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九 そして努力は実を結ぶ

 夜の街を闇雲に走り、どうにか赤江の家の近くまで戻ってくることができた。


 体から力が抜け、自然と歩みもゆっくりになる。


 流石にここまで来れば大丈夫のはずだ。

 本当に大変な目に遭った。


 息は上がり、全身あちこちが痛む。

 特に直接リョーカから攻撃を受けた腕や顎、腹がひどい。

 命からがら、とはこういうことを言うのだろう。

 ここまで立って歩いて来られたことが不思議なくらいだ。


「に、しても、怖かった……」


 俺は今の今までゴーグルをつけっぱなしだったことに気づいて、頭からむしり取る。

 こんなものの存在まで忘れているとは、どれだけ自分の気が動転していたのかがわかるな。


 そう言えば、額も軽く切っていたんじゃなかったか、と、手の甲でぬぐってみたが、すでに傷口は乾き始めているようで、血は止まっていた。


 振り返ってみればとんでもない経験をしたもんだ。

 夜の公園で目覚めて、繁華街に行き、カツアゲの現場を目撃する。

 生まれて初めてヤンキーと呼ばれる連中の、本気の悪意と向き合った。

 何とかやり過ごしたかと思えば、とどめに化け物のような女の登場ときたもんだ。


 日本の繁華街ってどこもかしこもあんな感じなのか?

 だとしたら俺は二度と近づかないぞ。


 そして俺がどれだけ大変だったか、赤江の奴にもしっかり言って聞かせねばなるまい。

 今日ばっかりは俺にあいつを責める権利があるはずだ。

 まずは何から文句を言ってやろうかと考えていた俺だったが、


「あれ? なんだあの車」


 赤江の家の前に一台の車が停まっているのに気づく。黒塗りのセダンってやつ?


 ニュースなんかでああいう車から偉い人が乗り降りしているのを見たことはある。

 俺は車の種類というものにはあまり興味がないので、どこの会社のものかもわからない。

 一つ言えるとしたら、俺が赤江の家に通い始めて五年間、あんな車を見かけたことは一度もないということだ。


 確かにこんな遅い時間に赤江の家に来たのは初めてだし、この家にも赤江以外の住人が帰ってきていたって、おかしくはないだろう。

 ただ、車が停まっているのが家の敷地外というのは少し気になるところだが。


 俺は中をのぞきながら、車の脇を通り抜ける。

 誰も載っていない。

 つまり、この車の主は家の方にいると考えるのが妥当だろう。


 出会ったらあいさつくらいはした方がいいのだろうが、今の俺は血まみれになっている。

 どう説明したもんかなあ。


 ただ、考えていても仕方がない。

 何より俺は今、疲れているんだ。

 課題を達成したことを赤江に告げたら、今日は帰ろう。

 込み入った話は、もう、明日でもいいや。


 俺はふらふらと力ない足取りで敷地内を進み、いつも赤江が待ち構えている事務所の方へと向かう。

 外に人影は見えなかったが、室内には薄明かりがついていた。

 いつも出入りしている勝手口からお邪魔させてもらうとしよう。


「おい、赤江、なんとか終わった……ぞ?」


 スライド式のドアを開けて中を覗くと、簡素なつくりの机や椅子、パソコンが置かれている室内に見慣れない人間が二人立っていた。


 さっきの車の持ち主、かな?


 予想できたはずのことなのに、俺は自分の表情が強張るのを感じた。

 一見してその二人は、あまり親しみやすい類の人間ではないようだったからだ。


 かっちりとした黒のスーツで身を固めた男女のペア。

 男の方は俺よりかなり上背がある。十センチくらい。

 黒い髪の毛を後ろの方に流してまとめたオールバックに、不潔感がない程度の顎髭。

 歳は三十過ぎくらいに見える。


 女の方も黒髪で、耳が隠れるくらいのショートカット。

 身長は俺とほとんど変わらない。俺自身が百七十台の半ばだということを考えると、なかなか見かけないくらいの長身かもしれない。

 背中に物差しでも突っ込んでいるんじゃないかというほど姿勢がよく、それがまたその女の背の高さを強調しているように感じた。


 二人とも戸口で固まった俺を、冷徹な表情で見据えている。

 言いしれない気まずさに、俺は言葉すら交わしていないのに緊張してしまった。


「スゴロクンか。思っていたよりも、早かったじゃないか」


 その二人の奥から、赤江の声がした。

 背の高い連中のせいで隠れてしまっていたのだろう。

 赤江の言葉に合わせたように黒服の二人は軽く身を引き、その間をするりと抜けて、見慣れた顔が現れる。


「もっと時間がかかるものだと思っていたよ」


 神妙な面持ちで赤江は言った。

 俺は初めて見る二人組がいる中で、どう答えたものかと言葉に詰まる。

 何があったのか話した方がいいのか、それとも今日は帰るべきなのか。


「赤江博士、彼は?」


 俺がまごまごしていると、黒服の女の方が口を開いた。


 この人、今、ハカセって言ったか?

