四十四 夜の区切り
いくらたくさんの人に、とんでもない迷惑をかけたやつだからと言って、殺すわけにもいかない。
ドブ川の底に沈んだまま浮かんでくる気配のない横島を引き上げるため、俺は汚れた水の中に飛び込んだ。
鼻が曲がりそうな臭いだ。
最後の最後まで、手間のかかる奴だな畜生。
完全に人間の姿に戻り、気を失っていた横島の襟首を掴んで水中から跳び上がった。
ドブ川のほとりのアスファルトの上に、横島の体を転がす。
ぐったりとしていて、意識が戻らないようだが、人工呼吸なんてごめんこうむる。
俺は適当に、鳩尾のあたりを蹴っ飛ばすことにした。
「げぼっ、うえっ、えほっえほっ」
「お、成功した」
蹴られた横島が水の塊を吐き出して、そのまま咳き込む。
随分と苦しそうだが、呼吸ができてるってことは死ぬこともないだろう。
俺はひとまず安心して、すっかり濡れてしまった頭を振った。
水飛沫が飛ぶ。
しばらく肩を激しく上下させ、身を震わせていた横島だったが、落ち着いてきたのと同時に俺に憎々し気な視線を向けてきた。
止せばいいのに、横島はそのまま怒鳴ってくる。
「何で、何で僕を助けた! 同情のつもりかよ!」
「アホか。人殺しになりたくなかっただけだよ。お前だってまだ、一応人間だ」
多分、俺も、な。
赤江の作ったあの薬がどのくらい効果があるのかはわからないが、横島がすぐに襲ってこないところを見ると、しばらくは大丈夫なんじゃないだろうか。
少なくとも今日はもう、何もできない。
そして、これから先も、何かさせるつもりはない。
「お前な、これに懲りたらもう、悪さすんなよ」
「嫌だ! ふざけるな! 絶対に嫌だね!」
俺の言葉に、横島が叫ぶ。
とにかく大きな声で怒鳴って否定するその姿は、まるで癇癪を起こした駄々っ子だ。
俺はやれやれと溜息を吐く。
説得は無理そうだな。
「僕は何度でもやるぞ。諦めない。反省もしない、間違ったことなんてしてないからだ! この街にはクズがたくさんいる。自分より弱いやつを見つけて、いじめて、利用しようとする奴が山ほどいるんだ!」
両方の拳を固く握りしめ、地面に打ち付ける横島。
その手に、もうコンクリートを割るような力はない。
「確かに最初は憂さ晴らしだったさ。だけど、今は違う! 僕がやらなくちゃいけないんだ。力は必ず取り戻す。仲間もまた増やす。僕は、またお前の敵になって現れるぞビリジャンパー」
けたけたと笑って、横島が言う。
「さあ、困ったな! それが嫌なら、ここで僕を殺すしかないぞヒーロー!」
「……お前、ほんとごちゃごちゃよく考えてんだなあ。口も達者だ。感心するよ」
あれだけ蹴飛ばされといて、こんだけしゃべることが出来るのならもう大丈夫だろ。
俺は横島に一歩近づく。
「俺は、あんまり深く考えねえぞ」
言って、横島の襟首を掴んで立ち上がらせた。
俺は、赤江先生みたいに優しく説教なんてできない。
「何回でも、かかってこいや!」
だから、横島の鼻っ面を人の姿のまま、力いっぱい殴りつけた。
殴られた横島は鼻血を出して、目を白黒させる。
信じられないものを見るような目で、俺を見ている。
ざまあみろ、俺の頭の悪さを甘く見たな。
「人助けなら、勝手にやれよ。それをお前が正しいと思うなら、俺がどうこう言う義理もないしな」
だけど、こいつの今回のやり方は間違ってる。
自分ひとりじゃなく、周りにいる大勢を巻き込んで、自分の考えを押し付けて回った。
俺が気に入らないのはそこだ。
気に入らなかったから、止めたのだ。
「お前が正しいと思うことをやるなら、俺だってそうする。これから先、お前のやってることが間違ってると思ったら、何回でも全力で止めにくるからな。覚悟しとけよ!」
だけど今日は、ここまでだ。
こいつをいつまでもこの場に置いておくわけにはいかない。
多分、島野さんがやばいな。
放っとくと、殺します、とか言い出しかねない。
ネクストアースの上の連中とやらも恐ろしいし。
今からすることは、全てこいつのためだ。
