クロムの秘密 1
ローズマリー城潜入初日。
俺――クロムは、一緒にいた王太子殿下に「落としものをした」と断って、来た道を戻った。標的の情報集めは基本中の基本なので、悪いとは思わない。
王女の部屋を退室する際、ドアに滑り込ませたハンカチは、まだそこにある。ハンカチを拾うフリをして、耳を澄ませた。
『クロムしゃまああああ、しゅきいいいい♡ こちらこそ、よろしくお願いいたします。可愛らしい王女様、だって!』
『クロムで構いませんよって、言質取ったどおおおお! カッコ良くて優しいなんて、素晴らしすぎますわああああ』
ドアの向こうの、かすかな声にギョッとする。
「しゅきいい」とはなんだ?
それにあれは、先ほどの王女と同一人物…………か?
奥ゆかしいと評判の王女は、会ってみれば思ったよりも面白い。だが、これほど元気が有り余っているとは、どの報告書にも書かれていなかった。
――いや。会ったばかりの男に、王女が興味を持つはずがない。今のは聞き間違いだろう。
ところが王女は、不可解な行動を連発する。
ある時勉強部屋に入ると、犬の耳らしきものを頭に付けた彼女が、満面の笑みで待っていた。
可愛いとは思うが、何をしたいのかさっぱりわからない。
そのためあえて触れずに、淡々と講義を進めた。
別の日には勉強中、続き部屋にチラチラ視線を注いでいる。
不審を抱いて近づくと、なんと絵師が潜んでいた。キャンバスには驚くことに、描きかけの俺の顔がある。
標的にしたことはあっても、こんなふうに標的にされたことはない。
焦ってすぐに塗りつぶすと、王女はがっかりしたようだ。
『あ~~あ~~』
奇行の目立つ王女だが、勉強に関しては目を瞠るものがある。
元々頭がいいからか、ふざけていても呑み込みは早い。彼女が本気を出せば、講義はすぐに終了するだろう。
とりあえず、課題を多めに出しておく。一日で終わる量ではないから、部屋に縛りつけておくには十分だ。その間に逃走経路を確認しよう。
死に場所を求めて異国にいながら、いつもの癖で逃げる手段を探している。
女々しい自分は親友を失ってもなお、死にたくないと願うのか。
そんな中、王女が子犬を飼うと言ってきた。
人の庇護を必要とする、哀れな子犬。言いなりになるしか脳がなく、逆らうことなど許されない。
それはまるで、幼い頃の自分のよう。
名付け親になってほしいと言われて、適当に返したのはそのためだ。
『わかりました。可愛いなら、カトリーナでは?』
『……え?』
王女は目を丸くして、恥ずかしそうに震えている。
――その反応はなんだ?
真に受けたのか、彼女は子犬を見せに来た。
『先生、さっき言っていたのはこの子です。可愛いでしょう?』
『……そうですね』
なんの苦労も知らない王女と、のんきな子犬。
『ワン、ワンワン』
『ほら、喜んでいますわ。先生にお目にかかれて嬉しいみたい。……あ、こらっ!』
どうやら子犬の方が、王女を振り回しているらしい。
それなら死んだ仲間も俺も、この犬以下だ。
組織は俺達の生死に関心はなく、道具としか見ていない。
仮に今、ここで命を落としたとしても、自分は誰の記憶にも残りはしないだろう。
『クロム様は、どんな時に幸せを感じますか?』
――いきなりなんだ?
動揺を隠し、ほんのわずかな興味を持って聞いてみる。
『……どんな時でしょうね。カトリーナ様、急にどうされたのですか?』
『急ではなく、ずっと考えていました。クロム様の幸せは、どこにあるのかと』
――俺の幸せ? 王女の奇妙な行動は、赤の他人の俺を、気にかけてのことなのか?
迷惑だらけの行為が、突然別の意味を持つ。
元気でおせっかいな王女は、会って間もない俺にさえ、救いの手を差し伸べようとしているらしい。
芝生だらけの子犬は、王女に抱かれて満足していた。
この小さな命は、自分がどれだけ幸運なのか気づいていない。
柔らかい寝床と必ず出る食事、優しい飼い主。
ここにいれば安泰で、未来は保証されている。
『クロム先生。せっかくですから、撫でてあげてくださいな』
『いいえ、遠慮しておきます』
思わず両手に目を落とす。
純粋な善意は眩しくて、己の闇に引け目を感じる。
穢れた手で触れたなら、光も闇に染まりはしないだろうか?
とっさに口をついて出たのは、この国の古語。
決して手に入らないものだからこそ、憧れはある。
フェリーチェ(Felice)――幸せ
子犬の名前が決まったと喜ぶ王女を残し、その場を立ち去った。
暗殺対象に心引かれてはならないと、自らを戒めながら。
それからは王女を避け、慎重に振る舞おうと決めた。
しかし決意を実行するより早く、王太子に釘を刺されてしまう。
「リンデル先生、ちょっといいかしら?」
「はい、なんでしょう」
「わかっているとは思うけど、カトリーナは恋も知らないお子ちゃまよ。年上の男性への憧れを、愛情と錯覚しているかもしれないわ。くれぐれも教師としての分をわきまえて、あの子を刺激しないようにね」
「かしこまりました」
憧れだけでも身に余る。
恋なんて、考えたこともない。
会話は授業中の最低限と決め、雑談する間も与えない。部屋の外では王女が視界に入るたび、慌てて向きを変える。
けれど王女の心はとっくに、隣国から来た王子に向いていた。
――それでいい、どうせ俺には関係ない。
納得しているはずなのに、日に日に言い知れぬ感情が膨らんでいく。
『……複数の男性を相手にする時は、慎重になさってください』
柄にもなく、嫌みを口にした。
王女が彼らを集めたのは、お茶会のためだと承知していたはずなのに――。
傷つく顔のカトリーナを見て、なぜか胸が痛かった。