 ハカセというと、大学とかで難しい研究してたり、色んな機械とかを作ったりする、博士のことだよな?


「この男は私の友人だよ。今日は用事があったもんでね、呼び出していたんだ」


 赤江は女の奇妙な呼び方にも特に反応することなく、いつもの口ぶりで受け答えする。

 大人相手に偉そうな口調で話す様子も実に落ち着いていて、それが俺の違和感に拍車をかけた。


「困るんだよねえ、こういうの。駄目でしょ、一般の子どもを巻き込んじゃ」


 今度は黒服の男の方が言う。

 見た目よりも話し方は砕けているが、明らかに俺のことを軽んじているのが分かった。


 確かに子どもと言えば子どもだが、こう正面切って言われれば腹が立つものだ。


「余計な犠牲は出したくないでしょ? 赤江博士」


 この男もやっぱり博士呼びなんだな。

 当然のことのように耳慣れない言葉を繰り返す二人。


 本当に、何者なんだこいつら。


 俺はほんの少し身構えて、二人を見つめる。


「そうだな、これは私の不手際だ。失敗したよ」


 男の言葉に赤江は目を伏せる。


「スゴロクン、今日はもう、帰れ」


 はっきりと、俺に向けてそれだけを言い放つ赤江。

 その表情からは何を考えているのか読み取れない。


「いや、意味がわからねえよ。そもそも誰なんだ、この人たち。お前の親戚ってやつか?」

「答えるつもりはない。邪魔だ。さっさと帰れ」


 俺の疑問を赤江は冷たく切って捨てる。

 俺は食い下がろうとしたが、自分を射抜くように見つめる赤江の視線に思わず口をつぐんでしまう。


「家に帰ったら、もう、ここには近づくな。今日のことも、誰にも話すなよ。そして……」


 赤江は無表情のまま淡々と俺に命令のような言葉をぶつけ、


「私のことは、忘れろ」


 そう締めくくった。


「忘れろって、おい、何の冗談だよ」


 赤江が言っている意味を飲み込めず、俺は室内に一歩踏み込む。

 どういうことか説明しろ。

 その二人と関係あることなのか。


 そう言おうと思ったのだが。


 ズドンッという重く、腹の底が震えるような大きな音が部屋に轟いた。


 それに次いで、ガラスの割れる音が響く。

 俺が思わず音のした方に目を向けると、背後にあった戸口のガラスが粉々に砕け散っているのが見えた。


「やめろ! そいつはただの高校生だぞ!」

「おいおいおいおい、待てって」


 赤江と黒服の男の方が焦ったように声をあげる。


 俺は呆然と、黒服の女に目を向けた。


 なんだ、一体何が起こった?

 今の音は、なんだ?


