真夜中の訪問者
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夜――。
私はふいに目を覚まし、周囲に目を凝らす。
付き添いの女官はベッドに伏せて、軽い寝息を立てている。連日の看病で疲れているはずなので、このまま寝かしておこう。
窓から差し込む月の光が、室内を淡く照らしていた。
おかげで灯りがなくてもよく見える。
今宵は満月。
あの日のものより小さいけれど、月は変わらず美しい。
――美しいといえば、クロム様。あの神々しさは、他の方では真似できないわ。
彼を思い浮かべていたせいか、以前のように黒い影を見る。
――まさか、ね。そんなに都合よく、登場するわけがない。
目を瞬かせてみるけれど、影はやっぱりそこにいた。バルコニーの白い手すりの上に立ち、微動だにしなかった。
あの印象的な立ち姿を、私が見間違えるわけがない!
「……クロ……しゃま?」
少しかすれてうわずった。
夢だから、声が出にくいの?
たとえ夢でも構わない。
私はベッドを抜け出して、誘われるようにガラス戸に近づく。
掛け金を外して開くと、愛しい彼が現れた。
黒い衣装は夜の闇と同化するが、赤い瞳は輝きを放っている。
「クロム様!」
想いが溢れて飛びついた。
腰に回した私の手を、彼は外さない。
――クロム様が嫌がらない! やっぱりこれは、夢なのね。
夢の中なら告げてもいい?
胸の想いを、口にしてもいいかしら?
「クロム様、あのね……」
言い終える間もなく、たくましい腕にふわりと抱き上げられた。
薄紅色の寝衣が音を立てたため、思わず見下ろす。
――どうせ夢なら胸を大きくして、目の覚めるような素敵なドレスにしてくれれば良かったのに。
多少の不満はあるけれど、お姫様抱っこは素晴らしい。
彼を見上げて微笑んで、その首に腕を回す。
いつもなら拒否される行為でも、夢の中では平気みたい。
だったら今のうち。
前世からの想いを、全てぶちまけよう。
「あのね。私、あなたが好きなの。どれくらい好きかというと、ファンブックをすり切れるほど読み込んで、全てを暗記してしまうくらい。あ、もちろんゲームのあなたも好きよ。でも、現実はもっと素敵で――」
クロム様は立て続けにしゃべる私を遮らず、黙って聞いてくれている。
熱に浮かされたような感覚なのは、興奮しているせいかしら?
彼の頬に手を伸ばす。
現実では無理でも、夢ならなんでもできるから。
「大切なあなたに、幸せになってもらいたい。今からでも遅くないわ。だからどうか、私を……」
……信じて側にいて。
そう囁こうとした途端、彼の麗しい顔が迫る。
「ううえ!?」
「まだ熱がある。ゆっくり休んでくれ」
唇かと思ったら、おでこを当てただけだった。
せっかく夢の中なのに、熱を測るだけなんてもったいない。
あっという間に運ばれて、ベッドに下ろされた。
クロム様は長い指で、私の髪を撫でてくれる。
上掛けをかける手つきも優しくて、赤い瞳は柔らかな光を湛えていた。
残念ながら、告白に対する返事はない。
――まあ、いくら夢でもこれ以上は望みすぎだものね。
ほうっと満足の吐息を漏らした私は、朝までぐっすり眠った。
*****
平熱に戻ったのは、地下牢で倒れた五日も後のこと。
ようやく起き上がれるようになった私は、見舞いに訪れたルシウスに詳しい話を聞いている。
「ここに運び込まれた時点ですでに意識がなく、医師も手の施しようがないと言っていた。高熱は、蓄積された疲労と寒さが原因らしい。僕らはただ、君の無事を祈って待つしかなかった。回復して良かったよ」
前世の記憶を取り戻して以来、私はしっかり鍛えていた。
健康な身体だけが取り柄なのに、なんと生死の境を彷徨っていたみたい。
悪化した原因は、クロム様の失踪による不眠とストレスだ。
熱に浮かされていた時のことは、あまり覚えていない。ただぼんやりと、兄のハーヴィーやルシウス、心配するクラリスの声を思い出す。
その時ふと、月明かりにたたずむクロム様の映像が頭を過ぎった。
――赤い瞳が優しかったから、あれは夢よね。
「ご心配をおかけして、申し訳ありません」
「謝らなくていいよ。それより、早く元気になってほしいな」
私の気持ちを軽くしようと、ルシウスがにっこり笑ってくれた。艶のある銀髪は青い上着に映えて、青の瞳も健康そうに煌めいている。
背後に薔薇があるけれど、やっぱり花瓶のものだった。
薔薇を背負うルシウスは、ゲームではお馴染みの光景なので、それが自然発生でも別に驚かない。
彼の視線を受けた私は、薄紅色の寝衣が透けていないかと気になった。上掛けを胸の辺りにまで引き上げていたおかげで、肩から下は見えずにセーフだ。
「他に何か、聞きたいことはある?」
「あの……クロム様は、ご無事ですか?」
私は、一番の気がかりを尋ねてみた。
すると、ルシウスの顔から笑みが消え、その目が鋭く細くなる。
「あの……。もしかしてルシウス様も、クロム様が私をそそのかしたと誤解していらっしゃるの?」
「誤解?」
「ええ。だってタールも兄も、彼だけを責めるもの。クロム様がここを出たのは、私が原因なのに」
推しがいなくなったのは、私を思ってのこと。
『君を巻き込みたくなくて、城を出たのに』という苦しそうな声が、今も耳にこびりついている。
沈黙しているルシウスだけど、その顔が心なしか強張っているような。




