クロムの秘密 2
ある日の庭園。
油断した俺の指に、痛みが走った。もちろん大したことはなく、薔薇のトゲが刺さっただけ。
なのに王女は、大騒ぎ。
『カトリーナ様、手をお離しください。痛みには慣れているので平気です』
『平気なわけ、ないじゃない!』
不思議なことに、王女はトゲ抜きを持参していた。薔薇のトゲを器用に抜いて、こう口にする。
『痛みになんて慣れないで。あなたが痛いと私がつらいわ。あなたはもっと、自分を大事にするべきよ』
『カトリーナ……様』
思いがけなく胸が詰まり、言葉が続かない。
俺自身を気遣う者が、この世にいるなんて!
揺れる心を気取られないよう、さらに距離を置く。そんな時、あの絵を見つけた。
「これは――……」
城の廊下に飾ってあった細密画は、母が遺したブローチにそっくりだ。
細密画のタイトルは、『まだ見ぬ我が子と』。
母の記憶はほとんどないが、色つきの瓶やテレピン油の匂いは覚えている。
絵の中の男の子は、女性と同じ茶色い髪。
タイトルが正確なら、これはたぶん母と俺。
母は優しいタッチのこの絵を、俺を産む前に完成させたらしい。
――なんだ。俺は母親に、愛されていたのか。
母の遺品の意味を、突然理解した。
ブローチの台座の裏には【わたしを探さないで】と、オレガノ語で刻まれている。だからてっきり、あれがあの絵のタイトルだと思っていたのだ。子連れで逃亡するとはのんきなものだと、考えもした。
――望んではいけないもの、手の届かないものを欲しがるのは、愚か者のすることだ。親を亡くした孤独な俺は、愛情なんて求めない。
そう信じて心を閉ざした自分は、実は他の誰よりも、愛情を欲していたのかもしれない。他の男性と仲良くするカトリーナを見て嫌な気分になったのも、それが原因だろう。
街へ買い物に出かけた際、王女の一行を偶然見かけた。
カトリーナは町人の恰好をしていても優雅で、王子や騎士ともお似合いだった。境遇の異なる俺がどうあがこうとも、あの場所にはいられない。
そこへ突然の雨。
雨宿りしようと入った路地裏に、一匹の子犬がいる。通常なら無視するはずが、城で触れた子犬の温かさが甦り、思わず拾い上げた。
雨に打たれた哀れな姿は、行き場を失くした己のよう。気にかける者はなく、いなくなっても誰も気にしない。
――いや。あの王女なら、少しは気にかけてぬれるだろうか?
暖めようとコートの中に入れたものの、あっさり逃げられてしまう。慌てて追いかけたところで、ふと我に返った。
「嫌がる子犬を無理に追う必要はない……か。俺はこんなところで、何をしているんだ?」
王女の笑顔と温かさを知ったせいで、孤独がひときわ身に染みる。平凡な幸せや希望に満ちた未来――知らなければ、求めることもなかったものを。
子犬のように逃げ出せば、少なくとも自尊心は保てる。だがそれは、本当に己の望みなのか?
「望み? 人を散々葬ってきた俺が、何を今さら……」
元の路地に戻ったところで、暴走馬車に気がついた。迫る馬車に向かっていくのは、なんと王女だ!
カトリーナは灰色のローブを着た人物を突き飛ばし、自ら犠牲となっていた。
「あり得ない!」
怪我がなかったから良かったものの、一歩間違えば死んでいた。心優しき王女は、自分の命と引き換えに、他人を助けようとしたのだ。
あまりに無謀な行動で、理解できない!
ちっぽけな命など顧みる必要はないと、俺は学んだ。
人はみな、いつかは死に至る。
それが早いか遅いかの違いで、我々の仕事は少し背中を押すだけ。だから何も気にする必要はないのだ、と。
でもそれは、大きな間違いだった。
命の光を消すたびに、俺の神経はすり減っていく。
――王女を殺したくない!
その思いはどんどん膨らみ、組織からの脱退を考えるきっかけともなった。暗殺の失敗は組織に追われることを意味するが、どうせ俺に失うものなど何もない。
仕事柄、他人と深く関わらないように生きてきた。その俺が、街にいた王女を責めてしまう。
『……その割には連日、ルシウス殿下やみなさまと楽しそうに過ごしていましたね』
こんなことを言うつもりではなかった。
だけど言葉はとまらない。
『ローズマリーの紫の薔薇と慕われる王女が、迂闊な行動を取るとは思いませんでした。あの時、私がどれほど……』
――心配し、あなたを失いたくないと焦ったか。
浮かんだ文句に驚いて、慌てて口を閉じた。
いつの間に、俺は――。
揺れる心に気がつかず、王女は約束していたピクニックに俺を誘う。
ご褒美だから仕方がないと言い訳し、その日を迎えた。
『『クロム先生、お誕生日おめでとうございま~す』』
それはただのピクニックではなく、彼女が企画した誕生会だった。だが俺は、自分の生まれた日など、とうに忘れている。
『忘れたなら、新たに作ればいいんです。幸い今日は、9月6日。クロム様にぴったりの日でしょう?』
全く意味がわからないが、前向きなところは彼女らしい。
王女の笑顔を、俺はきっと忘れない。
つぶらな瞳で俺を見る、柔らかな子犬の感触も。
『ほら、フェリーチェ。私がママで、こっちがあなたのパパですよ~』
『パッ……』
はしゃぐ子供と王女の横で、柄にもなく感傷的になる。
――これが幸せというものか? 生まれる場所さえ違っていれば、こんな俺でも穏やかな未来を望めたのだろうか?
手を繋いで木陰を歩く、カトリーナと小さな男の子。
細密画と同じ姿に、俺は目を瞠る。
――慈愛に満ちた表情が、絵にそっくりだ。母も、あんなふうに優しい目をしていたのだろうか?
形見のブローチを彼女に見せて、自らの想いを確認する。
――ああ、やはり。俺に王女は殺せない。傷つけたくもない!!
認めてしまえば簡単だった。
なぜあんなにも、一緒にいる時間が貴重だと思えたのか。
なぜ彼女を見るだけで、気分が明るくなるのか。
なぜ側にいるだけで、心が躍るのか。
俺はもうとっくに溌剌とした優しい王女、カトリーナに惹かれていたのだ!
だけど自分は暗殺者。
高貴な王女の側に、いていい存在ではない。
だからこそ、わざと明るい満月の日を選び、カトリーナの部屋を訪れた。
真実をはっきり見せて怖がらせ、俺への未練を断ち切らせるためだ。敵の刺客に注意するよう警告し、姿を消すはずだった。
それなのに――。
『かま~~~ん♡』
『…………は?』