「失礼しました。そちらの彼は、どうにも察しが悪いようなので」


 まるで感情のこもっていない、事務的な口調で女が言う。

 俺はその女が手に持っているものを見て、息をのんだ。

 映画や漫画の世界では、当たり前のように登場する、それ。

 よっぽどの世間知らずでなければ見た事がないという人間もいないだろう。


 拳銃だ。


 黒く、鈍い光をたたえる拳銃が俺の方を向いている。

 女はその銃を片手で構え、俺を見ている。

 その目には何の感慨も浮かんでいない。


 当たり前のように、殺意を向けてきているのだ。


「赤江博士は危険だから帰れと言っているのです。これで理解できましたか」


 言いながら女は構えた銃にもう片方の手も添える。

 狙いを外すつもりはないのだろう。

 俺は金縛りにあったように、その場から動けなくなる。


「自分が避けた、という自覚はありませんよね」


 女は淡々とした口調で続ける。


「次は当てますよ。右目を撃ち抜きます」


 さっきの発砲は威嚇。

 ここから先は本気だと、女は無慈悲に告げているんだ。


 逃げなければ、と思うのに、体が動かない。

 命を握られている恐怖が、腹の底からにじりあがってくる。


 気が付けば、両脚ががくがくと勝手に震えだしていた。


「おい、やりすぎだ。あんまりいじめてやるなよ。俺らが博士をさっさと連れてけばいいだけの話だ」

「そうですが、万が一ということもありますので」


 男のたしなめるような声にも女は応じない。

 男の方は諦めたように息を吐き、赤江の方を見る。


「博士も、黙ってついてきてくれるよな?」

「ああ、もう、いい。十分だ」


 男の言葉に赤江が頷く。

 そして、情けなく固まっている俺を一瞥して、言った。


「こいつでは、私を助けることはできないようだ。よく、わかったよ」


 落胆と、失望。

 赤江の言葉にはそんな感情がこもっていたのではないかと思う。


 それを向けた相手は、当然、俺なんだよな。


「すまないな、スゴロクン。私は今日までキミに嘘を吐いていたんだ」

「……うそ?」


 答えながら、俺は黒服の女の方を見る。

 相変わらず銃は下さないが、会話くらい許してくれるらしい。


「私はいつか、こういうことになる日が来るのを知っていた。その日が来た時のために、キミを鍛えておけば役に立つかもしれないと思っていたんだ」

「俺が、役に立つ?」

「わからないか。本当に、キミは察しが悪いな」


 赤江は苦笑して、俺にさっきよりも色濃く失望の色が浮かんだ瞳を向ける。


「私は、キミに助けて欲しかったんだよ」


 助ける、とはどういうことか。

 何から、どういう風に助ければいいのか。

 俺にはわからない。この黒服の二人が、原因なのか。

 それともそれよりも、もっと根深い何かがあるのか。


「この状況で私を助けられないようなら、キミはもう、いらないよ。さよならだ、スゴロクン」


 赤江は静かに歩き始め、俺の横を通り過ぎる。

 待ってくれ、と言いかけた俺の口は、


「死にたければ、どうぞ」


 目の前の黒服の女のせいで黙らせられた。

 動くなら撃つ、ということなのだろう。

 女は銃のグリップを握りなおすことで、俺の動きを制した。


「お利口さんだ、少年。そのまま動かない方が、身のためだ。あいつ、冗談通じないからな」


 じゃーな、と言い残して黒服の男も俺の横を通って、戸口から外に出ていった。


「そっちの壁の方にいってください。そのまま壁の方を向いて、振り返らないで」


 最後に残った女に言われた通り、俺は事務所の奥の壁まで進み、そこで止まる。

 おそらく女もこの事務所から出ていくのは間違いないが、振り返って確かめる勇気がでない。


 目に焼き付いている銃を構えた女の姿が、俺を壁の前に縛り付けていた。


 どれだけの時間、俺は動けずにいただろうか。

 外からかすかに聞こえた車のエンジンがかかる音で、俺は我に返る。

 これまでの状況を思い起こし、自分が何をしなければいけないか思い出す。


「馬鹿か、俺は!」


 叫んで、弾かれたように事務所の外へと飛び出した。

 まだだ、まだ何とか間に合うはずだ。

 街中の曲がり角の多い道なら、車にだって追いつくことは不可能じゃない。


 俺はそのまま赤江宅の敷地の外に出る。

 見れば、先ほどの黒塗りのセダンが二十メートルほど遠ざかっているのが見えた。

 速度はまだそんなに出ていない。

 追いつくなら、今しかない。


 俺は体の痛みも無視し、全力で走って車を追う。


「待てよ! おい! どこいくんだよ!」


 走りながら、叫ぶ。

 車の中に乗っている人間には聞こえるはずもない。

 聞こえたところで、答えが返ってくるわけもない。


 それでも、叫ばずにはいられなかった。


 情けない、無様だ、何もできなかった、何も言えなかった、何もしてやれなかった!

 友だちなのに、赤江を助けようとすることすらできなかった。


 込み上げてくるのは後悔と、自分に対する怒りだ。

 奥歯を砕けるほどに噛みしめて、俺は走る。

 力任せに腕を振り、地面を蹴って、走り続ける。

 赤江に鍛えてもらった体は加速し、前を走る車との距離をじわじわと詰めていった。

 あと、五、四、三、二、一、走れ! 追いつけ! 並べ!


