王太子 ハーヴィー
子犬に会いたくなった私は、交代の護衛を連れて、庭師を訪ねた。可愛い子犬を受け取って、芝生の上でしばらく遊ばせる。
「フェリーチェ、あなたのおかげで癒やされるわ」
「ワン、ワン」
わかっているのか、いないのか。
可愛い子犬はちぎれそうなほど尻尾を振って、頭を撫でてくれと催促している。
私はフェリーチェの頭を撫でて、地面に下ろす。子犬は自由に駆け回り、時々こちらに戻ってくる。
「こんなに愛らしいのに、クロム様はどうして会いに来ないのかしら」
「クウゥ~ン」
「違う、あなたのせいじゃないの。私の誘い方が悪かったみたい」
「ワン、ワンワン」
「嫌いになったかって? まさか。彼のことはもちろん好きよ。それにまだ、笑顔を引き出せていないもの」
笑わない彼を、いつか笑顔にできたなら。
私の隣で、幸せを感じてもらえたら。
その気持ちに嘘はなく、推しの笑顔が見てみたい。
「ワンワン、ワンワン」
「応援してくれるの? フェリーチェは可愛いだけじゃなくって、優しいのね」
ひとしきり追いかけっこをして楽しんだ私は、迎えに来た庭師に子犬を託す。
「残念だけど、ここまでね。課題がまだ半分以上残っているもの」
呟きながら城に向かって歩いていると、通りすがりの誰かに肩を叩かれた。
「カトリーナ」
「お兄様!」
「あなたは、子犬と遊んでいる時が一番楽しそうね」
「あら、ご覧になっていらしたの? でしたら、いらっしゃれば良かったのに」
「たまたま見えただけ。それに、あなたの貴重な休憩を、邪魔するのは悪いでしょう?」
「休憩? ……しまった!」
すぐに戻ると言いながら、部屋を長く空けている。今頃侍女のクラリスは、相当怒っているはずだ。
「あら、休憩中じゃなかったの? 実は勉強が嫌で、逃げ出したとか」
「いえ、そんなことは……」
課題は確かに嫌だけど、勉強はむしろ大歓迎。クロム様と過ごす時間は、いくらあっても足りない。
「ま、いいけどね」
ハーヴィーが言い、私の髪を手ですくう。
そのまま綺麗な顔を近づけたので、私は驚きのあまり目を開く。
「えっ⁉」
兄は艶っぽく笑うと、その手を毛先に滑らせた。
「どうしたの? ほら、取れたわよ。子犬と遊んだ時に、芝生が付いたみたい」
――びっっっくりしたあ~。キスされるかと思った。そんなわけないのに……。
義理の兄という告白もまだだから、たとえカトリーナへの好感度が高くても、この段階ではあり得ない。
それなのについ身構えたのは、前世の知識のせい。この兄もヒロインの攻略対象だと知っているせいで、おかしな態度を取ってしまった。
「ふふふ。この程度で顔を赤くするなんて、可愛いのね」
「お……お兄様ったら、急に何をおっしゃいますの? 可愛いという言葉は、フェリーチェに言ってあげてくださいな」
「フェリーチェ? ……ああ、子犬の名前ね。『幸せ』という意味の古語だわ。カトリーナが名付けたの?」
「いいえ、クロムさ……先生です」
その日のことを思い出し、何気なく頬に両手を当てた。
「……そう。カトリーナ、言っておくけど、彼は教師なの。必要以上に近づきすぎてはダメよ」
「お兄様?」
声が固かった気がして、私は首をかしげた。
けれどハーヴィーの顔には、普段通りの柔らかな笑みが浮かんでいる。
「兄として、心配するのは当然でしょう? カトリーナは子犬より、断然可愛いもの」
「あらあら。お兄様の目は、曇っているのではなくて?」
茶目っ気たっぷりな口調の兄に、私も軽口で返した。
二人とも、それが嘘だと知っている。
だってハーヴィーの目は、曇っているどころかすごくいい。
【月の瞳】を有する彼は、月の光が及ぶくらい遠くまで、よく見えるのだ。
いわゆる千里眼だけど、【月の瞳】は誰かと能力を共有しなければならない。相手の瞳を通して、遠くのものが直接見えるとされている。
ちなみに能力を共有するには、相手の瞼にキスをすればいい。
乙女ゲームの『バラミラ』。
ハーヴィーの個別ルートに入ると、彼は我が国を護るため、国家騎士タールの瞼にキスをする。
そのシーンには悶絶するファンが続出し、推しをハーヴィーやタールに変更する『推し変』も現れた。かくいう私も悶えた口だが、推しはもちろんクロム様。
「視力には自信があるわ。幼い頃から可愛いかったカトリーナが、最近では日に日に美しく輝いて見えるもの」
「まあ。お兄様ったらご冗談を」
兄は昔から、妹の私に甘い。
こんなセリフも日常茶飯事なので、とっくに慣れていた。
「冗談……か。本気だったらどうする?」
「まったまた~」
私が覚えている限り、ゲームの序盤で義兄のハーヴィーがカトリーナを口説くことはない。
恋に繋がる選択肢も少ないせいで、義兄の攻略はかなりの難易度だ。
ただし、幼い頃から兄として接しているため、スタート時点でのヒロインへの好感度はゼロではなかった。そこが救いではあるけれど、もちろん兄を攻略するつもりはない。
コロコロ笑う私の前で、ハーヴィーが整った顔をかすかにしかめた。
「賢いあなたのおかげで、私の世界は広がったわ。尊敬される兄になろうと、力を尽くしてきた。でも近頃は、苦しくて。だって私……」
「えっ? お兄様、今なんておっしゃったの?」
語尾が聞き取れなかったため、問い返す。
しかしハーヴィーは首を軽く横に振ると、額に手を当てた。
「なんでもないわ。少し疲れているみたい」
「まあ……。お兄様、大変なのはわかるけど、きちんと休んでくださいね。私にお手伝いできることがあれば、遠慮なくおっしゃって」
「わかった。心に留めておくわね」
ハーヴィーは微笑みながら頷くと、頬に落ちた私の髪を、耳にかけてくれた。
それでもこの兄は、私達に負担をかけまいと、ぎりぎりまで自分を酷使するのだろう。
我が国の財政が安定し、周辺国との関係が表面だけでも良好なのは、有能な彼のおかげだ。
多忙を極めるハーヴィーは、私の誕生日に教師を手配してくれた。それは自分が構えなくても妹が寂しがらないようにとの、優しい配慮からだろう。
だから私もこの兄を、できる限り支えたい――。
「でも成人前の王女では、公務の範囲が限定されてしまうのよね」
去って行く兄の後ろ姿を見つめて、私はため息をつく。
十六歳前の自分を、この時ばかりは恨めしく思った。
今年もよろしくお願いします(*^▽^*)




