二十五 不穏な気配
「あかえええええええええええええええっ!」
放課後、俺は一度家に帰ってすぐ、赤江宅の地下秘密基地に転がり込んだ。
既に中でパソコンの前に座り込んでいた赤江がくるりと椅子を回し、俺の方を向く。
これから何か実験でもするつもりだったのだろう。今日は髪を上げた白衣姿だった。
「なんだ、騒々しい」
「静かにしてくださいよ、鬱陶しい」
部屋の中に居た島野さんが迷惑そうな顔でにらんでくるが、そうも言っていられない。
緊急事態なのだ。
「お、俺のことがバレてる! ネットで、あと学校で、噂になってたんだよ!」
「……ああなんだ、そんなことか」
泡を食って話す俺に対して、赤江の反応は実に淡泊だった。
パソコンの方に向き直り、カチャカチャと何事か捜査した後、ディスプレイをスライドさせて俺に見せてくる。
「ほら、これのことかな?」
画面に表示されているのは、ローカルなネット掲示板だろう。
『緑の男、暴走族を潰す!』と大きく銘打たれて、その下にいくつものコメントが続いていた。
俺はそれを目で追いながら、嘘であってくれと願う。
「もう既に写真や動画もいくつかアップロードされているな。これだけスマホが普及している世の中だ。素人のキミが誰にも見つからず、あれだけのことをやってのけられるはずがない」
「バレたらやべえだろ、これ」
「キミが捕まるようなヘマをしなければ、正体に気づかれるようなこともないさ。色々、呼び名もついてるな。一番多いのがビリジャンパーで、跳ねカッパに、カエル男、バッタマンなんてのもある」
「んな悠長な……大丈夫なのかよ」
「うん。ちなみにビリジャンパーという名前をネットに流したのは、他でもないこの私だ」
「お前かよ! 何やってんだよ!」
隠れてやってるってのに、知名度を上げてどうするんだ。
頭良いのに、あほなのかこいつは。
「なかなかのネーミングセンスだろう。まずは色を表すビリジアン、次にビリジアン・パーフェクト・スキル・フロッグの名前の省略、そして」
赤江はニヤリと笑って俺の方をビッと指差す。
「《ビリから跳ね上がった男》という意味も込めてみた。これは私たちにしか、わからない秘密だがな」
「確かに上手いかもしれんが、ありがたいとは思うんだが、でもなあー」
俺としては不安が拭えない。
名前が付いたということは存在が認められたということ。
これからは俺が何かするたびに、そのビリジャンパーという特定の人物として扱われることになるのだ。
「スゴロクン、不安は分かるが、これは必要な手順なんだよ」
ガリガリと頭を掻く俺に対して、赤江が諭すように語りかけてくる。
「キミの存在は、抑止力になることが大切なんだ。一日二十四時間、ずっとキミがこの街のトラブルに首を突っ込んで解決することはできない。だが、ビリジャンパーという存在が人々に認知されることで、街で不埒な行いをしようとする輩は思い浮かべるようになるだろう。あいつが来るかもしれない、と」
「それで、カツアゲやら暴走族やらが、減るってのか」
「理屈の上ではな。私は犯罪者の気持ちはわからん。当然、名前が知れ渡れば、キミは悪党どもに目の敵にされる可能性だってある」
「駄目じゃねえか! あぶねえだろ」
「だから今、私があなたを鍛えているんでしょうが」
島野さんの冷たい突っ込みが入る。
確かにこの人のおかげでチンピラとの喧嘩なんて屁でもないと思うようにはなったが、ありがたい気持ちにならないのはなぜだろうか。
「四の五の言ってもしょうがない。キミは今まで通り、トレーニングに励み、街をパトロールしてくれ」
拒否権はない。と言わんばかりに赤江が話を締めくくる。
自分に言い返せる頭がないのがもどかしい。
「それはそれとして、だ。スゴロクン、最近、妙なことはなかったか」
「いっぱいあったよ。友だちとトレーニングしてたはずがいつのまにか超人になってた話、聞きたい?」
「そうじゃない。街中で、普通じゃないものを感じなかったかと聞いてるんだ」
「普通じゃ、ないものお?」
赤江の問いに俺は首をひねる。
近頃、街中によく行くようにはなったが、もともと頻繁に通っていたわけではない。
治安は悪いが、ああいう場所だ、と言われてしまえば俺としては納得できてしまう気がする。
「あー、ピンときてないみたいなんでこれは、俺から説明するわ」
そこで珍しく、黒森さんが会話に割り込んできた。
いつもは俺と赤江や島野さんのやり取りを聞いて、にやにやしているだけの人なのだが、今日はどういう風の吹き回しだろう。
「双葉くんも知っての通り、俺は腕のいい車の運転手だ。だが、それだけが仕事じゃない。一姫ちゃんに頼まれれば簡単な工事もこなすし、この秘密基地の掃除、飯の準備も俺が毎日欠かさず行っている」
それって早い話が雑用なんじゃ、という言葉は飲み込んでおく。
見た目は一番歳を食っている黒森さんだが、赤江や島野さんに顎で使われているのを何度も見てきた。
