す気がない赤江から本音を聞き出すのは俺には無理だ。
変な探りを入れなくても、今日やらなければならないことははっきりしているわけだし。
「課題、やるんだろ? 何するか教えてくれ」
俺はその場で屈伸をして、肩をぐるりと回す。
特別痛むところはなく、昨日の疲れも残っていない。
体の調子はすこぶるいい。
「はやる気持ちはわかるが、少し話を聞いてくれ。最初に言っておくが、今回はスポーツテストじゃないんだ」
「そうなのか? じゃあ、知能テストでどうこうみたいな頭を使うやつか?」
「そう単純な話じゃないんだ、今回は。試されるのは人間性とでも言うのかな」
いよいよ何かわからなくなった。
眉をひそめる俺に赤江は言う。
「私が父さんから伝えられた最後の課題達成のための条件は二つ」
そう前置いて、赤江は細くて白い指を二本立てた手を俺の前にかざす。
「これからキミには街の中を歩き回って、悪いことをしている人間を探してもらう」
「……は?」
「そしてキミが『悪だ』と感じた何かから、誰かを助けること。これが条件の一つ目だ」
「すまん。もうちょっとわかりやすく言ってくれ」
赤江が言っていることに理解が追い付かない。
これは俺の察しが悪いからなのか?
それとも赤江が言っている内容がそもそもおかしいのか?
まずはそれをはっきりさせておく必要がある。
「難しく考えなくていいんだ。万引きでも、引ったくりでも、喧嘩でもいいから、お前が悪いと思ったことから人を救えばいいのさ」
「なんだ、そのヒーローごっこ」
開いた口がふさがらないとはこのことだ。
だが、赤江の表情は真剣そのもので、俺をからかう時の笑みは浮かんでいない。
本気で言ってるのか。こいつ。
「馬鹿なことを言っているのはわかっているが、必要なことなんだ。キミもこの街の治安が決して良くないことは知っているだろう?」
「それは、まあ、ガラの悪い奴は多いよな」
地元の人間としては恥ずかしい話だが、俺の住む吉野市の治安は全国的に見ても悪い方なのだそうだ。
何でも二十数年前に急激に都市化が進み始めたことで、外から多くの人が移り住んできたのが原因らしい。
道路拡張やら、ビルの建設やらの肉体労働に従事する連中の一部に、血の気が多かったり、マナーが悪かったりする人間がいて、それに感化された中高生が非行にはしることもしばしばだとか。
中学の時の生徒指導の先生がそんなことを言っていたが、その時にはすでに学校の中に風紀を乱している奴らが大勢いたのを覚えている。
そういう土地柄もあって、俺たちの住んでいる吉野市の夜の繁華街には近づかない方が良い。というのが真面目な人間にとっての暗黙の了解となっている。
幸い駅やら塾やらショッピングモールやらがある場所と、繁華街とは少し距離があるので、少し気をつけておけば危険な目にあうことは滅多にないはずなのだ。
「私たちが住んでいるこの街は、一歩間違えば危険な目に合ってしまうような場所だ。しかも治安は悪化の一途をたどっている。そのことを父さんも気にしていたみたいでな。何とかできないものかと思っていたんだ」
「そんなもん、警察に任せろよ」
「任せて、全てが救えているならこうなっていないさ」
「……そうなのかもしれないけどよ」
赤江の目には厳しい色をたたえた光が宿っている。
まだ納得いっていないところもある俺だったが、有無を言わせないその雰囲気に、つい黙ってしまった。
俺の沈黙を了承と受け取ったのか、赤江は話を続ける。
「そして、もう一つの条件だ。こっちの条件の方が私にとっても、キミにとっても重要でな」
赤江は表情を曇らせて、ポケットに手を突っ込み何かをとり出した。
シャーペンほどの長さの、筒だろうか。
白いプラスチックのカバーのようなもので包まれていて、ぱっと見では何か判断できない。
その筒を俺の前に差し出し、赤江は言う。
「一つ目の条件は人助けだったが、その前に、だ。キミにはこの薬を使ってもらう」
「なんだって? 薬?」
俺は赤江が手にした筒を凝視する。
白いカバーには装飾らしいものは見当たらなかったが、アルファベットでロゴのようなものが記されていた。
N、E……その続きは赤江の手に隠れて見えない。
この筒の中に、赤江が言う薬とやらが入っているということなのか?