 揺れる視界の中、黒塗りのセダンの後部座席の窓から中の様子が見えた。

 赤江はうつむき、こちらには気づいていない。

 追いついたところで、俺にはどうしようもないことに気づく。


 それでも、と俺は横を走る車の窓を力いっぱい殴りつけた。


「助けに……!」


 その言葉の続きは言えなかった。

 俺の存在に気づいたのだろう。

 急に車の方が俺の方へ車体を寄せてきたのだ。

 車の側面と体が接触し、俺はバランスを崩す。


 この速度だ。

 一度体勢を崩せば立て直すことなどできるはずもない。

 俺は弾き飛ばされ、受け身も取れずに地面を転がった。


 ミキサーにでもかけられたように世界が回る。

 肌のあちこちがアスファルトで削られ、裂けるのを感じた。

 体中をしこたま地面に打ち付けたことで、鈍器で殴打されたような痛みが全身に襲い掛かってくる。


 気づいた時には、俺は地面の上にうつぶせで倒れこんでいた。


「くそ、くそっ! ちくしょぉっ!」


 俺は地面を拳で殴りつけ、立ち上がる。

 それだけでも関節から激痛が走り、体が沈み込みそうになる。

 息は上がり、ここまでのような走り方はもうできそうにない。


 顔を上げると、黒塗りのセダンがみるみるうちに遠ざかっていくのが見えた。

 焦りと絶望が、湧き上がってくる。


 もう無理なんじゃないかと、そう思ってしまう。


 自分だけが置いていかれ、取り残される感覚はよく知っている。

 かけっこでビリになる時の、あの感覚だ。

 どれだけ必死に手を動かしても、前を走る奴らの背中は遠ざかっていくばかり。

 たくさん走る練習をして、精いっぱい足掻いたはずなのに、横に並ぶことすらできない理不尽さ。

 自分は勝てないのだと、才能がないのだと思い知らされ、諦める感覚。


 ずっと、そうだった。

 俺は、待ってくれと願うしかない人間だったんだ。


 先生に、会うまでは。


 ひどい耳鳴りがする。

 自分の荒い息だけが聞こえる。

 こうして立ち止まり、何もかも投げ出してしまいたくなった時、いつも思い出すんだ。


 どうしようもなかった自分と、先生とのやり取りを。


(またふてくされているのかい、双葉くん)


 何かができなくて教室から逃げ出し、学校の人目につかないところに隠れていた俺を、先生は必ず見つけ出した。

 初めは困ったような顔で、俺が黙っていると、しゃがみこみ顔を覗き込んできた。


(どうせ僕はまたビリなんだ。才能がある奴には結局負けるんだ。そんな顔だね)


 だって、頑張ったけど、俺にはできなかったんです。


(確かにつらいかもね。世の中にはなぜか生まれつき足が速い人がいる。力が強い人、頭が良い人、手先が器用な人、見た目が良い人、話すだけで人の心をつかむ人。与えられた時間は同じはずなのに、スタートラインはバラバラだ。そして残念ながら出来ることが多い人ほど楽できるようになっている)


 俺には、どれもできません。才能がないんです。


(うん、そうだね。君ほど出来ないことが多い人も珍しいだろう……だけどね)


 だけど?


(才能っていうのは、人より上手だとか、優れているってことじゃないんだよ)


 ああ、そうだった。また、忘れそうになるところだった。


 止まっていた足が、一歩だけ前に進む。

 まだ、動く。

 痛いけど、動く。

 思い出せ。


 いつだって俺は、どうしようもなくなった、ここからが正念場だったはずだ。


(どんなにつらくても、踏みにじられても、負けてしまっても、そこから伸び続けようとした何かを、人は最後に才能という言葉で褒めるんだ)


 だから。


(君は)

 俺は。


(最後まで、諦めずに、頑張り抜きなさい)

 そう決めたんだ。


 できないことだらけの俺は、努力した、頑張ったじゃ話にならないんだ。

 今回ばかりは、明日できるようになるじゃ、間に合わない。

 今日、今、ここで、赤江を助けなきゃいけないんだ。


 だから!


「絶対に、追いつくぞ」


 言い聞かせて、一歩目を踏み出す。

 二歩目はそれより力強く、三歩目でもっと大きく踏み込む。

 重たかった身体が自然と跳ねだす。

 加速する。


 まだだ。

 もっと、もっと速く、長く、遠く、走れ。

 いや、それでも間に合わない。だったら!


 今なら、できる気がする。

 自然と体が沈み込む。

 膝を曲げ、深く、脚の筋肉をバネのように縮める。


 そして、そのバネが勢いよく解き放たれたその時。


 俺の体は、重さを失ったように高く高く舞い上がった。

 ヤンキーと小競り合いをした段階から、スゴロクンは既に人ではない何かになっていたことになります。

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