「横島、お前さ、ビルのてっぺんから落ちたことあるか?」
「はあ? 何を……」
「すっげえ痛いけど、案外大丈夫だからな。恨まないでくれよ」
そう伝えて、俺は横島の肩を持ち、全力で上に向かって跳ね上がった。
二回、三回とビルの壁を蹴り、街を見下ろせる高い場所まで一気に跳ね上がる。
そして、その高さから。
「とんでけええええええええええええ!」
横島を投げ捨てた。
出来るだけ遠くへ。
この場から離れていけるように、フルスイングで投げる。
どこに落ちるのかは知らない。
落ちた後、どこへ行くのかも、気にしない。
家に帰れよ、とだけ思う。
最後に大っ嫌いだああああああああああああ、と尾を引く断末魔を残して、横島は夜の街の闇に消えていった。
これでいい。
足を怪我した島野さんは、これであいつを殺せなくなったわけだ。
ようやく、全部終わった。
長かった。
しんどかった。
でも、誰も死ななかった。
傷ついた人はたくさんいたけれど、怪我なら治せる。
生きている限り、やり直せる。
努力すれば、何度でも。
「こら、勝手に横島を逃がすんじゃないよ。せっかく薬の効果のサンプルを取れると思ったのに」
地面に着地するなり、赤江がそんなことを言って近づいてきた。
逃がしたのはやっぱりバレたか。
俺は苦笑いをして、それに答える。
「俺がいるだろ? これからまた、いくらでもサンプルにはなってやるよ」
「ああ、そのつもりだ。だけど、今日は、勘弁してあげるよ。キミも、疲れただろうからな」
赤江はそう言って、右手を差し出してきた。
「なんだ、その手?」
「色々あったが、仲直りの握手をしよう。本当に悪かったな、お互いに」
「お互いに、かよ」
俺は笑って、その手を握り返した。
そうか、グローブは破れちまったのか。
手の平から伝わる、ひやりとした赤江の冷たい手の感触。
すり傷だらけになった手の、火照りが収まっていくようで心地がいい。
「そしてこれが、おまけだ」
「お?」
ぐいっと、赤江に手を引かれた。
いきなりのことに俺は反応できず、されるがまま。
首に手を回してきた赤江に、ふわりと抱きしめられる。
「あー、これも仲直りの証?」
「いいや? 頑張ったヒーローには、ご褒美も必要だと思ってな」
「大した自信だよ、ほんと」
「不満かい?」
「……いいや、案外、悪くはないな」
俺は目を閉じて、力を抜く。
本当にきつかったけど、頑張ってよかったと心の底から思う。
「本当に、ありがとな。スゴロクン」
耳元で囁く赤江の声がくすぐったい。
さて、なんと答えようかと口を開きかけた瞬間。
「ああー、足が痛いですねえー。多分、手首も足も折れてるんだけどなあーこれ」
そんな声が割って入ってきた。
俺たちを非難するような、その響き。
そうだった。
この場には、島野さんが居たんだった。そのことを今更ながらに思い出す。
「博士、いえ、一姫。確かに双葉さんはそれなりに頑張ったと思いますが、ご褒美にしてもやりすぎです。自分を安売りするような真似は、感心しませんよ」
「う、ああ、そうだな。お前の言う通りだ、島野。少し、感極まってしまった」
俺と赤江は、今、自分たちが相当おかしなことになっていることに気づき、どちらともなく離れて目をそらす。
どうすんだ、この空気。
すんげえ気まずいんだが。
「と、友だちながらハグくらい珍しくもないな。当然だからな」
「あ、ああ。まあ、親友ならな」
「そんなことはどうでもいいんですが、二人とも、まだやることがあるのを忘れないように」
じとっとした目で俺と赤江を交互に見た島野さんは、辺りを見回す。
俺と横島と赤目の連中が暴れまわったせいで、周囲はとんでもない散らかり具合だ。
これは確かに、まずいな。
「後片付けをして、逃げますよ」
ああ、そうだな。
長い夜は、どうやらまだ続くらしい。
確かに面倒ではあったが、気分は悪くなかった。
スゴロクンはあくまでも高校生なので、相手にとどめを刺すとかはできないのです。