「一応聞くけど、それ、なんの薬だ?」
「簡単に言えば、やばい薬だ。それもすごく、な」
赤江は困ったような表情で俺を見つめている。
これは多分、冗談じゃない。
赤江が冗談抜きでやばいというのだからそれはきっと、生半可な代物ではないのだろう。
俺は思わず唾を飲み込んだ。
「これは一種の、筋力増強剤みたいなものだ。即効性があって、使えばキミの運動能力は跳ね上がる」
「ドーピング、ってことかよ」
「それよりも、もう少し、強烈な影響があるかな」
ちょっと待て。赤江は何を言っているんだ?
俺はただ、先生に言われた課題をやってきただけだ。
昨日まではトレーニングをして、勉強をして、ただそれだけだったはずだ。
その目的も常識の範疇。普通より少しすごい人間を、俺は目指してきた。
赤江は、そして、先生は、そうじゃなかったっていうのか?
「これを使えば、キミはもう二度とスポーツの大会のようなものには出られなくなるだろうな。鍛えた体は一層強く丈夫になるが、人助けくらいにしか使えなくなるわけだ」
そこで赤江はふうっと深く息を吐き、肩をすくめて見せる。
「私から伝えられることは、以上だ。課題に取り組むかどうかはキミが選んでくれ」
双葉六平が成し遂げるべき最後の課題『体が強くなる薬を使って人助けをしろ』ということでいいのだろうか。
さすがにこれまで五年間教えてもらえなかっただけのことはある。
異色で異質、異常な内容だ。
初めから知っていれば、俺はきっと、取り組むことはなかっただろう。
「……いや、先生も、お前も、何者なんだよ」
「隠してきたけど、ただものではなかったのさ。察しの悪いキミは疑いもしなかったけどね。私たちがどんな人間なのかはまだ教えてあげないよ」
「まだ?」
「キミがこの最後の課題を成し遂げたら、必ず話す。私のことと、父さんのこともな」
「俺がもし、この場で嫌だと言ったら?」
「それでも私とキミは友だちさ。お互い生きてるうちは、ずっとね」
飄々とした口ぶりではあるが、赤江も、目の前のこいつも、いつもの調子じゃない。
焦っているような、不安を抱えているような、俺を突き放すような、ぐちゃぐちゃしていて整理できていない何かを隠そうとしている。
馬鹿にするな。
五年も一緒にいたんだ。
いくら俺でも、そのくらいは察することができる。
普通ならここは断るところだ。
いくらたった一人の友だちでも、世話になった恩師の娘でも、その信用には限度がある。
明らかに危険な何かに首を突っ込むような真似をする人間はいないだろう。
普通であり続けることを選ぶのが、正解のはずなんだ。
だけど、俺は今日まで努力してきてしまった。
思い出す。
本当に辛かった。
やめようと思った。逃げようと思った。
ニヤニヤしながら俺を鍛える赤江を呪った日もあった。
口で言い負かされ、いっそ殴ろうかと思った日もあった。
それでも、嬉しかった。
自分の体が目に見えて強くなっていくのが。
筋肉がついて、腹筋が割れて、肩幅が広くなって、すごく速く長く走れるようになって、嬉しかった。
必死で勉強して、テストで良い点が取れた時も、自分のことを馬鹿じゃないと初めて思えた日も、嬉しかったんだ。
その時ばかりは、傍にいるこの嫌味な友だちがいて良かったと思ったんだ。
だから、悔しいが俺の答えは決まっている。
間違っているのはわかっているけど。
「……それ、貸してくれ」
俺は赤江の方に右手を差し出した。
大丈夫だ。
俺は、間違ったり、失敗したりするのには慣れている。
