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序 始まりの記憶

 あなたにとって最初の思い出は何ですか、と聞かれた時、人はどう答えるだろうか。


 生まれた瞬間のことを語る人はいないと思う。

 自分がどんな産声をあげて、どんな医者に取り上げられて、お父さんやお母さんにどんな言葉をかけられて生を受けたか。そんなことを語り出す奴がいたら、そいつはよっぽど思い込みの激しい、大ほら吹きに違いない。


 大抵の人はきっと、初めて経験した忘れられない出来事を語るはずだ。


 嬉しかった、悲しかった、気持ちよかった、痛かった、誇らしかった、恥ずかしかった。

 頭の中に焼き付いて離れない強烈な刺激が、その人の始まりになるのだと俺は思う。


 俺の場合、それは、小学校四年生の修学旅行の日から始まる。


 最初に言っておくが、この思い出の主人公は俺じゃない。

 俺にとって今までで一番の、そしておそらくこれからずっと記憶から消えることはない、大好きだった先生のお話だ。


 その日、俺たちの学年のみんなはバスに乗り、隣の県にある動物園に向かっていた。

 その動物園に行ったことがあるという奴らは少なくなかったが、初めての高速道路を使ったバス旅行に、不満を持っている子どもはいなかったんじゃないかと思う。


 しかし、みんなが浮かれているバスの中で、俺は一人、地獄の苦しみを味わっていた。


 たぶんどこの学校のクラスにも、一人はいただろう?

 乗り物に弱い奴がさ。

 俺はバス酔いで、胃の中のものを吐き出す寸前にまで追い込まれていた。

 みんながはしゃぐ中、黒いビニール袋に口を押し付けて、えずき続ける惨めさといったらしゃれにならない。

 その当時、頭も悪ければ、運動もからっきしだった俺にしてみれば、バスに乗ることさえ人並みにできない自分がみっともなくて、情けなくて、涙がにじんできたのをよーく覚えている。


 苦しみ続ける俺を、周りのみんなは特等席に移してくれた。

 バスの最前列、窓際の席。

 いわゆる「バスの中で一番酔いにくい席」というやつだ。

 俺はその席に、一年生から三年生まで、バスで移動するときはいつもお世話になってきた。


 ああ、またか。

 今回はあと何分耐えられるだろうか。

 俺が青い顔で絶望を抱え、うつむいた時だった。


「大丈夫」


 ぽん、と背中に手が添えられた。

 温かくて、大きなその手は、そのまま俺の背中をさすってくれた。


「一度、吐いてしまえばきっと楽になる。後片付けは先生に任せなさい」


 思わず顔を上げた俺に、手と声の主は笑顔で続けた。


「誰も君を責めない。だから、大丈夫」


 俺の記憶の中の先生は、いつもかっこいい大人を絵に描いた様な姿をしている。


 短く刈り込んだ髪、白い半袖のワイシャツと、黒のズボン。

 首元や腕はがっしりとしていて、飾り気はないけれど力強い。

 足にはいつも、緑色の動きやすそうなスニーカーを履いていた。


 俺にとっての「かっこいい」の価値観は、この頃に決まり、それ以後、変わっていない。


「せんぜぇ、ごめんなさい」


 俺はその時、先生に迷惑をかけるのが申し訳なくて謝った。


「こらこら、謝るなよ。子どものお世話をしてお金をもらうのが先生の仕事なんだから。どうせ言われるなら、お礼のほうが嬉しいかな」

「……はい、ありがとうございます」

「どういたしまして。まだ何もしてないけどね」


 そう言って腕を組み、先生は難しい顔でうなる。


「君のことだ、昨日は早めに寝て、今日は早めに起きて、朝ごはんはしっかり食べて、酔い止めの薬まで飲んできているんだろう?」

「それは……先生に言われたから、一応」

「努力はきちんとしたんだ。結果がついてこなくても、怠け者になるより、君はずっと立派な子どもだよ」


 単純な話だが、俺が先生を大好きだと思い、信頼していたのは、ほかの誰よりも褒めてくれたからだ。

 お世辞ではなく、形だけではなく、慰めではなく、俺が褒めて欲しかったことをきちんと見ていてくれて、それにぴったり当てはまるような褒め方をしてくれたからだ。


 俺が先生と過ごした時間は半年ほどしかなかったけれど、その時間は人生で一番優しく、幸せな時間だった。


 だけど、その幸せな時間はもうすぐ終わってしまう。

 時間にして、この一分後くらいだ。


「先生、なんで俺だけ、いっつもバスで酔うんですか?」

「理由は色々あるんだけど、まあ、簡単に言えば体質ってやつじゃないかな」

「足が遅いのも、算数の計算が遅いのも、漢字を全然覚えられないのも、体質のせいですか?」

「…………少し難しいけれど、先生は人の価値を決めるのは、できないことの数じゃなくて、何ができるかじゃないかと思ってるんだ」

「じゃあ、俺、駄目だ。なんもできない」

「いいや、できるよ」

「でも、俺、得意なことなんてありません」

「君は、何かをできない人の気持ちを分かってやることが、できる。その数なら、君はうちのクラスの誰にも負けないと思うよ」

「…………?」

「まあ、今はわからないよね。それでもいい」


 先生はエチケット袋を口に当てたまま、きょとんとする俺の頭を撫でてくれた。


「先生が知ってる君の才能は、きっとたくさんの人の支えになる日が来る。覚えておいてくれよ」


 それが、俺と先生が交わした最後の会話だった。


 その数秒後。


「危ない!」


 前を向いた先生の顔が一瞬で険しいものになり、俺の体は太い腕につかまれて、ものすごい勢いで振り回された。


 目を閉じた直後、金属こすれ、きしむ音で、自分の悲鳴がかき消されたのを覚えている。


 訪れたのは、地球が逆に回りだしたんじゃないかと思うほどの衝撃。

 自分の手足の感覚もわからなくなる揺れ。

 数回に分かれた振動のうちのどこかで、俺は頭を打ち、気を失った。


 目が覚めたとき、最初に感じたのは血と、油の臭い。

 そして、くすぶる炎の熱だった。


 そこから先の記憶は、少し曖昧だ。

 確か、消防車や、救急車がたくさんやってきて、俺と、生き残ったクラスのみんなをたくさんの大人が助け出してくれた。


 そう、生き残ったクラスのみんなを、だ。


 五年前、修学旅行中の小学生を乗せたバスが一台、事故を起こした。

 そのバスは、追い越し車線から無理な車線変更をしてきた自動車と接触。

 バランスを崩して近くのガードレールにぶつかった後、横転したのだという。


 このニュースのことを覚えている人は、今、どれくらいいるのだろうか。


 俺のクラスメイトのうち、三人がバスから投げ出されて命を落とした。

 そして、もう一人。


 犠牲になったのは、先生だった。


 俺は助け出される前、自分が見た光景をしっかりと覚えている。

 事故で潰されたのは、バスの最前列の窓際の席だった。

 あの時、先生は俺をつかみ、少しでも安全な方へと移そうとしたのだろう。


 そして、命を落とした。


 これが、俺にとっての最初の記憶だ。

 今の自分と、陸続きに途切れることのない始まりの記憶。


 誰が何と言おうと、俺、双葉六平の今は、あの日に始まったんだ。

 この物語は、今から十五年ほど前の時代が舞台です。

 これまでに書いてきた「シェイプオブダーク」「アルバクロス」「ナイトクロール」と同じ世界での出来事ですが、最も過去のお話になります。

 私の一番好きなヒーローを参考に、一番好きな生き物で書きましたので、思い入れの深い内容でもありますね。

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