よくもまあ文句も言わずにやってるよなあ、と常々感心していたのだ。
プライドをもって仕事をしているのに、水を差すこともないだろう。
「その俺の仕事の中にはもう一つ、重要なものがあってな。これは双葉くんのやってることにも関わるんだが。この街の繁華街やら飲み屋やらを駆け回って、情報収集をしてるんだよ」
「情報収集って、探偵みたいなことですか?」
「その通り。双葉くんの噂話の広まり具合とか、街のチンピラの動向とか、そういうものを聞いて回ってるってわけ。その手の情報収集は未成年の赤江ちゃんや、気の短い島野ちゃんにはできないわけよ」
「気の短い?」
ギロッと島野さんが黒森さんを睨み付ける。
いや、短いだろう、そういうとこが。
「そんで、こっからが本題。一昨日のことだ。双葉くんが暴走族をとっちめた晩、繁華街の方で妙な事件が起こってたことが分かった」
「一昨日の晩って、ああ、覚えてる。数学の宿題が大変だった日だ」
そりゃご苦労さん、と軽く俺の話を聞き流して、黒森さんはほんの少しだけ声を潜める。
「その事件ってのがよ、どうにもきな臭い話でね。暗い路地裏で、チンピラが三人ぶっ倒れてて、意識不明の重体。病院に担ぎ込まれたそうなんだわ」
「倒れてたって、喧嘩の歯止めが利かなくなっただけじゃないんですか」
「いんにゃ、それがな、襲われたチンピラが意識を取り戻した後、おかしなことを言ってるんだそうだ。自分たちを襲った犯人のことなんだが、それが、普通じゃなかったんだと」
「言っとくけど、俺じゃないですよ」
普通じゃないといったら、肌が緑色の男も含まれるだろう。
だが、俺はこれまで誰かを病院送りにするほど痛めつけた記憶はない。
適当にあしらって、高いところに置き去りにするくらいのもんだ。
「わかってるよ。ビリジャンパーとは関係がない。ただな、チンピラが言うには犯人は血のように赤い目をしていて、人間とは思えないほど力が強かったんだそうだ。首元を片手で掴まれただけなのに、くっきりと内出血のあざが残るほどだってよ」
「赤い目? 人間とは思えない力?」
黒森さんの言葉から、俺の脳裏にある人物の姿がよぎる。
真っ赤でたてがみのように逆立った髪の毛。
殴った相手を地面でバウンドさせるような怪力。
生まれて初めて、逃げなければ殺されると、本気で恐怖した相手。
リョーカ、と呼ばれていたあのとんでもない女と、イメージが重なる。
目が赤いというのは少し俺の記憶と食い違いがあるが、あれに正面から睨まれればそう錯覚してしまってもおかしくはないのかもしれない。
あの女が誰彼構わず襲い掛かるようなことがあれば、とてつもない脅威だろう。
「俺、その犯人のこと、知ってるかもしれない」
「何だって?」
俺の言葉に赤江がピクリと反応した。
続けろ、と言わんばかりに片方の眉をあげる。
「初めて街でチンピラとやり合った時、化け物みたいな女と会ったんだ。マジで人間かこいつって思うほど力が強くて、逃げるので精いっぱいだった」
「それは、気になる話だな」
赤江は椅子の背もたれに寄りかかって、下を向く。
きっと何か考えているのだろう。
俺も、島野さんも、黒森さんも、黙って赤江の言葉の続きを待った。
「わかった。善は急げだ。その女の正体を早急に確かめておこう。もしも黒森の言う事件の犯人がそいつなら、いつ次の犠牲者が出るとも限らない」
「それは、わかるけどよ。俺がまた、街中を探し回ればいいのか?」
「いや、今回は全員で行く。四人で街を調べて回るぞ」
「調べて回るって、お前、もしその女に会っちまったら……」
「そのために島野と……キミがいる。もしもの時は、助けてくれるんだろう?」
「それは……」
俺はうつむいて、手の平を握りしめる。
もう少し力を込めれば、肌の色が変わるほどに。
あの時は、どうすることもできなかった。
今、あの女と対峙した時、俺はどうにかできるのか。差がどれだけ縮まったのか。
赤江に危害を加えさせず、相手できるか。
なかなか自信が持てなかったのだ。
「今日はパトロールの特別版だ。みんなで繁華街に出かけよう。狙いは怪物みたいな女」
俺の返事は待たず、赤江が黒森さんに車を出すように指示を出す。
島野さんは何も言わず、部屋の奥へ消えていった。
おそらく何かあった時の準備でもするんだろう。
残された俺はとりあえずコスチュームをリュックサックに詰め込む。
なんとかなると思う。
今の俺なら、負けるはずはないと思う。
それでもなぜか、気が進まない。
あの女の圧倒的な強さのせいか。
それとも別の、整理できていない感情があるのか。
これまでは感じなかった、いや、無視してきた何か大切なこと。
漠然とした不安の正体をつかめないまま、俺はいつもの繁華街へと向かうことになったのだった。
朝起きた時から、どうも嫌な予感がする日ってありますよね。
なんか忘れてる気がするんだけど、正体を掴むことはできない。
そういう予感って、わりと当たるから恐ろしいです。