「本当に、いいのか?」
赤江の目がこれまで見たことがないほどに丸くなっていた。
驚いているのだろう。
こいつが心底驚いているのを見るのは、初めてだ。
俺は思わず笑ってしまう。
「俺さ、スポーツ選手に憧れたことないんだよな」
「……? それとこれに何の関係がある?」
「この五年間さ、やりたいことはずっと課題の達成だったし。今更サッカーや野球始めるってのもな」
どのみちこれから他に、何かやりたいことがあるわけでもない。
毒を食らわば皿まで、だ。
「俺は先生と、あと、お前のことも信用してる。本当はどんな人なのか知りたいなとも思った」
俺は顔を上げて、赤江を見据える。
「それが理由じゃ、駄目か?」
俺の顔と、差し出した手を交互に見比べて、赤江は開きっぱなしだった目を閉じる。
そして、くくっと小さく笑った。
「単純だ、単純だと思っていたが、ここまでとはな。もう私から言うことはないよ」
赤江は俺の手にぽんと薬が入っているらしい筒を乗せる。
使え、ということらしい。
「その筒の、穴が開いている方があるだろう。そっち側を太ももに押し付けるんだ。そして、逆側についているボタンを親指で押せ。それで針が飛び出して、薬が注射される」
「げ、これ注射器なのかよ。痛くねえだろうな?」
「痛いし、やめてもいいが、注射が嫌だというのが理由ならさすがに幻滅するぞ」
「はいはい、わかったよ」
俺は手にしている筒を太ももに押し付ける。
赤江が何も言ってこないということは、服の上からでも十分に針が刺さるということだろう。
覚悟を決めて、せーので親指側のボタンを押し込んだ。
「いってえ!」
「あと五秒くらいそのまま、我慢してくれ。薬が入りきるまで待つんだ」
カシュっという音と同時に、太ももに鋭い痛みが走った。
しかし、それも束の間。軽い圧迫感こそあったものの、それ以上の痛みはやってこなかった。
俺は注射針の出た筒を太腿から離す。
「…………おい、特に何も起こらないんだが」
俺はしげしげと自分の体を見回すが、目立った変化はない。
まさかここまでやって、赤江の悪戯だったということはないだろうか、と不安になった。
その時だった。
「あ、うぁ、ああ?」
太腿のあたりから、何かが這い上がってくるのを感じる。
皮膚の内側を枝分かれして進む、熱を帯びた何かだ。
その熱は徐々に強まり、やがて火であぶられているような感覚に変わる。
猛烈な痛みと痒みを感じて俺は太腿に爪を立てた。
しかし、もう遅い。
変化は全身に起こり始めている。
息が上がり、俺は自分の胸元をぐっとつかんだ。
駄目だ、くらくらする。
頭が、脳が、熱い! 焼ききれそうだ!
「おい! あかっ、えぇ!」
「安心しろ。スゴロクン。今のキミなら、それで死ぬことはないから」
膝をつき、倒れこんだ俺をあやすように赤江が頭を撫でている。
俺にはその表情が、とても冷たいものに見えた。
それは、俺を蝕むこの熱が見せた幻覚だろうか。
「少し眠れ。目が覚めたら、人助けだ。忘れるなよ」
囁くように言う赤江の声が遠い。
駄目だ。
もう、耐えられそうにない。意識が途切れる。
「最後まで、頑張りぬいてくれ」
その赤江の言葉を最後に、俺の視界は闇に沈み込んでいった。
食物アレルギーの症状が出た時の処置に使う、エピペンという注射器型の薬があります。
普通の人でもすぐに使える設計になってるんですよね、あれ。
スゴロクンが使った薬は、それをイメージして描写しました。